愚者のオラトリオ

Canaan

文字の大きさ
15 / 41
第2章 Surrender

06.事故のようなもの

しおりを挟む


 翌日の気分は最悪だった。
 ほとんど眠れなかったうえに、頭痛とちょっとした吐き気が続いている。

「ベネディクト。具合が悪そうだが……平気か?」
 出勤してきたヒューイはベネディクトの顔を見るなりそう訊ねた。
「……二日酔い」
「それは同情できんな」
 二日酔いだと答えると、途端にヒューイの声音や態度から「同情」が消えた。彼はてきぱきと資料を整理し、時間割を眺めながら、頭の中で今日の予定をどれだけ効率よくこなすかを考え始めたようだった。だが、ふと顔をあげてこちらを見る。
「ベネディクト……上着はどうした」
「え? あ、ああー……部屋に忘れた」
 ステラの部屋に。と、本当のことは言えなかったが、もともとベネディクトは、ヒューイのようにいつもかっちりと上着を着こんでいることはない。暑いと思ったら脱ぐし、スカーフも外すし、シャツのボタンも上のほうは開ける。
 だから「忘れた」といういいわけにも違和感はなかったのだろう。ヒューイは「そうか」とだけ呟くと、自分の作業に戻った。
 ベネディクトは眉間やこめかみ、うなじの周辺を押しながら、ちらりとハサウェイ教官長の机──今は、ステラが使っている机──を見る。
 資料や筆記用具が置いてあるが、それはきっちりと整頓されていた。おそらく昨日の退勤時のままだ。彼女が出勤してきた様子は窺えない。
 ベネディクトですらこの部屋に入るのを躊躇ったくらいだ。彼女は「合わせる顔がない」と休むことにしたのだろうか。
「……いや」
 彼女はそういうメンタルの持ち主ではない気もする。
 普通に考えたら、ベネディクト以上の二日酔いに悩まされているだけかもしれない。

 ──詫びが必要であれば、後日改めて話を訊く。

 ああいうセリフが出たということは、一応、悪いことをした自覚はあるのだろう。
 しかし、詫びといっても……普通はレイプしたら「ごめん」じゃ済まない。
 いや、でも。
 ベネディクトは昨夜の出来事について、判断ができないでいる。
 あれは果たしてセックスだったのだろうか、と。
 だいたい、そこに行くまでの経緯はちっとも色っぽくなかった。裸を見せろと言われ、見せたら見せたで、今度は「通常時に戻してみろ」とか無理難題を押しつけられて……ああいうことになった。
 これ以上はまずいと思っていたベネディクトも、ステラの中に己を埋めた瞬間は、その気になっていた。最後まで続けるつもりだった。
 でも彼女の強烈なセリフで、ベネディクトの心と一緒に逸物も萎えてしまった。
 あれは……セックスというよりも、事故に近いものではないだろうか。

 もうすぐ授業が始まる。
 ベネディクトはこめかみを痛いくらいに強く押して、昨夜のことを一度忘れるように努めた。


*


「せ、先生、早く薬湯をくれないか……」
「だめだめ。今の状態で飲ませたら、君、すぐ吐いちゃうでしょ」

 浅い眠りのあと起き上がると、ひどい頭痛と吐き気がステラを襲った。
 これまで生きてきて、こんなに具合が悪くなったことはなかった。
 なんとか医務室を訪ね、軍医に自分が陥っている状況を説明すると、それは二日酔いだと宣言された。
 二日酔い。しょっちゅう耳にする言葉だし、それを患った者を多く見てきたはずだが、初めて味わった。まさかこれほど死にそうな気分になるものだとは。
 今の騎士団に配属になって船に乗ることになった時、はじめのうちは船酔いで苦しんだものだが、それでもここまでひどい気分にはならなかったと思う。
 二日酔いの騎士が軍医から薬湯を貰うことは知っていた。決して美味いものではないが、我慢して飲み干すと、だんだんと楽になってくる……話ではそう聞いていた。
 だが医師はなかなか薬湯を作ってくれない。彼が言うには、ゲロゲロ吐きまくっている今飲んでも、すぐに体外に排出されてしまうから意味が無いらしい。

「薬湯はもうちょっと後だね。眠れそうなら眠っててもいいけど、仰向けにはならないでくれる? 吐いたものが詰まったら大変だから」
 医師に言われステラは身体の位置を直そうと思ったが、少し動くだけで何倍もの頭痛と吐き気に見舞われる。
「く、くそっ……もう酒は飲まんぞ……」
 洗面器を引き寄せながらステラは呟いた。
 それから考えた。こんなに具合が悪いのは、自分が悪いことをしたから罰が下ったせいもあるのだろうか、と。信心深いほうではないが、そんなことを思ってしまった。

