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今日から君の代わりに未練を解消します。

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この世界に、私の居場所はない。誰にも必要とされていない。けど、それでいいやって思うと――けっこう楽に生きられる。
それが私の全てだった。
君に、出逢うまでは。






























【事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。
――ニーチェ】

曇天が一瞬白く光り、数秒後に音が鳴った。風でガタガタと鳴る窓を見て、前髪にだけヘアスプレーをふる量を増やす。まだ着慣れない制服に袖を通し、スカートのポケットに手鏡とコームが入っているのを確認すると、一階に下りる。出来るだけ、静かに。朝ご飯は食べない。お父さんに会わないようにしたいから。
  けど、ドアノブに手をかけると、リビングの方から声がした。
「いってらっしゃい」
  もう二度と帰って来るなよ。勝手に、そんな声が聞こえてきて、心臓にガラスの破片が飛び散ったような痛みが走る。
「はい、い、いってきます」
  震えた声で返事をして、外に出た。
 お父さんが、どうして時々声を掛けてくるのか、よく分からない。
  最近まで……私を遠ざけて別々に暮らしていたのに。
  私は小学生の頃から、お母さんの妹さんにお世話になっていた。お母さんの実家で、二人で暮らしていたのだ。けど、妹さんは、私が高校に進学するタイミングで結婚し、遠く離れた大阪に行くことになった。それで、お父さんは私を受け入れるしかなくなってしまった。……大嫌いな、私を。
後ろから車の音が聞こえてきて、端に寄る。狭い道だから、車は私の横のスレスレを通っていく。水飛沫も上げずにゆっくりと走っていったけど、それでも冷や冷やしてしまう。
 お母さんが交通事故に遭って亡くなった時も、こんな日だったのかな、とぼんやり思う。私を庇ってくれた、とお母さんの妹さんから聞いた。けど、その瞬間の記憶はない。三歳の頃だったらしいから、単に幼すぎて覚えていないのかも知れないし、脳が都合よく処理しているのかも知れない。そのどちらのせいもあるのだろうとも思う。
 ただ……どうしてか、お父さんの目はよく覚えていた。病院で、お母さんが眠っているベッドの横で、泣きながら私を睨んでくる目を……。
この記憶は、本当は、やけにリアルなただの夢かも知れない。最初はそう思っていた。けど、お母さんは私を庇って交通事故に遭ったのだと聞いてから、確信したのだ。
そうか。あのお父さんの目は、私のことを責めていたんだ、と。
幼いながらにショックだった。
不意に、あのお父さんの目を思い出す度、どうしてお前が……と勝手に声まで聞こえてくるようになった。
目だけで、こんなに傷つくのだと知った。
それから私は――人の目が怖くて見れなくなった。
ずっと、今も。変わらないままでいる。
 
家を出てからまだ数分しか経っていないのに、百均で買った傘が小さいのか、スカートの膝から下はずぶ濡れになってしまった。あぁ、先週、数学の時間が大嫌いだからって二日連続で休まなければ良かったな。せっかく晴れていたから行けば良かった。そしたら、出席点を気にして、こんな日に満員電車に揺られに行くこともなかったのに。一歩踏み出す度、ローファーのなかに溜まっている水がぐじゅっと音を立てて気持ちが悪い。

向かい風に吹かれて傘が裏返りそうになるのを手で押さえつつ、なんとか学校に辿り着く。校舎の時計の針が授業開始十分前を指しているのを見て、私は急いでトイレに向かった。用を足す為ではなく、乱れた前髪をなおす為に。
既に、鏡の前は談笑する集団に占拠されていた。でも、問題ない。私は最初から個室に入るつもりだからだ。酷く丁寧に整えているところを誰かに見られるのは、やっぱり恥ずかしい。
迷わず一番奥の個室に入ろうとしたとき、カシャッと足元で何かが落ちる音がする。手鏡だ。一瞬、自分のものかと思ったけど違った。多分、この集団の誰かのものだ。大きな笑い声を上げていて誰も気付いていない。
  手鏡を拾い上げると、キュッと唇を引き結び、大きく深呼吸をする。そして、一番近くにいる人の肩を叩いた。
「……これ、落としましたよ」
  楽しそうな笑い声が一気に止み、みんな私を振り返る。視線が痛い。人の目が見れなくても、こればっかりは感じ取ってしまう。少なければ、苦しくはならないのだけど……。
胃が強く締め付けられ、たった数秒間が凄く長いように感じた。
  そのうち、私が肩を叩いた人の隣にいる人が声を上げる。
「あっ、それ私のだ!  ありがとう」
  ひょいっと私の手から鏡を取ると、何やらアイコンタクトをし合い、また笑いながら出ていった。ひとり胸を撫で下ろしていると、よく通る声が聞こえてくる。
「ビックリした。貞子かと思った」
「ね、何あの前髪。長過ぎでしょ」
「てか誰?」
「知らなーい」
  特に傷つくことはない。やっぱり、と思うばかりだ。
私は個室に入り、長い前髪にコームを通す。見え過ぎず、見えなさ過ぎず。恐怖から守ってくれるように、壁を整える。

  賑わう教室に入り、俯きながら人の間を縫って自席に向かう。今の席はとても気に入っている。席替えは月単位で行われるから、どうにかして三十日以上に延ばせないかな、とふと真剣に考えてしまうくらいに。窓際だし前から二番目で黒板も見やすいし、それに――。
胡桃くるみちゃん、おはよ~」
  この教室で、というか多分、この学校で唯一私に話しかけてくれる人が、前の席に座っているから。
華井麗葉はないうらはさん。名前に負けず劣らず、身も心も美しいお方だ。
この人だけはきちんとフルネームで覚えている。漢字も書ける。
「おはよう、ございます」
 私はしっかりと頭を下げて挨拶を返す。
「はぁー。どっかにイケメン落ちてないかなぁ」
  華井さんが、両拳の上に顎を乗せて切実そうに呟いた。
「……イケメン」
「やばっ。私、今口に出してた?」
  パッチリとした目を更に開いて見上げてくる。私はつい目を逸らしてしまう。それでも、長いまつ毛が今日もよく上がっているのが見えた。きゃるん、という音が鳴ったような気もする。……華井さんは、上目遣いの練習でもしているのだろうか。私がしたら怨めしい幽霊みたいになるんだろうな。
机の横に鞄を掛けると、姿勢を正して座り、私は返答した。
「はい。ガッツリと」
「あはは、ガッツリって。胡桃ちゃん面白いねぇ」
何が面白いのだろう?  と疑問に思いつつも、華井さんが笑ってくれているのが嬉しいから気にしないことにした。
「実は彼氏にフラれたばっかでぇ、めっちゃ病んでるの。早く次の恋にいきたいんだよねぇ」
  華井さんは、明るい茶色の巻き髪の先を人差し指でくるくると回し、はぁーと口に出す。なるほど。それは大変だ。私は急遽イケメンを探すべく、とりあえず辺りを見回した。
  と、思いのほかすぐに発見出来た。
  華井さんのすぐ前にいるのだ。
その人は、ひとり窓縁に肘をつき、外を眺めていた。さらさらとした黒髪に綺麗な横顔でそうする様は、何だかとても絵になっている。
私はその人にバレないようにこっそりと指を差し、小さな声で華井さんに報告する。
「あの……その人はどうですか?  なかなかイケてると思うのですが」
「えっ。誰だれ~?  どの人?」
「?  そこで窓を眺めてる人です。緑のネクタイをしてるので、一個上の二年生ですね」
  あれ、でも、どうして二年生の人がこの教室にいるのだろう。誰も何も言わないのも、よく考えたら変だ。……私がおかしいのかな?
  華井さんは、どう思っているのだろう。
  私が指差す方を見た華井さんは、んん?  と小首をかしげる。
そして、何故かキョロキョロと辺りを見回し始めた。
「どこの窓~?」
予想外の質問をされた私は酷く戸惑い、もう、ガッツリと指差した。
「いや、そこの、華井さんのすぐ前にある窓です」
「えっ?」
  華井さんは驚いて振り返り、その人を見た。
  確かに、視界に入っている筈なのに。
何も言わずに数秒間見つめたあと、私の方に振り返ると、とても不安げな表情をする。
「さっきから何言ってるの?  胡桃ちゃん。誰もいないよ~?」
――誰もいない?  
いや、そんな筈は……。華井さんこそ、何を言っているのだろう。
  心臓が早鐘を打ち、ごくり、と唾を飲んだ。一筋の汗が背中を伝っていく。
「だからあの、そこに……」
  すると、私がずっと指差していた二年生の人がこちらを見る。
  ばっちりと目が合ってしまったから、反射的に顔を背けた。
「胡桃ちゃん?」
「いえ、あの……すみません。何でもないです」
「えぇ~?」
  何が起こっているのだろう?  分からないまま、軽快なチャイムが鳴り響き、みんなそれぞれの席に着き始める。一時間目の数学の先生が入って来たので、華井さんは不審そうにしつつも一旦前を向いてくれた。私も、とりあえず授業の準備をしようと鞄から教科書とノートを取り出す。
  けど、すぐに言葉を失ってしまった。
  まだ居たから。
  二年生の人は私の席の横に来て、にっこりと優しい笑みを浮かべる。
  みんな、誰も何も言わない。
  そこにいないかのように、反応しない。
「俺のこと、見えてるよね?  見えてたら、頭を掻いて」
  私は口を半開きにし、ボーッと見つめてしまう。
もう、分かっているけど、分かりたくないような。でも、その答えを確かめるべく、言われた通りに頭を掻いた。
  すると、二年生の人は更に頬を上げた。長い前髪越しに、少しだけ顔全体を見る。くりっとした目は垂れ下がっていて、実年齢よりも幼い印象を受けた。犬みたいだな、と思う。
「嬉しいよ。凄い久しぶりだから、俺のことが見える人に会ったの。……何年ぶりだろ」
指を四本折り、「あぁ、そうか。もうそんなに経ったのか」と呟く。
それから開いた右手を私の方に向け、さらりと言った。
「初めまして。五年前に死んだ、仙二桃弥せんじももやです」
  ドクンと心臓が大きく鳴り、脇汗が垂れていった。
よく見ると、仙二さんは少し透けていた。仙二さんの後ろにいる人が見える。顔はよく分からないけど、動いたら分かるくらいには……。絶対にあり得ない現象が目の前で起きている。
  ――本当に、幽霊なんだ。
  いつの間に霊感なんか持っていたんだろう、と妙に冷静になる自分もいた。
  あんぐりとして見つめていると、仙二さんが私の机の上を覗き込んでくる。
「これ、何て読むの?」
  そう言って仙二さんが指差す先には、ノートの表紙に書いてある私の名前があった。
  燦美野胡桃。
  あぁ、よく聞かれる。確かにこの苗字は読みにくいから。
「アザミノです」
  瞬間、教室がザワッとする。みんなが私のことを見ていた。いきなり大多数から視線を向けられ、上手く息が吸えなくなる。も、すぐに自分のしてしまったことを理解した。
  そうか。仙二さんは、みんなに見えていないんだ。幽霊だから。
「燦美野、なんか言ったか?」
  先生が真顔で聞いてくる。……いつも薄笑いしているのに、珍しいな。って当たり前か。私は今、いきなり空虚を見つめて名乗った生徒となっているのだから。
「い、いえ、何でもないです」
  先生は眉を顰めながらも授業を再開した。教室のどこからか小さな笑い声が聞こえてくる。やってしまった……完全に変な人認定だ。でも、もとから印象は良くないだろうし変わらない筈だ、うん、と自分に言い聞かせる。それはそれでどうかとも思うけど。
「ごめんね。迷惑かけて」
  仙二さんは両手を合わせ、心底申し訳なさそうな顔をする。また、つい反応してしまいそうになった。私は寸分迷った末、ぺこり、と少しだけ頭を下げることにしておく。
「あとでゆっくり話そうか。色々、聞きたいこともあるだろうし」
  授業中は邪魔したくないから、とだけ言い、仙二さんは私から離れていった。
  一度、大きく鳴り続ける心臓を落ち着かせようと深呼吸をし、授業に集中しようと教科書を開く。
  ……聞きたいこと、か。それは山ほどある。どうして私だけに見えるのか、とか。どうして急に見えるようになったのか、とか。
  どうして、仙二さんは――。
あれ、今どこのページをやっているんだっけ?  完全に分からなくなってしまった。仙二さんに気を取られ、先生の話を全く聞いていなかったのだ。先週の数学は二日連続で休んでしまっていたし、検討もつかない。
  おろおろとしていると、先生がこちらを見る。
そして、どこか愉悦そうな声を出した。
「じゃあ燦美野、問三の答えは?」
  まただ。また始まった、と思う。
  私は静かに立ち上がり、そのまま押し黙ってしまう。
「なんだ、先週解いてくるように言ったのに、やっていないのか?」
  教壇に両手をつき、こちらに向かって大きなため息を吐く。
  ……私が休んでいたのは、知っている癖に。 
唇を噛み締め、私は静かに言う。
「休んでました」
「じゃあ、今から解け。こんな簡単な問題すぐに出来るだろ」
  教室の空気がピリッとする。
  この先生は、ろくに解説していない応用問題をわざと数学の苦手な生徒に当て、怒るのが趣味なのだ。ひと月前までは違う人がターゲットだったのだけど、その人が休みがちになってからは私がよく当てられるようになった。
それからはもう同じパターンだ。
分かりませんと言ったら数十分は説教され、みんなの授業時間を奪っているんだぞ、と責められる。悔しさから勉強に励むも、やっぱり分からなくて、気軽に聞ける友達もいないし先生には会いたくないしで、私も次第に休むようになってしまった。今日も来たくなかったのだけど……テストで良い点は取れる気がしないし、出席点を稼ぐしかない、と考えると仕方がなかったのだ。
  前に、休んだ次の日は当てられなかったからといって、油断してしまっていた。
  あーあ、私って本当に情けないな。
目頭に涙が浮かんでくる。
こんなところ、来なければよかった。
  今日もこれから説教されて責められる流れか、と諦めて突っ立っていると、仙二さんが隣にやって来る。そして、
「a≦0,a≦8」
  と私に耳打ちした。
  へへ、と笑い、「お詫び」と言って私の頭を撫でる。
「みんなのノート見たら大体そう書いてたから、合ってると思う」
  何の、感触もないのに。
頭から胸の奥までじんわりと温かくなっていく。
キッ、と私は顔を上げ、大きな声で解答する。
「a≦0,a≦8、です」
  おお、とみんなの声が聞こえた気がした。先生は驚いた顔をして、教壇についていた両手をパッと離す。それから「な、なんだやっていたのか。じゃあ早く言え。……ったく」と黒板に向き直り、何事もなかったかのように授業を再開した。
  一気に肩の力が抜け、ぺたん、と腰を下ろす。
  仙二さんに、助けて貰っちゃった。
  今すぐお礼を言いたいけど、口にすることは出来ないから。また、みんなに気付かれない程度に頭を下げることにしよう。
  そう思った途端、上から、ハッと冷笑する声が聞こえる。
「この先生まだいたんだ」
  見上げると、無表情の仙二さんがいた。何もかも、全てを諦めたような。あまりに第一印象からかけ離れた様子に、思わず釘付けになってしまう。
「ほんとに変わらないよね、人って。――まぁ、俺もそうなんだけど」
こちらを見てにっこりと笑う、犬みたいな顔に。
  初めて親近感を抱いた。

  休み時間。私は、仙二さんと筆談することにした。数学のノートを裏返し、最後のページに文字を綴る。
『せんじももや、って漢字でどう書くのですか?』
  すると、ぷっと吹き出す声がした。窓縁に座っている仙二さんが、ノートから私の方に視線を移す。
「真面目だね、胡桃ちゃんは」
『話しかけてくれるお方の名前は、しっかりと覚えておきたいので』
  あはは、そうなんだ、と仙二さんはお腹に手を当てた。そんなに面白いことでもないと思うのだけれど……。何だか子供みたいに元気だ。数年ぶりに人と話すとそうなるのだろうか。
「えっとね。仙人の仙に、数字の二、桃に、弥生時代の弥だよ」
  言われた通りに書き綴ると、「そうそう」と仙二さんは微笑んだ。この人はいつも口角が上がっていて羨ましい。私の表情筋は、ずっと死んでいるから。
「あ、敬語使わなくても良いよ。先輩とか全然気にしなくていいし」
『いや、これは癖なので。仙二さんが先輩であることは関係ないです』
「そうなの?  じゃあ、せめて桃弥って呼んでよ」
  よ、呼び捨て……。シャーペンの芯をなかなか紙につけられないでいると、「駄目?」と更に聞かれ、ついに覚悟を決める。
『分かりました』
「やった」
  嬉しそうに足をブラブラとさせる桃弥を、不覚にも可愛いと思ってしまった。
心のなかで、桃弥、桃弥……と復唱する。うーん、慣れるまでに時間がかかりそうだ。
「さて。何から話そうかな」桃弥は数秒間も唸ると、「とりあえず胡桃ちゃんの質問に答えようか。何でも聞いて」と言った。
  何でも、ということなので、私は遠慮なく文字を綴る。
『桃弥は、どうして幽霊になったのですか?』
「交通事故に遭ったんだ。それで、あっけなく死んだ」
  ……私のお母さんと同じだ。
  少し考えてから、またシャーペンを走らせる。
『どうして、五年も成仏出来ないでいるのですか?  まだ未練が残っているのですか?』
  すると、桃弥から笑顔が消えた。
  まずいことを聞いてしまった。
  そう思い、消しゴムを手に取ると、桃弥は唇の端を少し上げて答える。
「うん。そうらしいね」
……らしい?
  何だか自嘲しているようだった。
「もう、未練は解消できたと思ってたんだ。幽霊になって、一年目に。でも、気付いたら五年経って――この教室から出られなくなってた」
  ずん、と胸が重くなる。
  それって、つまり……。
「まぁ、そうなったのは先週の木曜日くらいからだけどね。それまではまだ学校中を彷徨っていられたんだ。もっと、何処へでもいけてたんだけど……。段々、地縛霊に近づいていっているみたい」
  地縛霊……やっぱり。
木曜日からということは、ちょうど私が二日連続で休んでいたときからだ。それで、今日気付いたのか。
『この教室に未練があるのですか?』
「そうなるね。俺は、生前この教室に通っていたんだ。でも、とある事があってすぐ不登校になっちゃって。テストだけは受けに行ってなんとか二年生に上がれたんだけど、やっぱり引きこもるようになって、その間に死んだから――……」
  桃弥が、口を噤んで俯いてしまう。
  けど、すぐにまた微笑んで言った。
「楽しい学校生活を送りたかったのかな。ここで」
  ぎゅうっと胸が締め付けられる。
  何て言ったらいいのか、分からなくなってしまった。
「今、こうして地縛霊になる直前まで、全然気付かなかった。自分がそんな未練を抱えていたなんて。成仏出来ないくらい、心残りだったなんて」
  ぐっとシャーペンを握り締めたままでいると、桃弥が口を開く。
「自分の抱えている、この世に縛りつけられるくらいの強い未練が何なのか、教えてくれる人はいないんだ。けど、全て解消しないと成仏出来ない、って先輩幽霊に教えて貰った。自分のことが見える人は、必ず未練に関する人だから、とも。本当にそうだった。親とか、友達とか、思い当たる人に会いに行ったら、みんな俺のことが見えて……。それで、その人達と話してスッキリしたけど、成仏出来なくて。この教室に縛られて……どうすれば良いんだろう?  って途方に暮れてたんだ」
  桃弥は、顔を上げて私を見る。
「そこで今日、胡桃ちゃんに出会った」
柔らかい眼差しだった。
夜をぼんやりと照らす月を見るような、穏やかな顔つきだった。
もっと見ていたいけど、やっぱり目を逸らしてしまう。そんな自分が悔しくなった。
『私は、桃弥の未練に関する人だということですか?』
「うん。もっと言うと、俺の未練を解消するのに相応しい人、かな」
  どういうことか分からない。
そう聞こうとする前に、桃弥が言った。
「単刀直入に言うよ。胡桃ちゃん、俺の代わりにここで楽しい学校生活を送って」
  頭のなかが「?」だらけになる。
『よく分かりません。それは、桃弥の未練を解消することに繋がるのですか?』
  うん、と桃弥は頷いた。
「さっき思いついたんだ。俺が、胡桃ちゃんにだけ見えるようになった理由。それはね、俺と似ているからなんだ。自分とよく似た人が、自分が出来なかったことをしてくれたら、それで満たされるんじゃないかなって」
  全く、賛同する気になれなかった。
  むしろ逆だと思う。
『桃弥は、私とは違う人間にしか見えません。それに、私だったら、そんなことをされたら余計に悔しいです』
  書くと、桃弥は困った顔をした。
「……でも、これ以外思いつかないよ」
  何だか、桃弥も納得していないようだった。けど、と私は思う。一旦、桃弥の勘を信じよう。  
『桃弥がそう言うなら、そうかも知れません。本当のことが私に分かる訳ではないし、これ以上疑いません。私は、』
 一旦、手を止めた。
 けど、すぐにまた力を込めて書き出す。
心臓が高鳴ってしょうがなかった。
『桃弥が成仏できるように、協力したいです』
「ほんと?」
こくん、と大きく頷く。
『私が桃弥の代わりとなって学校生活を楽しむことで、桃弥の未練を解消すれば良いのですよね?』
「その通りだよ」
  ごくっと唾を飲み込んで、今、自分の書いた文字を見つめる。
  そんなことが、出来るのだろうか。
  人の目を見るのが怖い、私に?
  だけど、と思う。 
 ――嬉しい。
 誰かに、必要とされたのは初めてだった。
 変われるなら……いや、変わってみせる。
 桃弥の為にも、自分の為にも。
『分かりました』
  ページを捲り、でかでかと新たに文字を綴る。それをビッと破ると両手で胸の前に持ち、桃弥に見せた。
『今日から桃弥の代わりに未練を解消します』  
  決意表明だ。
  ……ほとんど、見切り発車の。
 でも、隣に桃弥がいるなら、今までよりは強くなれるかも知れない。
 そんな予感が、確かにあった。
  桃弥は、ふっと柔らかく笑い、「ありがとう」と言った。ハッとして紙を下ろして見回すも、私を見ている人は誰もいないようだった。胸を撫で下ろしたところで授業開始のチャイムが鳴り、桃弥は手を振って私から離れていった。

『質問していいですか?』
  また、休み時間になると私はノートで桃弥に聞く。一応、横に問題集を置いてカモフラージュしているから、傍から見るとずっと勉強しているみたいだろう。
「うん。何でもどうぞ」
  桃弥は窓ふちに両手をついて腰掛け、楽しそうにノートを見下ろしている。
『さっき、桃弥は私と似ていると言いましたが、どういうところがですか?』
  うーん、と桃弥は唸った。
  なかなか返答がないので見上げると、桃弥は眉を下げてこちらを窺い、「今から凄く失礼なこと言ってもいい?」と聞いてくる。
『全然、大丈夫です。気にしないでください』
「……実は、前から胡桃ちゃんのことは知っていたんだよね。その、前髪が長くて、仲間かと思っちゃったことがあるから」
  ごめん!  と桃弥が両手を合わせるので、私は首を横に振っておいた。
『貞子みたい、ってよく言われます』
「あぁ、そう、いや全然違うんだけれども。俺は数年前に学校から出られなくなっていたからさ、なんかそのとき嬉しくなっちゃって。時々、胡桃ちゃんのことを目で追うようになってたんだ」
  え、そうだったんだ。
自然と頬が緩む。私も嬉しい、と思うのはどうしてだろう。
「それで、貞子だとか言われているのを耳にしたときの胡桃ちゃんは、いつも何も変わらなくて。傷つく様子も、髪をなおす様子もなくて。それが凄く印象的だった」
  桃弥は、力なく微笑んで私を見る。
「あぁ、この子は、諦めることに慣れてるんだなって。そこが俺と似てると思ったんだよ」
  諦めることに慣れてる。
  数学の授業のときの桃弥を思い出した。
──ほんとに変わらないよね、人って。
──まぁ、俺もそうなんだけど。
  桃弥もそんな表情をしていた。
  何もかも、全てを諦めたような。
「……ほんっと失礼なことばっか言って、ごめん」
『全然、大丈夫です。桃弥の言う通りですから』
  私は一度手を止め、また、文字を綴る。
『本当に、色んなことを諦めてきました』
  人の目を見るのが怖い。
  どうしたらなおるのか、分からない。
  それでも生きていくと決めたから。学校に、行かなくちゃいけないから。
人だらけの教室に、人だらけの電車に乗って行き、帰る。一週間に五回も。それだけのことをするのに、私は前髪を長くする必要があった。
  普通でいることなんて、無理だった。
「俺も、小さい頃から何かと諦めがちだったよ。……母さんが、ずっと精神的に病んでてさ。自分のことで精一杯で、周りのことは放ったらかし。俺のことなんて、なにも見てくれなかった。だから、そんなもんかぁ、って思うようにしたら、欲が出てこなくなって。生きやすくなった」
  あぁ、分かるなぁ。
諦めることは、楽だ。今の自分に、置かれた状況に、慣れてしまえるから。
なにも見てくれなかった、か。
  ――一緒だ。
  そう思って、心が軽くなった。  
『私も――』
  それから、自分の過去について書いた。三歳の頃、お母さんが私を庇って交通事故で亡くなったらしいこと。それで、お父さんに泣きながら睨まれたような記憶があること。どうしてお前が……なんて声が勝手に聞こえてくること。いつの間にか、人の目を見るのが怖くなっていたこと。
  全部、ノートに書き殴った。
  誰かに聞いて欲しい。そう思ったのは、初めてだった。
「……そっか。そんな事があったんだ。だからそんなに前髪を長くしているんだね」
  桃弥は、静かに受け止めてくれた。汚い字で書かかれた、私の過去を、全部。
  涙が溢れそうになって、ぐっと堪えた。
「うん。やっぱり止めよう」
  桃弥が突き放すように言う。
――え?
止めるって、何を?
突然言われたことが分からなくて戸惑い、桃弥を見上げると、とても真剣な顔をしていた。
「自分のために、胡桃ちゃんが無理に変わることを強いたくない」
  そう言って、俯く桃弥。
「胡桃ちゃんが俺と似ているって分かってるのに、俺に出来なかったことをして欲しいって……凄い自己中だ、ってことに今気付いた。地縛霊になる直前だから焦って、本当に自分のことしか考えてなかったんだ」
  桃弥は窓縁からひょいっと降り、私の前で優しく微笑む。
「人の目を見るのが怖いなんて凄く辛いのに、俺に協力しようとしてくれてありがとう」
  ぺこり、と頭を下げ、「俺のことはもう忘れて。しばらく見えるだろうけど、全然気にしなくていいから」と早口に言う。
  待って。なんで?  
  そんなすぐに――。
「本当、変なこと頼んじゃってごめ」
「勝手に見切りつけないでください」
  思わず口に出していた。
数人がこちらを見た気がする。けど、賑やかな教室ではそんなに目立たなかったようだ。
  私は、また、ノートに書き殴る。
『ズルいです。人を本気にさせておいて、もういいって。私は、本当に変わろうと決意したんです。こんなに頑張ろうって思ったのは初めてなんです。なのに、まだ何もしていません。せっかく、』
  ――傍で見ていてくれる人が出来たのに。
  私だって同じだよ、桃弥。
  お父さんは、ずっと私のことを遠ざけて、私のことなんて見ようとしてくれなかった。私が何をしようとしまいと、興味ないんだ。
  でも、桃弥は、ずっと見ていてくれてたんでしょう?  
  こうして出逢えたのは、きっと、偶然なんかじゃない。
  最初で最後のチャンスを、神様が与えてくれたんだ。
『人は変われるんだってことを、私が証明してみせます。だから、責任持って最後まで見守っててください』
  もう、何もかも諦めていたくない。
  桃弥が成仏するのも、私が変わるのも。
  いつの間にか、ノートが濡れていた。また、私の目から涙が零れ落ちていく。
  すると、ふわり、と桃弥に抱きしめられた。やっぱり何の感触もないけれど。というか、むしろ若干すり抜けているような気がするけれど。
  胸の奥から、ちゃんと温かくなっていく。
「訂正するよ、胡桃ちゃん。俺と似ているなんて勘違いだった。凄く……強い人なんだね」
  ふるふる、と私は首を横に振る。
『今、変わっただけです』
  桃弥は、耳元で息を漏らして笑った。風を感じた、ような気がした。
「ありがとう、胡桃ちゃん。本当に出逢えて良かった」
  私から離れると、桃弥はそっと拳を前に出す。
「一緒に頑張ろう」
  私も拳を前に出し、控えめに突き合わせる。
  やってみせる。人の目を見るのが怖いのを克服して、学校生活を楽しめるように。それで、桃弥が無事に成仏出来るように。
  大丈夫。もう、一人じゃないから。

