声を失ったSubはDomの名を呼びたい

白井由貴

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第六章

百四十七話 遠い


 膠着状態のまま時間だけが過ぎていく。
 聞こえてくるのは居間に置かれた時計が規則正しく時を刻む音だけ。身体を動かすことも出来ず、俺は律樹さんの腕を掴んだままじっと琥珀色を見つめていた。すると困惑げに俺を見つめる律樹さんの瞳がゆらりと揺れたかと思えば、諦めたような溜息とともに瞼の裏へと隠れていった。

「……じゃあ、一緒に入る?」
「……!」
「その様子じゃ……まだ入ってないんでしょ?」

 困惑に彩られていた琥珀色の瞳が僅かに柔らかく細められる。眉尻は下がり、さっきまでは一文字に結ばれていた口元も今度は端が微かに上がっているように見えた。まるで仕方ないなぁ……とでもいった風だ。

 俺は律樹さんの言葉に目をぱちくりとさせる。しかし思っても見なかった――いやまあそうなればいいなとは思ってはいたけれど――提案に俺はこくりと大きく頷いた。まさか彼の方から誘ってもらえるとは思わなくて思わず頬が緩みそうになる。
 
 律樹さんとお風呂に入るなんていつぶりだろう。たった少しの間だったというのに、もうずっと長い間入っていなかったような気がする。……嬉しい。素直に嬉しい。たとえ同じ空間で洗うだけだったとしても、俺にとっては律樹さんと一緒にいられるということが何よりも嬉しかった。

「っ……はい」

 重なった手もそのままに、立ち上がった律樹さんが座ったままだった俺の手をぐいっと引いた。するとぐっと引かれた身体は意図も容易くソファーから浮き上がり、ぽすっと彼に当たる。そんなに強く引かれたわけではなかったと思うのだが、全く抵抗をしなかった俺の体は想像していた以上に勢いよく彼の胸へと飛び込んでいた。

 床についた足がふらりとよろけた。すぐに足に力を入れて踏ん張ったため転ぶこともこれ以上律樹さんに寄り掛かることもなかったが、衝撃に対する驚きと久々の彼の温もりや匂いを直に感じ取ったからか心臓がばっくんばっくんとうるさい。俺は誤魔化すようにへらへらと笑いながらあまり力の入らない手で彼の胸を押しやり、僅かな距離ではあったが身体を離した。
 すると律樹さんの手がぴくりと小さく跳ねた。どうしたんだろうと思うよりも前に掴んでいた俺の手から離れていく。自分から身体を離したというのになんだか名残惜しいような気持ちがして、気持ちとともに頭も自然と下がる。

「ゆづ……いや、なんでもない」
「?」

 名前を呼ばれ、頭を上げる。疲労が色濃く表れていてもやっぱり律樹さんの顔は端正だった。
 一瞬だけ眉を寄せた律樹さんが何かを言おうと口を開いたが、その先を発することなく再び口が閉じられる。本当にどうしたんだろう。さっきから何か言いたげなのにそれを口に出そうとはしない。俺に対しての行動だから俺に関することなんだろうけれど、何を言われようとしているのか分からなくてもやもやする。

 俺は「あの……?」と口を動かしながら彼の袖をくいっと引っ張った。本当は声に出して聞きたかったんだけど、相変わらず声を出そうにも喉がまた声の出し方を忘れてしまったらしく掠れた吐息しか漏れなかったため形だけで断念した。それでもきっと律樹さんなら俺が何を言いたいかくらいわかっているだろうに、彼はそんな俺の顔を見て一瞬顔を歪め、そして顔を逸らした。

 気のせい……だと思いたかったが無理だ。思いの外はっきりとされた拒絶に、さっきまでうるさかった心臓が音を止めた。
 ……ああ、またこれだ。沸き上がった熱が急激に冷めていく。規則正しく、しかし異常なほどの速さで動いていた鼓動がぴたりと動きを止めて静まり、不規則に動き始めた。どくんと鳴るごとにぎゅっと握りしめられるような痛みを伴うそれに、俺はそっと手を当てた。

「……行こっか」

 小さく溜息を吐き出した律樹さんがぽつりとそう言う。ゆっくりとした足取りで居間を出ていく彼の背中に手を伸ばそうとするが、翻ったコートの裾が指先を掠めただけだった。俺は中途半端に伸ばした手を眺め、そしてぎゅっと握りしめる。

(どうせ、今俺が聞いても答えてくれないんだろうなぁ……)

 何度も言いかけて、何度も閉ざされた。
 言い難いことなのか、それともどうせ聞いたところでと諦められているのかがわからないから、追求をするべきかどうかもわからない。

 先に行った律樹さんの後を追って廊下に出ると、前方にはまだ律樹さんの背中が見えた。何か考え事をしているのかその歩みは遅い。少し速く歩けばすぐにでも追いつく距離なのに、俺の足は居間を出た瞬間から動きを止めていた。

 靴下越しにでもわかる床板の冷たさ。ひんやりとした空気が露出した僅かな肌を撫でる。

(なんか……遠いな……)

 声を出せば――追いかければすぐに届く距離なのに、なんだか遠い。たった数歩の距離がこんなにも遠く感じるのは、あの頃以来だろうか。あの時も少し身を乗り出して手を伸ばせばすぐに届く距離に部屋の出入り口の扉はあったのに、どうしてか随分と遠く感じてしまって結局は伸ばせなかった。

 
 

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