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第13章:静かなる包囲網
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陽菜の部屋でのあの一件以来、優子の心臓は常に薄い氷の上を歩いているような、危うい鼓動を刻み続けていた。
(彼は、気づいたかもしれない……。あの影が、あの声が、かつての私であることに)
けれど、優子は必死に自分に言い聞かせた。
(でも、あれからもう相当な年月が経っているのよ。面影だって変わっているはずだし、きっと見間違いだと思うはず……。彼は建築家として成功している。過去の不倫相手に深入りして、今の地位を危うくするような人じゃない。もし気づかれたとしても、きっと、このまま静かに身を引いてくれるはず……)
それは、自分に言い聞かせたい「願望」が混じった、祈りに近い現実逃避だった。
一方、拓也もまた、事務所のデスクで深い葛藤の淵にいた。
画面越しに見た、あの怯えた肩のライン。動揺した時に耳元を触る、記憶の中の優子と同じ仕草。
(優子……いや、まさか。あれから十数年だ。人違いだ。……いや、そうであってくれたら、どれほど救われるか。でも、もし優子だとしたら……会いたい。けれど、絶対に会ってはいけない)
彼は何度も自分に言い聞かせた。偶然、似た仕草をする女性だっただけではないか。陽菜が自分の娘かもしれないなど、今の寂しい自分にとって都合のいい空想をしているだけではないのか、と。
けれど、もし本当に彼女なら。これ以上、正体を伏せたまま娘と接触し続けることは、彼女の今の平穏を壊す、卑怯な行為ではないか。
数日後、陽菜のもとに拓也から一通のメールが届いた。それは、これまでのような熱心な助言ではなく、一線を引いた、指導者としての責任を問う誠実すぎる内容だった。
『陽菜さん。先日はお母様に不快な思いをさせてしまい、申し訳ありませんでした。
見ず知らずの男性が、夜分に娘さんと対話していることに不安を感じるのは、親として当然のことです。
今後、君の指導を買って出る身として、私は一度、正式にご両親の了解をいただくべきだと考えています。もし、お父様かお母様が望まれるのであれば、お電話でも、あるいは書面でも構いません。きちんとした形を通した上で、君の夢を応援したいと思っています。』
陽菜はそのメールを、リビングにいた優子に見せた。
「お母さん、見て。瀬戸先生、お母さんにちゃんと謝りたいって。先生は、お母さんが心配してるような変な人じゃないんだよ。……お母さんから、先生に連絡してあげてくれない?」
優子は、震える指でその画面を見つめた。
拓也の「正攻法」。それは彼なりの誠実さであり、優子の平穏を壊さないための、精一杯の配慮なのだと分かった。ここで頑なに拒絶すれば、かえって陽菜の反発を招き、拓也自身が「不審者ではない」と証明するために、より直接的な行動に出る可能性もあった。
(ここで断れば、彼を追い詰めることになる。……彼にこれ以上、迷惑をかけたくない。それに、この正論を跳ね返す理由が、今の私にはない……)
「……わかったわ。お母さんが、代わりにメールをしておく。先生には、お父さんにも相談して、きちんとした形でお返事するって伝えておきなさい」
優子は、ついに「対話」の入り口に立たされたことを悟った。
さらに追い打ちをかけるように、事態は優子の予想もしない方向から動き出す。
週末の夜、夫の健太がリビングで晩酌をしながら、ふと口を開いた。
「そういえば優子。今度、うちの会社がスポンサーになってる建築コンペの表彰式があるんだけど。そこに、今売り出し中の瀬戸っていう建築家がゲストで来るらしいんだ。陽菜が興味あるって言ってた人だろ? もしあれなら、陽菜を連れて行ってやってもいいぞ」
優子の手から、持っていたグラスが滑り落ちそうになった。
「……え?」
「なんだよ、そんなに驚いて。関係者席のチケット、融通してもらえるかもしれないんだ。陽菜、喜ぶだろ?」
陽菜が弾かれたようにリビングへ飛び出してきた。「本当!? お父さん、行きたい! 瀬戸先生に会えるの!?」
「いいわよ、行かなくて!」
優子の鋭い拒絶に、健太と陽菜が同時に固まった。
「……優子? どうしたんだよ、急に」
あまりにも強い語調に、優子自身もハッとして言葉を失う。健太は少し困惑したように、しかし優しく諭すように言った。
「そんなに怒るなよ。俺はさ、あの子がこの歳で夢中になれるものを見つけたのが、親として誇らしいんだよ。将来の目標があるって、すごいことだろ? 頑張ってる陽菜に、本物を見せてやりたいんだ」
夫の純粋な親心、そして娘を誇る真っ直ぐな言葉。それが、優子の心に鉛のような罪悪感を突き刺す。
(……この人は、何も知らずに、ただ家族を愛しているだけなのに)
「……ごめんなさい。ちょっと、彩花の受験のことでピリピリしてたみたい」
優子はうっかり口走ってしまった本音を隠すように、無理やり作った笑みを浮かべた。
「そうよね……。陽菜がそこまで言うなら、お父さんと一緒なら、いいかもしれないわね」
自分の口から出た「許可」という名の宣告。
拓也の立場を守りたい。自分の家族を守りたい。そのためには、彼を拒絶し続けなければならない。