「とりあえず、俺で練習すればいいよ。……あっ、そうだ!  いいこと思いついた」
  にひ、と笑う桃弥に首を傾げたところで、三時間目開始のチャイムが鳴る。
  人と目を合わせられるようになるにはどうすれば良いのか、って聞いたんだけど……何を思いついたんだろう?
授業中、真面目に先生の話を聞いていると、離れていっていた筈の桃弥がやって来る。不思議に思いつつ何も反応出来ないでいると、桃弥は、私の前に来てしゃがんだ。机の上に腕を置き、じっとこちらを見上げてくる。
ともかく板書を写すことに集中していると――桃弥の顔が、ノートから出てきた。
「ぎゃあっ」
  思わず悲鳴を上げた。す、す、すり抜けてる!
  改めて幽霊だということを認識する。
  ……いや、本当に何やってるの……?
「燦美野さん、どうかしましたか?」
  国語の先生が驚いた顔で私を見ている。当然、クラスのみんなも。
「あ、いえ、なんでもないです。ちょっと虫がいて……」
  沢山の視線を浴びて胃を痛めつつ、適当な言い訳をして誤魔化した。あぁ、これでもう変な人確定だ。
  桃弥は私の足元で土下座し、「やり過ぎました」と呟いた。ノートで詳細を聞くと、強制的に目を合わせると授業中だったら顔を背け辛いだろう、訓練するのに最適だ、と考えたらしい。
『確かに良い考えだと思います。でも、』
  私はそこまで書いて、一旦、桃弥の方に顔を向けた。
数秒経ってから、また文字を綴る。
『今、私は桃弥と目を合わせていたと思いますか?』
「……ようにも見える」
『そういうことです。顔を向けていたとしても、長い前髪のお陰で、実際に目線をどこに遣っているのかは分からないのです。ちなみに私は今おでこ辺りを見ていました』
  何それ、ズルいっ!  と桃弥は大きな声を上げた。ふっ、と笑った息が漏れてしまう。けど、隣の人がこちらを見てきたのですぐに真顔になった。
「じゃあ、前髪をちょっと分けてみてよ。……駄目かな?」
  桃弥は、遠慮しつつも興味津々な様子で私を見つめてくる。
  何だか嫌な気がしなくて。むしろ、ちょっと嬉しい、なんて思ったりして。そんな自分のことを変だと感じつつ、私は前髪を分けてみることにした。
両手でゆっくりとカーテンを開けるようにして、目を露わにする。
  桃弥の顔がハッキリと見えた。きめ細かい肌に、潤った唇。血色もよくて、ますます幽霊に見えない。
そんなことを思っていると、桃弥が更にこちらを覗き込んできた。
不意に目が合ってしまう。何だかやけにキラキラと輝いた目をしている。
「胡桃ちゃん。可愛いよ」
  私はさっと前髪をなおし、顔を背ける。……何、今の。駄目だ、心臓の音が鳴り止まない。何だか顔も熱くなってきたし、どうしよう。
  初めての感覚に戸惑っていると、桃弥は明るい声で呟いた。
「もっと見たかったなぁ」
  ずっと目線を感じて、私はそれから授業どころじゃなくなってしまった。

  次の休み時間にも、その訓練をやってみる。前髪を分け、こちらを見てくる桃弥と目を合わせるようにする。けど、やっぱりすぐに顔を背けてしまう。
横を向こうが上を向こうが桃弥はすんなりと顔を合わせてくるので、かなり恐怖だった。
あんまりやっていると休み時間でも目立つと判断し、すぐに中止する。授業中にもやったけど、前髪を分けながらひたすら目を瞑ってぷるぷるする人になってしまったので、途中で断念した。
目を合わせることは出来なかったけど、とりあえずこの訓練は続けよう、ということで二人の意見はまとまった。
  お昼休み。
  一旦訓練は休憩し、おにぎりを頬張っていると、一つ疑問が湧いてきた。
『桃弥にとって、楽しい学校生活とはなんですか?』
  相変わらず窓ふちに腰掛けた桃弥は、太ももに肘をついて悩み始める。
「……友達がいる、かな」
  何だか凄く気を遣って言われた。
『友達ってどうやって作るんですか?』
「とりあえず話しかける」
即答だった。桃弥は、少し唸ってから私に聞く。
「胡桃ちゃんは、この人と友達になりたいな、って思う人はいないの?」
  頭のなかに、ポン、と一人浮かんできた。
  こんな私に唯一話しかけてくれる、身も心も美しいお方。
『華井麗葉さんです。今、前の席に座っている人です』
  文字にするだけで、ちょっと緊張してしまう。だって、私は華井さんの友達に相応しくないと思うから。素敵過ぎて、おこがましい。
「あぁ。今朝、仲良さそうに話してたよね」
『いえ、それは華井さんがお優しいだけです』
「そうなの?」華井さんを一瞥すると、私に微笑んだ。「この子も、けっこう一人でいるイメージだよ。まだ数日間しか見てないけどね」
  確かに、その通りだ。
華井さんはどうやら、女子に好かれない人らしい。
  前にトイレの個室で髪を整えていたとき、『華井マジうざい』『超ぶりっこ』『男とばっか話してる』などの陰口が聞こえてきたことがある。そのとき筆頭となって言っていたのは同じクラスの……ええっと、たぶん狩南かりなさんだ。トイレに行くとよく見る、鏡の前で談笑しているグループで一番声の大きい人だから覚えている。
けど、華井さんは、それでどうこうしようという素振りを見せない。
自分は自分だと割り切っているように見えて、私は、それが格好良いな、と思っていた。
『華井さんは、私と友達になりたいと思ってくれるでしょうか?』
  ドキドキしながら聞いてみた。
  すると、桃弥は柔らかく笑って言う。
「それは胡桃ちゃんの頑張り次第じゃない?」そして、ひょいっと窓縁から降り、腰に手を当てる。「よし!  じゃあ、俺が切っかけを作ってあげよう」
何やら手に力を込め始める桃弥。
  ううう、と左手で右手首を掴み、そのまま右手のひらを華井さんの方に向ける。
  な、何をするつもりなの……?  と冷や冷やしながら見守っていると、華井さんの筆箱がボトンッと落ちた。
「出来た!  ポルターガイスト!  胡桃ちゃん、拾って!」
えええっ。
急かすように言われ、私は勢いのまま拾った。そこで、華井さんが振り返る。
「わっ、ごめんねぇ。ありがとう~」
  華井さんは私から筆箱を受け取ると、また前に向き直った。
会話終了。
「もっと、なんか話さないと」
  桃弥は真剣な顔をして言う。ううっ……そんなこと、言われても。いや、弱音を吐いている場合ではない。協力してと頼んだのは私なのだから。ちょっと、スパルタな気もするけど。
  ぐっと両拳を握りしめ、深呼吸してから、私は華井さんに話しかける。
「あ、あのっ」
切羽詰まったような声を出してしまったからか、華井さんは驚いて振り返った。
「どうしたのぉ?」
  大きな目をぱちくりとさせ、私のことを見つめる。可愛いらしいな、もっと見ていたいのに……じゃなくて、どうしよう。何を話すか全く考えていなかった。
  私は焦りつつも何とか口を開く。
「さ、さっきの筆箱、可愛いですね」
  言うと、華井さんはそのまま数秒間も固まってしまった。
  間違えた……と今すぐ頭を垂れたいくらいヘコんでいると、「あぁ、これぇ?」と華井さんは筆箱を持って笑ってくれる。
「ありがとう~。胡桃ちゃんもこういうの好きなの?」
  心に、ぱああ、と光が差した。
「えっと、はい、そうなんです。凄く女の子らしくて、華井さんにとても良く似合っています」
「本当ぉ? 嬉しい~」
  華井さんが満面の笑みになった。私も凄く嬉しい。ほかほかと春のうららにお花見をしたような気分になっていると、桃弥が耳打ちしてくる。
「どこに売ってるの?  って聞いてみて」
  えっ、どうしてだろう。何だかよく分からないまま、桃弥の言葉を繰り返すことにした。
「ど、どこに売っているのですか?」
「え~?  どこだっけなぁ。あ、S駅前のpioni-だ」
  ぴ、ぴお……知らないブランド名だ。女子高生に人気なのかな。
  何も返せないでいると、また桃弥が耳打ちしてくる。
「こ、ん、ど、一、緒、に、買、い、に、行、こ、う!」
  ……いきなりお誘い!?
  戸惑いつつも、隣で桃弥が何度も「がんばれ」と両拳を掲げてくるので、やるしかない状況に追い込まれてしまった。
「ここ、今度、あの、一緒に」
「お~麗葉、また一人で食べてんじゃん」
  ガクッと肩を落としてしまう。割り込んできたのは……ええっと、西田くん、だと思う。西田くんはよく華井さんに話しかけている人だ。あとはサッカー部ということしか知らない。
「そうだよぉ」華井さんは一瞬ムッとした顔をするも、私の顔を見て「あっ」と明るい声を上げ、食べかけの弁当を持って私の机に置いた。
「今日は胡桃ちゃんと食べてるんだよ~。ねっ?」
 何だかちょっと圧のある笑顔だった。えっと、そうだったっけ……と戸惑っていると、西田くんが顔の前で手を振って笑う。
「いやいや、燦美野困ってんじゃん」
「えぇ~?  私達ぃ、超仲良しだもん」
仲良し!?  しかも超!?  
ひとり舞い上がるも、西田くんに「絶対仲良くねーだろ」と否定され、やっぱりか、と落ち込んでしまう。けど、華井さんはぷくぅと頬を膨らませて「ちょっと~酷いんですけどぉ」と反対していた。
  こ、これはもしかして、華井さんには既に友達認定されているということだろうか? 
ちら、と桃弥の顔を見るも、何とも言えない表情をしていた。……あれ?  喜んでいるのは私だけ?
  すると、西田くんは嘲るように口角を上げて華井さんに言う。
「だってお前、女子に嫌われてんじゃん」
  華井さんの頬がすんと下がった。
  初めて見た。
「そんなことないです!」
ガタッと私は立ち上がり、西田くんを睨みつける。前髪で見えないだろうけど。
一気に、賑やかだった教室が静まった。
みんなの視線が集まってくる。
「わ、私は……」
 息が詰まる。口が上手く動かない。
――私は、華井さんのことが好きです!
本当に言いたいことが、脳内で弾け散っていく。
あぁ、なんて無力なんだろう。
そこでチャイムが鳴り、少しずつ視線が剥がれていった。みんな席に着き始め、西田くんも驚いた顔をしつつ去っていく。
ひとり俯いて立っていると、華井さんがこちらを見上げて言う。
「くるみん。ありがとう」
柔らかい、天使のような笑顔だった。
胸のなかで固まっていた何かが、温かい水で溶かされていく。
私は、いえ、とだけ言い、静かに座った。それから、くるみんに呼び名が変わっていることに気が付き、ぽっと火照る。
「よかったね、胡桃」
隣を見ると、桃弥がニコニコとして「俺も呼び名を変えようと思って。駄目?」と聞いてくる。私はすぐに、ふるふる、と首を横に振った。
呼び名が変わるだけで、一気に距離が縮まった感じがする。ということをこの歳になって初めて知った。
その後、私はハワイにでもいる気分で授業を受け、桃弥との訓練に精を出す。結果、前髪なしで一・五秒くらい目を合わせられるようになっていた。

「くるみんっ。またね~」
  放課後、華井さんは私に両手を振ってくれる。朝以外に挨拶されたのは初めてだった。それだけでも嬉しいのに、向日葵のような笑顔を向けてくれるからもう有頂天になる。
「は、はい、また!」
  表情筋が死んでいる私だけど、今は自然に笑えた気がする。
これは、桃弥の未練を解消出来る日も近いのではないだろうか。
  いつの間にか雨は上がっていて、太陽の光が教室に差し込んできていた。ずぶ濡れだったスカートの裾や靴下も既に乾いている。よかった、明日は朝から晴れるといいな。嵐のなかでも登校したい気ではいるけれど。桃弥とは、この教室でしか会えないから。
  今日はすぐに帰らずにちょっと残ろう。
ホームルーム中も私から離れていた桃弥を探すべく見回すと、出口付近にある掃除用具入れの上にいるのを発見した。ちょこん、とお留守番する犬みたいに座っている。……高いところがお気に入りなのかな。
  桃弥は私に気が付くと、ふわっと飛び降りてこちらまで来る。よく見ると、ちょっと浮きながら歩いていた。幽霊だから、そんな移動の仕方になるのかな。でも、仮に普通に移動出来たとしても、桃弥はずっと浮いてそうな気がする。そういうのが好きそうだから。
  桃弥は、また窓縁に腰掛ける。
  私はノートを開くと、さっそく訊ねてみた。
『華井さんとはもう、友達になったと言っていいのでしょうか?』
  すると、三拍遅れて、
「……そうだね」
  と返ってきた。何だか浮かない顔をしている。
  どうしたのだろう?  具合でも悪いのかな。
「あっ。今日このまま残れる?  もうちょっと話したいな、と思って」
  桃弥はからっと笑って言う。特に気にしなくてもいいのかな、と判断し、私は『全然大丈夫です。というか、そのつもりでした』と書く。やった、と無邪気に喜ぶ桃弥を見て、自然に頬が緩んだ。

それから、他愛のない話をした。
お互いの好きな食べ物や、音楽について。桃弥は麺類全般が好きで、音楽は、そのとき流行っていたのは何でも聞いていたけど、J-Rockにハマりがちだったらしい。ちょっと意外。
私は甘いものが好きだ。特にチョコレート。好きな曲は〝羽をください〟だと言ったら、桃弥は腹を抱えて笑っていた。
趣味は共通して、寝ることだった。
あと、家族構成も似ている。
お互い一人っ子で、桃弥は母子家庭で私は父子家庭。この話題だけは盛り上がらず、すぐに流れていった。
そのうち、教室には誰もいなくなっていき、桃弥と二人きりになる。
ノートを閉じ、他愛のない話をしながら時々訓練もした。
窓の外が暗くなり始め、吹奏楽部の合奏する音が聞こえてくる。自習にと空けられているこの教室も、もうすぐ閉められるだろう。
私は必要な教科書などを鞄に詰め込んだあと、桃弥にずっと気になっていたことを聞く。
「……これからも、華井さんと仲良くやっていけるでしょうか?」
  友達にはなったらしい?  けど。これでいいのだろうか。
どうしてか、胸がモヤモヤとしてしいた。
  桃弥は、うーんと唸ってから、窓の外を見る。紫色の、不思議な空だった。
「華井さんは、たとえばクラス全員が胡桃の敵になったとしても、味方してくれると思う?」
  突然そんなことを聞かれ、私は戸惑った。
  クラス全員が敵……?
  どうして、そんなことを聞くのだろう。
「分かりません」
  私は、短く答えるしかなかった。すると桃弥は、「そうだよね。そういうもんだよね、みんな。何言ってるんだろ、俺」と自嘲しながら頭を搔く。
  一体、何があったのだろう。
  そういえば、とあることがあって不登校になったと言っていた。
  聞きたいけど、桃弥が言いたくないのなら、聞きたくない。
  ただ、私は桃弥の願いを叶えたい。
「華井さんとそこまで仲良くなれたら、桃弥の未練は解消出来ますか?」
  桃弥は振り返って私を見て、薄く微笑む。
「うん。そうかも知れない」
  そして、空虚を見つめて言った。
「俺は、本当の友達が欲しかったんだと思う。何があっても、信じてくれるような」
  俯いて黙ってしまう桃弥に、私は、「……頑張ってみます」としか言えなかった。
  これから行動で示すしかない。
楽しい学校生活を送るという目標が、より具体的になった――けど、もっと難しくなった気がする。

「明日も会いに来てね、胡桃」
  桃弥はどこか寂しそうに言う。
  教室のドアを挟み、私達は立っていた。
「はい。今度からは桃弥に助けられなくても、数学の問題に答えられるように勉強してきます」
やっぱり真面目だね、と桃弥は楽しそうに笑った。
  大丈夫だ、と確信する。
この笑顔が隣にある限り、私は強くいられる。
「……ちなみに、出ようとするとどうなるんですか?」
  興味本位で聞いてみた。
「なんかね、こう、バンッ!  て見えない壁に当たって遮られる感じ」
  必死に身振り手振りをして説明する桃弥。けど、全然ピンと来ない。
見てみる?  と聞かれたので、こくん、と頷いておく。
「いくよ。――ほら」
桃弥は緊張した面持ちで一歩を踏み出す。
と、普通に教室から出た。
「あれ?」
何故か自分の両手をまじまじと見て、何度も教室を振り返る桃弥。
「俺、今出てるよね?」
「はい」
「どうにもなってないよね?」
「はい」
ぎゅっと抱きつかれた。
けど、当然すり抜けていく。
桃弥は盛大に転け、そのまま大の字になり、「うわーめっちゃ嬉しい!  久しぶりの廊下だー!」と叫んだ。その場をゴロゴロと転がりだし、まるで高級絨毯の上にいるかのように頬を綻ばせる。
初めて見る光景に、冷ややかな目線を送ってしまった。
「……桃弥の勘違いだったということですか?」
「いや、胡桃のおかげだよ。ほら、華井さんと仲良くなってたじゃん。それで、俺の未練解消に一歩近づけて地縛霊となる道から逸れることが出来たんだよ。ありがとう!  胡桃」
  うわーい!  と初めて雪が降り積もるのを見た犬のようにその場を駆け回る。
も、突然、ブォンッと音が鳴った。桃弥は見えない壁に押されたように尻もちをつく。
えっ。と呆けた声を出し、ゆっくりと立ち上がる桃弥。もう一度歩を進めるも、またブォンッと音が鳴り、同じく見えない壁に阻まれた。思いっきり突進するも見事に跳ね返される。
  肩を落として私の方を振り返る。 
  垂れ下がった犬の耳と尻尾が見えた気がした。
「……胡桃。もうちょっとこっち来てみて」
言われた通りに近づくと、桃弥はまた歩いていき、一メートルほど離れたところでブォンッと壁に阻まれる。
「……なるほど。そういうことか」
どうやら桃弥は、私の半径一メートル以内にいるなら、何処へでもいけるらしい。
「では、このまま外に出掛けましょう」
  言うと、「え……でも」と困惑する桃弥。
「?  嫌なんですか?」
「いや、全然。めちゃくちゃ嬉しいよ。でも、その……帰りはまた学校に寄らなくちゃいけないから、そのうち夜になっちゃうかも知れないよ?」
帰り?
あぁ、そうか。
桃弥が私の半径一メール以内にいなくても自由に行動できるところは、教室しかないんだ。
「家に来たら良いじゃないですか。私にしか見えないから、ずっと居ても問題ないですよ」
「えぇっ! それは……」
 桃弥は何故か頬を赤らめた。
「遠慮しなくて良いですよ」
「いや、でも、お風呂とかどうするの?」
  サッと私は胸の辺りを手で隠す。
「……桃弥って、そんなこと考える人なんですね」
「いやいやいや、違うって!  だから聞いてるんじゃん」
  酷く焦り、手を大きく振って弁解する桃弥。その様子が可笑しくて、ふっ、と息を漏らして笑ってしまう。
「うちのお風呂、狭いので。桃弥は扉の向こうにいられると思います」
  言うと、桃弥は少し顔を背けて頭を搔く。
「そっ、か。それなら、胡桃がいいなら、良いんだけども」
「私は、桃弥と一緒に外を歩きたいです」
  ピタ、と桃弥は頭を掻く手を止め、数秒黙ってこちらを見つめてくる。
  そして、
「ありがとう。胡桃」
  と柔らかく笑った。

「門限には気をつけてね」
  校門を出たところで、桃弥が言う。校舎の時計を見ると、十七時を指していた。
「大丈夫ですよ。お父さんは、私がいつ帰って来ようがどうでもいいと思っていますから」
言うと、桃弥は黙ってしまった。
返す言葉に困ってしまったのだろうか。
いつもの帰り道を、桃弥と歩く。
坂道の脇に生い茂る樹。錆れたガードレール。ふかして走っていくトラックの排気ガスの匂い。カラスに荒されたのか、袋から散乱するゴミ。
見慣れた、お世辞にも綺麗とはいえない景色が、今日は何だか鮮やかに色付いて見えた。
不思議だな。
桃弥が隣にいるなら、私は何処へだって行けそうな気がする。
背中に羽が生えたみたいだ、と思った。

「ラーメン!?」
 私が入りたい店を指差すと、桃弥は大きな声を上げた。
 そう。ずっと行きたかったのだ。
私の高校の周りには、何故かラーメン屋が乱立していた。真っすぐ最寄り駅に向かうまでに、五つは見かける程。どれも店の前を通る度に美味しそうな匂いが漂ってきていて、気になってしょうがなかったのだ。同じ高校の人達が店に吸い込まれていくのを見る度、羨ましいと思っていた。
「なかなか、一人で入るのは勇気が出なくて……」
「傍から見ると女の子一人でラーメン啜ってることになるけど、大丈夫?」
「はい。こういうのは、気持ちの問題なので」
話していると、視線を感じてハッとした。
私、今、一人で喋ってるみたいになってた……。
こちらを怪訝な表情で見ている人達がいた。けど、少しだけだった。そんなには目立っていないようだ。ワイヤレスイヤホンで電話してるんじゃない?  という声が聞こえてくる。なるほど……最近はそういうものがあるのか。そういうことにしておこう。
 一度、桃弥の顔を見る。うん、大丈夫。実質ひとりじゃない。そう自分に言い聞かせると、豚骨の香りがする店に入っていった。
 店員さんに、二人席に案内される。丁度良かったね、と桃弥は向かいの席に座ってくれた。
すぐ横の席に、同じ制服を着た人が何人かいた。けど、できるだけ視界に入らないようにして気にしないことにする。どうせ私を知らない人だろうし。
と、思いたかったのけど……聞き覚えのある声が耳に入ってきた。
「あれ、燦美野じゃない?」
 チラッと横目で見る。
同じクラスの……ええっと、たぶん狩南さんがいた。トイレに行くと十中八九鏡の前で談笑している人だ。今日もきっちりと高い位置でポニーテールを作っている。
「えっ、誰?」
「ほら、今朝あんたの手鏡拾ってたじゃん。トイレで」
 狩南さんの隣に座っている知らない女子は、あー!  とやたらと大きな声を上げ、「貞子ね。思い出した」と言った。というか、あのとき狩南さんもいたのか。前髪をなおすのに急いでいたし、俯き過ぎていたせいか気付かなかった。ほんといつもトイレにいるんだな。
「一人で食べに来てんの?」
 狩南さんは、相変わらず甲高い声をこちらに向ける。……別に良いじゃないか。放っておいて欲しい。
「マジで?  めっちゃ面白いじゃん」
 低い、嘲るような笑い声がする。これも聞いたことがあるような……。
「てか西田、昼休みに華井と燦美野となんか話してたよね?」
 狩南さんが、向かいの席に座る男子に話しかける。……西田くんもいたのか。もうひとり男子が座っていたけど、それは知らない人だった。
たままた入ったラーメン屋に二人も同じクラスの人がいるなんて……ツイてないな。
「いや、燦美野とは話してないから」
「へー、そうなんだ。華井と何話してたの?」
「何でもいいだろ、別に」
 西田くんがそっけなく言うと、狩南さんは黙っていた。すると、知らない女子が楽しそうに言う。
「西田って華井のことめっちゃ好きだよね」
「は?  そんなんじゃねーし」
「うっわ。分かりやすー」
 ふと見ると、狩南さんの表情が酷く歪んでいた。ゾッとする。隣にいる幽霊よりも怖い。……そうか。狩南さんは西田くんのことが好きなんだな。でも、西田くんは華井さんのことが好き?  三角関係だ。
華井さんは、昼休みに話していたのを見る限り、西田くんに特別な感情を抱いているようには見えないな。悲しい。けど、私には関係のない話だ。
ズズ、と濃い味の染みた中太麺を啜る。美味しいけど、期待していた程ではないな、と思った。すぐに胃もたれしそうだから、一杯で十分だ。

