婚約破棄された令嬢の前に現れたのは、移動式屋台カフェ。

ルーシャオ

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第三章 オフェリア

第二話

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「あの、王都ではあなたのように、自転車でカフェを営むのでしょうか」
「いいや、俺だけだと思うよ」
「そう、ですか……あまりにも知らないことだらけで、驚いてしまいました」
「そういうもんさ。世の中のことなんて、誰もほとんど知らないよ。俺だって今でもコーヒー豆の焙煎に失敗するんだからね」

 オフェリアはほっとした。男性は客商売をやっているだけあって、話が弾む。

 不意に、スパイスのような特徴的で異国風の薫香と、ほんのり焦げた香ばしさが入り混じって、オフェリアの鼻腔をくすぐった。初めて嗅いだ匂いなのに、なぜか落ち着くその香りの元を視線で辿れば、自転車前カゴ上のカウンターにある密閉瓶の蓋が開けられていた。その中には濃い茶色の豆が七分目ほど入っている。

 花とも甘味とも方向性の違う芳しさに、オフェリアは目が醒める思いだ。

「ああ……いい香りですね。好きになりそうです」
「だろう? 初めてなのにこのよさが分かるなんて、お嬢さんも大したもんだ」
「そんなこと、ありませんわ」

 笑いながら、男性は手持ちのミルで豆を軽快に挽いていく。その手際の良さをオフェリアがぼうっと眺めていると、男性は目の前の作業から視線を外さずにこう言った。

「何かあったのかい?」
「え?」
「湯が沸くまで、少し時間がある。好きに話してくれていい」

 自転車後輪横のバッグから取り出されたガラスボトルから、細長い口のケトルへ水が注がれていく。炭コンロにかけられ、じわじわと炙られていくケトルは、おそらくまだまだうんともすんとも言わない。

 少しだけ緩んでいたオフェリアの顔は、途端に固くなり、視線は下を向いた。

 水色の瞳は薄けた土の地面を撫でるが、何の感慨も浮かばない。あの人も私に対して同じような目をしていたのかしら、などと思うくらいには、オフェリアはまだ未練があった。

 誰に話す謂れもないが、話さないでいられるほどオフェリアは心が強くはなかった。故郷から遠く離れた土地にやってきた心細さも、普段なら沈黙を保つオフェリアの心を溶かしたのかもしれない。

 オフェリアは、ポツポツと独白のようにつぶやく。

「実は、婚約者に会いにきたのですけれど、その……なかったことになりました」

 オフェリアの耳には、ミルの鋼鉄の歯が豆を砕く音が聞こえる。その音に紛れて聞こえなければそれでもいい、と思って、さらに口を開く。

「私、トッド子爵家のオフェリアと申します。その、王都にいる婚約者……と思っていた方からは、幼いころの口約束は婚約ではない、と。そんなはずはないと思いつつも、それ以上問い詰めることもできず、お屋敷の玄関から追い出されてしまいました。先年、故郷の父が伏せってしまって、死ぬ前にお金を工面して私を王都へ送るから、そちらで幸せになりなさいと言ってくれたのに」

 口に出してしまえば、自分はなんと愚かな話を信じていたのだろう。確認だってできたはずなのにその暇もなく故郷を発ち、勝手に婚約者と思っていた男性の家へ押しかけて断られた。恥ずかしい、田舎娘が舞い上がって自滅だなんて、オフェリアは自分をとことん責めたくなる。

 だが、ずっと信じていただけに——婚約という言葉をそう軽々しく扱うべきではないという感覚や常識が彼とも一致していたと思っていただけに、オフェリアの落胆は大きい。

 はあ、と大きなため息が漏れる。コーヒーミルの音が止んで、男性は問いを挟む。

「ふむ、貴族の婚約か。どこの家と?」
「アレンツ伯爵家の三男、エルリヒ様です。子どものころ、私の故郷に長期滞在なさっていたのです。そのときに婚約をしたはずなのですけれど、証拠は何もないと突っぱねられてしまいました」

 ここからはるか北方の氷海に面したトッド子爵家の領地は、貧しいながらも美しい雪原と森林を有する。時に狩りを楽しむ貴族がやってくることもあり、アレンツ伯爵家もその一つだった。

 オフェリアがまだ七つにもならないころ、エルリヒという黒髪の少年の案内役を父に申し付けられ、一緒に集落の周辺をよく散策したものだった。やがて仲良くなり、エルリヒはオフェリアへ「大きくなったら結婚しよう」と言い始め、「それにはまずしっかり婚約しなくてはだな」と父親たちもそれを笑って受け入れていた……のだが、果たしてそれは口約束にすぎなかったのか、と今でもオフェリアは疑問に思っている。

 ならばなぜ、オフェリアの父、病床のトッド子爵はオフェリアをエルリヒのいる王都へ送り出したのだろう。口約束ならばそんなことはしないだろうに、もしかしてオフェリアの父さえも口約束を本物と思い込んでいたという話だろうか。それもまた、厳格な父を知るオフェリアには考えられないことだった。

 ところが、である。

「まあ、確かに婚約は家同士の話だから、口約束だけでは無理筋かもしれないが……」
「分かっています。そんなものを鵜呑みにした、田舎者の私が悪いのです。だから」 
「いいや、そうじゃない」
「え?」

