声を失ったSubはDomの名を呼びたい

白井由貴

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第五章

九十九話 胡蝶の夢 中編①

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 いつの間にかまた眠っていたのか、重い瞼を押し上げると俺の隣にはすやすやと眠る律樹さんがいた。

 まだ夢を見ているのか、それともこれが現実なのか。境界線が曖昧になっているような、そんなぼんやりとした意識だった。
 身体が重くて怠い。ふわふわと揺蕩うような意識と鉛のように重い身体のちぐはぐさが気持ち悪かった。まるで初めてこの体を動かすような奇妙な感覚だ。

 重い腕を引き摺りながら頭の近くへと移動させる。たったそれだけでもかなりの体力を要した。身体ってこんなに重かったっけと思わず苦笑がこぼれる。
 俺は腕を伸ばし、穏やかな表情で眠る律樹さんの頬にそっと触れた。本当に綺麗な顔だと思う。俺なんかよりもずっと健康的で滑らかな肌、その容姿はまるで物語に出てくる王子様のようだ。きっと引く手数多だろうなぁ……そう思うとほんの少し胸がちくりと痛んだ気がした。

『りつきさん』

 もし俺が高ランクのSubじゃなかったら、兄やシュン、そして家族からも大事にしてもらえただろうか。声を失うこともなく、みんなと普通に過ごせていただろうか。でもきっと大事にされてしまっていたら律樹さんとは会えなかっただろう。そうなれば俺は今のように律樹さんとこうしてパートナーになることも、恋人になることも出来なかっただろなと思った。
 高ランクのSubだったから声を失い、代わりに律樹さんに出会って想いを通わせることが出来たのだから。

 これだけ聞けば、本当に人魚姫みたいだなと思う。
 声を失う代わりに今こうして律樹さんと過ごせている。でも好きな人に声をかけたり、名前を呼んだり、自分の声で言葉で想いを伝えられないのは時折酷く苦しい。

 傷ひとつない頬の上を、俺の痩せて骨張った指先がするりと滑っていく。温かで優しい温もりが指先に伝わる。熱がじんわりと俺の身体も心も溶かしていくようだった。

「ん……ゆづ、き……」

 これは多分現実、だと思う。現実であってくれと思う。身じろぎをした律樹さんの腕が俺の背中にまわり、全身が温もりに包まれた。
 こうして抱き締められるのも何度目だろう。出会ってから今までたくさん抱き締めてくれた。この温もりにずっと抱かれていたいと思うのに、俺の中で「駄目だよ」と泣きそうな声がする。いっぱい耐えて頑張ったんだからこれくらい許してよと心の中で呟くが、それに対して返ってきたのはやはり「駄目だよ」だった。
 
 穏やかで安らかな温もりに包まれていると急速に睡魔が襲ってきた。抗おうにも抗いきれずに目を閉じた先、その景色は見慣れた黒の世界だった。
 やっぱりさっきまでの光景は現実だったのかとため息を吐くと同時に足元が崩れ、身体がふわりと浮いた。そのままゆっくりと下へと落ちていく。より深く眠りへと落ちていくように、俺の身体は逆さまになりながら真っ黒な中をずっと進んでいった。
 
 いつの間にか閉じていた目を開くと、そこは見慣れた家の中だった。見慣れたと言っても、律樹さんの家ではない。

「なんで……」

 消え入りそうなほどに小さな声は、誰もいない廊下に虚しく響く。玄関の土間部分に突っ立ったまま、俺は呆然と辺りを見回した。

 ここは坂薙の家――俺があの家族と住んでいた家だ。ここを出てから半年も経っていないにも関わらず、もうずっと長い間離れていたような気さえする。……まあそれもそうか、俺はずっとあの部屋にいたんだから。

「おかえりなさい」

 ガチャリと音がして、リビングにつながる扉が開いた。フローリングの上をスリッパで擦るような足音を響かせながら現れたのは、母だった。律樹さんのお母さんである律子さんが言っていた通り、確かに俺とよく似ていた。
 そういえば母は少し変わっていだことを思い出した。夏でも冬でもずっと首元がすっぽりと覆われているような薄手の長袖を着ていたのだ。暑くないのかなぁ、なんて思いはしたけれど、聞くことはなかったので理由は知らない。

「……ただ、いま」

 声を出すと傷を負っているらしい箇所がじくじくと痛んだ。どうやら今日も学校で兄たちにやられたらしい。母に気づかれないようにそっと視線を落とし、俺はぎゅっと通学鞄を持つ手に力を入れた。

「早く上がりなさい」
「……うん、ごめん」

 促されるがままに靴を脱ぎ、玄関の上り框に足を掛ける。母はもう俺に興味を無くしたのか、リビングへと戻っていくのが視界の端に見えた。その瞬間、ほっと息がこぼれる。どうやら俺は緊張していたらしい。今更ながらに手が震え始めた。
 今家にいるのは俺と母だけのようだ。そのことにほんの少しだけほっとしつつ、俺は手洗いを済ませて二階の自室へと向かった。

 自分の部屋に入るのもいつぶりだろうか。備え付けのクローゼットの他に机とベッドと本棚が置いてあるだけの簡素な部屋。年頃の男子高校生の部屋とはおよそ思えない程にそこは殺風景だった。

「……俺の、部屋」

 足を踏み入れ、扉を閉じる。持っていた鞄を机の上に置いてベッドに仰向けに倒れ込むと、律樹さんの家とは違う真っ白な天井が見えた。

 そういえば壱弦から貰った金色の鈴がこの家にあるんだったか。ふとそう思った俺はベッドから起き上がり、机の引き出しを開けた。多分俺が大事なものを隠すとしたらこの引き出しの奥だ。今俺が住んでいる律樹さんの家でも、大事なものは全て机の引き出しに入れている。だからこの家でもそうだろうと思って開けてみると、案の定そこに金色の鈴はあった。

「あった……」

 壱弦に見せてもらった鈴よりもずっと綺麗で、傷ひとつない金色の鈴がそこにはあった。手に取ると、チリン……と澄んだ音が室内に響き渡る。これが俺の――そう思いながらそっと両手で包み込んだ。手が震えている。やっぱり家にあったんだと頬が緩んだ。

 目が覚めたら律樹さんにこの夢の話をしよう。それで、もしできるのならあの家に行ってこの鈴を迎えに行きたいとお願いしてみようか。大事な友達から貰った大事なものをいつまでもあんな場所に置いておくのは嫌だから。

 ふと視線が本棚の上に移る。数冊の本が置かれているだけで殆ど空のその上には、一枚の写真が立て掛けてあった。手に取ると同時に積もっていた埃が舞い、くしゃみが出る。むずむずとする鼻をティッシュで軽く拭き、ついでに新しいティッシュで写真立てに積もった埃を拭った。

「これ……」

 写っていたのは幼い頃の俺、そして兄ではない男の子だった。この男の子は俺よりも少し上のようで、泣きながら笑っている俺を抱っこしながら幸せそうに笑っている。その笑顔にどこか見覚えがある気がしたが、頭に霞がかったようにうまく思い出せない。
 
 写真を手に、うーんと唸りながら考えていると、不意に下の階から大きな音が聞こえてきた。身体がびくりと跳ねる。それと同時にガンッと鈍い音が足元で鳴った。え、と思わず視線を動かすと、そこには今まで俺が手に持っていた写真立てが床に転がっていた。

「あ……」

 落ちた写真立てに手を伸ばす。あと少しで指先が触れるという時、俺は下の階の音や声が一切聞こえてこないことに気がついた。ぴくりと指先が止まる。背筋を嫌な汗が流れていく。

 ――トンッ、トンッ、トンッ……。

 階段を歩く音がする。次いで聞こえてくるのは母親の悲鳴。心臓が嫌な音を立てている。ドクンドクンと鼓動が大きくなり、音が歪んでいく。

 足音が止まり、代わりに部屋の扉がガチャリと音を立てた。ギギギと音が聞こえそうなほどゆっくりと顔を上げながら、俺の脳裏に浮かんだのはさっき写真で見た男の子と律樹さんの顔だった。

 
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