 教会に花婿が来なかったあの日のことは、スキャンダルとなって社交界を駆け巡った。
 当初は「花婿がステラを裏切った、愛人と逃げた」と間違いではない話が人々に伝わっていたが、だんだんと「花婿が結婚後わずか数日で愛人を作って逃げた」、「花婿は初夜の床を裸で飛び出して、それ以来行方不明」など、大衆が好みそうな脚色のなされた噂が主流になっていったようだった。
 なんと、「ステラが初夜の床で夫を殺めた」という話も出回っていた。さすがにこれには笑ってしまったが、この噂が出回った時はステラはすでに黒鴎騎士団の団長であったから、信じてしまう者も多いらしい。
 やがてステラの醜聞は海賊たちにも知れ渡るようになった。黒鴎騎士団は海軍でトップ争いをしている優秀な騎士団であるし、海賊は海賊で情報通でいなければ命にかかわることもある。ステラの噂を海賊たちが知っていてもなんら不思議はない。
 そしてこちらに敵意を持っている者は、決まってステラの醜聞を挙げる。
 彼らは「旦那では満足できずに追い出したのか」「俺が相手してやろうか」「あんたの性欲が強すぎて、旦那が逃げ出したんだって?」「部下たちを代わる代わる部屋に呼んで、毎晩奉仕させているらしいなァ」……と、好き勝手を言うのだった。
 海賊たちに伝わっている話は事実とは違うし、なによりステラは男女の間で行われる秘め事を何も知らない。こちらが押し黙るか、向こうを物理的な手段で黙らせるかの、どちらかであった。
 ステラは何も知らないが……でも、男たちは女の身体に夢中になることは知っていた。
 フェルビア港からネドシア島まで約一週間。稀に別のコースと日程を組むこともあるが、ネドシアの港に一、二日停泊したあと、再びフェルビアまで戻る、というのが黒鴎騎士団の巡航パターンだ。そしてネドシアの港に到着してわずかな休暇を与えた途端、騎士たちは娼館か飲み屋に出かけていくのが常だった。
 一週間でこれほど飢えるとは、女の身体には酒や麻薬のような常習性があるのだろうかと、ステラは不思議に思っていた。
 一方的に下ネタを浴びせられて、言い返すことができずに癪だという気持ちはもとからあった。男女の間でどんなことが行われるのか、知りたいとも思っていた。
 宣言したとおり、自分の純潔には何の価値もない。今後結婚することなどないであろうからだ。だから手ごろな相手がいれば試してみたいと、常々考えていた。
 部下の誰かに命令すれば、裸くらいは見せてもらえただろう。しかし「団長は何も知らない」ことが知れてしまえば、それは自分の弱みに繋がる。だから自分の部下ではだめだった。
 そして手ごろと思える相手が現れた。彼も自分の部下には違いないが、一時的なものだ。そしてステラの休暇が終われば、もう顔を合わせることもない相手。
 さらに、純潔を捨ててもいいと思える男──価値は無いなりにも、捨てる相手は選びたかった──が、ベ……ベネディクト?・ラスキンであった。
 妻も恋人もなく、ある程度女慣れはしているが、でも遊び人という感じではない、寛容で柔軟な男。後腐れもなさそうだし、ぴったりだと思ったのだ。
 話を持ちかけた時点では、あの伸び縮みする器官について勉強させてもらうつもりだったが、射精しなくてはもとの状態には戻れないのだと言う。
 ステラには「この男なら、別にいいか」という気持ちがあったし、男はとにかく下ネタと性行為が大好きなのだという先入観もあった。実際にラスキンはカチカチになって興奮していたから、「こいつだって、例外ではない」と確信した。

 でも、ラスキンにだって選ぶ権利はあるのだと知った。
 彼は射精することなく性交不能状態に陥ってしまったからだ。
 あれは、いわゆる「萎える」という状態だったのではないだろうか。
 途中までビンビンだったくせに、肝心なところでああなってしまった理由……彼は「ステラではだめだった」「ステラとはしたくなかった」。そういうことなのだ。
 自分がしたことは、強姦と一緒かもしれない。
「詫びて済むことではないのだろうな……」

 この男なら。
 そう思える男が現れたのは初めてだった。
 行動を共にするうちに、ラスキンとの間に信頼関係らしきものが芽生えた気もしていた。
 自分があんなことをしなければ、ラスキンとの友情のような何かは、ステラの休暇後も続いていたかもしれない。
 それを自らの手で断ち切ってしまった……。

「ラスキン……惜しい男をなくしたものだ」
「勝手に殺さないでくれませんかね」
「……!?」
 独り言に返事がかえってきたので、ステラは飛び起きた。でも、頭痛に襲われて再び蹲ることになった。
「だいぶ、酷いみたいっすね。これ、薬湯です。医師が、もう飲んでもいいって言ってましたよ」
 ラスキンは親指で医師のいる診察室のほうを指した。
「ハサウェイ代理が出勤した形跡はなかったんで、たぶんここかと思ったんですよ」
 医師にステラが来ていないか訊ねると、奥のベッドにいると教えてもらい、ついでに「そろそろ飲んでもいいだろう」と薬湯も渡されたそうだ。
「あ、ああ。助かった……」
 ステラはのろのろとした動きで薬湯の入ったカップを受け取った。
「ラスキン。貴様は……平気なのか? その、二日酔いのことだが」
「午前中はそれなりに。今はもう平気っす」
 時間を確かめると、今は昼休みにあたる時間であった。
「すまん。仕事に穴をあけてしまった」
「今のところ、代理に確認してもらわなくちゃいけない案件は発生してないです。今日はゆっくり休んでくださいよ。あ。あと、俺の……上着なんですけど……」
「私の部屋から持っていけ。鍵は開いている」
 このとき昨日の出来事が見えない塊となって、二人の間に現れた気がした。見えないが、湿っぽくて、重くて、胸が苦しくなるような空気が漂っているのはわかる。
 ラスキンのほうが先に動いた。彼はステラの傍にある洗面器を手に取ろうとしたのだ。
「これ、替えてきます」
「ま、待て! 見るな! 返せ!」
 すると彼は呆れたような表情になる。
「自分のゲロ返せって……あんた何言ってるんですか」
「だからだ! 他人に吐瀉物の始末をさせるほど私は弱ってない!」
「俺の尻穴むりやり暴いた女がよく言いますよ」
「あれは、医療行為だ!」
「じゃ、これも医療行為でしょうが」
「……。」
 さすがに言い返せなくなって黙ると、ラスキンは洗面器を抱えた。そしてこちらに背を向け、数歩進んでから呟いた。
「あんたの言うとおり、忘れます。まあ、しばらくはあんたの顔見るたびに考えちゃうでしょうけどね。でも、あれは事故のようなものだった……そう思うことにします。だから、詫びも必要ありません」
「ラスキン……」
 彼は振り返らずに立ち去っていく。

 ──あんたの言うとおり、忘れます

 後腐れがなくてちょうどいい。
 ラスキンは、ステラの望み通りの行動をとってくれた。
 しかし、なぜだろう。
 自分から提案したというのに、いざ無かったことにされると落胆するなんて。
 なぜだろう。不思議だった。


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【12月末日公開終了】有能女官の赴任先は辺境伯領

たぬきち25番
恋愛
辺境伯領の当主が他界。代わりに領主になったのは元騎士団の隊長ギルベルト(26) ずっと騎士団に在籍して領のことなど右も左もわからない。 そのため新しい辺境伯様は帳簿も書類も不備ばかり。しかも辺境伯領は王国の端なので修正も大変。 そこで仕事を終わらせるために、腕っぷしに定評のあるギリギリ貴族の男爵出身の女官ライラ(18)が辺境伯領に出向くことになった。   だがそこでライラを待っていたのは、元騎士とは思えないほどつかみどころのない辺境伯様と、前辺境伯夫妻の忘れ形見の3人のこどもたち(14歳男子、9歳男子、6歳女子)だった。 仕事のわからない辺境伯を助けながら、こどもたちの生活を助けたり、魔物を倒したり!? そしていつしか、ライラと辺境伯やこどもたちとの関係が変わっていく…… ※お待たせしました。 ※他サイト様にも掲載中

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

【完結】転生したら悪役継母でした

入魚ひえん@発売中◆巻き戻り冤罪令嬢◆
恋愛
聖女を優先する夫に避けられていたアルージュ。 その夜、夫が初めて寝室にやってきて命じたのは「聖女の隠し子を匿え」という理不尽なものだった。 しかも隠し子は、夫と同じ髪の色。 絶望するアルージュはよろめいて鏡にぶつかり、前世に読んだウェブ小説の悪妻に転生していることを思い出す。 記憶を取り戻すと、七年間も苦しんだ夫への愛は綺麗さっぱり消えた。 夫に奪われていたもの、不正の事実を着々と精算していく。 ◆愛されない悪妻が前世を思い出して転身したら、可愛い継子や最強の旦那様ができて、転生前の知識でスイーツやグルメ、家電を再現していく、異世界転生ファンタジー!◆ *旧題:転生したら悪妻でした

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

【完結】異世界に転移しましたら、四人の夫に溺愛されることになりました(笑)

かのん
恋愛
 気が付けば、喧騒など全く聞こえない、鳥のさえずりが穏やかに聞こえる森にいました。  わぁ、こんな静かなところ初めて~なんて、のんびりしていたら、目の前に麗しの美形達が現れて・・・  これは、女性が少ない世界に転移した二十九歳独身女性が、あれよあれよという間に精霊の愛し子として囲われ、いつのまにか四人の男性と結婚し、あれよあれよという間に溺愛される物語。 あっさりめのお話です。それでもよろしければどうぞ! 本日だけ、二話更新。毎日朝10時に更新します。 完結しておりますので、安心してお読みください。

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

靴屋の娘と三人のお兄様

こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!? ※小説家になろうにも投稿しています。

〈完結〉【書籍化・取り下げ予定】「他に愛するひとがいる」と言った旦那様が溺愛してくるのですが、そういうのは不要です

ごろごろみかん。
恋愛
「私には、他に愛するひとがいます」 「では、契約結婚といたしましょう」 そうして今の夫と結婚したシドローネ。 夫は、シドローネより四つも年下の若き騎士だ。 彼には愛するひとがいる。 それを理解した上で政略結婚を結んだはずだったのだが、だんだん夫の様子が変わり始めて……?

処理中です...