婚約破棄された王子は地の果てに眠る

白井由貴

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神の気まぐれと彼の幸せ

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【???視点】


 ここはどこだろう。
 何も見えない、何も聞こえない。
 ただふわふわと浮かんでいるような感覚だけがある不思議なところ。幼い頃夢で見た雲の上のような世界にでもいるのだろうか。
 目を開けても閉じても、やっぱり何も見えない。雲の上の世界だったら少しだけでも見てみたいな、なんて思っていたのに少し残念だ。
 
 そういえば僕はここに来る前は何をしていたんだったっけ。あれ?そういえば名前もわからない。僕は誰で、どうして僕はここにいるんだろう。ここに来る前のことを思い出そうとすると胸の辺りがきゅっと締め付けられるような心地がして、僕はそっと息を吐き出した。
 右手で胸の真ん中から左寄りくらいを掴んだけれど、そこは特に何もなかった。音も動きも熱も何もない、ただ掴んだという感触があるだけ。ああそうか、と僕はくすりと笑って瞼を押し上げた。

「……あら?」

 さっきまで何も見えなかったはずの視界に、眩しい程の光にキラキラと輝くミルキーブロンドが一面に広がり、何も聞こえなかったはずの耳には鈴を転がすような声が届いた。僕が驚いて目をぱちぱちと瞬かせていると、ミルキーブロンドの中から藍色が二つ姿を現し、光が反射してきらりと煌めく。

「こんにちは」
「あ……こ、こんにちは……?」

 目の前にいたのはとても綺麗な女性だった。ミルキーブロンドの美しい艶やかな髪に優しげなネイビーの瞳。どこか見覚えのあるような気がするその色に内心首を傾げながらも、掛けられた声に何とか挨拶を返す。
 
 何だろう、僕はこの人を知っている気がする。気がするのに全く思い出せない。そんな奇妙な感覚に戸惑っていると、目の前の女性はふわりと笑んで僕の頭をそっと撫でた。その瞬間、ぶわりと足元から湧き上がる熱のようなものを感じてびくりと身体が僅かに震える。それと同時に再び胸の辺りがきゅっと締め付けられるような感覚がした。

「あっ、ごめんなさい。……どうしてかしら?貴方を見ているとこの辺りがきゅっとなって……気がついたら触れていたの」

 そう言って彼女は僕の頭から離した手を胸の左側にそっと当てて、困ったように微笑んだ。それに僕もですと言うと、彼女はその大きな藍色の瞳をぱちくりと瞬かせた後、藍色を細めてとても嬉しそうな表情を浮かべた。

「もしかすると私たちはここに来る前に出会っていたのかも知れないわね」
「そう……ですね」

 そうだといいなと思った。
 きっとそうだとも思った。

 壊れ物を扱うようにそっと手を握った彼女から熱は感じられない。それは向こうも同じだったようだ。少し寂しげに伏せられた目が僅かに揺れ、重なった手に力が込められる。僕も応えるように僅かに力を入れると、女性の瞼がすっと閉じたかと思えばゆっくりと見開かれていき、彼女と同じような年頃の青年の顔が彼女の藍色の瞳の中に映った。
 瞳の中に映る恐らく僕だろう人物の顔は、どこが目の前の女性と似ているような気がする。色味は全く違うようなのに、どこか似ている気がするのだ。

 けれども何もわからない。
 何かを思い出すこともなければ、それ以上思考が働くこともなかった。

「……貴方の瞳は黒曜石のようね。綺麗だわ……本当に、綺麗……あ、れ……?」

 突然目の前の女性の瞳から透明な雫が溢れ出し、ぽろぽろと頬から顎へと伝って下へと落ちていく。彼女自身も戸惑っているようで、両手で必死で涙を拭っているが一向に止まる気配はない。ぽろり、ぽろりと目尻から溢れ落ちていく涙の理由は彼女にもわからないようで、懸命に拭いながらあれ、あれ?と困惑の声が上がっている。

 悲しいんですかと聞くと、いいえと返ってきた。
 つらいんですかと聞くと、いいえと返事がした。
 寂しいんですかと聞くと、いいえと声が返って来た。
 そして彼女はただ一言、よくわからないと言う、

「わからないの……でも嫌な感じではなくて……寧ろ、嬉しい?そんな感じがするわ……」
「……うれ、しい……?」
「ええ、どうしてかはわからないけれど……ずっとこうしたかったような気がするの……」

 そう言った彼女は両手を広げて、少し抱きしめてもいいかしらと僕に聞いて来た。僕は戸惑いながらも、はい、とだけ答えて僅かに笑むと、彼女はほっとしたような表情を浮かべてそっと僕の体を包み込んだ。僕よりもほんの少し小柄な彼女の腕の中にすっぽりと収まった僕は、先程彼女が言っていた言葉と同じような感情が浮かぶのを感じた。

 どうしてかはわからない、けれどもずっとこうして欲しかった気がする。こうして抱きしめて、それで――そう、言って欲しかった言葉があったんだ。

 唐突に思い出した言葉を頭に思い浮かべながら彼女の顔を見上げると、不意に藍色の瞳と視線があった。彼女はぱちぱちと髪と同じミルキーブロンドの長いまつ毛を瞬かせたあと、とても嬉しそうに僕の頭を撫でながらふわりと笑みを浮かべ、ぽつりと言葉をこぼした。

「よく……頑張ったわね」

 ぽとり、ぽとりと頬に雫が落ちていく。
 瞬きをする度に溢れていくそれは、もう止まることを忘れてしまったかのようにどんどん流れ落ちていく。その言葉は、さっき僕が思い浮かべた『ずっと欲しかった言葉』そのものだった。

 存在しないはずの熱が足先から頭の先までを駆け抜け、僕はぎゅっとしがみついた。ひっく、ひっくとしゃくりあげながら彼女に縋り付く。真っ白な服が濡れるのも構わずに、彼女はずっと僕を抱きしめながら頭を撫で続けてくれている。同時に、僕も涙を流し続けていた。

 意識がまた溶けていくような感覚がする。
 視界が徐々に薄れていき、耳も遠くなっているような気がするのに、抱きしめる腕や撫で続ける手の感触だけははっきりと感じられた。

「……僕、頑張ったかな?」

 声はもう聞こえなかったけれど、僕を包み込んでくれる腕に力が入って、僕は何だか嬉しくなった。
 そうか僕は頑張ったんだね。そう言いたいのに、もう声が出ない。でも不思議と苦しくも不安も寂しさもない。あるのはただただ、幸せだという感情だけ。

 彼女が誰なのかはわからない。
 もう何も見えないし何も聞こえない。考えることも段々と出来なくなっている。
 世界に存在が溶けていく、そんな感覚だった。

 
 けれど、どうしてだろう。
 僕は今、とても幸せな気分なんだ。な気分なんだ。
 

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