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第5話:境界線を越える夜
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街の喧騒を遠くに聞きながら、二人は吸い込まれるようにその場所へと足を踏み入れた。
不自然なほど明るいネオンがアスファルトを毒々しい色に染めている。加恋は、隣を歩く晴人の体温をすぐそばに感じながら、自分の心臓が肋骨を内側から激しく叩く音を聞いていた。
32歳。結婚して6年。
道徳という言葉は、これまで彼女の人生を正しく繋ぎ止めるための、重い鎖だったはずだ。けれど今、その鎖は、晴人の細い指先が彼女の手の甲に触れるたび、音を立てて砕け散っていく。
部屋に入ると、遮光カーテンによって外界の光は完全に断たれた。
空調の低い唸り音だけが響く静寂の中で、晴人がゆっくりと加恋を抱き寄せた。彼の体からは、微かに夏の雨のような匂いがした。
「加恋さん……」
耳元で囁く彼の声は、これまでのどんなメッセージよりも震えていた。
彼に触れられるたび、加恋の体の中に眠っていた「女」の細胞が、一つひとつ激しく発火していく。悟との行為は、いつも義務の延長線上にある冷めた儀式だった。相手の顔も見ず、ただ淡々とやり過ごすための苦役。けれど、晴人の愛し方は違った。
彼は、戸惑っていた。
加恋の服に手をかける指先が、微かに、けれどはっきりと震えている。
リードしようと背伸びをしながらも、どこか辿り着くべき場所を探しあぐねているような、幼いまでの懸命さ。
「……晴人くん?」
「ごめん、僕……初めてなんだ。うまくできるか、わからないけど」
その告白に、加恋の胸が締め付けられた。20歳の大学生なら、それなりの経験があってもおかしくない。けれど、彼のその純粋な緊張感は、かえって加恋の愛おしさを爆発させた。
「大丈夫よ。ゆっくりで……」
加恋は彼を導くように、その背中に手を回した。
晴人の肌は驚くほど瑞々しく、熱かった。彼は加恋の指先一本、肌の数ミリ単位にまで、まるで神聖な何かに初めて触れるような熱を込めた。
不器用で、必死で、それでいて溢れんばかりの情熱。
加恋は、32年の人生で一度も経験したことのない、狂おしいほどの充足感に包まれた。この瞬間だけは、自分が誰の妻であるかも、明日から何が始まるかも、すべてを忘れることができた。
嵐のような時間が過ぎ去り、部屋には気だるい余韻が漂っていた。
晴人は、加恋の腕の中で深い眠りにつき、その寝顔は驚くほど無防備で幼かった。
加恋はサイドテーブルの小さな灯りの下で、彼の髪をそっと撫でた。
(私、この子の『初めて』を……もらってしまったんだわ)
その責任の重さと幸福感に浸りながら、ベッドの下に落ちていた晴人の鞄に目をやった。彼が脱ぎ捨てた上着が鞄に被さっており、中から何かが半分飛び出している。
鞄を整えてあげようと手を伸ばしたその時、サイドポケットから滑り落ちたのは、一枚のプラスチック製のカードだった。
「……え?」
加恋は、それを見た瞬間、全身の血が指先から引いていくのを感じた。
そこには、紛れもなく目の前で眠っている少年の写真があった。
けれど、記載されている文字は、加恋の認識を根本から破壊するものだった。
……………………………………
山村 晴人(やまむら はると)
生年月日:2008年3月15日
学年:高等学校 2年生
……………………………………
「2008年……」
加恋は、震える指で数字をなぞった。
今は2025年。3月生まれなら、彼はまだ17歳だ。
20歳の大学生だと言っていた彼は、法的にはまだ保護されるべき対象であり、社会的には「子供」と呼ばれる枠組みの中にいる高校生だった。
彼が「初めて」だと言った時のあの震え。
あの瑞々しい肌。
すべてが、二十歳の青年ではなく、十七歳の少年としての真実だったのだ。
視界が激しく歪んだ。
不倫という破滅に加え、相手が17歳の未成年であるという事実は、この恋を「純愛」から「犯罪」という決定的な絶望へと突き落とした。
「はると……くん?」
加恋の声は、乾いた砂のように掠れていた。
その時、ベッドの上の晴人がゆっくりと目を開けた。
彼は、自分の生徒手帳を握りしめ、青ざめた顔で立ち尽くす加恋の姿を見て、すべてを悟ったように顔を歪めた。
「……バレちゃった、ね」
その声は、隠し事がバレて怯える、幼い少年のものだった。
加恋の頭の中で、これまで彼と交わした「大人びた会話」の数々が、鋭いガラスの破片となって降り注ぐ。
出会ってしまった。
愛してしまった。
そして、決して越えてはいけない「17歳と32歳」という断崖絶壁を、二人は取り返しのつかない形で踏み越えてしまったのだ。
「ごめん、加恋さん。……本当に、ごめん」
晴人の瞳から大粒の涙がこぼれ、シーツに黒いシミを作った。
初体験の喜びを分かち合った直後の、あまりにも残酷な夜明けだった。
不自然なほど明るいネオンがアスファルトを毒々しい色に染めている。加恋は、隣を歩く晴人の体温をすぐそばに感じながら、自分の心臓が肋骨を内側から激しく叩く音を聞いていた。
32歳。結婚して6年。
道徳という言葉は、これまで彼女の人生を正しく繋ぎ止めるための、重い鎖だったはずだ。けれど今、その鎖は、晴人の細い指先が彼女の手の甲に触れるたび、音を立てて砕け散っていく。
部屋に入ると、遮光カーテンによって外界の光は完全に断たれた。
空調の低い唸り音だけが響く静寂の中で、晴人がゆっくりと加恋を抱き寄せた。彼の体からは、微かに夏の雨のような匂いがした。
「加恋さん……」
耳元で囁く彼の声は、これまでのどんなメッセージよりも震えていた。
彼に触れられるたび、加恋の体の中に眠っていた「女」の細胞が、一つひとつ激しく発火していく。悟との行為は、いつも義務の延長線上にある冷めた儀式だった。相手の顔も見ず、ただ淡々とやり過ごすための苦役。けれど、晴人の愛し方は違った。
彼は、戸惑っていた。
加恋の服に手をかける指先が、微かに、けれどはっきりと震えている。
リードしようと背伸びをしながらも、どこか辿り着くべき場所を探しあぐねているような、幼いまでの懸命さ。
「……晴人くん?」
「ごめん、僕……初めてなんだ。うまくできるか、わからないけど」
その告白に、加恋の胸が締め付けられた。20歳の大学生なら、それなりの経験があってもおかしくない。けれど、彼のその純粋な緊張感は、かえって加恋の愛おしさを爆発させた。
「大丈夫よ。ゆっくりで……」
加恋は彼を導くように、その背中に手を回した。
晴人の肌は驚くほど瑞々しく、熱かった。彼は加恋の指先一本、肌の数ミリ単位にまで、まるで神聖な何かに初めて触れるような熱を込めた。
不器用で、必死で、それでいて溢れんばかりの情熱。
加恋は、32年の人生で一度も経験したことのない、狂おしいほどの充足感に包まれた。この瞬間だけは、自分が誰の妻であるかも、明日から何が始まるかも、すべてを忘れることができた。
嵐のような時間が過ぎ去り、部屋には気だるい余韻が漂っていた。
晴人は、加恋の腕の中で深い眠りにつき、その寝顔は驚くほど無防備で幼かった。
加恋はサイドテーブルの小さな灯りの下で、彼の髪をそっと撫でた。
(私、この子の『初めて』を……もらってしまったんだわ)
その責任の重さと幸福感に浸りながら、ベッドの下に落ちていた晴人の鞄に目をやった。彼が脱ぎ捨てた上着が鞄に被さっており、中から何かが半分飛び出している。
鞄を整えてあげようと手を伸ばしたその時、サイドポケットから滑り落ちたのは、一枚のプラスチック製のカードだった。
「……え?」
加恋は、それを見た瞬間、全身の血が指先から引いていくのを感じた。
そこには、紛れもなく目の前で眠っている少年の写真があった。
けれど、記載されている文字は、加恋の認識を根本から破壊するものだった。
……………………………………
山村 晴人(やまむら はると)
生年月日:2008年3月15日
学年:高等学校 2年生
……………………………………
「2008年……」
加恋は、震える指で数字をなぞった。
今は2025年。3月生まれなら、彼はまだ17歳だ。
20歳の大学生だと言っていた彼は、法的にはまだ保護されるべき対象であり、社会的には「子供」と呼ばれる枠組みの中にいる高校生だった。
彼が「初めて」だと言った時のあの震え。
あの瑞々しい肌。
すべてが、二十歳の青年ではなく、十七歳の少年としての真実だったのだ。
視界が激しく歪んだ。
不倫という破滅に加え、相手が17歳の未成年であるという事実は、この恋を「純愛」から「犯罪」という決定的な絶望へと突き落とした。
「はると……くん?」
加恋の声は、乾いた砂のように掠れていた。
その時、ベッドの上の晴人がゆっくりと目を開けた。
彼は、自分の生徒手帳を握りしめ、青ざめた顔で立ち尽くす加恋の姿を見て、すべてを悟ったように顔を歪めた。
「……バレちゃった、ね」
その声は、隠し事がバレて怯える、幼い少年のものだった。
加恋の頭の中で、これまで彼と交わした「大人びた会話」の数々が、鋭いガラスの破片となって降り注ぐ。
出会ってしまった。
愛してしまった。
そして、決して越えてはいけない「17歳と32歳」という断崖絶壁を、二人は取り返しのつかない形で踏み越えてしまったのだ。
「ごめん、加恋さん。……本当に、ごめん」
晴人の瞳から大粒の涙がこぼれ、シーツに黒いシミを作った。
初体験の喜びを分かち合った直後の、あまりにも残酷な夜明けだった。
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