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第3章:共犯者たちの午後
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週末の午後。優子は駅ビルの奥にある少し騒がしいカフェの隅で、沙織と美咲に向かい合っていた。かつて、若すぎる恋人たちを連れて温泉旅行に出かけたあの頃から、十数年。三人の関係は、形を変えながらも続いていた。
「信じられない。あの時の大学生が、今や時の人? 建築家として雑誌に載るなんてねぇ」
美咲が、優子が持参した情報誌を指先で弾いた。美咲は今、特定の相手はいないが、「いい人がいれば、またあの頃みたいな刺激があってもいい」と笑う自由奔放さを失っていない。
「でも、凄いわよ優子。あんなに素敵な大人の男になったんだから。三十五歳……一番いい時期じゃない」
そう言ってワイングラスを傾ける沙織は、当時とは別の、少し年上の既婚男性と今も関係を続けている。彼女にとって不倫は、生活に彩りを添える「必要悪」のようなものらしかった。
「……そういうことじゃないのよ。そんな呑気な話じゃないの」
優子は声を潜め、震える手でカップを握った。
「陽菜が……あの子が最近、あきらかに彼に似てきたの。外見だけじゃない。性格も、好む空気感も……。さっきの三者面談で、あの子のスケッチを見せられた時、私、心臓が止まるかと思ったわ」
「優子、まさかあの時のこと、旦那さんには……」
沙織が少しだけ真剣な表情になって身を乗り出す。
「言ってない。言えるわけないじゃない。あの子は健太さんの子として育ってきたの。健太さんだって、一ミリも疑ってない。でも……」
優子の脳裏に、家で控えめに、けれど真っ直ぐに自分を見つめる陽菜の瞳が浮かぶ。
「もし、彼がこの街にいるなら。もし、何かの拍子に二人が会ってしまったら。血の繋がりなんて、一目見れば分かってしまうかもしれない」
「考えすぎよ」と美咲が軽やかに笑う。「世の中には似た人なんていくらでもいるわ。それに、彼だってわざわざ十数年前の不倫相手の子供を自分の子だなんて疑わないわよ。彼は彼で、新しい人生を謳歌してるはずなんだから」
「そうかしら。あの子の中に、私と彼しか知らない『沈黙』があるのよ。それを彼が見つけた時、私はどうすればいいの?」
二人の友人は、優子の抱える底知れぬ恐怖を完全には理解していないようだった。彼女たちにとって、不倫は「日常の裏側にある非日常」でしかない。だが優子にとって、それは「日常そのものを根底から覆しかねない爆弾」だった。
「優子、あんたは真面目すぎるのよ」
沙織が優子の手をそっと握った。
「私たちが温泉旅行で笑ってたあの時間は、確かにあった。でも、それはもう終わったこと。今のあんたには、守るべき家族がいる。それだけでいいじゃない」
「……そうね。そうよね」
優子は無理に微笑んだが、胸の奥のざわつきは収まらなかった。
沙織と美咲の明るい声が遠ざかる。
優子だけが、あの十数年前の夏から一歩も外へ出られていないような、奇妙な感覚に陥っていた。
帰り道、夕暮れの街を一人で歩きながら、優子は祈るように呟いた。
どうか、彼と会うことがありませんように。
このまま、何も知らずに、彼がこの街から去ってくれますように。
だが、運命という名の振り子は、すでに大きく振れ始めていた。
「信じられない。あの時の大学生が、今や時の人? 建築家として雑誌に載るなんてねぇ」
美咲が、優子が持参した情報誌を指先で弾いた。美咲は今、特定の相手はいないが、「いい人がいれば、またあの頃みたいな刺激があってもいい」と笑う自由奔放さを失っていない。
「でも、凄いわよ優子。あんなに素敵な大人の男になったんだから。三十五歳……一番いい時期じゃない」
そう言ってワイングラスを傾ける沙織は、当時とは別の、少し年上の既婚男性と今も関係を続けている。彼女にとって不倫は、生活に彩りを添える「必要悪」のようなものらしかった。
「……そういうことじゃないのよ。そんな呑気な話じゃないの」
優子は声を潜め、震える手でカップを握った。
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「優子、まさかあの時のこと、旦那さんには……」
沙織が少しだけ真剣な表情になって身を乗り出す。
「言ってない。言えるわけないじゃない。あの子は健太さんの子として育ってきたの。健太さんだって、一ミリも疑ってない。でも……」
優子の脳裏に、家で控えめに、けれど真っ直ぐに自分を見つめる陽菜の瞳が浮かぶ。
「もし、彼がこの街にいるなら。もし、何かの拍子に二人が会ってしまったら。血の繋がりなんて、一目見れば分かってしまうかもしれない」
「考えすぎよ」と美咲が軽やかに笑う。「世の中には似た人なんていくらでもいるわ。それに、彼だってわざわざ十数年前の不倫相手の子供を自分の子だなんて疑わないわよ。彼は彼で、新しい人生を謳歌してるはずなんだから」
「そうかしら。あの子の中に、私と彼しか知らない『沈黙』があるのよ。それを彼が見つけた時、私はどうすればいいの?」
二人の友人は、優子の抱える底知れぬ恐怖を完全には理解していないようだった。彼女たちにとって、不倫は「日常の裏側にある非日常」でしかない。だが優子にとって、それは「日常そのものを根底から覆しかねない爆弾」だった。
「優子、あんたは真面目すぎるのよ」
沙織が優子の手をそっと握った。
「私たちが温泉旅行で笑ってたあの時間は、確かにあった。でも、それはもう終わったこと。今のあんたには、守るべき家族がいる。それだけでいいじゃない」
「……そうね。そうよね」
優子は無理に微笑んだが、胸の奥のざわつきは収まらなかった。
沙織と美咲の明るい声が遠ざかる。
優子だけが、あの十数年前の夏から一歩も外へ出られていないような、奇妙な感覚に陥っていた。
帰り道、夕暮れの街を一人で歩きながら、優子は祈るように呟いた。
どうか、彼と会うことがありませんように。
このまま、何も知らずに、彼がこの街から去ってくれますように。
だが、運命という名の振り子は、すでに大きく振れ始めていた。
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