「美味しかった?」
 外に出ると、桃弥が少し心配そうな顔で覗き込んでくる。
  私は、小さく頷いた。
  それから片手を耳に当てて見せる。
「こうしたら、ワイヤレスイヤホンとやらで電話してるように見えますかね……?」
  おぉ、と桃弥は明るい声を上げた。
「見える、見える」
  ふっと頬が緩んだ。これから外で話すときは、こうしておこう。
「今度、ラーメン屋に行くなら……誰もいなさそうな時間に行きたいです。閉店間際とか」
「それは危ないよ」
 食い気味で言う桃弥。なんか、過保護の親みたいだ。
そう思って、私は息を漏らして笑ってしまう。何で笑っているのか聞かれたけど、いえ、と首を横に振っておいた。
  あぁ、空気が美味しい、と思った。ラーメン屋にいる時よりも、確実に。
「次、タピオカというのを飲んでみたいです」
「まだ行くの?  って、飲んだことなかったんだね……。もうブームは去ったのに」
「うるさいです。桃弥」
あははっ、ごめんね。と桃弥は全く悪びれもせずに両手を合わせた。
数分ほど歩き、噂のタピオカ屋に辿り着く。も、思わず眉を顰めてしまう。
「どうしたの?  胡桃」
「……また、同じ制服を来た人がいます」
「それは仕方ないよ。通学路なんだから」
 桃弥は苦笑し、あっ、と前方を指差した。
「華井さんじゃない?」
 見ると、店の前に出来た数人の列の最後尾に、明るい茶色の巻き髪をした女子がいた。誰か知らない男子といる。近づくと話し声が聞こえてきて、それで確信した。
華井さんだ!
ぱあっと気持ちが明るくなるも、話しかける勇気は出ずに、そのまま静かに華井さん達の後ろに並ぶ。そんな私を、桃弥はとりあえず黙って見守ることにしたようだった。
華井さんは、隣にいる男子を見上げて笑いかけている。
「でぇ~、なんかその子見えてるっぽいの。幽霊?  みたいな。貞子みたいな髪してるからかなぁ」
 ……あれ、これってもしかして、私の話?
「ん? 霊感ある子なの?」
「そうなの~。あっ、もしかしてそれであんなに前髪長くしてるのかなぁ?  見え過ぎると嫌だから、みたいな~。うーん、気になるぅ」
 胸の奥に、少しずつ鉛が流れ込んでくるようだった。
今、ちょっと傷ついてる? 私……。
 貞子みたいって、事実なのに。
 いや……違う。華井さんに、人の目を見るのが怖いなんて言えないからだ。もし、いつか聞かれたら……私は何て答えたらいいんだろう?
 正直に言っても、友達だと言ってくれるだろうか。お父さんの話は、出来ないな。
 ――そもそも、華井さんはどうして私と仲良くしようとしてくれているんだろう?
 幾つもの疑問が、浮かんでは消えていく。
 答え合わせをした方がいいのか、私には分からない。
 頭が重くなり、少しずつ俯いていってしまう。
「あれっ? くるみんだ~!」
 ハッとして顔を上げると、華井さんがこちらを見ていた。いやに心臓が大きく鳴る。
「くるみん?」
「そう~。あ、今ちょうど話してた子だよぉ。もしかして聞いちゃってた?  くるみん」
  私は全力で首を横に振り、「今来たところです」と言った。特に疑われないから、私は相当影が薄いようだ。華井さんは隣にいる人を仲の良い先輩だと紹介した。一個上の二年生らしい。
その人が、何やら微笑んで言う。
「麗葉、女の子の友達が出来そうで嬉しい~って話してたんだよ」
「ちょっとやめてよぉ~、なんか恥ずかしいじゃん~」
華井さんは二年生の人の腕を掴んで笑う。付き合っていてもおかしくない距離感だ。
……さっきのは、そんな話だったのか。一気に高揚感が高まってくる。
私はぎゅっと拳を握り締め、華井さんの顔を見る。
教室では上手く言えなかったから、リベンジだ。
「あ、あの、私で良ければ、お友達になりたい、です……」
  すると、華井さんは数秒固まったあと、ぶわっと満開の桜が咲き誇ったような笑みを浮かべた。私に抱きつき、頬をぴったりとくっつけてくる。
「嬉しい~!  もう友達だよぉ」
  ふんわりとしたフローラルな香りに包まれるなか、私は声にならない声を上げる。
  やった……!  ついに、私にもちゃんと友達が出来た……!
  頭に温もりがあった。隣を見ると、桃弥が優しく目を細めていた。ポンポン、と私の頭を撫でてくれている。
  どうしよう。私、今もの凄く幸せだ。
  こんなに、ここに居ていいんだ、って思ったのは初めてだ。
「良かった。麗葉にも女友達が出来て。こう見えてけっこう繊細なところあるからさ、色々と気にしてるんだよ。だからこれからも仲良くしてやって」
  二年生の人が言うと、えへへ、と華井さんは嬉しそうに笑った。今まで見たなかで一番可愛い笑顔だと思った。
ふと、さっきラーメン屋で会った西田くんを思い出す。
……この先輩には、勝てないな。
そんなことを思っていると、空気を切り裂くような声が聞こえてくる。
「何あれ。完全に引き立て役じゃん」
  ぱっと声のする方を見ると、少し先に、狩南さん達がいた。こちらを見て嘲るように笑い、通り過ぎて行く。西田くんは真顔でどこか違う方向を見ていて、華井さんに話しかける気はないようだった。
  今のって……私のこと、だよね?
  聞き間違いかな。そう思いたいのに。
  ――完全に引き立て役じゃん。
  頭にずっとこびりついて、離れない。
  華井さんを見ると、二年生の人と楽しそうに話していて何も気付いていないようだった。
改めて実感する。
華井さんは、私とは違う世界にいる人だ。
  そんな人が、私と仲良くしてくれる理由って――。
「胡桃?」
 桃弥が眉を下げ、「大丈夫? 顔色悪いけど……」と窺ってくる。私は、こくんと頷いておいた。
 駄目だ。私、今凄く最低な人になっている。
 こんな自分、嫌だ。
 
 駅に着くまでに、何とかタピオカミルクティーを飲み干した。タピオカが予想以上にモチモチとしていて、なかなか噛み砕けなかった。けど、甘くて少量でお腹が満たされる、幸せな飲み物だと思った。

家には既に明かりがついていた。初めてだ、お父さんより遅く帰ってきたのは。私は逸る心臓を深呼吸して落ち着かせつつ、ドアノブに手をかける。出来るだけ音を出さないようにゆっくりと回したけど、ガチャリと鳴ってしまった。
 急いで靴を脱ぎ捨て、自室に行こうと階段に足をかけると、リビングからお父さんが出て来た。
「おかえり」
 ビクッと肩を上げてしまう。震えた声で、「た、ただいま」と返した。
「遅かったな」
「……ごめんなさい」
私は早口に言うと、バタバタと階段を駆け上がった。
自室のドアを閉め、そのままへたり込む。
何なんだろう、本当に。お父さんの考えていることが、分からない。
「私のこと嫌いな癖に……」
小さく呟くと、桃弥が隣に座った。
「さっきの人が胡桃のお父さん?」
はい、と短く答えると、桃弥は何故か唸った。そして、どこか遠くを見つめるようにして言う。
「別に、普通の人に見えるけどなぁ」
  普通の人……。
「お父さんは、この世で私だけが嫌いだと思います」
「……そう、なんだ」
  桃弥はそれ以上何も言わなかった。
しばらくの間、二人で座っていた。月明かりだけの部屋で、静かな時間が流れる。一度、遠くから車のクラクション音が聞こえてきた。
  やがて桃弥が口を開く。
「胡桃は、お父さんとちゃんと話したことあるの?」
  思わず桃弥の顔を見る。けど、暗がりで、どんな表情をしているのかまでは分からなかった。
「どうして話さないといけないんですか?  私を憎んでいる人と、何を話すんですか?」
  聞くと、桃弥は顔を背けて俯いてしまう。
  さっきから何が言いたいんだろう?
  私は立ち上がり、ベッドに鞄を放り投げた。それから部屋の明かりをつけ、衣装ケースから中学のときの体操服を取り出す。部屋着だ。これ以上床に座っていると、制服のスカートが皺になってしまう。
「……あの、今から着替えるので、あっち向いてて貰ってもいいですか?」
  言うと、桃弥は慌ててドアの向こうにすり抜けていった。けど、半径一メートル以上は離れられないせいで見えない壁に押されてすっ転び、下半身だけが部屋に残った。軽くホラーだ。
「うつ伏せになってるから大丈夫。絶対見えないよ」
「あっち向くだけで良かったんですけど……」
  桃弥はそのまま動こうとしなかった。私は気にせず制服を脱ぎ始める。
  シャツのボタンを外していると、桃弥が静かに言う。
「さっき、心配しているように見えたよ。お父さん」
  ……心配?  まさか。
「嘘つかないでください」
「本当だよ。胡桃が謝ったときも、悲しそうな顔してた」
  手が止まる。夜の冷たい空気が肌を撫でていく。
「そんな訳ないじゃないですか」
「じゃあ、ちゃんと自分の目で見て確かめてみたら?」
  唇を噛み締め、シャツを脱いで桃弥に向かって投げつける。
「いい加減にしてください。何なんですか!?  さっきから……」
「ご、ごめんっ!  怒らせるつもりじゃ――」
  桃弥が起き上がっていた。
  上半身が下着だけになっている私を見て、とんでもなく高い叫び声を上げ、その場でダンゴムシみたいに丸まってしまった。
  何度も謝られる。
そこまで大袈裟なリアクションをされた私は逆に冷静になっていた。
とりあえず着替え終わり、部屋の中央、ベッド横で向かい合って座る。
「いきなり怒ってすみません」
「いや、俺もなんか、ごめんなさい」
  まだ顔を赤らめている桃弥だった。
  私は、出来るだけ柔らかい口調になるように意識し、桃弥に聞く。
「何が言いたかったのですか?」
  桃弥は私の顔を見ようとしなかった。親に説教されている子供みたいにずっと下を向いている。
「胡桃は、その……何か誤解していることもあるんじゃないかな、って」
「……誤解とは、なんですか?」
「ほら、あの、幼い頃の記憶だから、もしかしたら――」
  途中で口を噤む桃弥。
  私は、微かに手を震わせていた。
「じゃあ、どうして私は今、人の目を見るのが怖くなってるんですか?  あれは、あのお父さんの目は、ただの悪夢だったって言うんですか?  何も、なにも知らない癖に」
  そこで言葉を切る。
こんなこと、桃弥に言っても仕方ない。
  涙が零れそうになって、ぐっと堪えた。
「そう、だよね。ごめんね。辛いこと思い出させて」
  桃弥は苦しそうな声で言う。それから、数秒ほど空いたのち、また口を開いた。
「俺、幽霊になって一年目に、未練解消出来たと思ってたって言ったよね」
  私は静かに頷いた。
「本当に、頑張って、色んな話をしたんだ。母さんとか、もう会いたくないって思った友達とかと……。そしたら、思いの行き違いだったり、ただの勘違いだったりが沢山あったよ」
  何も言わず、桃弥の話に耳を傾ける。
「幽霊になって現れるとさ、みんな泣きながら謝ってくるんだ。呪われると思ったのかな。本当はこんなつもりじゃなかったの、あのとき本当はこう思ってたんだ、とか。それで、俺も一気に本音をぶつけて、スッキリして……」
  桃弥は、一度唇を結ぶと、こちらを真っ直ぐに見る。
  それから薄く微笑んだ。
「なんで、生きてるときに出来なかったんだろう、って思った」
  私は、黙って俯いてしまった。そんな私に、桃弥は優しく言う。
「人と向き合うのって、難しいよね。……胡桃は後悔のないようにしてね」
俺の分まで。
そう、聞こえた気がした。

お父さんが自室のドアを閉める音を聞いてから、お風呂に向かう。夕飯はラーメンとタピオカミルクティーで十分だった。ちなみに、いつもはスーパーの弁当か即席麺で済ましている。毎朝、机の上に千円が置いてあって、それで買っているのだ。お父さんにもっとお小遣いが欲しいかと聞かれこともあったけど、何だか怖くて断っていた。千円でも貰いすぎだと思っているから。
シャワーを浴びるだけなら良いけど、浴槽に浸かるとドアの向こうにいる桃弥がすり抜けてきてしまうとみて、念の為に浸からないことにした。体を拭いている間も、服を着ている間も、桃弥はずっと床で丸まっていた。
  髪を乾かしてから、数学の勉強をする。
  さっきのお詫びに、と桃弥は教えてくれた。どうやら理系だったらしい。なんとなく文系だと思っていたから意外だ。桃弥の説明は、凄く分かり易かった。今まで何時間考えても理解出来なかった難問が、なんと二時間ほどで全て理解出来たのだ。これからは先生に当てられても安心だ、と私はほっこりしてベッドに入る。
  桃弥も隣で横になっていた。その後ろの窓から見える月は、もうすぐ完全な丸になりそうだった。雲がなくて、明日はよく晴れそうだ。
  ふと気が付く。
朝が来るのが、楽しみになっている自分に。
「……桃弥。今日は、色々とありがとうございました」
  すぐ近くに、桃弥の顔があった。
  いつかこの距離でも、目を合わせられるようになるだろうか。
「こちらこそ、本当にありがとう。ここ数年、ずっと退屈だったからさ。凄く楽しい一日だったよ」
  私の顔を見て、満面の笑みになる桃弥。バッと思わず背中を向けてしまう。逸る心臓の音が聞こえていませんように。
  しばらくの間、目を瞑る。けど、あんまり眠気がこなくて、私はそのままの態勢で桃弥に話しかける。
「幽霊って、眠るんですか?」
「いや、全く眠くならないよ」
  即答だった。ずっと起きていたらしい。
「ただでさえ孤独なのに、ずうっと色んなことを考えてしまうんだ。……もう、慣れたけど。本当に早く成仏したいよ」
  切実そうな声で、余計に胸が締め付けられる。
「明日からも、頑張ります。それから、夜も出来るだけ起きるようにします」
「いや、早く寝ていいよ。俺のことは気にしないで」
  私は、静かに桃弥の方に向き直り、ゆっくりと口を開く。
「少しだけ私の話を聞いてくれませんか」
  うん、いいよ、とだけ桃弥は言った。
  何だか無性に自分のことを語りたくなってしまう。
  桃弥が生きていても、同じような気持ちになったのかな。
「私は、凄く自己中だと思います。だって、お母さんが私を庇って事故に遭ったって聞いても、その瞬間のことは思い出せないのに、その後、病院でお父さんに睨まれたのは、ちゃんと覚えているから……。それは、ぜんぶ罪悪感からなんじゃないか、って思うんです。私のせいでお母さんが亡くなった瞬間のことは気持ちが耐えられなくなるから忘れて……でも、お父さんに責められたのを覚えていることで、なんとなく罪滅ぼしした気になっている……ぜんぶ、ぜんぶ自分の為に……。なのに、お父さんに、ちゃんと、傍に居て欲しかったって……」
  いつの間にか眠りに落ちていて、どこまで話したのか、翌朝は覚えていなかった。
  ただ、目が覚めて一番に飛び込んで来た桃弥の、赤く目を腫らして微笑む顔が、授業中も頭から離れなかった。
 先生の話はそっちのけで、窓から雲一つない青空を見上げて思う。
 もし、私が今死んでしまったら……確実に未練の内容はお父さんに関することになるだろう。どうすれば解消出来るのかは分からないけど、何か話をしてみないことには始まらないのだと思う。
 桃弥の言葉を思い出す。
――なんで、生きてるときに出来なかったんだろう、って思った。
――人と向き合うのって、難しいよね。……胡桃は後悔のないようにしてね。
 ぎゅっとシャーペンを握り締めると、次のお昼休みに、桃弥に相談したいことを書き出した。
 いつかお父さんと話をする練習……というのもあるけれど、気になっていたのに午前中は何も出来なかった、という反省も込めて。
『華井さんに、どうして私と友達になってくれたのかを聞いてみたいです』
 教室が弁当の匂いで充満するなか、そう書いたノートを桃弥に見せる。相変わらず窓縁に腰掛けていた。ちなみに華井さんはトイレに行っているのか今は席に居ない。
 華井さんとは今朝も挨拶を交わし、休み時間にも他愛ない話をする仲になったものの……どうしても狩南さんの言葉が心に引っかかていた。
 ――何あれ。完全に引き立て役じゃん。
 華井さんが私に友達だと言って抱きついたのを見て、放たれた言葉。
 気にしなくていい、華井さんのことをそんな風に見るのは最低だ、と自分に言い聞かせてみるも、既に刺さった棘は抜けなくて。放っておくと悪化しそうだし、自分ではどうにも出来ないなら華井さんに何とかして貰うしかない、と思う。
「聞いてみようよ。俺も気になるし」
 桃弥はにこっと笑って言う。
 私は、一度ノートに書く手を止め、また動かした。
『普通に聞いても可笑しくないでしょうか』
「気にしすぎだって!」
 即ツッコまれた。
『分かっています。でも、なんというかこう、人と深い話をしたことがなくて……不安です』
 書くと、桃弥は唸る。それから、妙に真剣な顔をして聞いてきた。
「胡桃は、華井さんの言うことを信じる?」
 どうしてそんなことを聞くんだろう? と思いつつ、迷わずにシャーペンを走らせる。
『はい。友達ですから』
 桃弥は満面の笑みになった。ずっと欲しかった玩具を買って貰った子供のようだった。
「なら、大丈夫だよ。何も心配ない」
 すっと心が軽くなる。
 この笑顔で、私はいつも勇気が出る。
 華井さんが教室に入ってきた。両手を花柄のハンカチで拭いてポケットにしまい、席に着く。私は机の上でぎゅっと拳を握り締め、思い切って口を開いた。
「あ、あのっ」
「ん? なぁに? くるみん」
 ぱっと振り返った華井さんの顔を見て、一度唾を飲み込んだ。そして、勢いのままお誘いする。
「一緒に食べませんか? その……外で」
 教室だと、また、前みたいに一気に視線が集まってくることがあるかも知れないから。出来るだけ、落ち着いて二人で話せるところに行きたかった。
いいよぉ、と華井さんは笑顔を咲かせてくれた。
二人で昼食を持って廊下に出る。
 私から言い出したものの……校庭のベンチくらいしか思いつかないなぁ、と玄関に向かって歩いていると、華井さんが「あっ、そうだ~!」と両手を叩く。
  思わず華井さんの顔を見ると、パチッと綺麗なウインクをされた。
「くるみんに良いこと教えてあげるぅ」
  
  華井さんについていくと、屋上の扉の前まで来た。でも、当然閉まっているし、頑丈に鎖まで巻き付けられている。
  すると華井さんは何だか含み笑いをし、両扉の片方のドアノブに手を掛ける。
「これぇ、実は開いてるんだよ~」
  言った通り、ガチャッと開く。鎖が付いているので半分くらいしか開けられないけど、十分人の通れる程だった。
誰が開けたんだろうねぇ、と華井さんは鎖の下をくぐって行く。
私もそれに倣い、扉の向こうへと一歩を踏み出した。

ぶわっ、と風が吹いてきて髪が後ろに流れていく。私はなんとか前髪だけ乱れさせないように手で押さえつつ、空を見上げる。
どこまでも澄み切った青が広がっていた。
教室の窓から見るよりも、ずっと気持ちが良い。
「今日はよく晴れてるねぇ~」
  華井さんはスキップをしてフェンスまで行く。私も小走りでついて行った。
  眼下の街並みは、太陽の光を受けて鮮やかに色付いている。
  それを背に、二人でフェンスにもたれかかって座る。桃弥は、私たちの正面に三角座りして楽しそうにニコニコしていた。
「最近あの先輩に教えて貰ったんだ~。ほら、昨日タピオカ店に並んでたときにいた人ぉ」
「あぁ、そうなんですね」
 華井さんが弁当箱を開けると、それはもう色とりどりな具が並んでいた。そのなかから
ひょいとタコさんウインナーを口に入れる。じっと見つめてしまっていたからか、華井さんが租借しながらこちらを向いた。
「くるみん、それだけぇ? なんかダイエットでもしてるのぉ?」
私はコンビニで買ったおにぎり一つを手に、少し焦る。
「えっと、まぁ、そんな感じです」
 家庭の事情とは言いにくいので適当に濁してしまった。華井さんは、「え~でも無理しちゃいけないんだよぉ」と卵焼きをひとつ差し出してくれる。でも、断ってしまった。人生初のあ~んを体験出来たかもしれないのに。
 おにぎり一つも入らないんじゃないかというくらい緊張していたけど、そのうち、私は口を開く。
「あの、実は……華井さんに聞いてみたいことがあって」
「んん? 何なにぃ?」
顔を寄せてくる華井さんの方を向いたまま、私は長い前髪に隠れた目をぎゅうっと瞑る。
「わ、私と……その、どうして友達になりたいと思ってくれたんですか?」
 すると、や~なにその可愛い質問~と華井さんは私に抱きついてきた。相変わらず良い匂いがする。
 華井さんは数秒ほど顎に手を当てて唸る。
 それから、
「めちゃくちゃ真面目な話をするとぉ、私のこと嫌ってるぽくなかったからってのもあるんだけどぉ~。私的にはぁ、貫いてる感じがするところが好きなんだよねぇ」
 と言った。
貫いてる感じがする……?
 疑問に思っていると、華井さんは人さし指を私に向けた。
「その前髪とか!」
 ドキッと心臓が跳ねる。
「なんか事情があると思うんだけど~。ほら、くるみんって霊感あるっぽいしぃ、見え過ぎると嫌だから、とか。でも、誰に何と言われようと気にしない!  って感じが出てて良いなぁって思ってたんだ~」
  胃が重くなっていく。
  私は、そんな理由じゃない……もっと、後ろ向きな事情がある。
  貫いてるんじゃなくて、諦めているだけなのに。
  そんな私を置いて、華井さんは笑顔で話し続ける。
「私もなんか~、色々言われるけど、全然気にしないようにしてるんだ~。ほら、しゃべり方変とか言われてもぉ、それって変えられないじゃん?  だから私は、私のこと好きでいてくれる人とだけ一緒に居よ~!  ってこのままのスタイルを貫いてるのぉ。だって皆に好かれようと自分を変えるのって面倒くさいじゃん?」
 やっぱり、私とは違う人間だな、と思う。
  どこまでも前向きで、眩しい。
  ……私は……。
  また、自然と俯いていっていた。でも、無理やり顔を上げる。
「あの、華井さん。私は……私は、幽霊なんかより、見えると嫌なものがあります」
  華井さんは、口を噤んでこちらを見ていた。
  一筋の汗が背中を伝っていく。
「人の目が、怖いんです」
  声が震える。
  息が上手く吸えなかった。
  それでも、華井さんの顔を見て、言いたいことを言う。
「私は……幼い頃、その、色々とあって、いつの間にか、人の目が見れなくなっていました。だからこうして、前髪を長くすることで、壁を作っているんです。……それでも、多くの視線を感じたら……辛くなったりします」
  初めて、桃弥以外の人に、生きている人に、弱音を吐いた。
「私は、何もかも諦めている人間です」
 そこで、俯いてしまう。
 これで嫌われても、仕方ないな。
 すると華井さんは、ふ~ん、と軽い声を出した。
「そっかぁ。それは確かに、辛いねぇ」
 思わず華井さんを見る。
 何だか眉を下げて笑っていた。
「私もまぁ、諦めてるっちゃ諦めてるけどねぇ。さっきぃ、貫いてるとかカッコよく言っちゃったけど~、ただの開き直りだよねぇ」
  あはは、と明るい声を上げる。
「私達ってぇ、なんか凄い似てる~?」
もう、目頭が限界だった。
涙が零れ、みっともなく口を歪ませてしまう。
「えぇ~!  ごめんね、私と似てるなんて嫌だよねぇ」
 華井さんは慌てて私の腕を掴むけど、私は全力で首を横に振った。
 それから、しっかりと目を見て笑う。
「嬉しい、です。私、やっぱり華井さんが好きです」
 華井さんが優しく目を細める。
 いつか、いや、近いうちに、長い前髪を切ってしまいたい。
 そう、強く思った。

前に座る桃弥は、「よかったね、胡桃」と鼻を啜っていた。私は、華井さんに不審がられない程度に小さく頷いておく。
 桃弥の言うとおり、気にしすぎだった。
 どう思っているのか聞いてみて、言いたかったことを打ち明けて。
 それだけで良かったんだ。
 ――お父さんとも、私は、逃げずに向き合えるだろうか。
 そうすることが正解なのかは分らない。
 けど……。
 ――心配しているように見えたよ。お父さん。
――胡桃が謝ったときも、悲しそうな顔してた。
 桃弥は、嘘を吐かないから。
今のお父さんの気持ちを知りたい。そう思うのは、間違っていない筈だ。
「……あっ」
突然、桃弥が驚きの声を上げた。
見ると、桃弥の体がより透けてきていた。桃弥の後ろにある数メートル先の扉が、割とはっきり見えるくらい。
「未練が、確実に解消されていっているんだ」
 自分の体をまじまじと見て、小さく呟く桃弥。
 それから、私に満面の笑みを向ける。うっすらと涙が浮かんでいた。
「もうすぐ成仏出来るのかも。ありがとう、胡桃」
ズキッ。と胸の奥が痛んだ。
 ……あれ? なんでだろう。
 今、嬉しい、筈なのにな。

