​三十路の決断、四十路の静寂(しじま)

MisakiNonagase

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第17章:対面

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式典が終わり、華やかなロビーは興奮冷めやらぬ聴衆で溢れかえっていた。拓也は数人の関係者に囲まれながらも、出口へ向かう人波を無意識に追っていた。

「瀬戸先生!」

通る声に呼び止められ、拓也が振り返る。そこには、先ほど客席で見つけた少女、陽菜と、その傍らに立つ健太がいた。

「陽菜の父親の新塚(にいづか)です」 健太は迷いのない、穏やかで誠実な笑みを浮かべて右手を差し出した。

拓也はその手を見つめ、一瞬、呼吸を忘れた。優子の夫。彼女が十三年間、人生を共にしてきた男。拓也は動揺を押し殺し、建築家としての仮面を被ってその手を握り返した。

「瀬戸です。……本日は、ありがとうございます」

健太の手は大きく、温かかった。家族を支え、陽菜を慈しんで育ててきた自負が、その握手の強さに宿っているように感じられた。 「娘から聞きました。瀬戸先生に、建築の本当の面白さを教えていただいたと。親として、感謝に堪えません。よろしければ、この後少しでもお時間を……」

健太の言葉が、拓也の耳を素通りしていく。拓也の視線は、健太の肩越しに立つ陽菜に釘付けになっていた。近くで見れば見るほど、その鼻筋、唇の形、そして少し緊張した時に指先をいじる癖までもが、記憶の中の優子と重なる。

(優子……君は、この男性と、この子と、ずっと歩んできたのか)

拓也は、自分の中に黒く濁った感情が渦巻くのを感じた。それは嫉妬であり、孤独であり、そして——強烈な疑念だった。目の前の、あまりに幸せそうな父娘の姿。 「陽菜さん、今日は楽しんでくれたかな?」 拓也が努めて優しく問いかけると、陽菜は頬を上気させながら、まっすぐに拓也を見上げた。 「はい! 私、先生みたいに、住む人の心を守れるような建築家になりたいです」

その真っ直ぐな言葉が、拓也の胸を鋭く刺す。この子は、何も知らない。自分の母親が、かつてどのような想いで一人の大学生を突き放し、この平穏を守り抜いてきたのかを。

同じ頃。長女や三女が二階の自室に上がり、優子は一人、静まり返ったリビングで夕闇が部屋を浸食していくのを見つめていた。 手元の紅茶はとっくに冷め、刻み終えた野菜は乾き始めている。

(今頃、会っているのかもしれない。健太さんはきっと、瀬戸さんに挨拶をするはず。……陽菜を連れて、三人で……)

想像すればするほど、胃の奥がせり上がるような吐き気がした。もし拓也が、陽菜の顔を見てすべてを悟ったら? もし健太が、拓也の動揺に違和感を覚えたら? 優子が必死に守り続けてきた「真っ白な嘘」に、たった一滴、過去という名の墨汁が落とされるだけで、すべてが黒く染まってしまう。

「……お願い。何もしないで、拓也...」

優子は暗闇の中で、誰に届くともない祈りを呟いた。かつて彼に告げた『素敵な恋をしてほしい』という言葉。それは、彼を自由にするための慈愛だったはずだ。それなのに、今の自分は、彼が自分を忘れていないことを、そして陽菜の存在に気づいてしまうことを、心のどこかで、死ぬほど恐れながらも、求めてしまっているのではないか。

そのとき、玄関の鍵が開く音が、静寂を切り裂いた。

「ただいまー! お母さん、すごかったよ!」

弾んだ陽菜の声。そのすぐ後ろから聞こえる、健太の穏やかな足音。 優子は反射的に明るい笑顔を作って、廊下へと向かった。 それは、彼女にとって人生で最も困難な「演技」の始まりだった。
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