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2、婚約者
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しおりを挟む「あ、あの……?」
顔をなでられていることに気づいて、体が固まってしまう。手の当たっているところがじんわりと温かい。右手の親指で頬をこするようにさわりながらカイルさんが話しはじめた。
「涙のあとが残っている。……何かひどいことを言われたのか?」
「え?」
涙のあとがあると言われて手で顔をさわる。すると、かすかに湿っている箇所があった。自分では気付かなかったけれど、あまりに衝撃的な言葉を聞いて無意識に涙が流れていたらしい。
「エリオールが、昼に店長の婚約者だという男が来たと話していた。だが、2人とも感情的になってしまうから営業時間後にまた来るとな。男と会った時の店長がどこか怯えているように見えたと言っていて、話を切り上げて急いで来たが……。もう少し早く来れれば……」
「そんなことはないです! カイルさんの背中が見えたときはすごく安心しました。それに、あんなに肩で息をするまで急いで来てくれたのですから」
カイルさんはホッとした様子でまた親指で頬をなで、私の顔を覗き込む。
「俺は店長には傷ついてほしくない。また何かあったらすぐに俺に伝えろ。毎日店に来れるようにするから、次に婚約者が来たらその時に教えてくれ」
言っていることは頼もしいし、心配そうな視線を向けてくるがそろそろ私の方は限界だった。
心臓はバクバクするし、顔にも熱が集まっている。わざとなのか無意識なのか、さっきからずっと頬をなでられていて恥ずかしくて仕方がない。
意を決してカイルさんに手を離してくれるように告げた。
「あの、もう泣き止んでいますし大丈夫ですよ」
「何がだ?」
何のことを言っているのか気づいていない様子だ。そっと腕に手を軽く添えて教えると、最初は首を傾げていたがバッとすごい勢いで顔から手を離した。
めずらしく慌てた表情で、耳を真っ赤に染めながら早口で話し始める。
「す、すまない。最初に泣いているのかと思ってそのまま無意識に……」
2人とも真っ赤になって俯く。何か話さないと、と話題を探していた私たちだがカイルさんがあっと思いついた様子で問いかけた。
「そ、それで、婚約者に何を言われていたんだ?」
さっきまでの私とハビエルの様子で疑問に思うことがあったのだろう。振ったとしても、まだ婚約者であることには変わりがない。私たちの間で何があったのか知りたいようだ。
「前までいた場所へ戻って来いと言われました。私は、今まで暮らしてきた場所にはもう戻らないつもりでここに来たんです。だからハビエルの言うことを断ったのですが、そしたらテルとヒナのことを言ってきて……」
「つまりは脅されたのか。でも、なぜそんなに店長に帰ってきて欲しいんだ?」
「私は都合がいい女だからのようです。興味がなくて放っておいたのを、口を出さないから便利な人だと思われているらしくて。私がいなくなって、婚約を破棄されそうだからそれを阻止するために戻ってほしいみたいですね」
「婚約者のことをそんな風に……。店長は戻るつもりがないんだよな?」
「はい。テルとヒナもいますし、夢だったブックカフェを開けたので戻るつもりなんて全くないです」
力強くうなずくと、顎に手をあてて考え込んでいる。顔を上げると少し聞き辛そうにしながらも質問してきた。
「さっきから考えていたんだが、店長はその、貴族なのか? 婚約者が貴族のような服装だったしここにある本の魔法もかなりのものだ。それを扱える人を先生と呼べるとは、かなり高位の貴族ではないか?」
言われてみれば、とハビエルの服装を思い出して納得してしまう。あんな装飾のある服は、街に住んでいる人は着るはずがない。
ハビエルの服装と先生の魔法で私の実家の予想がついてしまったが、王族とまでは考えが及ばないはずだ。
少し嘘を交えながら言葉を濁すようにしてカイルさんに語りかける。
「テナード先生は、少しだけ実家に縁があったので教えてもらっただけです。そんな貴族といえるほどのものではないですよ」
ふつうの高位の貴族だった娘が、急に街中で暮らしていけるはずがない。家の掃除から食事、全てメイドたちに任せきりだ。私みたいに前世の記憶がない限り、働く方法もまるでわからずに力尽きてしまうだろう。
カイルさんは、私と一緒に暮らしていたときの生活を知っている。
貴族ではないというのは信じてもらえないと思うが、後は勝手に収入もあまりなく貧乏な貴族だったと誤解してくれれば万々歳だ。
「それよりも、カイルさんお願いがあります」
自然にこの話を切り上げて、ちょうどお願いしたかったことを頼むことにした。
「なんだ?」
「実は子ども達についてですが、もし私がいなくなったりしたら守ってくれませんか? ずっと面倒を見て欲しいとはいいません。孤児院に連れていったり、少なくともあの年でまた路頭に迷うようなことは避けてあげたいんです」
今日のハビエルの口調だと、私が断り続けていると2人に手を出してきそうだ。ソシリス王国に戻るつもりなんて全くないが、本当に子供たちに何かしようとしてきたら行く決断をするかもしれない。
その時に、残った2人を頼みたいのだ。カイルさんの人柄なら安心できるし、ヒナもなついている。
まだ独り身の人にずっと面倒を見て欲しいなんて事は言わないが、この店に来る前のような生活をして欲しくない。
お願いします、と頭を下げて返事を待っていると、さっきよりも怒っているかのような低い声で話し出した。
「婚約者の言ったことを気にしているのか? もし子供たちに手を出してこようとしても、俺が必ずどうにかしてやる。騎士団がこのお店の周辺を巡回するようにしたり、さっきも言ったが俺が毎日来てあの婚約者から守ってやる。だから、まるで自分がいなくなるようなことを言うのはやめろ」
私の肩をつかみながら真剣な表情で言う。少し怖いけれど、何故かいつもカイルさんの言う事は信頼できる。絶対に守ってくれるという安心感みたいなものがあるのだ。
私もハビエルの言いなりになるのは嫌だし、ここまで言ってくれるなら信じてみよう。
「そこまでおっしゃってくれてありがとうございます。ハビエルがどうくるのか分かりませんが、ぜひお願いします」
ハビエルはどんな手段で来るかわからない。もしその時に騎士団の人もカイルさんも誰もいなければやすやすと負けてしまう気がする。
でも、それでも子供たちは絶対に守ってもらえる。私さえ連れて行けばテルとヒナに用はないからだ。
私はカイルさんを信じてできるだけハビエルに対抗する。どんな手段で来たって屈しないつもりだ。
だから、私は自らついていくような選択は絶対にしない。ちゃんと対策も考えて必ず逃げ切る。
でも、もしも万が一、ソシリス王国に連れていかれるような状況になってしまったら今はカイルさんだけが頼みだ。
ビートとトマさんは大掛かりな家の工事で、しばらく現地で泊まり込みをしている。あと2週間ほどは帰ってこない予定だと聞いた。
テナード先生もしばらくカフェに来ていない。不安げな考えを振り払うように頭を振る。
店の外では風が吹き、プレートのカタカタという音が聴こえる。
2人でしばらくその音に耳をすましてから、時間も遅くなったため今日は別れた。
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