4 / 19
第4話:甘い毒と、秘められた日常
しおりを挟む
カフェでの初対面から1ヶ月。加恋の日常は、鮮やかな色彩を帯びると同時に、修復不可能な亀裂が入り始めていた。
朝、悟を送り出した後のリビングで、加恋はまずスマートフォンのロックを解除する。そこには必ず、晴人からの「おはよう」が届いている。たった4文字の言葉が、32歳の主婦の心を17歳の少女のように跳ねさせた。
「……今日、どこかで会えませんか?」
そんな晴人からの誘いに、加恋は躊躇なく「はい」と答えるようになっていた。
かつての彼女なら、掃除や洗濯、夕飯の献立作りに費やしていた時間は、今や晴人と会うための「準備」に充てられている。念入りなスキンケア、丁寧に巻いた髪、悟との生活では決して選ばなかった少し大胆な香水。鏡の中にいる自分は、もう「誰かの妻」ではなく、一人の「恋する女」だった。
二人の密会は、主に平日の昼間に行われた。
20歳の大学生を自称する晴人は、「今日は講義が休講になった」とか「ゼミの資料探しで外に出ている」という理由で、加恋を誘い出した。二人は、悟との生活圏内から遠く離れた海辺の公園や、古びた映画館、あるいは誰にも見つからない街の隙間のような路地裏を歩いた。
「加恋さん、そのブレスレット、似合ってますね」
晴人は、加恋が自分と会うために少し背伸びをしていることに気づいているようだった。彼は加恋の手首をそっと握り、その細さを確かめるように指を這わせる。
彼の指先は、悟のそれとは全く違っていた。悟の指はいつも冷たく、義務的な感触しか残さないが、晴人の指は驚くほど熱く、脈打つ鼓動が直接肌に伝わってくる。
「晴人くん……。私、こんなことしてていいのかな」
「いいんですよ。加恋さんは、もっと大切にされるべき人だから」
晴人の言葉は、加恋が最も欲しかった肯定だった。
彼は時折、自分の「大学生活」について語った。経済学の講義が退屈だとか、サークルの勧誘がしつこいとか。加恋はそれを微笑ましく聞いていたが、彼が時折見せる「大人びた諦念」のような表情に、奇妙な違和感を覚えることもあった。それは、20歳の若者が持つには、あまりにも深い孤独の影だった。
一方で、自宅での時間は、耐えがたい「演劇」へと変わっていった。
20時には帰宅する悟のために、加恋は完璧な夕食を準備する。
「おかえりなさい」「今日もお疲れ様」。
台詞(せりふ)は決まっている。悟は相変わらずテレビのニュースに目を向けたまま、加恋が昼間、別の男に抱かせた感情など微塵も気づかずに食事を平らげる。
「……ねえ、悟くん。もし私がいなくなったら、どうする?」
ふと漏らした加恋の問いに、悟は視線すら上げずに答えた。
「何言ってるんだよ。飯が不味くなるような冗談はやめてくれ」
その言葉が、加恋の心を決定的に冷え込ませた。彼にとって自分は、食事を作り、家を整える「機能」でしかない。
その夜、加恋は寝室のベッドで、背を向けて眠る悟の隣、密かにスマホを開いた。
晴人:「加恋さん、さっき別れたばかりなのに、もう会いたいです。あなたの温もりが、僕の肌に残っています」
そのメッセージを読んだ瞬間、加恋の目から涙が溢れた。
罪悪感がないわけではない。自分は結婚している。相手は一回り以上も年下の大学生だ。社会的な立場も、未来も、本来なら交わるはずのない二人。
けれど、この「甘い毒」を一度知ってしまった加恋には、もう毒のない日常を生きる術(すべ)がわからなくなっていた。
「……私も、会いたい」
震える指で返信を打つ。
二人の距離は、急速に縮まっていた。精神的な繋がりだけでは満足できなくなるのは、時間の問題だった。
晴人が提案した「次の約束」は、これまでのような公共の場所ではなく、より二人きりになれる場所――ホテルだった。
加恋は、自分が引き返せない境界線の直前に立っていることを自覚していた。
けれど、その先に地獄が待っているとしても、今の彼女には晴人のいない天国よりも、晴人と堕ちる地獄の方が魅力的に思えたのだ。
32歳の加恋と、本当は17歳である晴人。
運命の歯車は、最も残酷で、最も情熱的な一夜へと向かって回り始めた。
朝、悟を送り出した後のリビングで、加恋はまずスマートフォンのロックを解除する。そこには必ず、晴人からの「おはよう」が届いている。たった4文字の言葉が、32歳の主婦の心を17歳の少女のように跳ねさせた。
「……今日、どこかで会えませんか?」
そんな晴人からの誘いに、加恋は躊躇なく「はい」と答えるようになっていた。
かつての彼女なら、掃除や洗濯、夕飯の献立作りに費やしていた時間は、今や晴人と会うための「準備」に充てられている。念入りなスキンケア、丁寧に巻いた髪、悟との生活では決して選ばなかった少し大胆な香水。鏡の中にいる自分は、もう「誰かの妻」ではなく、一人の「恋する女」だった。
二人の密会は、主に平日の昼間に行われた。
20歳の大学生を自称する晴人は、「今日は講義が休講になった」とか「ゼミの資料探しで外に出ている」という理由で、加恋を誘い出した。二人は、悟との生活圏内から遠く離れた海辺の公園や、古びた映画館、あるいは誰にも見つからない街の隙間のような路地裏を歩いた。
「加恋さん、そのブレスレット、似合ってますね」
晴人は、加恋が自分と会うために少し背伸びをしていることに気づいているようだった。彼は加恋の手首をそっと握り、その細さを確かめるように指を這わせる。