けれど、運命の歯車は、優子が必死に押さえる手をすり抜け、着実に二人を引き寄せ始めていた。
(彼は、気づいたかもしれない……。あの影が、あの声が、かつての私であることに)
けれど、優子は必死に自分に言い聞かせた。
(でも、あれからもう相当な年月が経っているのよ。面影だって変わっているはずだし、きっと見間違いだと思うはず……。彼は建築家として成功している。過去の不倫相手に深入りして、今の地位を危うくするような人じゃない。もし気づかれたとしても、きっと、このまま静かに身を引いてくれるはず……)
それは、自分に言い聞かせたい「願望」が混じった、祈りに近い現実逃避だった。
一方、拓也もまた、事務所のデスクで深い葛藤の淵にいた。
画面越しに見た、あの怯えた肩のライン。動揺した時に耳元を触る、記憶の中の優子と同じ仕草。
(優子……いや、まさか。あれから十数年だ。人違いだ。……いや、そうであってくれたら、どれほど救われるか。でも、もし優子だとしたら……会いたい。けれど、絶対に会ってはいけない)
彼は何度も自分に言い聞かせた。偶然、似た仕草をする女性だっただけではないか。陽菜が自分の娘かもしれないなど、今の寂しい自分にとって都合のいい空想をしているだけではないのか、と。
けれど、もし本当に彼女なら。これ以上、正体を伏せたまま娘と接触し続けることは、彼女の今の平穏を壊す、卑怯な行為ではないか。
数日後、陽菜のもとに拓也から一通のメールが届いた。それは、これまでのような熱心な助言ではなく、一線を引いた、指導者としての責任を問う誠実すぎる内容だった。
『陽菜さん。先日はお母様に不快な思いをさせてしまい、申し訳ありませんでした。
見ず知らずの男性が、夜分に娘さんと対話していることに不安を感じるのは、親として当然のことです。
今後、君の指導を買って出る身として、私は一度、正式にご両親の了解をいただくべきだと考えています。もし、お父様かお母様が望まれるのであれば、お電話でも、あるいは書面でも構いません。きちんとした形を通した上で、君の夢を応援したいと思っています。』
陽菜はそのメールを、リビングにいた優子に見せた。
「お母さん、見て。瀬戸先生、お母さんにちゃんと謝りたいって。先生は、お母さんが心配してるような変な人じゃないんだよ。……お母さんから、先生に連絡してあげてくれない?」
優子は、震える指でその画面を見つめた。
拓也の「正攻法」。それは彼なりの誠実さであり、優子の平穏を壊さないための、精一杯の配慮なのだと分かった。ここで頑なに拒絶すれば、かえって陽菜の反発を招き、拓也自身が「不審者ではない」と証明するために、より直接的な行動に出る可能性もあった。
(ここで断れば、彼を追い詰めることになる。……彼にこれ以上、迷惑をかけたくない。それに、この正論を跳ね返す理由が、今の私にはない……)
「……わかったわ。お母さんが、代わりにメールをしておく。先生には、お父さんにも相談して、きちんとした形でお返事するって伝えておきなさい」
優子は、ついに「対話」の入り口に立たされたことを悟った。
さらに追い打ちをかけるように、事態は優子の予想もしない方向から動き出す。
週末の夜、夫の健太がリビングで晩酌をしながら、ふと口を開いた。
「そういえば優子。今度、うちの会社がスポンサーになってる建築コンペの表彰式があるんだけど。そこに、今売り出し中の瀬戸っていう建築家がゲストで来るらしいんだ。陽菜が興味あるって言ってた人だろ? もしあれなら、陽菜を連れて行ってやってもいいぞ」
優子の手から、持っていたグラスが滑り落ちそうになった。
「……え?」
「なんだよ、そんなに驚いて。関係者席のチケット、融通してもらえるかもしれないんだ。陽菜、喜ぶだろ?」
陽菜が弾かれたようにリビングへ飛び出してきた。「本当!? お父さん、行きたい! 瀬戸先生に会えるの!?」
「いいわよ、行かなくて!」
優子の鋭い拒絶に、健太と陽菜が同時に固まった。
「……優子? どうしたんだよ、急に」
あまりにも強い語調に、優子自身もハッとして言葉を失う。健太は少し困惑したように、しかし優しく諭すように言った。
「そんなに怒るなよ。俺はさ、あの子がこの歳で夢中になれるものを見つけたのが、親として誇らしいんだよ。将来の目標があるって、すごいことだろ? 頑張ってる陽菜に、本物を見せてやりたいんだ」
夫の純粋な親心、そして娘を誇る真っ直ぐな言葉。それが、優子の心に鉛のような罪悪感を突き刺す。
(……この人は、何も知らずに、ただ家族を愛しているだけなのに)
「……ごめんなさい。ちょっと、彩花の受験のことでピリピリしてたみたい」
優子はうっかり口走ってしまった本音を隠すように、無理やり作った笑みを浮かべた。
「そうよね……。陽菜がそこまで言うなら、お父さんと一緒なら、いいかもしれないわね」
自分の口から出た「許可」という名の宣告。
拓也の立場を守りたい。自分の家族を守りたい。そのためには、彼を拒絶し続けなければならない。
けれど、運命の歯車は、優子が必死に押さえる手をすり抜け、着実に二人を引き寄せ始めていた。
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