3 / 49
第2章:沈黙の旋律
しおりを挟む
陽菜の「静かすぎる部分」の正体に触れたあの日から、優子の心には細い棘が刺さったままだった。
そんなある日、陽菜が通う中学校で三者面談が行われた。
「陽菜さんの美術の課題、ご覧になりましたか?」
担任の教師が差し出したのは、陽菜が描いた一枚のスケッチだった。それは校舎の片隅にある階段を、独特の透視図法で切り取ったものだった。
「中学生でここまで正確にパースを理解して、なおかつ光と影の使い方が叙情的な子は珍しい。将来は、建築の道なども向いているかもしれません」
優子は息を呑んだ。
緻密な線の引き方、影を落とすときの独特の筆圧……。それは、かつて拓也がファミレスのバイトの合間に、レジロールの裏紙へさらさらと描いて見せてくれた、将来住みたい家のスケッチに驚くほど似ていた。
「……そうですか。ありがとうございます」
何とかそれだけを答え、学校を後にした。
家族の明るいリズムに馴染めず、一人で静かに何かを観察していた陽菜の時間。それは、自分の中にある「血」の才能を無意識に磨く時間だったのかもしれない。そう思うと、優子は陽菜の存在がひどく尊く、そして恐ろしかった。
その週の金曜日、四十三歳になった優子は、パート先である街の情報誌の編集部で、次号の特集ページを整理していた。
テーマは「この街を変える、次世代のクリエイターたち」。
ゲラ(校正紙)を捲っていた優子の指が、あるページで凍りついた。
『建築家・瀬戸拓也(35)――静寂をデザインする。』
そこには、モノトーンのシャツを纏い、図面を前に静かに微笑む一人の男の写真があった。
二十二歳だったあの頃の幼さは消え、責任ある立場にふさわしい、凛とした大人の男の顔になっている。しかし、少しだけ右に首をかしげてインタビューに応える仕草は、まぎれもなく優子の知る拓也だった。
記事には、彼が都内の大手事務所を経て独立し、現在は地元に近いこのエリアで、新しい文化センターの設計プロジェクトを任されていることが記されていた。
「この瀬戸さん、三十代半ばでこの実績は凄いのよ」
同僚がコーヒーを置きながら覗き込んできた。
「無駄な音を排除した、静かな空間を作るのが得意なんですって。陽菜ちゃんみたいな、落ち着いたタイプが好みそうな素敵な図書館を今作ってるらしいわよ」
優子の耳には、同僚の声が遠くのノイズのようにしか聞こえなかった。
拓也が、三十五歳という働き盛りの男として、すぐそばにいる。
そして皮肉なことに、彼が心血を注いでいる「静寂」という世界観は、陽菜がこの家で見せている「静かな佇まい」と、鮮やかに共鳴していた。
不意に、あの別れの日、涙の味がした最後のキスの記憶が蘇る。
『あなたには、もっと素敵な恋をしてほしい』
そう告げて彼を突き放した自分を、今の彼はどう思っているだろうか。自分は四十三歳になり、人生の秋を迎えようとしている。一方の彼は、今まさに花開こうとしていた。
ふと窓の外を見ると、空からは予報になかった雨が降り始めていた。
アスファルトが濡れる匂いが、十数年前の記憶を容赦なく引き摺り出してくる。
優子は震える手で、ゲラの中の彼の名前をそっと指でなぞった。
陽菜の中にある「血」の正体が、今、現実の「拓也」という存在となって、優子の平穏な日常のすぐ隣まで押し寄せていた。
そんなある日、陽菜が通う中学校で三者面談が行われた。
「陽菜さんの美術の課題、ご覧になりましたか?」
担任の教師が差し出したのは、陽菜が描いた一枚のスケッチだった。それは校舎の片隅にある階段を、独特の透視図法で切り取ったものだった。
「中学生でここまで正確にパースを理解して、なおかつ光と影の使い方が叙情的な子は珍しい。将来は、建築の道なども向いているかもしれません」
優子は息を呑んだ。
緻密な線の引き方、影を落とすときの独特の筆圧……。それは、かつて拓也がファミレスのバイトの合間に、レジロールの裏紙へさらさらと描いて見せてくれた、将来住みたい家のスケッチに驚くほど似ていた。
「……そうですか。ありがとうございます」
何とかそれだけを答え、学校を後にした。
家族の明るいリズムに馴染めず、一人で静かに何かを観察していた陽菜の時間。それは、自分の中にある「血」の才能を無意識に磨く時間だったのかもしれない。そう思うと、優子は陽菜の存在がひどく尊く、そして恐ろしかった。
その週の金曜日、四十三歳になった優子は、パート先である街の情報誌の編集部で、次号の特集ページを整理していた。
テーマは「この街を変える、次世代のクリエイターたち」。
ゲラ(校正紙)を捲っていた優子の指が、あるページで凍りついた。
『建築家・瀬戸拓也(35)――静寂をデザインする。』
そこには、モノトーンのシャツを纏い、図面を前に静かに微笑む一人の男の写真があった。
二十二歳だったあの頃の幼さは消え、責任ある立場にふさわしい、凛とした大人の男の顔になっている。しかし、少しだけ右に首をかしげてインタビューに応える仕草は、まぎれもなく優子の知る拓也だった。
