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第六章
閑話 刈谷壱弦は項垂れる 前編
しおりを挟む「好きだよ、弓月」
この言葉を、俺は一生言わないつもりだった。
勿論本人に伝えるつもりもない、寧ろ言ってはいけない気持ちだと思っていた。……だって俺たちは異性ではなく、男同士だ。男が男に告白したとして受け入れてくれる確率なんてほとんどないに等しいだろうし、それ以上にこの友人という関係が壊れることの方が怖かった。
だから俺はこの気持ちが芽生えた瞬間に胸の奥底へと無理矢理押し込めたんだ。
けれど誰にも知られることなく隠し続けた想いは、俺の中でずっと燻り続けていたらしい。小さな小さな火種は時間が経つごとに徐々にその大きさを増していき、ついには隠し切れないほどのとても大きな炎へと成長していた。
弓月が好きだ――そう伝えなくても友人として隣にいることはできる。友人の中でも特別な親友という立場なら、誰よりも近くに居られる。弓月が俺の目の前から消えるまではそう思っていた。けれどもう会えないかもしれないと思った時、伝えなかったことを後悔したんだ。
だからもう一度会えた時、俺は決心をした。……本当は文化祭で二人きりになれた時に伝えようと思ったんだけど、俺の覚悟が足りていなかったせいであの時は出来ずに終わってしまった。だから今回も結局言えなかったらどうしようという不安はあったのだが、その心配とは裏腹に気づけば俺の口からは自然と「好きだよ」という言葉が溢れ出ていた。多分もう大きくなりすぎていたんだと思う。隠せないほど、そして偽れないほどに大きく育ってしまった想いは、無意識に俺の口からこぼれ出てしまっていた。
「あーあ……」
――結果は案の定惨敗だった。
正直想定していなかったわけではない。寧ろ振られるだろうなと思っていた。
ずっと弓月を見ていた。だからこそすぐに彼が誰を見ているのかに気付いてしまった。
再び会えた弓月の中に誰がいるかなんて、その目や表情を見ていればすぐにわかる。……うん、それはもう十分過ぎるほどだった。確かに彼の中には俺という存在も少しはあったかもしれない。でもその大半を占めているだろう彼の想い人にはどうやっても叶わないだろうなと思った。
「はぁ……」
弓月の乗った電車が遠くに消えていく。ガタンゴトンという電車の走行音すらも聞こえなくなった頃、俺はようやく詰めていた息を吐き出すことが出来た。
駅のホームにあるベンチの一つに腰を下ろし、膝に肘を置いて顔を伏せる。脳裏に浮かぶのは、想いを告げた後の弓月の表情だった。
驚くでもなく笑うでもなく、彼が浮かべたのは戸惑い。軽く目を見開いた後、すぐにその綺麗な黒い瞳が戸惑うかのようにゆらりと揺らめいていた。繋いだままだった手から伝わる俺のうるさい心臓の鼓動や想いを告げる時の声が震えていたことに戸惑ったのかもとも思ったが、今思ってもあれはそうじゃなかった。
俺がどれだけ頑張って想いを告げたとしても叶わないことくらい百も承知だったにも関わらず、俺の心は多大なるダメージを受けていた。長年抱えていた想いをやっとの思いで告げられたことは思っていた以上にすっきりとしたが、それはショックを受ける受けないには関係ないらしい。
「はぁ…………」
俺は深い深いため息を吐き出した。
もうすぐ駅のホームに電車が来るというアナウンスと音楽が鳴り響く中、俺は再びため息を吐き出して目を閉じる。徐々に大きくなっていく電車の音。白線の内側までお下がりくださいというアナウンスが聞こえた直後、駅のホームに電車が止まった音がした。
プシューと空気が抜けるような音が聞こえ、複数の足音がした。到着した電車から降りた人たちの足音が徐々に遠ざかっていき、またプシューという音が聞こえて電車がホームを去っていく。
いつまでもこんなところでこうしているわけにもいかないよなぁ、と思いながらも身体が重くて動かない。思った以上に俺はショックを受けているらしい。そんな自分の姿に自嘲が溢れた。
なんとか頭を上げ、ぼんやりとホームの向こう側を見る。今いるホームは駅の一番端にあり、線路の向こう側には山なのだろうか、たくさんの木があった。微かに吹いた風が木に残っていた枯葉を揺らし、かさかさと乾いた音が鳴る。
何を考えるでもなく、その音を聞きながら木を眺めていると不意に先程よりも強い風がびゅーっと通り過ぎた。辛うじて木についていた茶色の乾いた葉がその風に煽られてひらひらと宙を舞う。やがて線路脇に落ちていくその茶色を視界に入れた後、俺はベンチの背にもたれ掛かりながら静かに目を閉じた。
「暇そうだな」
「……?」
不意に頭上に降ってきた声に目を開ける。どこか聞き覚えのある声だなぁと思いながら見上げると、視界の端にさらさらと靡く黒髪が入ってきた。
一瞬弓月が戻ってきたのかと思ったが、すぐにそれは違うとわかった。弓月の声はこんなに低くはないし、大きくない。囁くような掠れた、けれど優しい弓月の声を思い出して鼻がつんとした。
「……大丈夫か?」
「……ええと……はい……?」
「なんで疑問系なんだ」
この黒髪の人は俺を誰かと間違えているんじゃないだろうか。俺にこの辺りの知り合いはいない。もし仮に学校の知り合いであれば俺の名前を呼びながら茶化してくるだろうし、桃矢なら声をかけずに隣に座るだろう。
だから人違いだと思うのに、掛けられる声があまりにも優しくてなんだか目頭が熱くなってきた。
俺は見上げていた頭を下げ、顔を俯かせた。知らない人の優しさに涙が出そうになるくらい、俺は今弱っているみたいだ。
「刈谷」
「……え?」
「……ん?」
知らない男性が不意に俺の名前を呼んだ。なんでこの人が俺の名字を知っているんだと驚いてゆっくりと後ろを振り向く。そこにいたのはどこか見覚えのある気がしないでもない黒髪の綺麗な男性だった。
ゆっくりと瞬きをしながらその人の顔を見る。長くも短くもない艶やかな黒髪に爽やかそうな顔面に黒縁の眼鏡、そしてどこか瀬名先生に似た雰囲気。俺は思わず眉間に皺を寄せた。
「隣、いいか?」
「え……あ、はい……どうぞ」
真ん中に下ろしていた腰を少し横にずらす。空いたスペースに男性が腰を下ろすと同時にギィとベンチが小さく音を立てた。
「……昼食は食べたのか?」
「え……あ……いや、まだです……けど」
「なら、一緒にどうだ?」
「え……?」
いくら俺の名前を知っているからって見ず知らずの人とご飯を食べにいくなんてそんな、と苦笑いを浮かべながら断ろうとして――止まった。
やっぱり見覚えがあるような気がする。だが俺の知っているその人は男にしては長い黒髪で口元には疎に髭があり、その上眼鏡なんてものは掛けていない。それなのに見れば見るほどその人にしか見えなくなる。
「……保科、せんせ……?」
「……どうした?」
ぽつりと溢れた呟きに優しい声が返ってくる。
俺は目の前の顔を眺めながらゆっくりと数回瞬きを繰り返した。
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