​三十路の決断、四十路の静寂(しじま)

MisakiNonagase

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第15章:祈りの静寂

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表彰式の日が近づくにつれ、わが家のリビングは、建築コンペの話題で華やいでいた。
​「瀬戸先生、当日はどんなお話をしてくれるのかな」
陽菜は、健太が会社から持ち帰った招待状を宝物のように眺めている。その横顔は、新しい世界を夢見る少女そのもので、眩しいほどに輝いていた。
​「瀬戸さんの設計は、若い人にもファンが多いらしいからな。陽菜にとって、きっと良い刺激になるよ」
健太も、娘の成長を心から喜んでいる。
​優子はその光景を、キッチンから少し離れた場所で見守るしかなかった。
阻止しようと思えば、いくらでも理由はつくれた。彩花の受験を理由に反対したり、無理にでも別の予定をねじ込んだり。
けれど、かつて拓也に『素敵な恋をしてほしい』と願ったあの時と同じように、今の優子には、娘の真っ直ぐな瞳を曇らせることはできなかった。そして、拓也が積み上げてきた現在の地位を、自分の勝手な動揺で汚すことも。
​(……どうか、何も起こりませんように)
​優子は、夕食の準備をしながら、心の中で何度も繰り返した。
拓也が陽菜の中に自分の面影を見つけず、健太と拓也が言葉を交わすこともなく、ただ一人の建築家と、そのファンとして、穏やかに時間が過ぎ去ってほしい。
自分がかつて愛した人が、今の自分の愛する家族と、ただすれ違ってくれるだけでいい。
​けれど、その一方で、優子の心には冷たい霧のような不安が立ち込めていた。
カフェで沙織たちに吐露した、自分の中の「女」。
『また好きになってしまうかもしれない』という、十数年間潜伏していた感情。
その感情が、式典へ向かう陽菜たちの背中を見送る瞬間に、再び目を覚ましてしまうのではないかという恐怖だ。
​「お母さん、当日はお留守番? 」
陽菜の言葉に、優子は短く「そうだよ」と答えた。
​それは、優子にとって救いでもあった。
現場に行かなければ、拓也の姿を見ずに済む。あの声に、生で触れずに済む。
けれど、姿を見ないことが、かえって彼女の想像力を逞しくさせてしまう。
陽菜が彼に笑いかけ、彼が陽菜の才能を認め、そして……その傍らに、夫である健太がいる。
​その三人が同じ空間に集うという事実だけで、優子が十数年間かけて築き上げてきた「安全な日々」の土台が、音を立てて軋んでいるようだった。
​「……お母さん? 手、止まってるよ」
陽菜に指摘され、優子は慌てて玉ねぎを刻む手を動かした。
「……ごめんなさい。何を作ろうか考えていたの」
​何を願っても、時計の針は止まらない。
優子は、ただ静かに、何事もなく一日が終わることを願うことしかできなかった。
それは、嵐が過ぎ去るのを待つ、小さな舟のような心許なさだった。
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