「でぇ~、先輩ってなんか変なとこ抜けてるのぉ。基本的に何でも出来る人なんだけどね~。この前なんかぁ――」
 授業開始十分前になり、二人で昼食を持って出口へ向かう。いつの間にか恋愛の話になり、私は何も話せなくて華井さんの話を聞くばかりだった。でも、ずっと頬を綻ばせている華井さんが可愛いからそれで良い、と思った。
  扉を開けようとして、華井さんは動きを止めた。
「どうかしたのですか?」
  聞くと、華井さんは不安げな表情でこちらを見る。
「……なんか足音が聞こえるのぉ。ちょっと隠れた方がいいかもぉ、くるみん」
私の手を取り、扉のついている壁の横に行った。何だかよく分からないまま身を潜めることになる。
「あのねぇ、たまになんか~怖い先輩がここ使ってるって聞い」
 誰かが入ってきて、華井さんはパッと両手を口に当てた。それから、壁から少し顔を出すと、また動きを止める。
「……ん?」
  華井さんは、ゆっくりと振り返って私に息を潜めて言う。
「あれ、狩南と西田くんだよねぇ?」
  私も壁からそうっと覗いて見る。
  ……本当だ。
二人は屋上の真ん中で向き合って立っている。狩南さんは、何だかずっと俯いて大人しくしていた。初めて見る様子だった。
「絶対、告白しようとしてるじゃん~。超気まずいぃ」
 眉を顰めて抱きついてくる華井さん。……た、確かにそんな雰囲気が漂っている。どうしよう、これは絶対に狩南さんは見られたくないよね……特に華井さんには。だって、この間ラーメン屋で見た様子だと、狩南さんが好きな西田くんは華井さんのことが好きで……あっ、胃が痛くなってきた。
  でも、とりあえず今は身を潜め続けるしかない。あとは全力で何も見なかったことにしておこう。ごめんなさい、狩南さん。
西田くんは、頭を搔きながら「ごめん、遅れて。なかなか先生の話終わんなくて……」と弁解していた。どうやら成績のことで釘を刺されていたらしい。それで昼休み終了間際に来ることになったのか。
「で、話って何?」
  西田くんが聞くと、狩南さんはピクッと肩を上げた。
  それから、目を瞑って震えた声で言う。
「……ずっと前から、好きでした。付き合ってください」
  や、やっぱり告白だった……。華井さんも私も息を呑む。
  すると、西田くんは「ごめん」と短く言った。
「俺、今好きな人いるから」
  迷いなく、真っすぐ狩南さんを見て言う。思ったよりもはっきりした物言いだった。狩南さんは、「……あ、そう、なんだ」と肩を落とし、余計に俯いてしまう。でも、しばらく沈黙が流れたあと、ゆっくりと顔を上げた。
「それってさ……華井?」
  一段と低くなった声に、背筋が凍りつく。
「うん」
  西田くんが答えた途端、ガコッ、と足元に何か落ちる音がする。
あっ。と華井さんが両手で口を押さえる。弁当箱を落としてしまったのだ。
  な、なんてタイミングで……!  私も華井さんも反射的に屈んで弁当箱を拾う。けど、やっぱり無駄な行動だったようで。
「……は?」
  頭上から、狩南さんの針で刺すような声がする。
  私と華井さんは、蹲ったまま動けなくなってしまった。天敵に見つかった小動物のような気分だ。死んだふりとかした方が良いのかも知れない。
「なんで居んの?」
  ごめんなさい、とだけ小さく言って顔を上げられないでいる私の代わりに、華井さんは狩南さんを見上げて答えてくれる。
「ごめん……そのぉ、くるみんとお昼ご飯食べててぇ~、見る気はなかったのぉ」それから、三拍空けてまた口を開く。「あっ、でもその、私も好きな人いるからぁ~……先輩に」
  重たい空気が流れる。
  私はずっと地面を見ていた。
「だって。西田」
  狩南さんが言うと、西田くんは「……分かった」と沈んだ声を出す。
  そこでチャイムが鳴る。
  一人の去っていく靴音が聞こえた。
「西田!」
「ごめん。一人にして」
  静かに、屋上の扉が閉められた。
  そのとき、私は、今まで生きてきて一番痛い視線を感じた。

放課後、私のシャーペンが全部ゴミ箱に捨てられていた。

ホームルームが終わり、華井さんと笑顔で手を振って別れたあとだった。用を足しに行ってから、桃弥にどこに寄って帰ろうか聞いてみようとノートを出し、筆箱を開けた時、すぐに異変に気付く。
なんか少ないな、と思った。私の筆箱のなかはいつもパンパンに詰まっている。何かあったときの為にとシャーペンが五本も入っているから。何かあったときはないんだけれども。そのシャーペンが、全部ないことに気付くのに、そう時間はか掛からなかった。
「……狩南さんがゴミ箱に捨ててるのを見たよ。さっき、胡桃がトイレに行ってる隙に」
 いつの間にか隣に立っていた桃弥が、聞いたことないくらい低い声で言う。
 教室の入り口付近にあるゴミ箱を見に行くと、私のシャーペンが三本あった。少し漁ってみるともう一本見つかり、お気に入りのお洒落なデザインのは底の方にあった。
 やっぱり、と思う。
 私は何にも、変わっていないな。
 水道で、汚れて臭くなった手とシャーペンを洗う。こういうのは慣れている。中学のときは教科書が全部捨てられていたから、それに比べたらマシだ。全然、大したことない。
 学校の水ってやたらと冷たいんだよな。
 そう思っていると、桃弥が後ろから私の肩を両手で抱いた。
「……酷いよ。こんなの。俺が幽霊じゃなかったら止められたのに」
 耳元で聞こえる、消え入りそうな声に。 
 頬が緩んでいった。
 そうだった。今はもう、一人じゃないんだ。

 とりあえず今日は真っ直ぐ帰ろう、と玄関に向かう。どこかに寄っていく気分にはなれなかった。既に部活動が始まっていて、廊下も階段も人通りが少ない。
「華井さんに当たると嫉妬だって丸わかりだから、胡桃をターゲットにしてるんだよ。……許せない」
 隣で歩く桃弥は、ずっと怒っていた。私は、俯いて苦笑する。
「でも、あのくらいの嫌がらせで狩南さんの気が済むなら、全然、耐えます。実際、狩南さんが見られたくないところを見てしまったのは事実ですし。悪いとは思っているので」
たまたま居合わせただけだけど……。
それに、何となく分かる。こういう場合、もう一度謝ったところで何も変わらないんだ。下手な行動をしたらむしろ悪化するに決まってる。黙って、相手の気が済むか飽きてくれるまで耐えるのが吉だ。
「胡桃。それは違うよ」
  桃弥が強い口調で言う。
  見ると、悲しそうな顔をしていた。
「もっと自分を大事にしてよ。お願い」
 じっと見つめられ、私は目を逸らしてまう。思わず泣きそうになって、下唇を噛みしめ、こくんと小さく頷いておいた。
  今更、どうしたら良いのか分らない。
ずっと、諦めて、耐えることしかしてこなかったから。

 外はまだ明るい。背中側からは柔らかくて暖かい風が吹いていた。ちょうど過ごしやすい季節だけど、あと一月もすれば終わってしまう。
 それまでに、私はどのくらい桃弥の未練を解消出来るのだろう。華井さんとは、前よりも仲が深まってきたと思うけど……。成仏するには、あと、何をすれば良いのかは分らない。
今のままで、良いのかどうかも。
「あの、桃弥」
 掠れた声を出してしまった。
桃弥は、ん? と真面目な顔で覗き込んでくる。
「……狩南さんのことは、その、華井さんに言った方が良いのでしょうか。友達だったら……相談するのが普通ですか?」
 正直にいうと、言いたくない。
 私は全然耐えられるけど、華井さんはきっと、心配してくれるから。屋上で食べようって言ったからだ、と自分を責めるかも知れない。そんなのは嫌だ。
 桃弥は、私の顔を見て暫く唸った。
「友達だから何でも言わなきゃいけない、なんて決まりはないよ。胡桃のしたいようにすれば良いと思う。ただ……華井さんは言って欲しいと思ってるんじゃないかな」
「……そう、ですか」
 私はそのまま俯いてしまった。
 心の奥にかかる霧が、どんどん濃くなっていく。
「私には、正解が分りません。いつも悩んで暗くなって、結局、間違った選択をしている気がします」
 上手く生きることが出来ない。
 深い溜息を吐くと、桃弥は凛とした声で言った。
「じゃあ、俺や華井さんとの今の関係も、間違っていると思う?」
 顔を上げて見ると、自信のある笑みを浮かべている桃弥がいた。
 思わず頬が緩む。
「そんなことない、です。少しずつ、正しい選択が出来てきているのは、桃弥のお陰です」
 隣で、一歩前に踏み出す勇気をくれるから。
 すると、「俺は何もしていないよ」と少し眉を下げた。
「全部、胡桃が行動した結果だよ。……それに、今までの胡桃も責めないで欲しい。間違ったことをしていたとしても、人の目を見るのが怖いっていう事情があったんだから。今は、変わろうとしているし」
「……。そう、なんですかね」
  桃弥の優しさが沁みる。けど、納得はいかなかった。
  どんな事情があろうと、上手く出来てこなかったのには変わりないから。
  それに――。
「事情があったとしても、人を苛めるのは理解出来ません」
  ストレス発散したいなら、一人で壁にでも当たっててくれ、と思う。
「……俺もそう思うよ」
  桃弥が俯いて言った。
  一瞬、誰が言ったのか分からないくらい、暗い声だった。
「幽霊になってから、何度、苛めてきた奴を呪おうと思ったか分らない」
  驚いて顔を見る。
「桃弥も、苛められてたんですか……?」
「うん……けっこう、ずっとね」
  初めて、過去について詳しく話してくれた。
桃弥が小学五年生のとき、学年で一番可愛い女の子に告白されて、その子のことが好きだった同じクラスの不良に目をつけられたらしい。女の子と喋らないようにしても、ずっと苛めは続き、中学に上がっても止まらなかった。それで桃弥は、ずっと孤立しがちだった。
「男でも粘着質な奴はいるからね。高校はわざと地元から離れたところにして、やり直そうと思ったんだけど……結局、そいつのせいで上手くいかなかったなぁ」
  いや、と桃弥はすぐに自嘲する。
「……俺がもっと……ちゃんと、してれば……」
  それ以上、言葉は続かなかった。
  胸がどうしよもなく痛んで、苦しい。
「桃弥は絶対に悪くありません。高校で何があったのかは、知らないですけど……。絶対にそうです」
  言うと、ふっ、と柔らかい表情を向けてくれた。
いつの間にか、最寄り駅が近づいてきていた。続く道の先はどこまでもオレンジの光に照らされていて、私の影だけがすうっと伸びている。
「人を呪うには、悪霊になるしかないんだ」
 桃弥は静かに言う。
「悪霊……」
「本当に恐ろしい姿だよ。見る度、俺は絶対になりたくないって……呪わないって誓ってきた。噂によると、それでスッキリして成仏出来たとしても、人間には生まれ変われないらしいからね」
どうして、桃弥はそれで五年間も、苦しまないといけないんだろう? 桃弥を苛めた人は、今ものうのうと生きているのに。その人さえいなければ、桃弥は今も生きていたかも知れないのに。
理不尽だ。
全部、間違っている。
私の今のこの状況も。
  両拳を握りしめ、ぴた、と足を止めると、桃弥を真っ直ぐに見る。
「私、今凄く発声練習がしたいです」
  三拍遅れ、「……え?」と聞き返された。
「桃弥の代わりに、というか……私が、狩南さんに立ち向かってみたい、と思いました。今までは、苛めてくる人に何か言ったら悪化すると思って黙ってきましたけど……そういえば、何か言ったことって、一度もなかったな、と」
 それに、とすぐに付け足す。
「余計に悪化してしまっても……華井さんは、きっと私の味方をしてくれます。それが証明できたら、確実に、本当の友達が欲しかったという桃弥の未練は解消出来ると思うんです」
 我ながら良い案だ、と思う。
  おぉ、と桃弥は明るい声を上げた。
「それで発声練習?」
「はい。狩南さんを前にして弱々しい声になっても、舐められるだけだと思うので」
  桃弥は柔らかく笑い、そうだね、と言った。
 この笑顔を、誰にも何にも崩させたくない。私が、桃弥の未練を完全に解消して、少しでも早く成仏出来るように――……。
 ズキッ、と胸が痛んだ。
 まただ。
 何なんだろう? 思わず首を傾げる。
桃弥の体が薄くなったときも、同じ感覚がした。
  よく分らないモヤモヤが取れないままでいると、桃弥に「どうしたの?」と心配されたから、慌てて首を横に振る。それから、「発声練習するのに良い場所があるよ」と言う桃弥に、案内して貰うことにした。
 着いたのは、学校から二駅先にある河川敷だった。
「よしっ、胡桃!」 
「は、はい!」
 ビッ、と桃弥は真っ赤な夕日を指差す。
「思う存分叫べ!」
 何だかやけに楽しそうだった。こういうのがやりたかった、という顔をしていた。
 私は、ぐっと唾を飲み込み、「あ、あぁ~~……」と息を吐き出す。
 だ、駄目だ……。確かに、大声を出すには適しているけど……。チラッ、と土手の道の方を確認してしまう。けっこう人が通って行くんだよなぁ……。
「もっと腹から声出して!」
「は、はいっ」
 若干裏返った声で返事してしまい、また、弱々しい声を出した。腹に手を当ててみるも、全然動いていなかった。呼吸方法が悪いのかな……いや、というよりも……。
「あの夕日に向かって今の気持ちをぶつけるんだ!」
「あ、あの……恥ずかしいです……」
 桃弥は真顔でこちらを見て、すっと腕を下ろす。
 慌てて弁解するしかなかった。
「え、えっと……そういえば、人前で大声出したこととか、なかったかもなぁ~……と」
 桃弥は、眉を下げて微笑む。
「だから、これから出せるようにするんでしょ?」
 そうですよね、と小さな声で返事するのが精一杯だった。それから、地面と睨めっこしたまま、「思うんですけど、大声ってなんか、私には出せないんじゃないかと……こう、周囲の視線が全部こちらに向けられるんじゃないかって不安で……もう、喉が狭くなっちゃってるんじゃ」とぼやく。
 ふと横を見ると、桃弥がいなかった。
 あれ? と反対方向を見た。
次の瞬間――
「うわあっ!!!!」
 桃弥が、私の腹から顔を出してきた。
「ぎゃあーーっ!!」
尋常じゃないくらい心臓が跳ね、尻もちをつく。
あははははっ、と桃弥はひとしきり笑ってから顔の前で手を合わせる。
「ごめん、ごめん。でも、凄い大きな声出たでしょ?」
「出ましたけど……」
 くっふふ、と桃弥は口に腕を当てて笑い続けていた。余程、私のリアクションが面白かったらしい。……イタズラ好きなのだろうか。本当に子供だな。
「ま、まぁでも、身体的に出せない訳じゃない、って分かって安心しました」
「そりゃそうだよ」
 桃弥は尻もちをついたままの私の前に腰を下ろし、無邪気に言う。
「胡桃は、ちょっと勇気を出せば何でも出来るんだから」
 胸の奥が、すぐに温まっていく。ネガティブな感情が全部吹き飛んで、本当に、何でも出来る気がしてくる。
 ……不思議だ。
桃弥は、特別な力を持っている。
「あっ」
 思わず呆けた声を出してしまった。
 ずっと、見れているのだ。
 桃弥の目を。
 私は、長い前髪を分けてみる。けど、すぐに逸らしてしまった。そのまま、慌てて前髪を整えていると、「胡桃、今、目を見れてた?」と桃弥が優しく問いかけてくれる。
こくん、と頷いた。
「大丈夫だよ」
 あぁ、また、魔法の声がする。
「もう一回、こっちを見てみて」
 ゆっくりと桃弥の方を向く。前髪を分け、一度ぎゅっと目を瞑ってから、ぱっと開いた。
 桃弥は、くりっとした垂れ気味な目を細めて嬉しそうにしていた。
 一、二、三……十秒が経つ。
 全然、怖くない。大丈夫だ。そう思った。
けど……そのうち。
お父さんの、泣きながら睨んでくる目が、脳裏を支配する。
顔に両手を当て、俯いた。
涙がとめどなく溢れてくる。
「胡桃……っ」
 嗚咽し、私は言葉を吐き出した。
「どうして、いつまでも、あの時のことを忘れられないんでしょうか……。お父さんの目と、他の人の目は、全然違うのに……分かってるのに……。人の目を、見ただけで思い出して……凄く失礼ですよね」
 息が上手く吸えなかった。
「私、は、一体どれだけの時間を、無駄にすれば気が済むんでしょうか……!」
 急に吐き気が込み上げてきて、胸を押さえて咳き込んだ。
 桃弥は、そっと抱き締めてくれる。
「大丈夫。大丈夫だよ、胡桃。胡桃は、確実に前に進めているから。その証拠に、前よりもっと長い時間、目を合わせられるようになったじゃん。だから大丈夫。俺が保証する」
 桃弥が、背中をさすってくれているのが分かった。
 何故だか分らないけど、確かな温もりを感じた。
「今からもっとよくしていけるよ。胡桃には、その力がある。俺はそう思う」
 鼻水をすすり、がんばりばず、と言った。
 夕陽に照らされた桃弥の笑顔は、何よりも美しい、と思った。
 それから、発声練習を再開する。
本当に、桃弥には、恩返ししてもし足りない。

 その後、発声練習はヒートアップしていった。桃弥が「好きな食べ物への思いを叫ぶんだ!」などと元気よく言うので、「チョコレートケーキ! この世で一番頬が落ちる!」「最近食べてないから食べたい!」などと夕日に向かって叫んでいた。傍からみると食欲が湧き過ぎて頭がおかしくなった女子高生だ。
「ママ~、あの人なにしてるの?」
「しっ。見ちゃ駄目!」
 ……ほら。河川敷に遊びに来ていた親子にも変な目で見られている。
 母親は、子供の手を引っ張って行って更に私から距離を取り、ボール遊びを再開した。
「……。桃弥、ちょっと休んでも良いですか」
「うん。よく頑張ったね」
 私達は、その場に座り込んだ。
 夕日を眺めながら、息を整える。
「……これで、狩南さんを前にしても、怖じけずに何か言えそうです」
 おっ、と桃弥は明るい声を上げ、拳を突き出してきた。私も笑顔で拳を出し、合わせる。
 今までは、やられっぱなしでも良い、と思っていた。私なんだから、仕方ないと。当たり前のように、諦めていた。
 けど、隣に桃弥がいるだけで。
変わろうとする勇気を持てるんだ。
二人で、暫くの間ぼーっと遠くの方を見ていた。さっきの親子が、ずっと仲睦まじく遊んでいる。……いいな。桃弥も、同じく見ているんだろうな、と思った。
すると、その親子に、一人の男が近づいていった。ひと目で鳶職と分かる格好をしている。その男に、パパ! と子供が駆け寄って行った。仕事場から直接やって来たのだろうか。母親もだけど、随分と若いなぁ。
子供を抱き締め、愛しそうに頭を撫でている。
 ……もし、と幾度となく考えてきたことを、また考える。
私もあんな風に遊べたのかな、お父さんと、普通に……お母さんが生きていたら……。
「あっ……」
 隣から、苦しそうな声が聞こえる。
 見ると、桃弥の体から、黒い何かが出ていた。
「桃弥……!?」
 それは、煙でも、蒸気でもない。
完全にこの世のものではない、一瞬で背筋が凍るほどの恐ろしいものだった。
「どうしたのですか、桃弥……!」
 黒いものに触れると、何故かゾッとして、すぐに手を引っ込めてしまった。
 桃弥が、どんどんと包まれていく。
「いや……っ」
「……しまった」桃弥が、低い声で呟いた。「あいつを……見かけないように、この街はふらつかないようにしてたのに……」
 桃弥の視線の先には、さっきやって来た男がいた。
「あれ……俺のことを、ずっと苛めてた奴なんだ」
 ドクン、と心臓が脈打った。
「……もう、何とも思ってないと、思ってたのに……くそ……っ」
「もしかして、悪霊になろうとしているのですか?」
 震える声で聞いた。
 桃弥は、小さく首を横に振る。
 黒い何かは、桃弥の顔半分を飲み込んでいく。
「いや、いやです、桃弥……! 私が、私がもっと早く成長して、絶対に上手くいってみせますから……! だから、だから成仏しましょうよ、桃弥……!」
 桃弥は、涙を流した。
 そして顔を歪める。
「ごめん。もう、駄目かもしんない……俺、すげぇ弱いや……。胡桃は、ちゃんと前を向いて……頑張ってるのに……! あぁ、嫌だ……」
 ゆっくりと、目を伏せた。
「……っ、胡桃…………。たす、けて」
 私は、すっと立ち上がった。
 涙でぐちゃぐちゃになった顔を腕で拭きながら、男のもとへ猛ダッシュする。
 おかしい。
 こんな世界、腐ってしまえ。
「あのっ!!」
 子供を高く抱き上げる男に、大きな声で呼びかける。
「桃弥のこと苛めてた人ですよね!!」
 男の顔が、一瞬で真顔になった。
「は?」
「仙二桃弥のことを、苛めてた人ですよね!!!」
 男は数秒黙り、あぁ、と意味深に笑った。それから、子供を母親に預け、私に歩み寄ってくる。
「何なの、お前」
 腕を組んで睨まれるも、私は一歩も下がらなかった。
「聞いてるのはこっちです!!!」
「知らねーよ。そんな奴」
 タックルしてやった。もう、何も考えてなかった。
 当然、力で敵う筈もなく、私は簡単に地面に倒される。
 悔しい。
 こんなの、おかしい。
「何すんだ、いきなり」
 男は、私を見下ろして余裕の笑みを浮かべていた。
 奥歯を噛みしめる。
「桃弥は、今も苦しんでいます!!  ずっと、ずっと貴方のせいで……!! 」
立ち上がり、強く睨みつけた。
「一発殴らせてください!!  桃弥の代わりに、私が……!!」
 その時、母親が叫んだ。
「やめて!!」
 私も男も、ぴたりと動きを止める。
「もう喧嘩はしないって約束したでしょう? 貴方」それから、私に向かって言う。「何のことだか分かりませんが、これ以上夫に何かするなら警察呼びますよ。高校生だからって容赦しません」
子供が泣いていた。
 私は、そこでようやく冷静になり、立ち尽くす。
「胡桃!」
 振り返ると、すぐそこに桃弥がいた。
 黒い何かは、もうすっかり消えている。
「……大丈夫になった。もう、大丈夫だから」
赤く目を腫らして、微笑んでいた。
私は、親子に深く頭を下げると、その場から走り去る。
川に沿って、暫く歩き続けた。日は落ちようとしている。けど、何だかまだ家には帰りたくなかった。
そのうち疲れて、土手に腰を下ろす。
「……ごめんなさい。勝手なことをしてしまいました」
 桃弥は静かに、ううん、と言った。
それから、ふっ、と勢いよく吹き出す。
「俺のことであいつに立ち向かっていく人、初めて見たよ」
 ……初めて?
 私は、深く溜息を吐いて、呟く。
「この世界は間違っています」
 そうだね、と桃弥は言った。
「けど、俺の世界は、今ちょっと正しくなったよ。胡桃のお陰で」
 満面の笑みをこちらに向ける。
 心臓の音が、うるさかった。
桃弥は、私の肩におでこをつけるようにする。
「ありがとう。生きてるときに、出逢いたかったなぁ……なんて」
 思わず顔を逸らした。頬に手を当てると、凄く熱かった。
 想像する。
 桃弥が生きていて、私と、どこか街中で会っていたら。
 きっと、ただすれ違っていただけだろう。
 頬が緩む。
「こういう形だから、仲良くなれたんですよ」
数秒間空いた後。桃弥は、「それもそうだね」と、小さく呟いた。

家に着いた頃には、すっかり暗くなっていた。また、お父さんより遅く帰って来てしまった。静かにドアを開けると、廊下にお父さんが居たからつい動きを止めてしまう。お父さんは、トイレのドアを閉めていた。丁度出てきたところだったようだ。
私は唇を引き結び、お父さんに背を向けて玄関のドアを閉める。
お父さんは、話しかけてこなかった。
 振り返ると、お父さんがリビングに入っていくのが見えた。ほっと胸を撫で下ろし、自室に行こうと階段に足をかける。けど、一旦止まった。
 リビングの方からは、テレビの音がする。
 数十秒迷った末、私は深く息を吸った。
「たっ、ただいま!」
 発声練習した後で、思ったよりも大きな声が出た。
 急いで階段を駆け上がると、ベッドにダイブする。
 枕に顔を埋め、うぅ、と自分でもよく分からない呻き声を出した。
「偉い」
 顔を上げると、桃弥が微笑んで、私の頭を撫でていた。
「……お父さんは、さっき、どんな顔をしていましたか?」
 聞くと、桃弥は眉を下げる。
「またこんな遅い時間に帰ってきて……って言いたそうな顔してたよ」
「……そう、ですか」
 窓の外を見る。
 綺麗な満月だった。
「いつか……いや、近いうちに、ちゃんと、今のお父さんの気持ちを……聞きますね」
最後の方は、声にならないくらい小さくなってしまった。
桃弥は、無理はしないようにね、と言った。
 相変わらず優しいな、と思う。

 次の日。学校に行くと、机のなかに入っていた教科書が全部濡れていた。
手に持つと、臭い匂いが漂ってくる。
 吐き気が込み上げてきて、腕で口を押さえる。もしかして、トイレに……?
「わっ、どうしたのぉ、それ~」
 華井さんが深刻そうな顔で、濡れた教科書と私を交互に見る。
「えっと、これは……」
 脳内で一度シミュレーションする。笑顔で、何でもない風に、こう言うのだ。多分、狩南さんの仕業です。昨日は、シャーペンを全部ゴミ箱に捨てられただけだったんですけど、まさかこんなすぐに酷くなるとは、あはは……駄目だ。華井さんは絶対に笑ってくれない。
「か、鞄のなかに、お茶を零しちゃったんです……」
 適当に嘘を吐いた。全然、口角は上手く上がってくれなかった。
「えぇ~、大変! 私もやっちゃったことあるんだけどぉ、ほんっと萎えるよねぇ。はい、私のハンカチ使って~」
 華井さんがポケットから出してくれたのは、花柄の皺一つない綺麗なハンカチだった。
「いやいや、大丈夫です! 汚しちゃったら、悪いので……」
「気にしないでよぉ。あっ、ハンカチ一つで足りる~? けっこう濡れちゃってる感じぃ?」
 華井さんが、机の横に掛けてある私の鞄を覗き込もうとする。
 まずい。嘘がバレちゃう。
 私は咄嗟に腹から声を出した。
「だ、大丈夫です!」
 発声練習のお陰で、上手くいった。
 華井さんは、ぴたりと動きを止め、「そ、そう~?」と困惑の表情を浮かべた。そこで運良くチャイムが鳴る。
席に着き、濡れた教科書を開く。
早急に何とかしよう。
ひとり決意した。

「あ、あのっ、狩南さん」
  昼休み。女子トイレで、鏡の前で談笑している狩南さんに話しかける。狩南さんの他にも何人かいて、一斉にこちらを振り返ったからすぐに俯いてしまった。
「何?」
  狩南さんは鋭い声で返答する。強く睨みつけられているのが分かる。胃がキリキリと締め付けられ、上手く息が吸えなくなった。
  けど、負けたらダメだ、と自分に言い聞かせる。
「あ、の……やめてくれませんか」
「はぁ?」
  私の弱々しい声は、狩南さんのよく通る声に掻き消されてしまう。
「何が?」
 手が震えてきた。ダメだ……このままじゃ、今までと何にも変わらない。
昨日、あんなに練習したのに。
「胡桃……」
 桃弥の心配そうな声が聞こえる。
 私は、胸の前でぎゅっと両手を握り締め、俯きながら、けど、腹から声を出すことを意識して言う。
「わ、私は、分かっていますから! その……見た人が、いるんです。狩南さんが、私のシャーペンを全部ゴミ箱に」
「あーなんか勘違いしてるわ、燦美野さん」
  狩南さんは遮った。
  それから、私の右肩に手を置く。
「ちょっと話そっか。二人で」
  全身が、凍っていくようだった。

 狩南さんについていくと、屋上前の階段に辿り着いた。二人とも無言で、扉に巻き付けられている鎖の下をくぐっていく。
  屋上には、今日も誰もいなかった。
  少し歩いたところで、私達は向き合う。
「やめてよねー、皆の前でいじめの犯人に仕立て上げるの」
  狩南さんは、どこか楽しそうに言った。
  全く意味が分からなかったから黙っていると、「なんか言いなよ、燦美野」と狩南さんが一段と声を低くして言う。やっぱり怯んでしまう。けど、何とか息を吐き出す。
「か、狩南さんが、私に嫌がらせをしているんじゃないんですか?」
「そうだけどさ。皆には内緒でやってるから、言いふらされると困るんだわ」
  本当に、何も理解出来なかった。
「み、皆に、堂々と胸張って言えないことを、しないでください」
  ぷっ、あははは、と狩南さんは笑い出した。
  何が面白いのだろう。
「あんたってけっこう言うんだね。意外だわ。華井には、私に苛められてること隠してたのに」
  鋭い視線のせいで、どうしても顔を上げられなかった。けど、桃弥が私の両肩に手を置いてくれて、それでけっこう落ち着くことが出来た。
「華井さんには……心配を掛けたくないので」
  ふうん、と狩南さんは平坦な声で言った。それから、でも、と声を高くする。
「華井はあんたみたいな地味な奴嫌いだよ」
 どうしてそんなことを言うの?
  腹が立って仕方なかった。
「私は、華井さんの言うことしか信じません」
  狩南さんは何も言わなかった。
 数秒ほど、間が空いた。
 私は唾を飲み込み、ぐっと腹に力を入れて一息に言う。
「と、とにかく、私を苛めるのはもうやめてください! 先生にだって、こ、これ以上酷くなるなら警察にだって、言ってやりますから!」
  はぁ、はぁ、と息切れした。
  嘲るように、狩南さんは吹いた。
「警察って……そこまで酷いことしてないんですけどー」それから、大きな溜息を吐く。「まぁいいや。一つだけ私の言うことを聞いてくれたら、やめてあげてもいいよ」
  思わず顔を上げる。
「な、なんですか?」
「華井に、ウザイから話しかけないで、って言って」
 被せ気味に言われる。
「どう? 簡単でしょ?」
 体が固まってしまった。
「なんで……ですか」口をついて出る。「なんで、狩南さんは、そんなことを望むんですか?」
  こんな人の気持ちを知りたいなんて、どうかしてる、と思った。
「わ、私と華井さんの仲を引き裂いたところで狩南さんに何の得が」
「ウザイのよ」
  狩南さんは、短く言った。
 けど、先程までの強い口調ではなかった。
「あんたや華井なんて、独りの方がお似合いでしょ? それに……華井がちょっとでも傷ついた顔を見れたら面白いなって、それだけよ。分かった?」
「……分かりません」
 頭を抱えたくなる。
「私達のことを、狩南さんに勝手に決められたくないです。あ、あと、華井さんは、悪いことしてないじゃないですか。たまたま、西田くんは華井さんのことが好きだっただけで」
「たまたまじゃない」
 重く、沈んだ声で遮られる。
 狩南さんは、また、大きな溜息を吐いた。
「……私が好きになる人みんな、華井のこと好きになる……中学のときから、ずっと」
 私が黙っていると、狩南さんは、どこか遠くを見て続ける。
「高校ではそうならないように、華井は中学のとき人の男を奪ってたとかテキトーに嘘の噂流したら、まぁ女子はみんな離れてったわ。実際ぶりっこだし、誰も疑わなっかった。でも、男子は……ちょっと可愛ければそれで良いのね。結局何も変わんなかったわ」
 西田くんに振られ、酷く俯いていた狩南さんの姿が脳裏に浮かぶ。
 全く、同情する気にはなれなかった。
「お、おかしいです、そんなの……。悔しいなら、自分が努力をすれば良いだけじゃ――」
ガシッと髪を掴まれた。
血が出るんじゃないかってくらい、痛かった。
「うるさいのよ、あんた。さっきからなに貞子の癖に偉そうにしてんの?」
 狩南さんは少し涙声になっていた。
 言い返す気に、なれなかった。そんな私の髪を離すと、狩南さんは私の肩を強く押す。よろけたけど、転びはしなかった。反射的に前髪を整えてしまう。
 確かに、こんな前髪の人に言われてもなぁ、と冷静に思った。
「とにかく、よろしくね?  それで今回は丸く収まるんだから」
 狩南さんはいつもの調子で言うと、私の横を通り過ぎて扉の方に向かう。
 話は終わったようだ。
 ……これで、丸く収まる……。
「嫌です」
 凛と声を張っていた。
 狩南さんは足を止め、こちらを振り返る。
「私は、華井さんと、ずっと友達でいたいです。だから……それ以外の言うことなら聞きます」
 狩南さんは、大きく笑った。
手を叩く、耳障りな音が屋上に響き渡る。
「ほんっと滑稽ね、あんた。華井はあんたのこと引き立て役にしか思ってないよ?」
 頭に血が上った。
 私は両拳を握り締め、叫ぶ。
「華井さんの何を知っているんですか!? か、狩南さんには、華井さんの魅力は絶対に分かりません!」
 暫く間が空いた。
 けど、狩南さんは相変わらず馬鹿にしたように言う。
「ここまでくると惨めだわ」
 あぁ、もう。何を話しても分かり合えない。そう思った。
「あんたこそ人ってもんを分かってないわ。結局みんな表面的なところしか見てないし、ちょっとしたきっかけで離れていくもんなんだから」
 それから、あ、そーだ、と狩南さんは薄笑いして言う。
「試しに私が言ってあげようか?  華井に、燦美野があんたのことウザイって言ってたよ、って。あんたの信じてる友情なんてすぐ壊れるよ?」
「……私達のこと、な、舐めないでください」
 また、大きく笑われた。
「じゃあ、明日までに言っといてあげる。華井の反応が楽しみねー」
 狩南さんはそう言って、勢いよく扉を閉めた。
  もう、二度と話したくない。顔も見たくない、と強く思った。

  放課後。華井さんに笑顔で「また明日ね~」と言われ、心底ほっとしている自分がいた。舐めないでください、なんて言ったけど……やっぱりどこか不安に思っていたのだ。
 良かった。華井さんは、私のことを信じてくれたんだ。狩南さんは、まだ私を苛めるのをやめないのかな。
 玄関で、どんよりとした曇り空を見上げる。手のひらを出すと、ぽつぽつと雨が当たったので折りたたみ傘を広げた。明日の朝、これ以上降っていると嫌だな。余計に登校する気が削がれてしまう。
特にどこに寄ろうか決めずに歩いていると、桃弥がボソッと言う。
「あいつに似てるよ、狩南さん」
  聞いたことのある、暗いトーンだった。
「桃弥のことを、苛めていた人にですか?」
 うん、と桃弥は小さく頷いた。それから、目を伏せて言った。
「自分で今を変えていく力がないから、人の足を引っ張ることしか出来ないんだ」
 傘に雨の当たる音が大きくなるのを聞きながら、本当にそうですね、と返した。
 そうして桃弥は、私に高校のときのことを話し始めてくれた。あいつはきっと、俺が自分より良い高校に行って楽しそうにしてるのが気に入らなかったんだ、と。
 夏休みが明けてすぐのことだった。桃弥は、急にクラスの皆から避けられるようになったらしい。ずっと、仲良くしていたのに。いつの間にか、桃弥についての黒い噂が流れていた。どれもこれも、身に覚えのないものだった。出所を探ると、桃弥の中学のときの友達と言う人からだった。それも、見るからに不良の。不良の友達がいた覚えはなかったけど、桃弥はすぐに思い当たった。あいつだ、と。どこでどう吹き込んだのかは分からないけど、そんな嘘吐いてまで嫌がらせしてくるのはあいつしかいない。
「苛めてくる奴も、それに流される周りも変わらない。高校にいってもそうだった。この世界のひと皆そうなんだって絶望したよ。だから不登校になって――死んだ」消え入りそうな声で言う。「……俺は、一人だけでも、俺のことを信じてくれたら良かったんだ」
 胸が苦しくてしょうがなかった。でも、唇を噛みしめるだけで、何も言えない。
 桃弥は無表情で続ける。
「理想的な世の中であってくれとまでは言わない。せめて学校は、いや――俺のクラスは、俺の周りだけは、正しくあって欲しかった」
 言葉を詰まらせていると、桃弥がすぐに明るく笑った。ごめんね、急に暗い話して、と。私は、全力で首を横に振った。
「それが未練だとしたら……華井さんは、本当の友達なので、大丈夫です。明日も同じように笑ってくれると思います。だから、その様子が見れたら」
 成仏出来るかも知れないです。
 そう言おうとして、口が止まった。
 胸の奥が痛い。
あぁ、そうか。気付いてしまった。私は――
「胡桃?」
 桃弥が、心配そうな顔で覗き込んできた。私は不器用に笑みを浮かべる。
「な、何でもありません。明日も、頑張りますね」
 複雑な感情を全部、無理やり心の奥底にしまう。とても自己中で、抱いてはいけないものだと思ったから。
 私は、桃弥の幸せを願っている。そうでないと、いけないから。

 朝になると、雨脚が強まっていた。ここ最近、ずっと降っている気がする。早くこんな時期過ぎれば良いのにな、と思う。
 憂鬱になりつつも、早めに家を出る。狩南さんよりも先に着きたいのだ。昨日は、また教科書やらを濡らされないように机のなかを空にして帰ったけど……代わりに何か入れられる可能性もある、と思っていたから。あの人ならやりかねない。
 ところが、こんな時に限って、電車が遅延していた。ホームのアナウンスで、何度も、人身事故だと謝っていた。
 結局、教室に着いたのは、いつもより少し早いくらいの時間になった。狩南さんがいるのを見て、しまった、と思ったけど、机のなかには何も入っていなかった。
 椅子に何か塗られているんじゃないかとか思ったけど、そんなこともなかった。
安堵の息を吐くと、ちら、と教室の後ろの方で談笑している狩南さんを見る。もう、気が収まったのだろうか……?
座ろうとしたところで、華井さんがやって来る。
「あっ。お、おはようございます」
 立ったまま、頭を下げた。自分から挨拶するのは初めてで、つい、緊張してしまったのだ。
 けど、華井さんは何も言わず、どころかこちらを一切見ずに、席に座った。
 一瞬、自分が幽霊になったのかと思った。
 いや、と私はすぐに思い直す。そんな訳ない。ちょっと、朝だから声が出ていなかったのかな……? うん、きっとそうだ。
 腹から息を吐くことを意識する。
「あの、華井さ」
「あ~なんか電話きたぁ」
 華井さんは、スマホ画面をじっと見つめながら教室を出ていった。
 頭が真っ白になる。
ぼうっと暫くそのまま立ち、それから、ハッとして座った。
……そんな、まさか……。昨日の今日で、これって……。
 いや、違う。本当に何か急用があったのだろう。
 そう思いたかったけど、華井さんはずっと様子が変だった。休み時間になると、すぐに教室を出て行くのだ。それで、授業が始まるギリギリまで戻って来ない。移動教室のときもそうだった。今までは、そんな行動することもなかったのに。
『もしかして、避けられているのでしょうか?』
 休み時間にも話す仲になってきていたのに、一言も話さないで放課後になってしまったから、ノートで桃弥に聞く。
  う~ん、と桃弥は唸った。
「確かに……華井さん、さっきも何も言わずに帰っていったよね。でも、まだ分からな」
 そこまで言って、窓縁に座っている桃弥は正面を見て口を噤んだ。
 横を見ると、狩南さんが立っていた。
 慌ててノートを閉じる。
「な、なんですか」
狩南さんは、「あーごめんね、勉強してるとこ邪魔して」と楽しそうに言った。
それから、私の耳元に顔を近づけると、小さく低い声で言う。
「昨日、あんたが帰った後、華井とちょっと話したのよね。何を言ったのかは教えてあげないけど……すーぐ私の嘘を信じたよ。華井は、あんたが自分のこと嫌ってるって」
 短く息を漏らして笑った。
「だから言ったじゃん。あんたは、滑稽で惨めだ、って」
 まっ、これでもう何もしないであげるから、と狩南さんは私の肩を叩くと、じゃーね、と明るく言い、友達の輪のなかに入っていった。
 私は、ひとり椅子に座って俯くことしか出来なかった。
 本当に、惨めだな、と。でも……何だか私らしいな、とか、思ってしまった。
 
とぼとぼと、帰り道を歩く。
 狩南さんが、何を言ったのかは分からない。けど、華井さんは、私と口を聞かないという選択をした。それはもう、どうしようもない事実だった。
 奇跡だったんだ、華井さんと、友達になれたことは。だから別に、どうってことない。
 そう自分に言い聞かせるも、俯いた顔をなかなか上げられずにいた。
 勘違いしていたのかな……華井さんと、前より話せるようになったからって、それだけで、本当に友達になれたと……いや、友達だったのは、本当なんじゃないかな。友情なんて、狩南さんの言う通り、こうやって簡単に壊れていくもので…………。
 駄目だ。
 頭を横に振り、暗い考えを吹き飛ばそうとする。
 このままじゃ、桃弥の未練を、解消出来ない。
「胡桃」
 柔らかい声が聞こえ、ぱっと桃弥の顔を見る。 
 眉を下げて微笑んでいた。
「俺は……まぁ、地縛霊になっても良いからさ。胡桃は、自分のことを第一に考えて」
 胸がぎゅうっと締め付けられる。
 地縛霊になっても良いって……そんな訳、ないのに。
 桃弥の顔を真っ直ぐに見る。
「大丈夫です。まだ、諦めたくないです」涙が出そうになるのを、ぐっと堪えた。「明日、華井さんに言ってみます。……狩南さんに、何を言われたのか知らないですけど、私のことを信じてくださいって」
 でも、また、無視されたら?
 怖い。
 目から水が垂れてきて、すぐに顔を逸らした。
 ……本当に、弱い人間だな。
 いつまでも、傷つくのが怖い。
 桃弥は、暫く黙っていた。
 それから、少し震えた声で言う。
「俺はどうなっても良いんだよ、もう。死んでるからさ。……でも、」
 言葉を詰まらせたから、どうしたのだろうと思って桃弥を見ると、全身が、小刻みに震えていた。両手で顔を覆い、苦しそうにしていた。
「も、桃弥」
 呼びかけると、三拍ほどして「心配なんだ」と桃弥は呟いた。
「俺が不登校になる前の状況と、似ていて……胡桃も、俺と同じようになるんじゃないかって」
 私は、出来るだけ、明るい声で言う。
「それは考え過ぎですよ」
 でも、桃弥の震えは、止まらなかった。
「……本当に、神を恨むよ。生きてるときに、救ってくれなかった癖に、死んでからも、こんな、胡桃を巻き込まないと成仏出来ないようにして……」
 やがて、啜り泣く声がする。
「胡桃。頑張っているのは、本当に素敵だし、嬉しいし、応援したいよ。……でも、一つだけ、約束して」
 私はすぐに答える。
「はい。なんで、しょうか」
「絶対に、こっち側に来ないで」
 透けている、桃弥が懇願する。
「もう無理だって思ったら、俺のことは忘れて。地縛霊になっても、胡桃を恨んだりすることなんてないから。安心して、何事もなかったように、生きていって」
 頷くことが、出来なかった。
 でも、嫌だとも、言えなかった。
「……わ、分かったかも、知れないです」
 だから、そんな、可笑しな返事をしてしまった。
 桃弥の震えは止まっていた。
 へへ、と、こちらを見て笑った。
 それから、もっとハッキリ言ってよ、と、頭を撫でられた。触れられていたら、多分、髪の毛がぐしゃぐしゃになっていただろうな。

 桃弥は、言っていた。
 一人だけでも、俺のことを信じてくれたら良かったんだ、と。
 本当に、それだけで救われるのだと思う。
 私の理想とする世界もそうだ。
どれだけ狭くても良い。ここでなら、生きていきたい、って思えるような。
そんな世界を築きたい。
 ……私は、まず、お父さんに必要とされなかったから。余計に憧れが強いんだろうな。
 今更ながら、自分のなかの最大の欲望に気が付く。
 うん。
 やっぱり、ここで諦めたくない。
 まだ、一歩踏み出し始めたばっかりだから。

桃弥の提案で、チョコレートケーキを買って帰ろう、ということになった。落ち込んだ時は、大好物を食べるのが一番だ、と。
 家の近くの大通りに、ちょうど新しく出来たケーキ屋さんがあった。まだ行っていなくて気になっていたから、浮き立つ思いで向かう。
 けど、あと数メートルで着くというところで、思わず足を止めてしまった。
「胡桃?」
 目に入った光景を、信じたくなかった。それでも、確認せずにはいられない。
 私は、ケーキ屋の前で話している、男女を指差す。
「あの、あれ……お父さん、ですよね?」
 知らない女の人と、仲良さそうに話していた。
 桃弥は、「あ、ほんとだ」と言った。私は、すぐ横にあった電信柱の後ろに隠れる。
鞄を抱え、ひたすら俯いていた。
今、見つかったらどうしよう。
 心臓の音が大きくなっていく。
「あ、お父さん、向かいの道路の方に行ったよ」
 桃弥がそう言うから、一旦、胸を撫で下ろすも、自然と目はお父さんを追っていた。
 お父さんと知らない女の人は、煌びやかな装飾のお店に入って行った。よく目を凝らして見ると、有名なジュエリーブランド店だった。
「……何、あれ……」
 デート? あの女の人に、買ってあげるの?
 吐き気が込み上げてきて、すぐに口を押さえた。何か、黒くて濁ったものが、胃の中に流し込まれていくようだった。
 私は、そのまま走って家に帰った。ケーキなんて、食べる気になれない。
 
 暗い部屋のベッドで、制服を着たまま、暫く横になっていた。
 眠たくはないけど、何もする気が起きなかった。
「……楽しそうだったな、お父さん」
 誰に言うでもなく呟く。
「もう、お母さんのことなんて、とっくに忘れていたんだね」
 桃弥は、傍に居て、ただ俯くだけだった。何と言えば良いのか分からないのだろう、と思った。でも、それで良かった。
 窓の外の紫色の空を見ながら、お父さんに言いたいことを吐き出す。
「私を、睨むくらい……それで、精神的に病んで、離れて住むくらい……お母さんが亡くなったのが、悲しいんじゃなかったの?」
 上ずった声だった。けど、全然、涙は出てこなかった。もう枯れちゃったのかも知れない、と思った。
「――み、胡桃!」
 いつの間にか、眠りに落ちていたようだ。
 桃弥の声で目を覚ますと、窓の外はすっかり暗くなっていた。時計を見ると、二時半だった。
「……ごめん。何度か声をかけたんだけど、ずっと起きなかったからさ、このまま寝かせておこうかとも思ったけど……俺、布団かけられないし。風邪引いちゃうと思って」
 桃弥は、申し訳なさそうな顔をして、頭を搔いていた。
「いえ、ありがとうございます」
制服を見ると、どこにも皺がついていなくて安心した。……寝返りを打っていなかったのだろうか。頭がまだぼうっとしていた。一度大きなあくびをしてから、シャワーを浴びに行く。
 寝間着に着替えながら、私を見ないようにと床に伏せている桃弥に話しかける。
「お父さんと、あの女の人のことは、もう忘れることにしました。なんか呆れましたし」
 本当は、まだずっと心に引っかかりっぱなしだ。
 でも、いつまでも落ち込んでいる訳にはいかない。
「そんなことより……色々と思うことがあるんですけど、聞いて貰っても良いですか?」
 私にとっては、桃弥の未練を解消することの方が大事なのだから。
 桃弥は、もちろん、と頷いてくれた。
 私はゆっくりと話し始める。
「狩南さんが、言っていましたよね。結局みんな表面的なところしか見てないし、ちょっとしたきっかけで離れていくもんなんだと。……それが、人なんだと」
 うん、と桃弥は短い相づちを打つ。
「あの時は、よく分からなかったというか……分かろうともしませんでした。でも、今こうして華井さんが離れていったことで……一理あるのだと思ってきました」
 着替え終わったから、もう良いですよ、と桃弥に言う。
 二人ともベッドに腰掛け、なんとなく月を見上げていた。
「……実際に。狩南さんが、華井さんが中学のときに人の男を奪ってたという嘘の噂を流したら、みんなは華井さんの喋り方や動作を見て、ぶりっこだからと信じました。それで華井さんは、ずっと一人になっていました。桃弥のときは……どうなんでしょう。桃弥を苛めていた人の言い方が上手かったんですかね。それだけでも、人は流されて、離れていってしまう……」
 一度、唾を飲み込んだ。
 それから、桃弥の顔を見て話し出す。
「でも……だからこそ、逆手に取ることも出来ると思うんです」
「逆手?」
 桃弥は、キョトンとした顔で聞き返す。
 私は深く頷いた。
「表面的なところしか見てなくて、ちょっとしたきっかけで離れていくのだとしたら……その逆もあり得るのではないかと。つまり、私がこの長い前髪を切って、ちゃんと目を見て華井さんに思いを伝えたら……それだけでも、華井さんは思い直してくれるのではないかと……思うんですけど……」
 最後の方は、何だか自信がなくなってきて小声になってしまった。
 すると、桃弥は「おお、なるほど……!」と明るい声を上げる。
 けど、すぐに唸り、眉を下げてしまった。
「確かに、それなら今の状況も変わるかも知れないけど……でも、前髪を切るって……」
 私は苦笑して俯く。
「そうですよね。言うのは、簡単ですけど……」
 三拍ほど空け、でも、と私は出来るだけ明るい声で言う。
「もしかしたら、そんなことしなくても、めげずに華井さんに話しかけ続けたら口を聞いてくれるかも知れないですし……その、最終手段、ということで」
 桃弥の顔を見ると、浮かない表情をしていた。
 私は、ふふ、と思わず笑ってしまう。
 何が言いたいのか、分かるから。
「大丈夫です。無理は、しませんから」
 桃弥は、うん、と優しく頷いた。相当、私が桃弥と同じことになるかも知れないのが、怖いらしい。
 頑張ります、と笑顔で言った。

 翌朝。私は駅のホームで吐いた。

 お父さんと、あの女の人が仲良さそうに歩いているところを、何度も思い出してしまった。その度、いや、そんなことより……と華井さんに話しかけるシミュレーションを脳内でした。でも、全然、上手くいかなかった。私が話しかけても、華井さんは振り向いてくれなくて。やっとのことでこちらを見てくれたと思ったら、何故か、華井さんの目が、お父さんの目になっているのだ。あの時の、お母さんが眠っているベッドの横で、泣きながらこちらを睨んでくる目に――。

 ホームのベンチで、スカートについてしまった吐瀉物をティッシュで拭いとっていると、桃弥が言った。
「今日は学校を休もう」
「でも……」
「休まないと、呪います!」
 桃弥は、うらめしやのポーズをして舌を出した。
「それは嫌です」
 あはは、と桃弥はポーズをやめた。お互い、冗談だと分かっていた。
「俺、思うんだ。地縛霊になりかけたとはいえ、それまでに五年も経ったし、胡桃に出逢えたら、あっさりと教室から出られたし……神って気長なのかな、って」
 恨む気持ちは変わらないけど、と笑顔で言った。
 ○番線に電車が参ります、とアナウンスされた。
「だからさ、焦らないでいこう。多分、またあと五年は大丈夫だよ。ベテラン幽霊の勘!」
 へへ、と歯を見せて笑うと、私の頭を撫でた。
 私は、静かに頷いた。
 ホームに走ってくる電車の音が、やけに大きく聞こえた。もしかしたら、あと一歩で人身事故を起こしてしまったかも知れない、と思った。

 それから私は、二週間も学校を休んだ。

毎朝、制服を着て家を出て、お父さんが出勤した頃に家に帰っていくのがルーティンになっていた。そのまま、ずっと部屋に閉じこもって桃弥と話したり、家の近くを散歩したりした。一度、担任の先生から家に電話がかかってきたけど、その時は私しかいなくて、元気になったら行きます、とか言ったら電話がかかってくることもなくなった。それほど心配していないらしい。

「これじゃ、桃弥のときと同じじゃないですか」
 学校に行かなくなって一週間が過ぎた頃、暗い部屋で布団にくるまって呟いた。そんなに連続で休んだのは、初めてだったのだ。このままずっと休んでしまう気がして、怖かった。
「同じじゃないよ。生きていたら、俺にはならない」
 それから、桃弥はこちらをじっと見つめた。
「胡桃、今、消えたいって思ってない?」
 ドキッと心臓が跳ねた。
 否めないでいると、桃弥は俯く。
「俺もそうだったから、分かる」
 それから柔らかい口調で言った。
「生きてるとき、心のどこかで、ずっと消えたいって思ってた」
 私は雲だらけの夜空を見上げた。
「やっぱり、同じじゃないですか」
 桃弥は首を横に振り、「胡桃は俺が死なせないよ」と凛とした声で言った。
 
 そして更に一週間ほど経った今も、桃弥は隣にいる。私は何も頑張っていないけれど、桃弥が地縛霊になってしまう気配はなかった。
 桃弥の言うとおり、神は気長だったんだ。焦らないで、良かったんだ。あと少しで夏休みになる、と思ったら、学校を休み続けているという罪悪感も薄れていった。勉強は桃弥がみてくれているから、遅れる心配もなさそうだし。
日曜日、真昼。布団のなかであくびをしながら、ぼんやりと考える。
これからずっと学校に行かなくて良いなら、視線に怯えることもなくて良いなぁ。そうだ。今までずっと無理してたんだ。これからは、こうして、人と関わることなく生きていきた――
そこで私は、バッと起き上がった。
「胡桃?」
「あ……いえ、おはようございます」
「あはは。もうお昼だけどね」
桃弥は明るく笑った。
その顔を見て、改めて思い直す。
……私は、桃弥に協力したいって言ったんだ。桃弥に幸せになって欲しいから。だから、未練を解消する為に頑張って、自分のなかの最大の欲望に気付けた。狭くていいから、ここでなら生きていきたい、って思えるような世界を築きたいと……。
忘れては、いけない。
忘れたら、本当に駄目になる。
そんな予感が確かにあった。
けれど、学校に行く気にはなれなかった。一度心が折れてしまうと、こんなにもずっと休んでしまうのか、と落胆する。
「桃弥……あの、行きたいところとかありませんか? 気晴らしに、そこに出掛けたいです」
 最近は家にこもりがちだった。
インドア派だし、桃弥が「万が一、俺と同じく事故に遭ったら……」と心配していたから、近所のスーパーに行く時か、車通りの少ない道を散歩する時しか外に出ていなかった。けど、このままだと、いずれひきこもりになってしまう気がした。それは防ぎたい。そう伝えると、桃弥は不安そうな顔をしつつも、「まぁ、ずっと部屋に居ても楽しくないよね」と頷いてくれた。
……日曜日だから、学校の人に会ってしまう可能性はあるけど……。私は影が薄いから気付かれないだろう、と願う。
「うーん、行きたいとこか……」
顎に手を当て、唸る桃弥。それから、あっそうだ! と笑顔を見せる。
「なんか美味しいもの食べに行こうよ、チョコレートケーキとか」
 私は苦笑してしまった。
「桃弥の、行きたいとこで良いんですけど……」
 ん? と桃弥は首を傾げた。
「俺は、胡桃が美味しそうに食べてるとこ見れたら嬉しいよ」
ぱっと顔を逸らしてしまった。
心臓の音が、うるさい。
「……でも、家の近くにあるケーキ屋さんしか知らないです」
「俺、お洒落なカフェあるの知ってるよ」
 ……カフェ。そうか、甘いもの食べたい時は、そういう所に行くのか。
  私は口を噤んでしまう。
  行ってみたい気持ちはある。けど、店内にいる人もみんなお洒落なんだろうなぁ、私みたいな人が行っても良いのかなぁ、とか余計なことを考えてしまう。
貞子って呼ばれてるし、学校に何日も行っていないし……追い出されたりしないだろうか。「あんまり行きたくなさそうだね」
  桃弥は柔らかく笑った。
「いえ……あの、すみません。お洒落なカフェとか入ったことなくて、緊張してしまうというか……今、こんなですし。その、人の目が気になってしまって」
  つっかえて話してしまう。自分から誘ったのに、何ワガママ言っているんだろう。自己嫌悪に陥っていると、桃弥が「謝る必要はないよ」と明るく言ってくれた。
「うーん、そうだなぁ……でも、気晴らしに出掛けるなら好きなもの食べて欲しいな。日曜日だし、どこも人多そうだけど……」
  桃弥の優しさがじんと沁みる。
  腕を組み、天井を見上げる桃弥。数十秒もそうしていると、あっ!  と口角を上げた。
 良いこと思いついた、と何やら得意気な顔でこちらを見つめる。
「今日は、俺に任せてよ。楽しませてみせるから」
  私は、フリーズしてしまった。
そんなこと言われたのは、生まれて初めてだったから。
  けど、すぐにハッとして正座をすると、深々と頭を下げる。
「よ、宜しくお願い致します」
あははっ。堅っ!  と桃弥は腹を抱えた。
本当に楽しそうに笑うから、自然と頬が上がっていく。
……私が、桃弥を好きなところに連れて行きたかったんだけどなぁ。
そう思ったけど、桃弥が「よしっ、じゃあ早速外に行く準備しようか!」と張り切って言うから、うん、と笑顔で頷いた。
これで良いんだ、と思ったんだ。

  十分ほど電車に乗って、ショッピングモールに着いた。
  凄く人が多かった。
 桃弥は、
「ここにとっておきの場所があるんだよ。そこなら、人目を気にせずにチョコレートケーキを食べれるから」
  と言った。
  生前この近くに住んでいて、休日によく遊びに来ていたらしい。
「ここは何年経っても変わんないなぁ。あっ、でも映画館が出来たのか」
  へぇー、と桃弥は入口付近にあるマップに顔を近づけ、見入っていた。
「映画……見に行きますか?」
「おっ良いね!  俺はタダで入れるし」
  からっと笑う桃弥だった。
「ホラー映画とか見ちゃう?  隣に幽霊連れて」
  試すように口の端を上げてこちらを見てくるから、ふふ、と声を漏らした。
「私は、良いですよ。幽霊なんて怖くないですから」
  桃弥が悪霊になりかけた時は、もの凄く怖かったけど……。なんて言わず、平気な顔をして見せる。
  言うねぇ、と桃弥は楽しそうに声を上げた。
「一人でお風呂に入れなくなっても知らないぞ~」  
  なんか、凄く子供扱いされている。
ムッとした私は、敢えてぼそっと言う。
「そしたら……桃弥に傍にいて貰えばいいですし」
  すぐに後悔した。
尋常じゃないくらい恥ずかしい。……何を言ってるんだ、私は。
桃弥は、「ま、参りました」と頭を下げた。人目を気にせず、吹いてしまう。
「じゃあ、行こうか」
  手のひらを上に向けて差し出してくる。
  お姫様になった気分だった。
「映画見終わったら、良い時間になると思う。俺が連れて行きたいとこは、夕方になってからの方が綺麗だから」
  差し出された手をじっと見つめながら、私は言う。
「……ますます、気になります」
  へへっ、と桃弥は満面の笑みを見せた。
「楽しみにしてて」
  私は、その笑顔につられて、桃弥の手に自分の手を置こうとする。
  けど、当然、すり抜けていく。
  重ねることなんて、出来ないのに。
  二人して、そうだったね、と気まずく笑い合った。

  ちょうどあと五分で上映されるホラー映画があった。私は急いで(桃弥に教えて貰いながら)チケットを買い、なかに入る。ギリギリだけど、席はけっこう空いていた。人目を気にしなくて良いな、と思った。
  真ん中辺りに座り、大きなスクリーンを見つめる。
  映画は、すぐに始まった。
「…………もう、絶対に見ません」
  とぼとぼとショッピングモール内を歩きながら、静かに呟く。
「あははっ。胡桃、途中から耳塞いでたし。絶対目も瞑ってたでしょ」
  桃弥に笑われ、口を尖らせてしまう。
「あんなの、ズルいですよ。いきなり怖い顔が画面いっぱいに映ったり、大きい音鳴ったり……。心臓に悪いです」
  でも、正直、桃弥が悪霊になりかけた時の方がゾッとした。
  映画は、ただただビックリするだけだった。……監督は、本物の幽霊とか見たことあるのだろうか。全部、想像で創ってるのかな。
「映画に出てきたみたいな幽霊って、実際に居るんですか?」
  何の気なしに、聞いてみた。
  すると、桃弥は暗い顔をして俯いた。
  しまった、と思った。
「もっと怖いのが、いっぱい居るよ。俺みたいに、ただの幽霊だったらそうでもないんだけどね。悪霊とか地縛霊になったら……人のカタチしてないから」
  言うと、あっ、とすぐに顔を上げた。
  そして微笑んで見せる。
「でも、俺が地縛霊になっても、本当に気にしなくていいからね。多分、胡桃には見えなくなると思うし」
  勘だけど、と桃弥は付け足す。
  モヤモヤが、胸のなかに広がっていく。
「見えなくなるって……」
  うん、と桃弥は優しく頷いた。
「俺と出会う前の日常に、戻るだけ。俺は、胡桃が生きていてくれたら、それで良いから」
  私は顔を逸らしてしまった。
  ……嫌だ、そんなの。
  桃弥がいなくなったら、私は――。
「大丈夫!」
  耳元で桃弥が大きな声で言うので、少し肩を上げてしまった。
  桃弥は相変わらず良い笑顔で言う。
「まぁ、あと五年は何もしなくても大丈夫そうだし。のんびりいこう」
  ね、と頭を撫でられ、私は笑顔をつくった。
 それから、自分に言い聞かせるように言う。
「そうですよね……今も、隣に居ますし」
  うんうん、と桃弥は頷いた。
  胸のなかのモヤモヤは、徐々に晴れていった。
 あれ? これで、いいんだっけ。
一瞬、不安が過ぎったけど、まぁいっか、と思った。

「よしっ。じゃあ、チョコレートケーキを買いに地下まで行こうか」
  私は思わず首を傾げる。
「地下、ですか?」
  そうだよ、と桃弥はニヒッと歯を見せる。
「そこの食品売り場で、一番美味しそうなのを選ぶんだ。それから、俺が言ってた〝とっておきの場所〟に行って、食べる」
「……なるほど。どこかの店に入るんじゃないんですね」
  暫く、とっておきの場所が何なのか、考えてみる。けど、全然分からなかった。
「このショッピングモールに、あるんですよね……?」
  ふっと、桃弥は楽しそうに息を漏らした。
「まぁ、すぐに分かるよ」
  何だろう。凄く気になる。鼓動が、高鳴っていった。そういえば、こんなにワクワクすることは、最近なかったな、と思った。さっき見たホラー映画も、今思えば良い刺激だった。
  自然と、頬が緩んでいく。
  そのとき、少し前を歩いていた桃弥が、あっそうだ、と振り返って言う。
「胡桃、何か買いたいものとかないの?  せっかく来たんだし」
  私は、辺りを見回してみる。
お洒落な雑貨屋さんが、幾つもあった。
  買いたいもの……か。迷っていると、桃弥はどこか情けなさそうに呟く。
「……生きていたら、俺が買ってあげたかったんだけどなぁ」
  ふふ、と笑ってしまった。
「親子じゃないんですから」
「いや、そういう意味じゃないし」
  桃弥は、ぱっと顔を逸らす。
  ……そういう意味じゃない?
  不思議に思っていると、私達の横を、カップルが通り過ぎて行った。「ありがと~これずっと欲しかったの~!  嬉しい!」と彼女さんが彼氏さんの腕を組んでいる。その腕には、お洒落なショップバッグがぶら下がっていた。
  ああいうの、いいな、と思った。今まで、あんまり思ったことがなかったのだけれど。
  それから、三秒ほどして、ぼっ、と顔が熱くなった。
  もしかして、桃弥は、あのカップルと同じことを……?
  耳の先まで熱くなってくる。
  いや、考え過ぎかな。でも……。
「あのっ、桃弥」
  真似したいな。とか、思ってしまった。
随分と細い声が出てしまったけど、桃弥は「ん?」と反応してくれる。火照った顔を見られたくなくて俯く私を、覗き込んでくる。
「……も、桃弥が、私に買いたいものを、買いたいです。だから、選んでくれませんか?」
  数秒も間が空いた。
  ちら、と顔を上げて見ると、桃弥の顔も火照っていた。
「わっ、分かった!  全力で選ぶ!」
  両拳を掲げ、叫ぶように言う。私は、人目もはばからず、大きく吹いてしまった。
  桃弥と一緒にいると、本当に楽しいなぁ。
  夢見心地で、フロア内を歩き回る。
  桃弥は、何度も唸りながら色んな店を見たあと、よし、と力強い声を出した。
「決めた。胡桃の、財布を買います!」
  びっ、と兵隊さんがするような敬礼ポーズをしてみせる。
「財布ですか?」
「うん」桃弥は、眉を下げて微笑む。「映画館でチケット買う時に見て、改めて思ったんだけど……その、凄くボロボロだな、って」
私は、財布の入っているズボンのポケットを隠すように触る。確かに、もう随分と使い古していた。小学生の頃に百均で買ったものだから、生地はところどころ剥がれているし、色褪せている。けど、買い換えようという気はなかった。単に物欲がないのだ。
「あっちの方にある店に、良いのが売ってあったからさ。行こう」
頷き、桃弥が案内する通りに歩いていく。
店内には、若い女性が沢山居た。みんな立派にお洒落しているのを見て、ちょっと緊張してしまいながら店のなかを回る。
桃弥は、あった!  これこれ!  と弾けた声で商品棚を指差した。
そこには、くすんだピンク色の長財布があった。
「可愛い……!」
「でしょ?  こういうの、似合いそうだと思って」
桃弥は、満面の笑みをこちらに向ける。私は、目を逸らしながらも、えへへ、と笑った。凄く、凄く嬉しい。桃弥に、こんな大人っぽいのが似合う、と思われていたなんて。
私は、早速その財布を持ち、レジに向かう。
店員さんは、完璧な笑顔でハキハキとして言った。
「プレゼント用ですか?  ご自宅用ですか?」
「あ……ご自」そこまで言って、私はすぐに言い直した。「プレゼント用、です」
ひとりでに顔が熱くなっていった。
「プレゼント用ですね。今、追加料金を支払って頂くと、相手のご自宅に送ることが出来るサービスがあるのですが、如何なさいますか?」
……えっ、そんなサービスがあるの?  ……凄い、知らなかった。
あっ、そうだ!
私は良いことを思いついた。
「そ、それで、お願いします」
財布の代金と追加料金を支払うと、店員さんに貰った紙に、宛名と住所を書く。

Dear:燦美野胡桃  From:仙二桃弥

自分で書いていて、恥ずかしくなってきた。けど、店員さんは特に何も言わず、事務的に受け取ってくれる。最短で二日後に届けられる、とのことだったのでそうして貰うことにした。
「桃弥から届くの、楽しみに待ってますね」
  店を出てから言うと、桃弥は悪戯っぽく笑い、「凄いの来るから、待ってて」と言った。二人で、大きく吹き出す。
  あぁ、なんて良い日なんだろう。
今なら浮いて歩けそうな気がした。
「なんか、デートしてるみたいですね」
  気付くと、口から出ていた。
  ハッとしてすぐに真顔になる。な、何言ってるんだ、私……。
  慌てて誤魔化そうとすると、桃弥はこちらを真っすぐに見て、微笑んだ。
「今からもっとデートっぽいことするよ」
  あまりに、さらっと言うから。意味を分かっているのだろうか、とか思ってしまった。
胸がはち切れそうだ。
今日のことは、一生忘れられないな。そう、確信した。

  地下フロアに、チョコレートケーキを買いに行く。色んな食品店が連なっていた。とりあえず一周してから、「ここが一番美味しそう!」と桃弥が指差したスイーツ店で、華やかなチョコレートケーキを選ぶ。プラスチックフォークも販売していたから、それも買った。手のひらにポンと乗るくらいの箱に詰めて貰い、それを提げてまたエスカレーターで上に行く。 
一階についたところで、桃弥が言う。
「じゃあ、外に行こうか」
  えっ、と思わず声が出た。
「このショッピングモールに、とっておきの場所があるんじゃないんですか?」
「そうだよ」
  桃弥は、くっと口角を上げた。
「屋外に子どもが遊べる敷地があるんだ」
  子どもが遊べる敷地……?  
  首を傾げる私を、桃弥は楽しそうに見つめる。
「まぁ、あそこで食べるなんて思いつかないよね。でも……人目につかなくて、本当に良い景色が見れるから」
  もう分かった?  と聞かれるも、全然検討がつかなかった。
  桃弥と一緒に、屋外の敷地へと出た。むわっと生暖かい風が吹いてきて、前髪が乱れないようにすぐに手で押さえる。
  少し歩いたところで、桃弥は遠くの方を指差した。
「ほら、あれだよ。ショッピングモールに入る前から、ずっと見えてたと思うんだけどなぁ」
  あっ!  と私はすぐに驚きの声を漏らす。
「観覧車……!」
  赤いゴンドラが、数メートル先にあった。首が痛くなるほど見上げて、やっと頂上にあるゴンドラが見える。
「いや、確かに見えてましたけど……ショッピングモールにあるものだとは思っていませんでした。その、近くに遊園地があるのかと」
「……胡桃の距離感が心配になってきたよ」
  桃弥は真面目な表情で言った。
  つい、口を尖らせてしまう。
「だって、こういう、子どもが遊べる敷地とか来たことなかったですし……。仲の良い家族が来るところじゃないですか」
  ショッピングモールすら、数える程しか来たことなかった。
私が最近までお世話になっていたお母さんの妹さんとは、そんなに仲良くはなかったから。悪くはないけれど、一緒に出掛ける程でもない。
想像以上にゆっくりと回る観覧車を見て、思い出す。
一度だけ、小さい頃、遊園地に連れていって貰ったことがあった。けど、ほとんど遊べなかった。私が迷子になって、時間を潰してしまったから。それから、どこかに連れていって貰えることはなくなった。私から、どこかに行きたいと言えば……一緒に行ってくれたかも知れないけど。なかなかそんな勇気が出なかった。人混みとか苦手だし、家にいる方が楽しいから、と自分に言い聞かせて諦めていた。
「……そうだね」
  桃弥は少し俯いて静かに言う。
それから、こちらを見て微笑んだ。
「俺も、母さんとこういう所に来たことなかったよ。だから、一人でよく乗りに来てた」
「一人で、ですか?」
  桃弥は頷くと、目を細めて観覧車を見上げる。
「遊園地に行くのに憧れてたんだ。でも、流石に一人では行けないからさ、この観覧車に乗って欲を満たしてた。高いところ好きだし、雄大な景色を見てたら癒されたんだよね」
  あっ、そうそう、と明るい声を上げる。
「小学生の頃に初めて行ったらさ、スタッフの人に、お母さんは?  って心配されて。でも、事情を話したら、快く乗せてくれたんだよ。それから仲良くなったスタッフさん達に、たまに遊んで貰ったりしてた」
  私は、自然と頬が緩んでいった。
「素敵な思い出が、沢山詰まってるんですね」
うん、と桃弥はこちらに満面の笑みを向ける。
「そんな場所を、胡桃に紹介したかったってのもある」
  胸焼けしそうだ、と思った。
  これから、桃弥と観覧車に乗って、大好物を食べるなんて……明日死んでも後悔しないな、と思った。
それ以上は、何も思わなかった。

  二人で、赤いゴンドラのなかに入っていく。
桃弥は、迷わず私の隣に座った。
前後のゴンドラには誰も乗っていなかった。
  早速チョコレートケーキの入った箱を空けると、フォーク一杯に掬い取って食べる。すぐに口の中が普段味わうことのない深い甘みで満たされ、思わず感嘆の声を上げた。
「美味しい?」
「……はい、凄く」
  桃弥は、へへ、と嬉しそうに笑った。
蕩けてしまいそうなくらい、幸せだ。
  ゴンドラは、ゆっくりと上昇していく。そして、ショッピングモールよりも高い位置に来ると、一気に視界が開けた。
「わぁ……!」
  思わず窓に張り付いた。
  柔らかな陽の光に、街中が包まれていた。まるで別世界の景色を眺めているようだった。
「……綺麗だね」
「はい」
どうしてか、懐かしいような気持ちになってきていた。ずっとずっと、この時間が続けば良いのにな。そう思うと、目頭が熱くなる。
「久しぶりだなぁ。ここからの景色」
  桃弥は静かに呟いた。
「幽霊になってから、来たりしなかったんですか?」
  窓の方を見ながら聞くと、数秒ほど空き、うん、と返ってきた。
  その妙な間が気になって、桃弥の方を向く。
「どうして、ですか?」
  桃弥は眉を下げる。
「話し出すと、長くなっちゃうけど……良い?」
  深く頷いた。
桃弥は、ゆっくりと口を開く。
「最後に乗りに行ったのは、不登校になってからすぐだったんだけどね。……まぁ、中学生になったら一人で乗るのも恥ずかしくなって全然行かなくなってたから、ふと思い出して、行ってみようってなって。でも、」
  そこで、暫く俯いてしまった。
黙って続きを待っていると、桃弥は、また話し出してくれる。
「その時いたスタッフさんに……君、いつも来てるけど中学生か高校生だよね?  学校は?  って責めるように聞かれて。曜日感覚とか狂ってたから、平日の昼に来てたんだよね。……なんか、その時、もういいやってなって……そっから一切来なくなっちゃった」
  自嘲気味に微笑む。
「優しいスタッフさん達に遊んで貰ってた思い出が、汚されたような気がしたんだよね。あぁ、不登校にならなかったら、って思った。クラスに、一人でも信じてくれる友達が居て、ちゃんと学校生活を楽しめてたら……こんなことにならなかったのに、って」
「桃弥……」
  言葉を詰まらせてしまう。
桃弥はゴンドラの天井を見上げ、ぐったりと座った。
「……分かってたのにね。この世界には、ちゃんと優しい人達がいるんだって。なんで、もう全てが嫌になっちゃったんだろう。それから、運悪く事故に遭って……」
  数秒後。
  ハッ、として桃弥は背筋を伸ばした。
  大きく口を開けている。
「桃弥?」
  聞くと、口を開けたままこちらを見る。
「……本当の未練が、分かったかも知れない」
「えっ」
思わず声を上げる。
「な、なんですか?」
  すると、桃弥はまずそうな顔をした。
焦ったように片手で口を押さえ、それから、あー、と私から顔を逸らす。
何故か笑って、頭を搔いていた。
「……やっぱり、違うかな。うん、ごめん。本当に、何でもない」
 私は、何も言えなくなった。
 桃弥は、私を追い詰めないように、誤魔化す選択をしたんだ。
  一瞬で、心にぽっかりと穴が空く。
  ……もう、頼られていない?
  私は、もう、必要とされていない?
  いつの間にか、ゴンドラは頂上に近づいてきていた。
  黙ったまま、雄大な景色を見下ろす。
 見ていると、どんどん、気持ちが解放的になっていった。
  ……あぁ、どうしよう。
 涙が頬を一筋伝う。
  この気持ちは、ずっと、抑え込んでいたのに。留めないと、いけないのに。
「……私、桃弥の為に、もっと頑張りたいです」声が上ずっていく。「それで、どうなっても、絶対に後悔しません。私は、」
――桃弥のことが、好きだから。
  うっ、と声を漏らし、窓におでこを付ける。
駄目だ。
  この気持ちは、抑えないと。
  私は、ギュッと目を瞑り、視界を真っ暗にした。
  でも、一度解放された想いは、留まることを知らない。
口を開かずにいるのに精一杯だった。
――私は、桃弥とずっと一緒にいたい。もっともっと、楽しい時間を過ごしたい。……本当は、成仏して欲しくない……目の前から、消えて欲しくない!
桃弥がいなくなったら、私は、一人で生きてける自信がない。
  その時だった。
  ブォンッと聞きなれない音が鳴る。
反射的に隣を見ると、そこには、誰も居なくなっていた。
「……え……?」
  立ち上がり、しきりにゴンドラのなかを見回す。
  窓の外を見てみるも、居る筈がない。
「桃弥?」
  私は、息が詰まっていった。
「……どこに、行ったんですか?」

急いで学校に向かう。
すぐに、ピンときたから。
  桃弥は、また、教室に縛られたんだ。
 どうしよう……私のせいだ。
 今、私のせいで、桃弥は地縛霊と化しているかも知れない。
  私が、一瞬でも諦めたから――桃弥の未練を解消するより、自分の勝手な想いを優先して……それで、桃弥が成仏出来る可能性がなくなっちゃったんだ。
  走って、走って、走った。
  電車に乗るのも煩わしくて、人生初のタクシーを使った。
「急いでください!!!!」
  タクシーの運転手さんは、驚いた顔をしつつも、すぐに発進してくれた。
  まだ、間に合うかな。
  大丈夫かな。
  桃弥が、地縛霊になってしまっていたら、私――
  学校に着くまで、ずっと泣き崩れていた。

  校門前に着くと、すぐにお礼を言って料金を支払い、タクシーを出た。部活帰りだろうか、何人か生徒が出てきて、ビクッとしてしまう。
  そうか、私、不登校の身だった。
  でも、そんな後ろめたい気持ちはすぐに飛んでいく。
 早く。桃弥のところに行かなきゃ。
  私服でなかに入って行くと、凄く視線を感じた。けど、構わずに走った。走って、階段を駆け上がって、教室まで辿り着く。
「桃弥!!」
  ドアが開かなくて、何度も叩いた。
 泣き叫んだ。
「桃弥っ!! 大丈」
  すると、小窓から、ひょいっと桃弥が顔を出す。
「びっくりした……胡桃、来たんだ」
  私は、安心して、すぐに膝から崩れ落ちた。
 ――良かった。
 まだ、ヒトの形をしていた。
 地縛霊には、なっていなかった。
 全身から、力が抜けていった。本当に、良かった。
「だ、大丈夫? 胡桃」
 私は、よろよろと立ち上がり、小窓越しに桃弥の顔を見る。
「大丈夫、です。桃弥こそ、何ともないですか?」
  再度確認すると、うん、と桃弥は明るく言った。
「いきなりさ、こう、ビュン! って体が吸い込まれる感じになって、気付いたら、この教室に居たんだ」
  大きく身振り手振りをし、楽しそうに話す。
  私は、深く息を吐いて俯いた。
「ごめん、なさい。私が、一瞬でも気を抜いたせいです。私のせいで、もう少しで、桃弥が地縛霊に……ごめんなさい。もう、一瞬でも絶対に気は抜きませ」
「胡桃。もう帰って」
  顔を上げた。
  桃弥の後頭部が、そこにあった。
「え……?」
  桃弥は、何も言ってくれなかった。
「……一緒に、帰りましょうよ」
 どうしてか、ドア越しに啜り泣く声が聞こえてくる。
 訳が分からなくなって、私は、何故か笑ってしまった。
「あっ、もしかして、教室から出られなくなったんですか?」
  桃弥は、何も答えない。
そのうち、桃弥の頭が下がっていき、小窓から見えなくなった。
「桃弥っ」
「……胡桃のことが、嫌いになった」
  上ずった声で言う。
「だからもう、一緒にいたくない」
  なんで?
  どうして、そんなことを言うの……?
「早く、行って」
  一歩も動けなかった。
  ここから、離れたくなかった。
  涙が溢れて、止まらなくなった。
「行けよ!!!!」
  大声で叫ばれ、私は、やっと一歩後ずさった。
  そして、勢いよく走って帰っていった。

校門を出る。
  脇目も振らずに走って、それから、徐々にスピードが落ちていった。
  足が止まる。
  えずいて、その場に蹲った。
  誰かの足が、肩に当たった。
「チッ、危ねーな」
  心底鬱陶しそうな声で言われ、私は、とりあえず道の端に寄った。数メートル先に、最寄り駅が見えた。……そうだ、帰らないと。
  私は、俯き、暫く立ち止まっていた。けど、そのうち涙が乾いてきて、ゆっくりと歩き出す。
  ――元いた世界に、戻った。
  そうだ。ここが私のいた世界だった。
  誰にも必要とされていない。
  ずっとひとりで諦めて耐えるだけ。
  今までそうだったじゃないか。
  何を、変われる気でいたんだろう?

