​三十路の決断、四十路の静寂(しじま)

MisakiNonagase

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​第16章:すれ違う視線

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表彰式当日の午後。優子は、健太と陽菜が玄関を出ていくのを、どこか現実味のない心地で見送った。
​「お母さん、行ってくるね! 瀬戸先生にお礼、ちゃんと言ってくるから」
お気に入りのワンピースを着て、瞳を輝かせる13歳の陽菜。その姿は、かつて拓也が愛した優子の面影を、より若く、より純粋に結晶化させたようだった。
​「ああ、気をつけてな。優子、夕飯までには戻るよ」
健太が優しく肩を叩き、二人は駅へと向かった。
​一人残された静かなリビングで、優子は時計を眺めた。
式典が始まるまで、あと一時間。
(行かなくてよかった。……これでいいのよ)
そう自分に言い聞かせながら、震える手で茶葉をティーポットに入れた。現場に行かなければ、拓也の今の姿を見ずに済む。あの低い、落ち着いた声を聞かずに済む。
けれど、視界を塞げば塞ぐほど、優子の脳裏には35歳になった拓也の姿が、鮮明に、そして勝手な想像を交えて浮かび上がってしまった。
​同じ頃。都心のホールの楽屋で、拓也は鏡の前でネクタイを締め直していた。
35歳。建築家としての評価を確立し、自信と落ち着きを纏ったはずの彼だったが、今日ばかりは指先がわずかに強張っていた。
​(陽菜さんは、来るだろうか)
タブレット越しに見た、あの「母親」の影。
あれから十数年。人違いだと言い聞かせても、あの声の震え、あの肩のラインが、記憶の中の優子と重なって離れない。もし今日、客席に彼女がいたら。自分はどうすればいい。
​「瀬戸先生、お時間です」
​スタッフの声に促され、拓也は重い扉を開けた。
壇上に上がると、眩いスポットライトの向こうに、埋め尽くされた聴衆が見える。
拓也はスピーチを始めながら、無意識に客席の「ある一点」を探していた。
​そして、見つけた。
​最前列に近い関係者席。
そこには、期待に満ちた瞳で自分を見つめる、13歳の少女――陽菜がいた。
その隣には、穏やかな笑みを浮かべ、時折陽菜と親しげに耳打ちをする、がっしりとした体格の男性。優子の夫、健太だろう。
​拓也の言葉が、一瞬だけ途切れた。
​陽菜の瞳。それは、自分がかつて設計図を引くたびに、隣で見つめていてくれた優子の瞳そのものだった。
そしてその隣にいる、彼女の「今の人生」を支えている男の姿。
拓也は、胸の奥を鋭いナイフで抉られるような痛みと、得体の知れない熱い塊が込み上げてくるのを感じた。
​(……陽菜さん。君は、誰の子供なんだ)
​拓也は必死に理性を保ち、プロフェッショナルとしてのスピーチを続けた。
けれど、彼の視線は、無意識のうちに陽菜と健太の姿を追い続けてしまう。
自分に似ているのか。それとも、隣の男に似ているのか。
見極めようとすればするほど、過去と現在が混濁し、足元が崩れていくような感覚に陥った。
​一方、自宅のキッチンで夕飯の支度をしていた優子は、うっかり包丁で指先を傷つけていた。
「……あ」
赤い血が、白いまな板の上に一滴、零れ落ちる。
​その瞬間、優子は直感的に悟った。
どれだけ遠ざかろうとしても、どれだけ祈ったとしても。
自分たちが手放したはずの「あの日」の続きが、今、あの会場で、音もなく動き始めていることを。
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