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第一章 異世界転移、渾沌

知らない不穏な場所、異世界

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はっと、息を一気に吸いこんで、目を見開いた。自分でもびっくりするくらい、急激な目覚めだ。頬にひんやりとした感触。服越しにも冷たさと硬さを感じて、身体が軋む。


固い床に、僕はうつ伏せになって倒れていた。両手をつくと、さらに冷たさを感じる。


なぜか、ものすごく身体が重い。自分の身体なのに、錘でも下げているようだ。とにかく神経全部が鈍い。動くんじゃないと、鎖を引っ張られているようにさえ感じた。


かろうじて動く手を、何度か冷たい床に突きながら、重い片膝を曲げる。両ひざを床について、やっとおずおずと上半身を起こして顔を上げた。

つるりとした床には、所々に線が入っていて、何度も指に引っ掛かる。


顔を上げた途端、人の声が、さざ波のように沸き起こった。首を何とか動かして見回すと、数十人の人が、僕を取り囲むように立っていた。


「おお、召喚が成功したのか!生きているぞ!」

「黒髪、黒目……。間違いなく異世界人のようだな。」

「おい!魔導士が全員倒れた!至急、救護班を呼べ!」


好奇心と興味、驚愕が入り混じった視線。救護活動に勤しむ人の忙しない足音、指示の緊迫した声。何かに苦しみ喘ぐ声と、ぎゅっと身体を掻き抱く衣擦れの音。

この場自体が、混乱の最中な様子だった。


興奮ぎみに、目を見開いたり、口許に服の袖を押し付けて眉根を寄せる人もいた。その、どの顔を見ても、明らかに日本人ではなかった。

なのに全員の言葉が日本語で、口々に言葉を交わしている。


……異世界人?
……黒髪、黒目……?


聞こえる言葉を、理解したくないと頭が拒絶する。いや、これは、きっと夢なんだ。そうに違いない。


僕はあたりを見回そうと、首をゆっくりと動かした。ぎしッとぎこちなくだが、なんとか首は動かせる。


……ここは、どこ?


人々の声が反芻するほど、とても広い円形の部屋。石柱が何本も上へと伸びて、見上げると天井の闇へ消えている。高すぎて、天井そのものは見えない。


その、太くどっしりとした石柱たちは、神話などに出てくる神殿を思わせる。でも、なにか違う。神々しさを感じることはない。


随分と仄暗く、異様なまでに陰湿な雰囲気。


仄暗い室内を照らす、皿型の台で怪しげに灯る青い炎。炎の揺らぎを映す、ベージュ色の石壁と床。陰湿に感じるのは、この部屋に窓が一つもないからだろうか?

……たぶん、それだけじゃない。


腰に剣を下げた、詰襟の服を着た騎士のような人が、倒れている人を抱き起す。床につくほど長い服を着た人たちは、皆が胸を抑えたり、身体を小刻みに痙攣させて倒れていた。


明らかに様子がおかしい。

騎士に抱き起されながら苦し気に呻いている。倒れている何人かは、騎士が近づいて静かに首を振った。


ぐったりと動かないのは、どういう事だろうか……。袖から覗く投げ出された腕は、不自然なほど青白く、力がない。

考えたくなかった。


僕は、伏せている床にもう一度触れる。床には細い線が、いくつも刻まれていた。指で辿って、その先を視線でも辿る。


床に刻まれた線は、様々な箇所で複雑に折れ曲がり、交差していた。よく見ると、俺を中心として、外側に向かって幾何学模様が描かれている。文字のようにも見える、グニャリとした模様も書かれていた。


先程の、人々の会話を思い出す。
確かに『召喚』と言ったよな……。


混乱した頭で考え続けていると、コツっ、コツっと高い音を踏み鳴らす音が聞こえた。床を仰々しく歩く音は、こちらに近づいているようだった。


ふと、僕の周囲の光が遮られて暗くなる。それと同時に、冷たい床を踏む音も止んだ。

豪華な宝石が施された短めのブーツが、目の前に突如現れる。人に近づかれた気配を読み取って、僕は恐る恐る、顔を上げた。


そこには、下卑た性格を隠そうともしない、ニヤリとした顔。明らかに軽蔑の色を含んだ目で、男が僕を見下ろしていた。


「ほう、美しい顔をしておるな。」


そう言って、大きな影を作った男は、口を歪ませて舌舐めずりをした。装飾で重々しいマントを羽織り、呼吸をするたびに、でっぷりとした腹が横に大きく揺れる。


短い指という指に、これでもかと誇示するような、大きな宝石が付いている。僅かでも指を動かすと、カチっ、カチっと石同士が擦れ合う音がした。


短い指が、僕の顎先に触れようと伸ばされる。あと少しで僕に触れようとした不細工な指が、寸前で止まった。


横から骨ばった手が、その男の指を掴んでいた。


「王よ。気安く触れてはなりません。異世界人などと、どんな病や力を持ち合わせているか……。」

王と言われた男の隣にいる、細身の男が、鋭く侮蔑の眼差しで僕を見下ろし言い放った。


神経質そうに、眉根を寄せている男性。こちらも豪華な装飾の服を着ているけれど、先ほどの肥えた男性より質素だ。長い袖に手を隠し、足までも裾で隠れている。

眼鏡の奥は、目の下にクマが出来ていた。いかにも不健康そうだ。それなのに、異様に眼光がギョロリと動くのが、気持ちが悪い。
蛇などの爬虫類が獲物を狙う、そんな目だ。


ひょろりとした姿で、眼光だけが鋭い様は、薄気味悪さを感じる。


王と呼ばれた男は、ふんっと不服そうに鼻を鳴らした。


「麻痺の魔法を施しておるのだろう?……どうせ、すぐに使い物にならなくなる。それなら、少し楽しませてくれても、良いものを……。宰相は硬いな。」

床に座る僕を置き去りにしたまま、二人だけで会話が成されていく。もう一度僕を見た王は、悪態のため息をついた。


「これほど美しいのに、勿体ない……。」


チッと短く舌打ちをする王。顔を顰めると、全てのパーツが埋もれそうなほど肉が厚い。顎の肉がぶるりと揺れる。


「……美しくても、異世界人です。首輪もつけていない今、歯向かうやもしれません。……それに、まずはこちらが先です。」


宰相と呼ばれた男は、裾の長い袖口から、革製の小さな巾着を取り出した。口を結んでいる紐を緩めて、中を開けひっくり返す。ポトリと、小さな黒光りする球が、宰相の手の平に落ちた。


黒く美しい、独特の光沢の光。
黒真珠のようにも見える。


手の平に落としたそれを、丁寧な手つきで宰相が右指に摘まみ取った。そして、僕の目の前で片膝をつく。さも嫌そうに顔を歪めながら、その黒真珠を僕へ差し出した。


「異世界の者よ。これは、貴様の身を守るためのものだ。さあ、飲みなさい。」


そのまま、ぐいっと唇に押し当てられる。ひやりとする黒真珠が、唇に触れた瞬間。

ぞくっとした悪寒が、一気に全身を這いずった。


……違う。


僕を守るものだなんて、
絶対に違う。


第一、僕の身体に麻痺の魔法を仕組んでいる時点で、おかしい。そして、この王と宰相の異様なまでに気持ちが悪い、人をモノとして見る眼差し。


なによりも、唇に黒真珠が触れた瞬間の、
全身の血が凍えるような、恐怖と憎悪。


本能で分かる。
これは、飲んではいけないモノだ。



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