  一つの明かりもついていない家に帰り、ベッドに顔から倒れ込む。全身が、このまま深く深く沈んでいって、消えてしまえばいい、と思った。
「なん……で……」
  乾いたはずの涙が、また溢れ出す。
「桃……弥」
  嫌だ。嫌だ。私が今、何か行動しないと、桃弥が地縛霊になってしまう。
  でも――拒絶されたんだ。
  私には、もう無理だと。だから、桃弥も辛くなって、諦めたんだ。
  何度も鼻を啜り、呻き声を漏らし、布団をグーで殴った。
「私が……っ、私が代わりに、幽霊にでもなれたら、」
  そこで、私は桃弥の言葉を思い出す。
  ――絶対に、こっち側に来ないで。
  ――もう無理だって思ったら、俺のことは忘れて。
――安心して、何事もなかったように、生きていって。
「うぅ……っ」
  私は、歯を食いしばって、何度も涙を拭った。でも、思い出すのは、桃弥の笑顔ばかりだった。桃弥に触れられた感触が、確かに残っているんだ。桃弥は、この世にいないのかも知れないけど、確かに私の隣に居たんだ。
  ずっと、傍で、私に一歩踏み出す勇気を与えてくれてたんだ。
「無理、だよ……今更、忘れろだなんて……あなたは、どれだけ私にとって」
  トントン、と部屋の扉がノックされた。
  私は、ハッとして起き上がり、身を固める。
「胡桃……大丈夫か?」
  お父さんの、声だった。
  胸の奥が、どんどん冷えていく。
  何が?  お母さんのことなんて忘れて、私のことを遠ざけていた間も、ずっとあんな風に知らない女の人とデートしてた癖に。
  私は、何も返事しなかった。扉にはいつも鍵を掛けているから、お父さんは入って来れない。
「……ケーキ、買ってきたから。冷蔵庫に入ってる」
  お父さんは、それだけ言うと、階段を下りていった。
  ……ケーキ……?
  私の頭のなかは「?」だらけになる。
  何で?  私に買ってきたの?  この前、ケーキ屋さんの前で女の人と話してたけど……あの人と一緒に買ってきたの?
  何考えてるの?
  私は頭を掻きむしった。涙は、いつの間にか止まっていた。
  ……分からない。お父さんの考えていることが、何も分からない。
  ――聞いてみれば良いじゃん。
  どこからか声が聞こえてきて、私は部屋のなかを見回した。
  けど、当然、誰もいない。
  ――大丈夫。胡桃なら、ちゃんと向き合えるから。
  目頭が熱くなる。
  あぁ、桃弥の声だ。
  桃弥が、今もずっと、私のなかにいて、背中を押してくれようとしている。
  私は、もう一度泣いた後、顔を布団で拭って、扉の前に立つ。
  大きく、深呼吸した。
  そうだ。桃弥に、いつの日か言ったんだ。近いうちに、ちゃんと、今のお父さんの気持ちを聞いてみる、と……。
  胸に両手を当てる。
  桃弥。忘れることは、出来ないけど……このくらいの約束だったら、果たせるよ。
  私は鍵を開けると、扉の向こうへ一歩踏み出した。

  リビングには明かりがついていた。けど、入ってみると誰もいなかった。
  私は、冷蔵庫を開けてみる。そこには、小さな白い箱が入っていた。出して中を開けて見ると、チョコレートケーキがあった。私の、大好物の。
  思わず眉を顰める。
  どうして、これを、今日買ってきたの?
  トイレの水が流れる音がして、お父さんの足音が近づいてくる。私は、逃げ出しそうな足をぐっと踏ん張り、チョコレートケーキを持ったままじっと立っていた。
  お父さんが、リビングに入って来る。
「……胡桃……」
  私は、俯いたまま、静かに聞いた。
「どうして、ケーキなんか買ってきたんですか?」
  しばらく間が空いた。
  お父さんは、少し柔らかい声で言う。
「今日は、胡桃の誕生日だろ」
  私は、一瞬思考が止まった。それから、言われた言葉の意味を、脳内で必死に考える。
  誕生日……。そうだ、っけ。あぁ、確かに今日は、私の誕生日だ。
  すっかり忘れていた。
  なんで……覚えてるの?  なんで、私のことを、祝ってるの?
  ――別に、普通の人に見えるけどなぁ。
  桃弥が、以前、お父さんを見て言った一言を思い出す。
  息が、浅くなる。手が少し震えてきた。
  私は、唇を引き結び、やっと言葉を発する。
「お父さんは……私のことが嫌いなんじゃないんですか?」
  聞くと、お父さんは、二、三歩、私に近づいてきた。
まだ少し距離があるけど、私はついビクッと肩を上げてしまう。俯き続けていると、お父さんは、はっきりとした口調で言った。
「いつ、そんなこと言った?」
  私は、何も答えられなかった。
  言われたことは、ないから。
「で、でも、」
  私は、黙り込んでしまう。あの時、お母さんが病院で眠ってるベッドの横で、私のこと睨んでたじゃん。そう言って、もし、忘れられてたらどうしよう。私が、三歳の頃の記憶だけど……やけにリアルに残ってるんだ。ずっと、縛られて生きてきたんだ。そんなの――
「お父さんの目が、怖いのか?」
  私は、ゆっくりと、顔を上げた。
  お父さんの方は、見れなかった。けど、こくん、と頷く。
  するとお父さんは、はぁー、と深い溜息を吐いた。
「やっぱり、そうか」
  それから、どこか自嘲するように言う。
「母さんにも、よく、目つきが悪いって怒られたよ」
……へ……?
  私の頭は、また思考停止する。
「それで、ずっと怯えていたんだな」お父さんは、まぁ、と優しい声色で言う。「急に、高校生になってから一緒に住むことになって……困ったよな。それまで別々に暮らしていたんだから、他人同然だし……いくら血が繋がってるとはいえ、怖がられても仕方な」
  私は、そこで口を挟む。
「お父さんは、私のことが、憎いんじゃないんですか?」
  何故か、涙が頬を一筋伝っていった。
「だから、私のことを、ずっと遠ざけていたんでしょ?」
  上ずった声で聞くと、お父さんは、一歩下がった。
「憎むって……どうして、そんな」
「だって、私のせいで、お母さんが亡くなったから!」
  叫ぶと、涙が溢れ出てきて止まらなくなった。ケーキに、ぽたぽたと涙の粒が落ちていく。片手で口を押さえて嗚咽していると、お父さんは言った。
「…………そんな風に、思っていたのか……………」
  そして、また深い溜息を吐くと、
「胡桃。ちゃんと、座って話をしよう」
  と言って、近くにあった椅子を引いてくれた。

「胡桃は、事故のことを詳しく知っているのか?」
  小さな机の上に両腕を置き、身を乗り出すようにして、お父さんは聞いてくる。
私は、正面にいるお父さんの顔を見れずに、俯いて返事した。
「……私が、急に道路に飛び出したとかじゃないんですか?」
  お父さんは、静かに言う。
「違う」
  それから、消え入りそうな声で言った。
「……車が、突っ込んできたんだ。母さんは、胡桃の背中を押し飛ばした」
  何も、言えなかった。
  お父さんは、しばらく間を空け、話を続ける。
「……悪いのは、全部車側だ。仮に、胡桃が飛び出していたとしても。それに、どんな事故の遭い方だろうが、父さんの気持ちは変わらないよ。もちろん、母さんも」
  お父さんの、視線を感じる。
  私は、すっと顔を上げた。
「胡桃が、生きていてくれて良かった」
  目の前が、滲んでいく。
  頭のなかが、クリアになって。私は、声を上げて泣いた。
  ごめんな、と、お父さんは何度も謝っていた。
  私は、何度も何度も首を横に振った。

  二人で、一人分のチョコレートケーキを分けて食べることにした。私がそうしたいと言ったのだ。
お父さんは、会社で唯一仲のいい女性社員さんに、ずっと相談していたそうだ。最近まで別々に暮らしていた娘と、どうやって距離を縮めれば良いのか、と。お金渡せば懐いてくれるよ、と言われたのでお小遣いを渡そうとしたが、断られた。じゃあ、誕生日とかにプレゼント渡したら良いんじゃない?  と言われたので、あの日――私が桃弥と偶然ケーキ屋さんの前で見かけた時――お父さんと女性社員さんは二人でいたのだ。
ジュエリーブランド店にも行ったけど、受け取ってくれるか分からないし、好みも分からないから、お母さんの妹さんに私の好物を聞いて、それを買うことにしたらしい。チョコレートケーキで丁度良かった、とお父さんは笑顔で言った。
それから、私のことを、どうしてずっと遠ざけていたのか……勇気を出して聞いてみた。
  お父さんは、私のことが嫌いになったのではなく、お母さんが急に亡くなったことで精神的に病んでしまい、とても誰かと話せるような状態ではなく、私に迷惑が掛かる、と思ったらしい。それで、まだ幼かった私は、お母さんの妹さんに引き取られることになった。
  本当は、すぐに良くなって、また私と暮らせると思っていたらしい。でも、完全に精神が回復しないまま、責任感で働き始め、体調を壊し……と繰り返していると、予想以上に治療が長引いてしまった。結局、やっとまともになった、とお父さんが自分で感じたのは、私が小学四年生の頃だった。
  その話を聞いて、思い出した。私は、その頃、お母さんの妹さんに聞かれたことがあった。お父さんとまた一緒に住みたい?  と。お父さんが、聞いてくれ、と頼んでいたらしい。
  私は、その時、迷わず答えた。
  嫌だ、と。
  お父さんは、私の意思を汲むことにしたらしい。
「……母さんが亡くなった時、胡桃の顔を見て、心に決めたんだ。俺は、この子だけは、何があってもしっかり守っていくと。……なのに、何も、親らしいことしてあげられないで……本当に、ごめんな」
  お父さんは、嗚咽しながら話す。
  私は、そんなお父さんの顔を見る。
  そうか。
そうだったんだ。
あの時の、お母さんが病院のベッドで眠っている横で、私を泣きながら睨んでいた、お父さんの目は――。
  頬が緩んだ。
  けど、すぐに涙が零れ落ちていく。
全部、全部、私の思い込みだったんだ。
遠ざけられていた、と思っていたけど、本当は、ずっと、私の方から遠ざけていた。
何も話そうとせずに、決めつけていた。
お父さんの、泣いている目を見る。
眉間に凄く皺が寄っていて、何も知らない人から見ると、怖い、って勘違いされそうだな、と思った。……過去の、私のように。
  今は、違う。
  私は、お父さんの気持ちを、知っている。
  全身が、浮いてしまいそうなほど、軽くなっていった。胸の奥に沈んでいた重りが、急に、跡形もなく消えていって、息がしやすくなる。
  ずっと、真っすぐに、目を見れていた。
「……ありがとう、ございます。私の方こそ、ごめんなさい」
  机につむじが付きそうなほど深く頭を下げると、お父さんは、顔を上げてくれ、と言った。
  私は、また、お父さんの目を見る。
  あぁ、なんて優しそうに笑う人なんだろう、と思った。
  本当に、もったいない時間を過ごしてきたな、と思った。
  今からでも、取り戻せるだろうか?
  二人で、笑い交じりに泣き合った。何度も、ごめんね、ありがとう、と繰り返していた。
「……お母さんは、どんな人だったんですか?」
  聞くと、お父さんは眉間を指で押さえつつ、ふわっと頬を緩める。
「世界一、優しいという言葉が似合う人だったよ」
  あたたかな風が、身体のなかを吹き抜けていくようだった。
  脳裏に、幼い頃見た、お母さんが赤ちゃんの頃の私を抱いている写真が浮かんだ。天使のように微笑んでいた。今も、私とお父さんを見て、またあんな風に笑ってくれているだろうか。そうだったら良いな、と思った。
それから、お父さんは、私の顔をまじまじと見て言う。
「その、ずっと思ってたんだが……どうしてそんなに前髪を長くしているんだ?」
  私は、ふっと笑って、首を大きく傾げた。
「どうしてでしょうね」
  お父さんは、困った顔をしていた。
  
  もう、大丈夫だ。
  私は、これから、何があってもやっていける。
  前髪なんて、壁なんて、整えなくても。

  部屋のベッドにひとり座り、筆箱に入っていたハサミと、制服のポケットに入っていた手鏡を持ち、深く息を吸った。
  ジャキ、ジャキ、と。壁が崩れる音がする。
  太腿の上に、髪の毛が何本も落ちていった。
  あ、と私はゴミ箱を取りに行こうとしたけど、一気に切り終えたい、と思ったから、そのままハサミを入れ続けた。
  瞼に、空気が触れる。
「……よし」
  手鏡に映った自分の顔を見つめる。切り方が悪かったのか、前髪が重い。けど――割りと可愛いな、とか、思っていた。
  桃弥が、いつの日か私の目を見て言っていたな、と頬が緩む。やっぱり、桃弥は嘘を吐かない。自信を持ち過ぎだろうか……。でも、恥ずかしいと思ったら負けだ。
  私は、明日、初めて目を出して学校に行くのだから。
……桃弥は、本当の未練が分かったと言って、教えてくれなかった。けど、私は思う。前まで言っていた、本当の友達が欲しかったという未練と、そんなにはズレていないんじゃないかと。その前は、学校生活を楽しみたかった、と言っていたのだから。
  だから、私は、今分かっている事のなかで、全力を尽くす。
布団を頭まで被って、 何度も何度もシミュレーションした。朝、教室に入ったら、華井さんの目を真っすぐ見て私の思いを伝えるんだ。
  それで、また無視されるかも知れない。何も変わらないかも知れない。
  桃弥は既に地縛霊と化していて、私には見えなくなってるかも知れない。
  でも――後悔は、したくないから。
  
  待ってて、桃弥。私はあなたのことを、諦めたくない。
  この世界のことを、諦めたくない。
  あなたに教えて貰ったから。
一歩踏み出せば、良い方向に変わることもあるんだと。
  全部が全部、そうなるとは限らない。
  けど、やる前から何もかも決めつけたくない。
  もう、諦めてばっかりは嫌だから。
  私の世界は、私で変える。

  とりあえず今やるべきことは……しっかりと睡眠を取ることだ。そう、冷静に思って、私はひたすら目を瞑り、深い深い眠りに落ちていった。
  
  朝日が眩しかった。前髪のない目には、鮮やかに照らされた街の何もかもが眩し過ぎて、痛い。当たり前だけど、みんなの顔がはっきりと見える……うっ、胃が……。私は腹を擦ると、俯いて目を瞑りながら電車に乗った。
  通学路を亀のペースで歩き、でも、段々と顔を上げながら、何とか学校に辿り着く。変な目で見られていないだろうか、と周りにいる生徒の顔を窺いつつ、階段を上り、教室の扉の前まで行った。……約一ヶ月ぶりの登校だけれど、誰も私のことを指差したりとかはしていなかった。まぁ、そんなもん、なのかな。
  私は、三回もたっぷりと深呼吸をし、なかに入る。
  敢えて、教室は見渡さないことにした。そこに桃弥がいてもいなくても、私は華井さんに話しかけるという行動を、変えるべきではないから。
  授業開始数分前に来たので、大体みんな来ていた。華井さんも席に着いている。
  私は、迷わず華井さんに向かって歩いていく。
  ちらほらと、視線を感じた。
  けど、何も怖くなかった。
「あの……華井、さん」
  私は、心臓をバクバクと鳴らしながらも、席に座ってスマホを触る華井さんに、真正面から話しかける。
  えっ?   と、華井さんは、ぱっと顔を上げた。
  それから、大きな目をパチクリとさせ、こちらをまじまじと見つめていた。……あぁ、前髪なしで見る華井さんはこんなにも可愛いのか。別の意味で目を逸らしたくなる。けど、私は真っすぐに目を見て、言う。
「お久しぶり、です。燦美野です」
  瞬間、教室中がザワッとした。
  一気に視線が集まってきて、あちこちから声がする。「え?  貞子?」「マジ?  イメチェン?」など、騒然としていた。私の目が露わになっただけで、こんなことになるのか……と冷や汗が背中を伝っていく。
ごくり、と唾を飲み込んだ。
  そして、目の前の華井さんに、意識を集中させる。
「私、華井さんと、もう一度友達になりたいです!」
  よく通る声で言った。
  教室は、一瞬で静かになる。みんな、こちらに注目しているようだった。
  華井さんは、何も言わない。
どうしてか、潤んだ瞳で、私のことを見ていた。
「狩南さんが……華井さんに、何を言ったのかは分からないですけど……私のことを、信じて欲しいです」
面と向かって言うだけなのに、息が上がっていく。
「今までは、ちゃんと、目を見て話せなかったから……今日は、これだけを伝えに来ました」
  華井さんは、すぐに俯いてしまう。
  ひそひそと、「狩南って言った?」「あいつ何したの?」とみんなの声がする。今、向けられている視線のなかに、狩南さんのがあるのかは分からない。私はどうでも良い。けど、華井さんは、ずっと何かを言いたくて我慢しているように感じた。
「あの、華井さん……私は、今度こそ、華井さんに相応しい友達になれるように頑張りたいです。だから、」
  ――ガタッ!  と、華井さんは勢いよく立ち上がった。
  あぁ。また、どこかに行ってしまうのかな。
  そう思った時。
  力強く、抱き締められた。
  ふんわりと、フローラルな香りが鼻をかすめる。
「違う、の……っ、くるみんは、何も悪くないのぉ……」
  華井さんは、私の耳元で、鼻を勢いよく啜る。
それから、上ずった声で言う。
「あのね……っ、私、狩南に問い詰めたの……くるみんのこと、苛めてるでしょ?  ……って。そしたら、あっさり認めたから……やめてよぉ、って、言ったの。言ったら、狩南が……あんたが燦美野のこと無視したら、やめてあげる……って、言われて……」
  華井さんは、声を上げて泣き始めた。
  私は、華井さんの背中に手を回す。
「わ、私達ってぇ~……元々、ひとりだったでしょ……?  だから……っ、くるみんが、苦しむなら、今まで通りでいっかぁ~、って……」
  しゃくり上げ、私を抱きしめる腕に力を込めて言う。
「でも、やっぱり、私くるみんのこと好きだぁ」
  私の目からも、涙がぽろぽろと零れ落ちていった。
「華井さん……嬉しい、です」
「ごめんねぇ、これからは~、私も一緒に苛められるからぁ」
「いや、それは……」
  どんどん、私の背中が仰け反っていく。華井さんは、ずっと泣きながら、くるみん~好きだよぉ~、と連呼していた。
ふふ、と、思わず吹き出してしまった。
華井さんも、笑ってくれた。
  
  全身の、力が抜けていく。
  良かった。本当に、一歩踏み出して、良かった。
  私の世界は、ちゃんと、正しくなった。
  正しくなる世界が、ここに存在していた。
  
  お互いの顔を見て、また笑い合う。教室のどこからか、小さく拍手する音が聞こえてきた。段々、視線が剥がれていく。それから、「狩南……苛めとかしてたの?」と引き気味の声がして、誰かが勢いよく教室の扉を開けて出て行く音がした。

私は、ほっと胸を撫で下ろす。
その瞬間――。

「胡桃。本当に、良かったね」

  目の前に、桃弥が現れた。
  左半分、消えかかっていた。
  光の粒が、桃弥の身体から宙に舞い、ゆっくりと天に昇っていっていた。

「俺の未練も、解消してくれてありがとう」

  桃弥は、くりっとした目を優しく細める。

「この世界のどこに行っても、俺を信じてくれる人なんかいない。端から端まで、最低最悪な世界。……そう、絶望したままじゃ嫌だったんだ。
  本当は、もしかしたら……あのまま偶然事故に遭って死ななかったら、俺にとって良い世界もあったんじゃないかって……希望を捨て切れずにいた。
そんな世界で、あって欲しかった」
  桃弥は酷く顔を歪める。
「それが、俺の未練だった」 
  周りの何の音も聞こえなかった。
  ただただ、桃弥の声だけが胸のなかに入っていっていた。
「俺が絶望した教室で、俺とどこか似ている胡桃が、俺と似たような状況で、俺が出来なかった、したかったことを実現してくれたから……確信出来た。俺も、諦めないで生きられていたら、この教室で――……いや、ここじゃなくても」
  桃弥は、目を伏せて微笑む。
「俺の理想とする世界は築けたんだ、って」
「桃弥……っ」
「ありがとう、胡桃。俺は、胡桃のことを諦めたのに……っ。胡桃は、自分のことも、俺のことも、ずっと信じて頑張ってくれたんだね。本当に、ありがとう」
  光の粒が、ゆっくりと、けれど確実に、桃弥の身体を侵食していく。
  あぁ、消えちゃう。
  いなくなっちゃう。
  でも、これで良いんだ。私は、喜ばなくちゃ。
  そう思うのに。涙が、止まってくれなかった。

「消える前に、少し二人で話したいな」

  桃弥が言ったのと同時に、私は華井さんから離れ、「ちょっと、トイレに行ってきます!」と教室を出て行った。
  隣に、桃弥がついてきていた。
  私達は、急いで、屋上へと向かう。そこには、誰もいなかった。

「桃弥……っ、私、」
「落ち着いて、胡桃」
  桃弥は柔らかく微笑んだ。
「ほら、見て」片方しか残っていない腕を広げる。「けっこう、消えるの遅いから」
  半分くらい、けれどまだ確実に残っている桃弥の身体を見ながら、無理やり深呼吸をする。
「……凄く、可愛い目をしてるよね。胡桃は」
  せっかく落ち着けた心臓が、一瞬でバクンッと跳ね上がった。
「あっ、いや、その……あ、ありがとう、ございます」
  深く頭を下げる場面なのかは分からないけど、下げていた。桃弥は、明るく笑った。
  真っすぐに桃弥の目を見つめる。桃弥こそ、凄く可愛い目をしている。なんてことは言えないけど。
  私は、ゆっくりと口を開いた。
「お父さんと、ちゃんと話をしました。それで、前髪を切ることが出来たんです」
  おぉ、と桃弥は拍手しようとする。
けど、「あっ、半分消えてた」とからっとして言った。私は、イマイチ笑えなかった。
「やっぱり、何かすれ違っていただけだった?」
  こくん、と私は頷く。
  お父さんの、やけに眉間に皺が寄っている顔を思い出す。今朝も、朝食を食べているときも寄っていた。不味いとかではなく、癖らしい。
「……結局、私は表面的な部分しか見ていませんでした。狩南さんに、偉そうなこと言えませんね」
  言うと、桃弥は静かに首を横に振り、柔らかな眼差しをこちらに向ける。
「これから、見ていければ良いんだよ。気が付いた時から、ちゃんと変わり始めてるんだから」
  私は、目を瞑って俯く。涙が、一粒落ちていった。それから、桃弥の半分消えてしまった顔を見上げ、「そうですね」と、笑顔で言った。
  お別れが、近づいてきている。
  でも、何を話せば良いのか、よく分からなくなっていった。
  最後に、伝えたいこと――言わなければ、いけないこと。
  それは、桃弥への、祝福だと思った。
「桃弥。成仏出来そうで、良かったですね」
  声が、震えてしまっていた。ちゃんと目を見て言ったけど、視界が滲んでしまって、桃弥の顔がよく見えない。
  伝わっただろうか。押し込んでいる、気持ちはあるけれど……本当に、思っていることではあるから。自分の想いなんかより、桃弥の幸せの方が、ずっとずっと、大事だから。
「ありがとう、ございました。桃弥に出逢ってから、私の毎日は、輝き始めました。辛いことも、あったけれど……隣に、桃弥がいたから、前を向くことが出来ました。これからは、桃弥がいなくても、ちゃんと」
  言葉が、出てこなくなってしまった。
  涙と洟で汚れた顔を見られたくなくて、両手で顔を覆って俯いてしまう。
  自信が、ない。
  ちゃんとやれるって、言って、桃弥に安心して欲しいのに。
  笑顔で、さよならを言いたいのに。
「胡桃……俺も、胡桃に出逢えて、本当に良かったよ。ありがとうって、何度言っても足りないよ。胡桃が隣でずっと頑張ってくれてるのを見れたから、また、この世界に生まれてきたいな、って思えたんだ」
  腕で顔を強く拭い、桃弥を見る。
  真っ赤に目を充血させ、涙をこれでもかと流していた。
「俺、昨日、真っ暗な教室でひとり、ずっと願っていたんだ。パラレルワールドでもいいから、生きて胡桃と仲良くなれますように、って。六歳差だから……俺が色んなところに連れて行って、胡桃の初めてを全部奪うんだって――……あっ」
  桃弥が、慌てて右手をぶんぶんと振る。
「ち、違うんだよ。初めてっていうのはその……変な意味じゃなくて」
「変な意味で、良いですよ」
  もう、限界だった。
  最後に、これだけは、言わせて。
「私、桃弥のことが、」
「待って」
  凛とした口調で、遮られた。
「そういうのは、男から言わせてよ」
  桃弥は、ふわっと頬を緩める。
「好きだよ。大好き、胡桃」
  何も、考えられなくなっていく。
  嘘、だ。こんな奇跡――こんな、最後に……。
  涙が溢れて、顔が歪む。けど、私は、桃弥から目を逸らさなかった。
「私も、大好きです。ずっと、一生、大好きです」
  すると、桃弥が右手で顔を覆って俯いてしまった。
  足が、もう、なくなっていた。
  どんどん、桃弥が、この世界からいなくなっていく。
「あぁ、消えちゃう……なんでかな、消えたくないな。胡桃と、もっとずっと、一緒にいたいな」
  嗚咽混じりに、苦しそうに呟く桃弥。
  息が、しにくくなっていく。
  時間を巻き戻せたら、どんなに良いだろう、と思った。桃弥が死ぬ前に戻って、私が助けにいけたら――。
  あるいは、こんな形で出逢わなかったら――。
  神は、なんて意地悪なんだ、と思った。
「桃弥っ……」
  行かないで。
  そう言おうとした時、桃弥は笑った。
  息を漏らして、心底幸せそうに、笑った。
「俺、生きてるとき、ずっと消えたいって思ってたのに……死んでから、消えたくないって願うなんて思わなかった」
  私の目を見て、真っすぐに言う。
「胡桃は、神からのプレゼントだね」
  なんて、クサイか。そう言って、桃弥はまた笑った。
  あぁ、そうだ。
  こんなの、消える訳ない。
  桃弥と過ごした時間、貰った言葉、勇気――全部、私のなかに、残り続ける。
「私にも、沢山のプレゼントをありがとうございます。
桃弥は、私が生きている限り、絶対に消えません。
私のなかにいて、ずっと、勇気を与え続けてくれます。……そうですよね?」
  聞くと、桃弥は、満面の笑みを見せる。
「うん。その通りだよ」
  私は、やっと、笑顔になれた。
  もう、桃弥はほとんど、顔しか残っていなかった。
「胡桃」
「はい」
  私は、桃弥の顔に、唇を近づける。
「大好きだよ」
「大好きです」
  目を瞑った。
  そっと、唇に、柔らかいものが当たった。
  確かに、感じたんだ。
  ――でも。
  目を開けると、そこには、誰も何もいなかった。
「……………」
  私は、笑顔で言った。
「いってらっしゃい、桃弥」
  そして、静かに屋上の扉を閉め、教室へ戻っていった。














  桃弥がいなくなった翌日、お風呂上がりに部屋でドライヤーをしていると、お父さんが扉をノックしてきた。
「これ、さっき届いたんだが……胡桃のか?」
  そう言って渡されたのは、赤いリボンでラッピングされた、小さくて平らなダンボール箱だった。お洒落なロゴがデザインされているのを見て、すぐに思い当る。
桃弥とショッピングモールに行ったときに、選んで貰った財布だ。
「わっ、あ、そうです!  ありがとうございます!」
  慌てて受け取って、扉を閉めてしまった。
  ――恥ずかしい。
  中には、自分で〝Dear:燦美野胡桃  From:仙二桃弥〟と書いた、宛名が入っているだろうから……。
  おかしな態度を取ってしまったかな……と思ったけど、お父さんは「そうか、良かった」とだけ言って階段を下りていった。私は、ほっと胸を撫で下ろす。
  包装を開けると、一番上に自分の書いた宛名が入っていて、その下から財布が出てきた。くすんだピンク色の、大人っぽい長財布だ。
  確かに、あの日、桃弥に選んで貰ったものだ。
  間違いない。
  けれど私は――それを見て、複雑な気持ちになってしまった。
  仙二桃弥という、自分の筆跡で書かれた送り主。私の周りにいる人は、誰も知らない、見ることすら敵わなかった存在……。
桃弥は、本当に、居たんだよね?
ハァーっと深く長い溜息を吐き、染みのついた天井を見上げる。
  私、すごい面倒臭い女だな。
あれだけ、桃弥は私のなかにいて、消えないって……言ったのに。ちょっと時間が経てば、信じられないくらいの不安に押しつぶされそうになる。胸のなかに、大きなブラックホールが出来たみたいだ。自分で作り出したのに、飲み込まれないようにするので精一杯だ。
  分かっている。
  桃弥は、私の妄想なんかじゃない。確かにこの世に存在していた人だ。
  けど――隣に居たという、証拠はない。
「あぁああっ、駄目だぁ……」
  低い唸り声を上げ、ベッドにダイブする。
  私はなんて弱い人間なんだ。
  いなくなって寂しいのは分かるけど、しっかり、前を向かないと。
  そう、自分に言い聞かせる。
「…………」
  ふと、考えてみた。
  もしも、桃弥が、生きていた人だったら。
  私はどうしていただろう。
  写真を見返したりして、思い出に浸ったりしたのかな。
好き合った人が、突然、いなくなってしまったら。
  人はどうやって前に進んでいくんだろう? 
  暫くして、あっ、と私は身体を起こした。
  お父さんに、聞いてみよう。

  リビングに入ると、お父さんはうどんを茹でているところだった。こちらに気が付くと、「胡桃も食べるか?」と聞いてくる。私は、はい、と頷いておいた。
  ふたり向き合って座り、ネギが少しだけ入った熱々のうどんを啜る。
因みに、昨日は一緒にスーパーの弁当を食べていた。これからは自炊するようにしよう、と二人で話していた。カレーとか肉じゃがくらいなら作れるから、と。それから、敬語はやめてくれ、と言われたけど、癖だから気にしないで欲しい、徐々になおしていく、と言って、納得して貰った。
話し出すタイミングを窺う。
いきなり、お母さんが亡くなった時のことを聞くのもなぁ……と渋っていた。すると、お父さんはそんな私をチラッと見て、話しかけてくれる。
「最近、学校はどうだ?」
  何気なく聞いているようで、その声にはどこか不安が混じっているように感じた。
だから私は、微笑んで答える。
「楽しいですよ」
「そうか」
  ほっと息をつくように言い、勢いよくうどんを啜るお父さん。
  暫く沈黙が続いたから、もう少し付け足すことにした。
「前までは、辛いこともありましたけど……今は、凄く大事な友達がいるんです」
ほぉ、とお父さんは声を出し、どんな子なんだ?  と聞いてくる。私は、華井さんの顔を浮かべ、思いやりがあって可愛い人です、と言った。お父さんは、嬉しそうに頷いていた。
  それから、深く息を吐き出し、どこか遠くを見つめながら言う。
「人生は、辛いことの方が多いからなぁ。……父さんの場合だけど」
  お母さんのことを言っているのかな、と思った。
「……辛いことがあったときは、どうしてますか?」
  聞くと、お父さんは微笑む。
「ある言葉を思い出すんだ」
「言葉?」
「そう。かの有名な哲学者、ニーチェの名言だ」
目を伏せ、すらすらと言い始める。
「『生きることは苦しむことであり、くじけずに生き残ることは、その苦しみに何らかの意味を見いだすことである』ってな」
  それから、私の顔を見る。
「この言葉を聞いただけで、抱えている問題が全て解決した訳ではないんだが……一瞬でも、確かに心が軽くなったんだ。とりあえず、偉人の言うことを正解にしといてやろう、って頑張ってみたよ」
  晴れやかに言うから、私の頬も緩んだ。
「それで、意味というのは見つかったんですか?」
  お父さんは、私の目を真っ直ぐに見て言う。
「こうして胡桃と話せていることが、その答えだよ」
  少しだけ黙って見つめ合い、どちらからともなく息を漏らし、笑った。
  食器を洗い場に持っていったところで、私はようやく聞くことが出来た。
「お母さんと話したいなって思う時は……どうしてますか?」
  お父さんは、一瞬戸惑った顔をしたけど、すぐに答えてくれた。
「昔の写真を見返したり、お墓参りに行く、かな」
  ……そうか。
  お墓参り。
  桃弥も、生きていたんだから、どこかにある筈だ。
  私は、布団にくるまって考える。
  行きたい、と思った。桃弥のところへ、話しに行きたい。
  それに。
桃弥のお墓を見たら、確かにこの世に生きていたんだ、と安心出来るような気がした。
けど……と思う。
そんな自己中心的な理由で、行っても良いのだろうか。生前、知り合いでもなかった私が……。桃弥がそんなことを望んでいるかは分からないし、何処にあるかも分からない。そもそも作られていない、という可能性もある。
固く目を閉じても、なかなか寝つけなかった。
私はどうするべきなんだろう。
  
  寝不足のまま、学校に行くことになってしまった。教室に入ると、「あっ元貞子だ!」と陽気な男子達に弄られる。「はい。燦美野です」とだけ返事すると、何故か楽しそうにみんなで笑い合っていた。
  がやがやとしている教室のなかを、真っ直ぐ前を見て歩く。
  自分の席に近づくと、隣に座っている華井さんと目が合った。席替えしたけど、奇跡的にまた近くになったのだ。
「おはようございます、華井さん」
「おはよ~、くるみん」
  華井さんは、笑顔で手をひらひらと振ってくれる。
「くるみん、やっぱめっちゃ可愛いよぉ。前髪切って正解!」
  私も振り返そうかと思ったけど何もせず、席に着こうとした。
その時、華井さんが明るい声を上げる。
「わぁ!  その財布めっちゃ可愛い~!」
  私の腰辺りを指差し、目を輝かせていた。
  スカートのポケットから、桃弥に選んで貰った財布がはみ出していたのだ。……今朝、家を出る時はちゃんとしまえていたのに。肌身離さず持っておきたいけど、今度からは鞄に入れるようにしよう。落としてしまったら最悪だ。
「どこで買ったの~?」
「ええ、っと……」
  私は財布を手に持ち、戸惑ってしまう。店のロゴマークがお洒落にデザインされていて、なんと読めばいいのか分からない。
  そのうち、華井さんが立ち上がって財布を覗き込む。
「pioni-じゃん~!  それっぽいな、って思ってたんだぁ。この店めっちゃ可愛いの売ってるよねぇ。私けっこう行くよぉ。くるみんもそうだったりするの~?」
「あ……えっと」
  嘘は、吐きたくないな、と思った。
  だから、正直に言うことにした。
「実は、これ……好きな人から貰ったんです」
「ええぇ~!?」
  華井さんは大きな目を丸くし、誰だれぇ?  と顔を近づけて何度も聞いてきた。私は、「お、幼なじみです……」と目を逸らして言った。嘘を吐いてしまった。まさか、幽霊だなんて言えないし。
  ……好きな人から、は余計だったな。とすぐに思い直す。
  女の子がする普通の恋愛話に、憧れていたのかも知れない。
「へぇ~めっちゃ良いじゃん~!  詳しく聞かせてよぉ。……あっ、そうだ!」
  華井さんは、やたら頬を上げ、スマホを弄り出す。
  それから、きゃーっ、とひとりで甲高い声を上げた。
「見てみてぇ、これ~」こちらにスマホ画面を向ける。「財布のプレゼントの意味だよぉ」

――いつも貴方のそばに居たい。

シンプルに書かれた一文を見て、私はボッと火照る。
……偶然、だよね。桃弥は、知らなかったと思う。知ってたら、かなり面倒な人だから。あれだけ、俺のことは忘れてって散々言ってたんだもん。
  ふっ、と息を漏らして笑ってしまう。
  やっぱり、少しだけでも話しに行きたいなぁ。
  それから、華井さんに聞かれるがまま、桃弥の話をしていた。写真は見せられなかったけど、華井さんは私の話を聞くだけで楽しそうにしてくれていた。
  そのうち、話題が切り替わる。
「もうすぐ夏休みだね~」
  どこに遊びに行く?  と盛り上がっていると、授業開始のチャイムが鳴った。
  私は、ずっと上の空で先生の話を聞いていた。
  ……桃弥のことなら、この学校に、五年、いや六年以上務めている先生に聞けば、何か分かるかも知れない。 どこに住んでいたとかが分かれば、その近くの墓地に行けばいい。六年前に半年程しか通っていない生徒だから、先生が覚えているかは分からないけど……。
それでも、曖昧な情報でも良いから、何か欲しい。
  よし。と、ひとりで拳を固く握り締める。
  夏休みになる前に、聞き回らないと。

  休み時間をぜんぶ費やして、校内を歩き回った。
  知らない先生でも、ベテランっぽかったらとりあえず話しかけた。
  けど、誰も、桃弥の名前にピンとくる人はいなかった。
  とぼとぼと、静かな廊下を一人で歩く。
  昼休み、華井さんと一緒に食べるのを断ってまで探しているのに……。
  深く溜息を吐き、俯いてしまう。
  すると、何やら鋭い視線を感じた。
  前を見ると、少し先に狩南さんが立っていた。
「ねぇ」
  こちらを睨みながら、ずんずんと近付いてくる。
「は、はい……」
  前髪なしで見る狩南さんは、より迫力がある。けど、私はなんとか目を逸らさずに耐えた。
「一人で食べるのに、良い場所知らない?」
  そう言って、私の顔の前に、片手で弁当箱を提げて見せる。
「一人で、ですか」
「そう」
  私は少し迷ってから答える。
「教室じゃ、駄目なんですか?」
「……もういいわ」
  狩南さんは、冷めた声で呟き、通り過ぎて行った。
  その背中を見て、思い出す。
  一昨日。私と華井さんが仲直りした日の放課後、狩南さんは、教室で友達に問い詰められていた。「狩南、西田に告って振られたから華井に嫌がらせしてたってホント?」「てか何で貞子まで巻き込んでたの?」面白がって聞く友達に、狩南さんは、冷たく言い放った。
「もういいわ。なんか、あんたらと居てもつまんないし」
  素っ気ない態度で帰っていくと、すぐに狩南さんの悪口大会が始まっていた。
  どうして、あんなことを言ったんだろう?
  疑問に思いつつも、まぁ私が気にすることでもないか、と歩き出そうとした瞬間、狩南さんが足を止める。
「……あんたってさ、ほんと雑草みたいよね」
「へ?」
よく分からないことを言われ、呆けた声を出してしまう。
狩南さんは、ゆっくりとこちらを振り返った。
「踏みつけても踏みつけても、萎れないから。……つい最近まで、そこら辺の地面にも生えてなかった癖にさ。急に、分厚いコンクリートから顔出してきて……本当に、ウザイ」
  最後の方は、何だか弱々しい声になっていた。
  ……。雑草、か。
  私は、少し間を空けてから、静かに口を開く。
「けっこう、萎れてましたよ」
  狩南さんの目を真っ直ぐに見る。
「分厚いコンクリートから、顔を出せたのも……萎れて、萎れて、それでも上を向いて生えることが出来たのも、全部――心から大切な人が、いたからです」
  桃弥の笑顔を思い出し、頬が緩んだ。
「その人がいなかったら、私は……一生、陽の光を浴びることはなかったと、自信持って言えます」
  狩南さんは、怪訝そうに眉を顰めた。
「え、何。うちのクラスの人?」
「いや……あの、お、幼なじみ、です」
「幼なじみ?」
「は、はい……」
  他に何か聞かれるかと思ったけど、狩南さんは「ふうん」とだけ言い、目を逸らした。
  それから、大きく深い溜息を吐く。
「……私、華井だけじゃなくて、あんたにも恋愛で負けてるのね」
  低い声で呟き、自嘲した。
「いや、友情も負けてるか」
  俯き加減の姿勢になる狩南さん。
凄く、萎れている……。
何だか、西田くんに振られた時以上に落ち込んでいるように見えた。
「良かったら、話聞きますけど」
「うるさいのよ」
「あ、はい。すみません……」
  強い口調に気圧され、つい謝ってしまった。
もう、話は終わったのかな……。去って行こうとした時、また、狩南さんに呼び止められる。
「ねぇ」
狩南さんは、こちらを見ようとしなかった。
「どうしたら……あんた達みたいになれる?」
  私は、数秒間も固まってしまった。  
「……私達……?」
  聞き返すと、キッと睨みつけられる。けど、全然、怖くなかった。
「もういいわ」
  吐き捨てるように言い、狩南さんは今度こそ去って行く。
  どういう、意味だろう……?
  歩き出し、考えてみる。
  華井さんじゃなくて、華井さんと私みたいになりたい……?
思わず唸る。
やがて、ピンときた。
狩南さんは……もしかして、誰かの特別になりたかったんじゃないだろうか。
人なんて結局みんな表面的なところしか見てないし、ちょっとした切っ掛けで離れていくもの。以前、そう言い切っていた。
けど、本当は、ただ諦めているだけで。
好きな人が華井さんを見ているのも、華井さんについての嘘の噂に惑わされない私も、私の為に一緒に苛められる、とまで言った華井さんも、その関係が全部――理想的だった。
「どうしたらなれる、か……」
暫く考えてみるけど、なかなか答えは見つからなかった。
そのうち、私は桃弥のことについて考え始めていた。

  放課後。華井さんに一緒に帰ろうと言われたのも断って、数学の先生を探し回っていた。桃弥は数学の先生を知っているみたいだったから、先生も覚えているといいんだけど……。
夏休みまでに数学の授業はもうない。休み時間に、何回か職員室や数学科の教室に行ったけど、運悪くすれ違いになって会えなかった。
もう一度職員室に行ってから居ないのを確認し、数学科の教室に向かう。
すると、私の探していた先生は、ちょうど教室に入るところだった。
「あの、先生……っ」
  日当たりの悪い廊下に、私の足音だけが響く。
「なんだ。質問があるなら授業中にしろって言ってるだろ」
「いや、違うんです」 
  先生は、無言でこちらを見つめていた。心底面倒くさそうな顔をしている。やっぱり、この先生は苦手だな……と思いつつ、私はゆっくりと口を開いた。
「仙二桃弥という生徒を、知っていますか?」
  聞くと、先生は目を大きく丸くし、身体を固めた。
「仙二って……」
「五、六年前にこの学校にいた人です」
  先生はあからさまに気まずそうな顔をした。
  あぁ、良かった。この人は覚えているんだ。
「大丈夫です。亡くなっているのも、知っています」
  言うと、先生は思いっきり眉間に皺を寄せる。何が聞きたいんだ、と顔に書いてあった。
  私は、深く頭を下げる。
「お願いします……っ、どこに住んでいたとか、うろ覚えでもいいので、教えて欲しいんです」
  先生の後ずさる足音がした。
「どうして、そんなことを……」咳払いをし、「悪いが、何も知らん」ピシャリ、と扉を閉められてしまう。呼び止める暇もなかった。
途方に暮れ、その場に立ち尽くす。
  もう、諦めた方がいいのかな。
  そう思い、踵を返した途端、私は足を止めた。
  狩南さんが、立っていたから。
「もう亡くなっているって、どういうこと?」
  狩南さんは、腕を組み、静かにこちらを見つめていた。
「……どうして、ここに……」
「別に。ホームルーム終わったあと一人で教室出てったから、ちょっと、話でも聞いてもらおうかと思っただけよ」
  それで、ついてきていたの……?  もっと早く声を掛けてくれれば良かったのに。
「凄い必死になって誰か探してるようだったからさ、邪魔しちゃ悪いってタイミング窺ってたのよ。盗み聞きする気なんてなかったからね」
  狩南さんが私に気を遣っていたんだ、という衝撃的な事実に呆然としていると、「それより」と強い口調で睨まれる。
「せんじももや?  って人、あんたが言ってた、心から大切な人のことよね?」
「…………そう、ですけど」
「最近会った人じゃないの?  あんたが変わったのって、最近でしょ?」
  俯き、胃の辺りを手で押さえる。
  どうしよう。こんなの、どう、説明したらいいの……?  幽霊だなんて、言っても……。
眉を顰めて考えていると、バタバタバタ、と勢いよく走る音がこちらに近付いてくる。
「ちょっと~~!!!」
  顔を上げて見ると、華井さんが、凄い形相で鞄を掲げて来ていた。
「なに苛めてんのよぉ!!  ほら、シッシぃ!!」
  私の前に立ち、狩南さんの方に鞄をブンブンと縦に振る華井さん。
  狩南さんは後退りながらも、思い切りガンを飛ばしていた。
「は?  何。苛めてないんだけど」
「嘘吐くなぁ~!!  くるみん困ってるじゃん~!!」
  華井さんは、ぎゅうっと私を横から抱き締める。少し、手が震えていた。
「あの、華井さん……どうして」
「くるみん、今日は何だか休み時間とか昼休みもどっかに行ってたしぃ、放課後も一人で帰るっていうから、心配して来てみたのよ~。そしたらこれよ!  もぉ!!」
  ぷくぅ、と頬を膨らませ、狩南さんを睨みつける華井さん。けど、上目遣いをしているようにしか見えなくて、全然怖くなかった。
「いや、今は、苛められてないです……」
「ええっ。本当~?」
「今は、って言うの止めてくんない?  もう苛めてないし」
「……あ、そうですね。すみません」
  目を逸らし、謝ってしまう。
「んん~?  じゃあ何でぇ、二人一緒にいたの?」
  華井さんは私と狩南さんを交互に見る。
  私は、口を噤んでしまった。狩南さんも、何も言わなかった。その様子を見て、華井さんは余計に困った表情になっていく。
  ……もう、正直に言ってしまった方がいいかな。華井さんにも、心配させてしまったし……。
  私は、重い口を開いた。
「実は……」
  大まかに、事の経緯を話した。
  幽霊、という単語を出すと、二人ともあからさまに動揺していた。
  それはそうだ。変な人だ、って思われても仕方がない。けど、話し出すと、止まらなくて。桃弥がいなくなったところまで話した時には、涙が一筋流れていた。
  華井さんは、ゆっくりと背中を摩ってくれていた。
  胸のなかに立ち込めていた霧が、一気に晴れていくようだった。
  本当は、こうして、誰かに打ち明けたかったのかも知れない。
  弱い人間だ、と思う。
  話し終えると、二人とも、暫く何も言わなかった。
  時間が止まったように、しんとしていた。
「……困りますよね。いきなり、こんな話されても……」
  言うと、華井さんは更に私を抱き締める力を強くした。華井さんは俯いていて、表情はよく見えない。けど、身体の芯から温まっていって、華井さんの思いが伝わってくるようだった。
「私はぜんぶ信じるよぉ、友達だもん」
  目頭が、熱くなる。
「……信じて、くれるんですか?」
「うん!  今朝、桃弥くんのことを話していた時もぉ、すっごい楽しそうだったもん。私も好きな人いるからぁ、なんとなく嘘じゃないって分かるよ~」
「華井さん……」
  すると、狩南さんが短く言った。
「私も信じるけど」
  私と華井さんは、同時に狩南さんを見る。
  信じられないくらい、柔らかい表情をしていた。
「あんたは、私と違って嘘吐かないでしょ」
  
  こうして、三人で桃弥のお墓を探すことになった。

華井さんと狩南さんは、早速スマホで知り合いの上級生に連絡を取ってくれる。その上級生の先輩に桃弥のことを知っているか聞いて貰う、というやり方で情報収集をすることにしたのだ。
「ん~でもこれだと時間かかっちゃうねぇ」
  華井さんが、スマホで文字を打ちながら溜息を吐く。
「いや、全然、大丈夫です!  ありがとうございます」
  頭を下げていると、少し離れたところで電話している狩南さんが戻って来た。
「てか、思ったんだけどさ。うちらで探しに行けば良くない?」
「えっ……」
「探すってぇ?」
「この辺りの墓地に片っ端から行けば、見つかるでしょ。うちの高校の近くに住んでいた可能性の方が高いし。なかったらまぁ、そん時で」
  私は慌てて両手を顔の前で振った。
「いやいや、そこまでして貰うのは流石に……」
「何。じゃあ、諦めんの?」
  思わず口を噤んでしまう。すると、ぷっ、と華井さんが吹き出した。
「どうしたのぉ、狩南。キャラ変~?」
  おちょくるように言う華井さんに、狩南さんは深く眉間に皺を寄せると、目を逸らす。
「別に……」
  それから、蚊の鳴くような声で言った。
「悪かったわよ。今まで」
  私と華井さんは、目を合わせる。
「人って変わるもんねぇ~」

  そして、夏休みが始まる。

  私達は、毎日のように青空の下を自転車を漕いで探し回った。私は自転車を持っていなかったから、華井さんと狩南さんの後ろに交互に乗せてもらっていた。罪悪感はあったけど、そのうち、楽しさが上回った。
  眩し過ぎるくらいの太陽の光が、いつでも私達を照らしていた。
  何度も何度も、同じ道を行ったり来たりして、時には逸れ、時には転び、三人で手を取り合った。
一度、狩南さんが連絡を取ってくれた先輩から連絡がきて、桃弥のお葬式に出たことのある人が見つかった、とのことだった。その人は、直後にお墓参りに行ったことがあって、大体の場所を聞くことが出来た。
  そして、ついに――
「あった!!!!」
  桃弥のお墓を、見つけた。
  仙二桃弥、と名前がしっかりと刻まれていた。
  他のお墓と比べると一回り小さく、誰も手入れしていないようだった。雑草が好き放題生えていて、泥がこびりついている。酷い有様だった。
  私達は、すぐ近くにあった大型スーパーに行き、バケツや雑巾などの掃除道具、ロウソク、ライター、花を割り勘して買った。
  みんなでお墓を綺麗にし、ロウソクを立てる。
  相変わらず、太陽が燦々と降り注いでいた。
  私は、沢山の向日葵を花瓶に差す。
  これが、あなたに一番似合う花だと思ったんだ。
  華井さんと狩南さんは、待ってるから、と少し離れたところに行き、私を一人にしてくれた。
光を反射して輝くお墓の前に座り、静かに手を合わせる。
  桃弥。
  私、今、凄く幸せだよ。
  あなたに貰った温かさを、一生忘れません。
  今、私の周りには、私を思ってくれる人達が確かにいます。
  その人達がずっと笑顔でいれるよう、精一杯、胸を張って生きていきます。
  あなたに貰った勇気で、それだけは、諦めません。
  ふっ、と頬を緩め、仙二桃弥、と刻まれた名前を見る。
「愛してます」
  それだけ言うと、私は、笑顔で待ってくれている二人の元へ駆け寄っていった。

                                                                                  了



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