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第1話:聖域への闖入者
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地方都市特有の、湿り気を帯びた重苦しい夜だった。
中村洋平(24)は、市役所での膨大な事務作業を終え、重い体を引きずるようにして愛車を団地の駐車場へと滑り込ませた。エンジンを切ると、車内には一時の静寂が訪れる。フロントガラス越しに見上げる古い団地の窓明かりは、どれも一様にぼんやりと霞んでいた。
母の美鈴(50)は、地元の町工場で経理総務としてフルタイムで働いている。女手一つで自分と弟の瑠偉を育て上げた母は、いわゆる「町工場のおばちゃん」然とした、飾り気のない逞しさを持っていた。いつも数少ない本数のバスを乗り継ぎ、実直に帰宅する。
どちらが早く帰っても、冷蔵庫にあるもので適当に夕飯を済ませ、テレビの音をBGMに静かに夜を過ごす。それが、この家を支える二人なりの、無言の信頼に基づいたリズムだった。
だがその夜、玄関の扉を開けた瞬間に漂ってきたのは、いつもの生活臭ではなかった。
微かに鼻を突く、若々しくもどこか挑発的な、男物の香水の残り香。
上がりかまちには、洋平の地味な革靴とは対照的な、白く光るほど清潔に手入れされた男物のスニーカーが、まるで自分の場所を主張するように端正に揃えて置かれていた。
「あ、洋平。お帰りなさい」
リビングから現れた美鈴の声は、心なしか上ずっている。その背後、使い古されたソファからゆっくりと立ち上がった人影を見て、洋平は喉の奥が引き攣るのを感じた。
「……柳田……翔吾?」
「あ、中村先輩。お久しぶりです。お邪魔してます」
軽く顎を引いて挨拶をしたのは、東京の大学へ進学した弟・瑠偉の中学時代の同級生、翔吾(21)だった。
21歳になった今の翔吾は、かつての幼さを脱ぎ捨て、地元の名だたる大手工場の工員らしい、引き締まった体躯と清潔感のある青年に成長していた。だが、その整った顔立ちの奥に潜む、どこか獲物を狙うような生々しい視線を、洋平は反射的に捉えていた。
「洋平、びっくりしたでしょ? さっき駅前でね、ちょうどバスを待っていたら翔吾君と会って。彼が車で送ってくれるって言うから……。せっかくだから、上がってもらったのよ」
美鈴は息子の反応を窺うように、早口で言い訳を並べた。しかし、その瞳は潤み、頬は微かに上気している。仕事終わりの疲れ切った「母親」の顔ではなく、そこには明らかな動揺と、隠しきれない高揚があった。
「あのね、洋平。驚かないで聞いてほしいんだけど……」
美鈴は一度、背後の翔吾を振り返って勇気を得るように頷くと、決然と告げた。
「私、今、翔吾君とお付き合いしているの。隠しておくのも良くないし、ちゃんと洋平に紹介しておいたほうがいいと思って、今日は上がってもらったのよ」
時が止まったかのような沈黙がリビングを支配した。
母と、弟の友人が? 29歳もの年齢差がある二人が、恋人同士だというのか。
「……洋平先輩。急な話で申し訳ありません。俺、美鈴さんと真剣にお付き合いをさせてもらっています」
翔吾は真っ直ぐに洋平を見据え、淀みのない口調で告げた。自分の車を駆って母を送り届け、そのまま「紹介」という名目で、このリビングに足を踏み入れる。その態度は誠実を装っているが、洋平の胸には、整理のつかないざわつきが広がっていく。
「悪いっすね、先輩。美鈴さんのお言葉に甘えて……今日は少しゆっくりさせてもらいます」
美鈴が「今、お茶淹れるわね」と、甲斐甲斐しくキッチンへ向かう。洋平が言葉を失って立ち尽くす中、彼女は熱い茶の入った湯呑みを、恭しく翔吾の前に置いた。
「はい、翔吾君。熱いから気をつけてね」
「ありがとう、美鈴」
翔吾は事も無げに、自分より30年近く長く生きているはずの女性を、呼び捨てにした。美鈴は一瞬、息子である洋平を気にするように視線を泳がせたが、すぐに幸福そうな、蕩けたような微笑みを浮かべて俯いた。
「もしかしたら、これからお会いする機会が増えるかもしれませんが……よろしくお願いします、先輩」
翔吾は丁寧な言葉とは裏腹に、洋平の目の前で美鈴との親密さを隠そうともしなかった。母が呼ぶ、息子への「洋平」という、どこか事務的で生活感の染み付いた呼び名。