記事には、彼が都内の大手事務所を経て独立し、現在は地元に近いこのエリアで、新しい文化センターの設計プロジェクトを任されていることが記されていた。
「この瀬戸さん、三十代半ばでこの実績は凄いのよ」
同僚がコーヒーを置きながら覗き込んできた。
「無駄な音を排除した、静かな空間を作るのが得意なんですって。陽菜ちゃんみたいな、落ち着いたタイプが好みそうな素敵な図書館を今作ってるらしいわよ」
優子の耳には、同僚の声が遠くのノイズのようにしか聞こえなかった。
拓也が、三十五歳という働き盛りの男として、すぐそばにいる。
そして皮肉なことに、彼が心血を注いでいる「静寂」という世界観は、陽菜がこの家で見せている「静かな佇まい」と、鮮やかに共鳴していた。
不意に、あの別れの日、涙の味がした最後のキスの記憶が蘇る。
『あなたには、もっと素敵な恋をしてほしい』
そう告げて彼を突き放した自分を、今の彼はどう思っているだろうか。自分は四十三歳になり、人生の秋を迎えようとしている。一方の彼は、今まさに花開こうとしていた。
ふと窓の外を見ると、空からは予報になかった雨が降り始めていた。
アスファルトが濡れる匂いが、十数年前の記憶を容赦なく引き摺り出してくる。
優子は震える手で、ゲラの中の彼の名前をそっと指でなぞった。
陽菜の中にある「血」の正体が、今、現実の「拓也」という存在となって、優子の平穏な日常のすぐ隣まで押し寄せていた。
0
あなたにおすすめの小説
不倫妻への鎮魂歌 ―サレ夫が選んだ、最も残酷で静かな復讐―
MisakiNonagase
大衆娯楽
「サレ夫、再生。不倫妻、転落。──その代償は、あまりに重い。」
「嘘で塗り固めた20年より、真実で歩む明日がいい。」
失って初めて気づく、守られていた日々の輝き。
46歳の美香にとって、誠実な夫と二人の息子に囲まれた生活は、退屈で窮屈な「檻」だった。若い男からの甘い誘惑に、彼女は20年の歳月を投げ打って飛び込んだ。 しかし、彼女が捨てたのは「檻」ではなく「聖域」だったのだ。 不倫、発覚、離婚、そして孤独。 かつての「美しい奥様」が、厚化粧で場末のスナックのカウンターに立つまでの足取りと、傷つきながらも真実の幸福を掴み取っていく夫・徹の再生を描く。 家族とは何か、誠実さとは何か。一通の離婚届が、二人の人生を光と影に分かつ。
17歳男子高生と32歳主婦の境界線
MisakiNonagase
恋愛
32歳の主婦・加恋。冷え切った家庭で孤独に苛まれる彼女を救い出したのは、ネットの向こう側にいた二十歳(はたち)と偽っていた17歳の少年・晴人だった。
「未成年との不倫」という、社会から断罪されるべき背徳。それでも二人は、震える手で未来への約束を交わす。少年が大学生になり、社会人となり、守られる存在から「守る男」へと成長していく中で、加恋は自らの手で「妻」という仮面を脱ぎ捨てていく…
還暦妻と若い彼 継承される情熱
MisakiNonagase
恋愛
61歳の睦美と、20歳の悠人。ライブ会場で出会った二人の「推し活」は、いつしか世代を超えた秘め事へと変わっていった。合鍵を使い、悠人の部屋で彼を待つ睦美の幸福。
しかし、その幸せの裏側で、娘の愛美もまた、同じ男の体温に触れ始めていた。
母譲りの仕草を見せる娘に、母の面影を重ねる青年。
同じ男を共有しているとは知らぬまま、母娘は「女」としての業(さが)を露呈していく。甘いお土産が繋ぐ、美しくも醜い三角関係の幕が上がる。
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。
その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。
全7話
清掃員と僕の密やかな情状
MisakiNonagase
恋愛
都心のオフィスビルで働く会社員の26歳・高城蓮(たかぎれん)。彼の無機質な日常に唯一の彩りを与えていたのは、夕方から現れる70歳の清掃員・山科和子だった。
青い作業服に身を包み、黙々と床を磨く彼女を、蓮は「気さくなおばあちゃん」だと思っていた。あの日、立ち飲み屋で私服姿の彼女と再会するまでは――。
肉じゃがの甘い湯気、溶けゆく氷の音、そして重ねた肌の温もり。
44歳の年齢差を超え、孤独を分かち合った二人が辿り着いた「愛の形」とは。これは、一人の青年が境界線の向こう側で教わった、残酷なまでに美しい人生の記録。
熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)その後
MisakiNonagase
恋愛
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合つまた。
その後、大学を卒業した祐輔(ユウスケ)の新たなストーリーが始まった。
全15話を予定
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる