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食わず嫌いのジャミル

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「おかえり、ケイル。メシ食いに行こうぜ。俺、腹減った」
「ジャミル……。もうちょっと、言葉遣い綺麗にならない?」

 仕事帰りのケイルに抱きつくと、残念そうな顔を向けられた。

「なんで? メシはメシだろ」

 きょとんとしていると、ケイルが苦笑いで俺の手を握った。

「いいよ、夕ご飯を食べに行こう」

 言い直されて、「メシ」「食う」がまずかったのか、と気付いた。



 ケイルの屋敷からほど近い繁華街へと、ふたりで並んで歩く。潮風が吹いてきて、塩辛い香りがする。

 ――これが海の匂いだと知ったのは、ローマを出るときだったな。

 踊り子と演奏者に扮して、王宮からの追っ手を撒いたのは、一か月前だ。
 船旅を経てギリシャに着いて以来、ケイルの屋敷で暮らしている。仕事に繋がるような特技もないから、ケイルに養われているお気楽な身分だ。

 ケイルは毎日、庭園を造る注文を受けては早朝出かけ、夕方帰ってくる。売れっ子のようだ。
 夕飯は家で食べることもあるが、まだ他人の家になじめなくて、いっそ外で食べたほうが気楽なのが本音だ。ケイルに長年付き従ってきた乳母は、貴族に仕えているという自負があるのだろう、出身すら判然としない俺を訝しんでいるようだ。だからだろうか、街の中心部に近づくほど、俺は気が休まるのを感じた。

 都市の中心部は、一般的にアゴラと呼ばれる。役所や神殿などの公共機関が集まり、近くに商店街や市場が軒を連ねる。その中でも、食事をする場所や商店街に着くと、仕事帰りの人や、夕食を買う人でごった返していた。
 頭が埋もれそうなほど人がいるのに、だれも俺に注目しない。以前、王に侍っていた頃ローマにいたら、たちどころに大勢に囲まれただろう。

「街に来ると、ホッとする」

 そう呟いたら、ケイルが不思議そうに「どうして?」と尋ねた。

「ここなら、俺がローマで有名人だなんてだれも知らない。一人も俺を振り返らないからさ。前の都と違って、だれも俺を珍しそうに見たりしないし、特別扱いしない」

 人混みに揉まれていると、つくづく自由になったのだと思える。思い切って、ギリシャに来て良かった。

「この前、行列が出来てた居酒屋があっただろ。今日はそこに行こうぜ」

 駆け出そうとする俺の腕を、ケイルが引っ張った。

「ケイル?」
「気を抜かないで、ジャミル。貴族の集まりに連れて行かないのは、万が一きみを知っている人がいたら困るからだ。民衆に混ざっているほうが安心だと思って、こういう場所にいるけれど、警戒心をなくしちゃいけない。きっと今頃、王に探されている」

 ケイルの視線が、まっすぐに俺を捕らえる。軽くて楽天的なこいつが、これほど真摯な顔つきになるのは珍しい。
 ――そうだ、俺は隣国の後宮を抜け出したおたずね者だったんだ、と思い出す。

「……分かってるよ」

 居酒屋の列に並んでからは、お互い黙っていた。俺にもケイルにも、王の追っ手をどうすることもできない。外国にまで指名手配されているとは思わないが、本当ならケイルの屋敷にいたほうが安全だろう。



「いらっしゃいませ、ごゆっくりどうぞ」

 パピルスに書かれたメニューを渡されるが、ギリシャ語が得意じゃない俺には、半分も読めない。

「なぁ、なんて書いてあるんだ?」
「魚介類が専門のお店だって。前菜に、たこのマリネを頼んでみる?」
「蛸? 坊主頭に、脚が一杯あるやつだろ? ……呪われない?」

 生まれてこの方、悪魔の化身にしか見えない、と言うと噴き出された。

「ふふっ、大丈夫。丸ごと皿に盛られないから。細かくスライスされて出てくるよ」

 陶器の皿には玉葱と香草、それに白い輪切りの肉が出てきた。外側が赤くて、吸盤が付いている。

「ケイル、無理だ。吸盤が気持ち悪い……」
「じゃあ、細かく切ってあげる。念のため、目を瞑るといいよ。味は保証するから」

 グロテスクな形を怖がっていると、ケイルが細かく刻み、口に入れてくれた。

「ほら、あーんして?」
「う……」

 目を閉じると、余計に怖いのはなんでだろう。そう思いながら口を開ける。

「味は……悪くない」

 酸味が利いてて、香草のスッキリとした香りが嗅覚を刺激する。思わずモグモグと咀嚼していた。

「この歯ごたえ……。弾力があって面白い。美味い……!」

 目を開けると、やっぱり吸盤がグロかったけれど、歯ごたえは類をみないほどしっかりしてる。

「牛の胃袋に似ているな」
「だろう? 見た目で怖がるなんて損だよ。イカや蛸は見た目が良くないけれど、抜群に美味しいんだ。あ、こっちにも蜂蜜酒を頼むよ。ジャミルは葡萄酒にする?」
「いいのか? いつも未成年だからダメって言ってるのに」
「食わず嫌いを克服したお祝い」

 片目を瞑ってさかずきを掲げる。久々に口にする葡萄酒は濃くて甘かった。水で二、三倍に薄めるのが普通だが、この店はサービスがいい。蝋燭の火がケイルを照らして、やけに格好良く見えてしまうのは、酒だけのせいじゃないだろう。

「ありがとな、ケイル」
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