そして、年下の男が母を呼ぶ「美鈴」という、ひどく耳慣れない、支配的な響き。その決定的な違いが、平穏だった中村家の空気を、音もなく塗り替えようとしていた。
中村洋平(24)は、市役所での膨大な事務作業を終え、重い体を引きずるようにして愛車を団地の駐車場へと滑り込ませた。エンジンを切ると、車内には一時の静寂が訪れる。フロントガラス越しに見上げる古い団地の窓明かりは、どれも一様にぼんやりと霞んでいた。
母の美鈴(50)は、地元の町工場で経理総務としてフルタイムで働いている。女手一つで自分と弟の瑠偉を育て上げた母は、いわゆる「町工場のおばちゃん」然とした、飾り気のない逞しさを持っていた。いつも数少ない本数のバスを乗り継ぎ、実直に帰宅する。
どちらが早く帰っても、冷蔵庫にあるもので適当に夕飯を済ませ、テレビの音をBGMに静かに夜を過ごす。それが、この家を支える二人なりの、無言の信頼に基づいたリズムだった。
だがその夜、玄関の扉を開けた瞬間に漂ってきたのは、いつもの生活臭ではなかった。
微かに鼻を突く、若々しくもどこか挑発的な、男物の香水の残り香。
上がりかまちには、洋平の地味な革靴とは対照的な、白く光るほど清潔に手入れされた男物のスニーカーが、まるで自分の場所を主張するように端正に揃えて置かれていた。
「あ、洋平。お帰りなさい」
リビングから現れた美鈴の声は、心なしか上ずっている。その背後、使い古されたソファからゆっくりと立ち上がった人影を見て、洋平は喉の奥が引き攣るのを感じた。
「……柳田……翔吾?」
「あ、中村先輩。お久しぶりです。お邪魔してます」
軽く顎を引いて挨拶をしたのは、東京の大学へ進学した弟・瑠偉の中学時代の同級生、翔吾(21)だった。
21歳になった今の翔吾は、かつての幼さを脱ぎ捨て、地元の名だたる大手工場の工員らしい、引き締まった体躯と清潔感のある青年に成長していた。だが、その整った顔立ちの奥に潜む、どこか獲物を狙うような生々しい視線を、洋平は反射的に捉えていた。
「洋平、びっくりしたでしょ? さっき駅前でね、ちょうどバスを待っていたら翔吾君と会って。彼が車で送ってくれるって言うから……。せっかくだから、上がってもらったのよ」
美鈴は息子の反応を窺うように、早口で言い訳を並べた。しかし、その瞳は潤み、頬は微かに上気している。仕事終わりの疲れ切った「母親」の顔ではなく、そこには明らかな動揺と、隠しきれない高揚があった。
「あのね、洋平。驚かないで聞いてほしいんだけど……」
美鈴は一度、背後の翔吾を振り返って勇気を得るように頷くと、決然と告げた。
「私、今、翔吾君とお付き合いしているの。隠しておくのも良くないし、ちゃんと洋平に紹介しておいたほうがいいと思って、今日は上がってもらったのよ」
時が止まったかのような沈黙がリビングを支配した。
母と、弟の友人が? 29歳もの年齢差がある二人が、恋人同士だというのか。
「……洋平先輩。急な話で申し訳ありません。俺、美鈴さんと真剣にお付き合いをさせてもらっています」
翔吾は真っ直ぐに洋平を見据え、淀みのない口調で告げた。自分の車を駆って母を送り届け、そのまま「紹介」という名目で、このリビングに足を踏み入れる。その態度は誠実を装っているが、洋平の胸には、整理のつかないざわつきが広がっていく。
「悪いっすね、先輩。美鈴さんのお言葉に甘えて……今日は少しゆっくりさせてもらいます」
美鈴が「今、お茶淹れるわね」と、甲斐甲斐しくキッチンへ向かう。洋平が言葉を失って立ち尽くす中、彼女は熱い茶の入った湯呑みを、恭しく翔吾の前に置いた。
「はい、翔吾君。熱いから気をつけてね」
「ありがとう、美鈴」
翔吾は事も無げに、自分より30年近く長く生きているはずの女性を、呼び捨てにした。美鈴は一瞬、息子である洋平を気にするように視線を泳がせたが、すぐに幸福そうな、蕩けたような微笑みを浮かべて俯いた。
「もしかしたら、これからお会いする機会が増えるかもしれませんが……よろしくお願いします、先輩」
翔吾は丁寧な言葉とは裏腹に、洋平の目の前で美鈴との親密さを隠そうともしなかった。母が呼ぶ、息子への「洋平」という、どこか事務的で生活感の染み付いた呼び名。
そして、年下の男が母を呼ぶ「美鈴」という、ひどく耳慣れない、支配的な響き。その決定的な違いが、平穏だった中村家の空気を、音もなく塗り替えようとしていた。
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