声を失ったSubはDomの名を呼びたい

白井由貴

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第六章

百四十八話 限界

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 俺が脱衣所に着いた時、律樹さんはもうそこにはいなかった。あれ、と脱衣所内を見渡してみる。
 どうやら先にシャワーを浴びているらしい。さっきまで律樹さんが羽織っていたコートが棚の上に無造作に置かれ、洗濯籠には服や下着が投げ入れられていた。その服たちを横目に脱衣所の中に一歩足を踏み入れてみれば、案の定シャワーの音らしき水音が耳に届いた。

(俺も入って……いいん、だよね?)

 本当にいいんだっけと不安になりながらも、俺は着ていた上着に手を掛けた。今この脱衣所で聞こえてくるのは、風呂場から聞こえてくる水音と衣擦れの音だけ。なんだか少しそわそわとしながら、俺は一枚ずつゆっくりと脱いでは床へと落としていった。ぱさりと音を立てて足元に広がっていくそれらを手に取り、俺は洗濯籠へと無造作に放り込んでいく。

 残るは下着一枚だけとなった時、俺はふと顔を上げた。特に何かあったとかそういうわけじゃない。ただ何の気無しに上げただけだった。
 顔を上げた先にあるのは一枚の鏡。律樹さんのコートの横に置かれたそれは俺の手のひらよりも大きい。この鏡は俺がこの家に来た後しばらくして置かれたものだ。俺は殆ど使うことはないけれど、律樹さんはよく使っているらしい。その証拠に鏡の横には律樹さんの眼鏡やコンタクトレンズ関連のものが置かれている。
 
 そんな鏡の中に俺が映っている。真っ黒な髪と目、それから白い肌。少し前までは青や黒に覆われて殆ど見えなかった肌も、今でははっきりと色がわかる。
 それに、と俺はそっと腹部に手のひらを当てた。ここで暮らし始めてすぐの頃は骨と皮だけの痩せ細った身体だったが、今では僅かに肉がつき、ほんの少しではあるが弾力も感じられる。健康的とはまだ言い難いかもしれないが、それでも数ヶ月前の骸骨のような身体に比べれば随分と人間らしい身体になったなぁ……と思う。

(ほんと……律樹さんには感謝してもしきれない)

 この身体を見るたび、そう思う。
 俺が今生きているのは律樹さんのお陰なのだと。いつかこの恩を返せたらとは思うけれど、今の俺に何が出来るのかな。

 そう考えながら俺は静かに目を閉じた。すうと深く息を吸い込むと同時に鼻の奥がつんと痛んだ。それと同時にくしゅんっと小さなくしゃみがこぼれる。そういえば今の俺は裸も同然の格好だったなと思い出して、思わず苦笑が浮かんだ。

 まずは律樹さんとシャワーを浴びて、一緒にご飯を食べて、それからさっきは言えなかったプレイの誘いをしてみよう。断られる可能性もあるけれど、でも、律樹さんの身体のためには俺も引き下がるわけにはいかない。少しでも律樹さんの負担を減らすことがSubであり、現在パートナーである俺の役目だと思うから。

 さっきまでの陰鬱な気持ちを切り替えるように深く息を吸いこんでぐっと拳を握る。そして意気込むように、鏡に映る自分に向かって一つ頷いた。鏡の中の黒色がきらりと光る。
 俺は鏡から視線を逸らし、履いたままだった下着にようやく手を掛けた。ゴムの部分に指を掛け、ぐっと下ろそうとした時だった。

 ――ドンッ!ガタンッ!

 それは一瞬だったが、水音を掻き消すくらいの大きな音だった。激しく打ち付けるような鈍い音が聞こえ、俺は動きを止める。

 聞こえてきた音が何の音なのかを判断するよりも前に、俺の手は風呂場に繋がる半透明の扉に掛かっていた。ドアノブを下げ、扉を押す。しかしいくら押そうとも扉は開かない。辛うじて開いたのはほんの僅かな隙間のみ。俺は咄嗟にその隙間に顔を寄せた。

「……っ!」

 心臓が嫌な音を立てる。どっくん、どっくんと大きく不規則に跳ねる鼓動。ザーッというシャワーの水音だけが鮮明に聞こえてくる。

 覗き込んだ隙間からちらりと見える色素の薄い栗色の頭はどうしてかぴくりとも動かない。シャワーヘッドから絶えずお湯が降り注ぎ、薄く広がる湯気が視界を揺らがせている。

「……っ、……」

 ああ、くそ……こんな時にも俺の声は出ない。
 律樹さんの名前を呼びたいのに、こんな時でさえ俺の喉は凍りついたままだ。

「ぅ……」

 絶えず響く水音の合間、耳に届いたのは微かな呻き声。思わず開いた口、けれど呼気すらも溢れ出ないそこから音など出るはずもなく。呼びかけることすらできない自分自身に腹が立つ。

 俺は開いた隙間から手をねじ込んだ。ぐっ、ぐっと必死で手を伸ばす。もう少し……あと、もうちょっと。そうしてなんとか伸ばした指先に彼の濡れた肌が触れた。

「……っ」

 指先で彼の肌を刺激しながら、律樹さん、律樹さんと呼び続ける。けれどそれは口の動きだけで声は出ていなかった。それでも呼ばずにはいられない。
 
 頭に浮かぶのは最悪の展開。
 このまま律樹さんが死んでしまったら――そう考えただけで涙は勝手に出てくるし、全身から熱が引いていく。心臓の音と一緒に呼吸が乱れていくのがわかる。息の吸い方を忘れてしまったかのように息ができない。喉からは変な音が漏れ、頭がぐらぐらと揺れる。額や背筋には大量の汗が滲み、寒さだけではないだろう震えに歯がカチカチと音を立て始めた。

 頭の中が真っ白になってどうしたらいいのかもわからない。なのに、どうして、嫌な想像だけが鮮明に脳裏に浮かぶんだろう。全身がカタカタと震えている。何かしないといけないのに、その何かがわからなくて何もできない。
 
 視界が滲み、意識もぼやけ始めた時だった。
 突然、俺の耳に聞き馴染みのある音が届いた。
 反射的にぴくんと跳ねる身体。さっきまでの震えが嘘のようにぴたりと動きが止まる。喉がひゅっと音を立て、空気が通る。突然再開した呼吸に数回咳き込んだあと、俺は聞こえてくる電子音に吸い寄せられるようにゆっくりと顔を上げた。

 ゆるゆると視線を動かしながら音の出所を探る。どうやらそれは洗濯籠の中から聞こえてくるようだった。ふらつく身体を支えながらなんとか洗濯籠の中身を床へとぶちまける。するとゴトッと床に固いものが当たる音がした。

(あ……これ……)

 音の方へと手を伸ばし、指先で音の発生源を探ってみればそこにあったのはバッグに入れたままだと思っていた俺のスマホだった。どうやら無意識に上着のポケットに入れていたようだ。どうして今まで気づかなかったんだろうと思うのと同時に、頭が冷静さを取り戻していく。
 
 俺は音の鳴り止んだスマホを握る手に力を入れながら、場違いなほどに煌々と光る画面を震える指先でそっとなぞった。

  
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