 棚からゴソゴソと何かを探しつつ、男性の口からはオフェリアにとって初耳の情報が飛び出す。

「口約束でも婚約という言葉を使った重みは、貴族なら理解しているはずさ。一時期傾いていたアレンツ伯爵家は、最近嫡男が大貴族に取り立てられて復興してね。それだから貧しかったころの約束は全部忘れ去ってしまいたいんだろうさ」

 顔を上げたオフェリアは、思わず唾を呑み込んだ。

 ——そういえば、アレンツ伯爵家はどうしてあのとき北方にやってきて、王都へ帰っていったのか。あれは王都や自領から一時逃げていたのではないだろうか。

 オフェリアは思い出す。

 アレンツ伯爵家の屋敷のエントランスで、オフェリアを一目見た出迎えの執事たちは困惑というよりも何かを言いづらそうな雰囲気で、現れたエルリヒ青年はオフェリアの名を聞くと一瞬反応したものの、結局至極迷惑そうにオフェリアを追い払ってしまった。

 ——それは、やはりエルリヒはオフェリアとの婚約を憶えていたが、もう履行したくないと思ったからなかったことにしたのではないだろうか。

 だとすると、辻褄が合う。

 つまりは、オフェリアは婚約を破棄されたのだ。口約束だったとは言い切れないが、もし何かしらの物証があったとしても、きっとアレンツ伯爵家もエルリヒも認めないだろう。いや、すでに何らかの手を打っていたのかもしれないが、王都からはるか離れたトッド子爵家がそれを知ることはなかったのだろう。

「そんな……」

 ざらざらと荒く挽かれた粉の山からあふれる香りも、オフェリアの意識を逸らすことはできない。現実に打ちのめされたオフェリアは、しばし呆然とする。

 オフェリアにはすでに頼るものがない。今更故郷に戻っても出戻り扱いでよく思われず、帰りの路銀も心許ない。行きは同道する使用人たちもいたが、彼らはトッド子爵家が窮乏のため雇えなくなったからオフェリアの王都行きに同行する旅費をもらってくっついてきただけで、もうとっくに別れてそれぞれの生活のために奔走していることだろう。

 ——だから……だから、ううん、悲しんでいたってしょうがない。落ち込むよりも、やるべきことがあるはずだ。

 厳寒の地で育まれたたくましい北方の民の血は、オフェリアにも流れている。すべての希望が失われたところで、生き抜くことを諦めるわけにはいかないのだ。

 オフェリアの心に不屈の精神シスが芽吹いたそのとき、眼前にそっと差し出されたのは小さな黒い焼き菓子だ。蜂蜜とバターの遠慮ない芳醇さが、炭コンロで温められたせいか倍増して、一瞬でオフェリアの意識を現実へと引っ張った。

「ほい、カヌレ。美味しいよ」
「あ、ありがとうございます」
「しかし、お嬢さんは北のほうの出だろう? ここまで来るのも大変だったろうに、ただ追い返すなんてねぇ」

 カヌレを受け取ったオフェリアは、もう嘆かないと決めていた。

「仕方ありませんわ。もし、エルリヒ様に心に決めた方が他にいらっしゃるなら、私なんて邪魔でしかないでしょうし……迷惑なのは間違いありませんもの」
「じゃあ、故郷に戻るのかい?」
「いいえ。もう戻れません。故郷は、長兄と次兄が激しい家督争いをしていて、巻き込まれないようにと遠い王都へ送られた事情もありますので、どこかで生計を立てる道を探します」

 そう、使用人たちと同じく、オフェリアもこの王都で生活していけばいい。貴族令嬢とは名ばかりで教養は乏しいが、薪割りだってできる。刺繍もできるし、狩猟の獲物を捌いて料理だってできる。こればかりは、田舎者であるがゆえの取り柄と言っていいだろう。

 カヌレを一口齧って、オフェリアはふわふわしっとりの生地と厚めの焦げ皮を味わう。これも作れるようになれば、お菓子屋さんパティスリーだってできるかも、などと楽しげに思えるほどに、オフェリアは前を向く。

 その表情を見て、男性もニコッと笑っていた。

「ん、前向きなのは立派だ。貴族のご令嬢とは思えないほどに」
「ふふっ」

 じわじわと熱せられていたケトルが甲高い声で主張する。男性はすぐに分厚いミトンを着けてケトルを炭から下ろし、セットしていた陶器製のドリッパーへと静かにお湯を注ぐ。ふわりと贅沢なほどコーヒーの香りは広がり、もうすぐだとオフェリアへ告げてきた。

 ほんの少し、あと少しと待てば、ドリッパーの下にあるまんまるのガラスサーバーに黒い雫が溜まっていき、世にも不思議な飲み物が出来上がる。飲んだことなんてないのに、香りはすごくいいそれは、オフェリアの興味を存分に惹くものだ。故郷の温かい飲み物なんて苦くてまずいものしかなかったし、甘いものなんて滅多に味わえない。領主たるトッド子爵家でさえその有り様だったのだから、王都の片隅でこんなふうに楽しめることは、いいことなのだ——きっと、そう。

 男性からたっぷりとコーヒーの注がれたカップを受け取り、こんな説明を受ける。

「淹れたてのコーヒーをどうぞ。軽めの、少し酸味がある味わいだが、時間とともに味も香りも変わってくるやつなんだ。カヌレを食べながら味わってくれ」
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