彼の指先は、悟のそれとは全く違っていた。悟の指はいつも冷たく、義務的な感触しか残さないが、晴人の指は驚くほど熱く、脈打つ鼓動が直接肌に伝わってくる。
「晴人くん……。私、こんなことしてていいのかな」
「いいんですよ。加恋さんは、もっと大切にされるべき人だから」
晴人の言葉は、加恋が最も欲しかった肯定だった。
彼は時折、自分の「大学生活」について語った。経済学の講義が退屈だとか、サークルの勧誘がしつこいとか。加恋はそれを微笑ましく聞いていたが、彼が時折見せる「大人びた諦念」のような表情に、奇妙な違和感を覚えることもあった。それは、20歳の若者が持つには、あまりにも深い孤独の影だった。
一方で、自宅での時間は、耐えがたい「演劇」へと変わっていった。
20時には帰宅する悟のために、加恋は完璧な夕食を準備する。
「おかえりなさい」「今日もお疲れ様」。
台詞(せりふ)は決まっている。悟は相変わらずテレビのニュースに目を向けたまま、加恋が昼間、別の男に抱かせた感情など微塵も気づかずに食事を平らげる。
「……ねえ、悟くん。もし私がいなくなったら、どうする?」
ふと漏らした加恋の問いに、悟は視線すら上げずに答えた。
「何言ってるんだよ。飯が不味くなるような冗談はやめてくれ」
その言葉が、加恋の心を決定的に冷え込ませた。彼にとって自分は、食事を作り、家を整える「機能」でしかない。
その夜、加恋は寝室のベッドで、背を向けて眠る悟の隣、密かにスマホを開いた。
晴人:「加恋さん、さっき別れたばかりなのに、もう会いたいです。あなたの温もりが、僕の肌に残っています」
そのメッセージを読んだ瞬間、加恋の目から涙が溢れた。
罪悪感がないわけではない。自分は結婚している。相手は一回り以上も年下の大学生だ。社会的な立場も、未来も、本来なら交わるはずのない二人。
けれど、この「甘い毒」を一度知ってしまった加恋には、もう毒のない日常を生きる術(すべ)がわからなくなっていた。
「……私も、会いたい」
震える指で返信を打つ。
二人の距離は、急速に縮まっていた。精神的な繋がりだけでは満足できなくなるのは、時間の問題だった。
晴人が提案した「次の約束」は、これまでのような公共の場所ではなく、より二人きりになれる場所――ホテルだった。
加恋は、自分が引き返せない境界線の直前に立っていることを自覚していた。
けれど、その先に地獄が待っているとしても、今の彼女には晴人のいない天国よりも、晴人と堕ちる地獄の方が魅力的に思えたのだ。
32歳の加恋と、本当は17歳である晴人。
運命の歯車は、最も残酷で、最も情熱的な一夜へと向かって回り始めた。
0
あなたにおすすめの小説
熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)その後
MisakiNonagase
恋愛
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合つまた。
その後、大学を卒業した祐輔(ユウスケ)の新たなストーリーが始まった。
全15話を予定
還暦妻と若い彼 継承される情熱
MisakiNonagase
恋愛
61歳の睦美と、20歳の悠人。ライブ会場で出会った二人の「推し活」は、いつしか世代を超えた秘め事へと変わっていった。合鍵を使い、悠人の部屋で彼を待つ睦美の幸福。
しかし、その幸せの裏側で、娘の愛美もまた、同じ男の体温に触れ始めていた。
母譲りの仕草を見せる娘に、母の面影を重ねる青年。
同じ男を共有しているとは知らぬまま、母娘は「女」としての業(さが)を露呈していく。甘いお土産が繋ぐ、美しくも醜い三角関係の幕が上がる。
清掃員と僕の密やかな情状
MisakiNonagase
恋愛
都心のオフィスビルで働く会社員の26歳・高城蓮(たかぎれん)。彼の無機質な日常に唯一の彩りを与えていたのは、夕方から現れる70歳の清掃員・山科和子だった。
青い作業服に身を包み、黙々と床を磨く彼女を、蓮は「気さくなおばあちゃん」だと思っていた。あの日、立ち飲み屋で私服姿の彼女と再会するまでは――。
肉じゃがの甘い湯気、溶けゆく氷の音、そして重ねた肌の温もり。
44歳の年齢差を超え、孤独を分かち合った二人が辿り着いた「愛の形」とは。これは、一人の青年が境界線の向こう側で教わった、残酷なまでに美しい人生の記録。
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。
その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。
全7話
妹の仇 兄の復讐
MisakiNonagase
青春
神奈川県の海に近い住宅街。夏の終わりが、夕焼けに溶けていく季節だった。
僕、寺内勇人は高校三年生。妹の茜は高校一年生。父と母との四人暮らし。ごく普通の家庭で、僕と茜は、ブラコンやシスコンと騒がれるほどではないが、それなりに仲の良い兄妹だった。茜は少し内気で、真面目な顔をしているが、家族の前ではよく笑う。特に、幼馴染で僕の交際相手でもある佑香が来ると、姉のように慕って明るくなる。
その平穏が、ほんの些細な噂によって、静かに、しかし深く切り裂かれようとは、その時はまだ知らなかった。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる