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第8話:裏切りの視線
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秘密は、守ろうとすればするほど、皮膚の裏側から滲み出す毒のように、その主の挙動を蝕んでいく。
加恋がその「視線」に気づいたのは、晴人との密会を始めて3ヶ月が過ぎた、11月の曇り空の午後のことだった。
その日、二人は隣町の、古びた個人経営の映画館にいた。
上映されていたのは、名前も知らない異国の古い恋愛映画だ。客席はまばらで、最後列の隅に座る二人の存在を気にする者などいないはずだった。暗闇の中、晴人が加恋の指先をそっと絡める。その熱い感触に、加恋は安堵のため息をついた。夫・悟との冷え切った家から逃れ、唯一「個」として認められる場所。
「加恋さん、手が冷たいね」
「……外、少し冷えてきたから」
晴人は、自分のパーカーのポケットに、加恋の手を強引に引き入れた。その強引さが、17歳の少年らしい幼さと、男としての独占欲を感じさせて、加恋の胸を甘く締め付けた。
映画が終わり、二人は時間差で劇場を出た。
数分後、駅へと続く細い路地裏で合流した瞬間、加恋は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「……加恋?」
呼び止められた声に、加恋の心臓が凍りついた。
振り返ると、そこにはパンフレットの束を抱えた一人の女性が立っていた。高校時代からの親友、美咲だった。旅行会社に勤める彼女は、近隣のホテルや提携先への営業回りでもしているのか、ビジネスバッグを肩にかけて驚いた顔で立っていた。
「やっぱり。後ろ姿で、もしやと思ったんだけど……」
美咲の視線は、加恋の隣に立つ少年に向けられた。
晴人は咄嗟にフードを深く被り、顔を伏せた。美咲は、その青年の若さに一瞬目を見開いたものの、その時は「驚くほど若い愛人」程度にしか思わなかった。
「美咲……。どうして、こんなところに」
「それはこっちのセリフよ。加恋、その子は?」
「……親戚の子よ。受験の相談に乗ってて」
「ふーん。ずいぶん熱心な親戚ね」
美咲の目は笑っていなかった。その場はなんとか誤魔化し、晴人を先に帰らせたが、加恋は逃げられないことを悟っていた。その日の夜、美咲から届いたメッセージは、逃げ場を塞ぐものだった。
『今夜、いつものファミレスで話せる? 旅行のパンフ、渡したいのもあるし。一人で来て』
深夜のファミレスの個室。
「これ、次の結婚記念日の旅行案」
美咲は無造作に、リゾートホテルのパンフレットをテーブルに置いた。けれど、本題はそこではない。
「……加恋、あなた何してるの?」
美咲は開口一番、鋭い刃を突きつけた。
「あのさっきの子、どう見ても『親戚』の距離感じゃないわよね。あんなに若い男の子を連れ回して……。悟さんという人がいながら、何を考えてるの? 不倫なんて、あなたに一番似合わない言葉だと思ってたのに」
美咲の言葉は、正論だった。既婚者が、二十歳前後に見える若者と路地裏で密会する。その事実だけで、社会的な常識からは大きく逸脱している。
美咲はあくまで「なぜ既婚者のあなたが、そんなリスクを冒してまで火遊びをしているのか」という怒りをぶつけていた。
「遊びじゃないの、美咲」
「遊びじゃないなら、なおさらタチが悪いわよ。若くて綺麗な男の子にチヤホヤされて、自分を見失ってるだけじゃないの?」
「違うわ……」
加恋は震える手でカップを握りしめ、溢れ出しそうな感情を必死に抑えようとした。しかし、美咲の追求は止まらない。
「悟さんを裏切ってまで、その子とどうなりたいの? その子の未来を潰す気? 相手はまだ大学生くらいでしょ。自分の置かれてる立場を、もう一度よく考えなさいよ!」
「……高校生なの」
掠れた、けれど明瞭な加恋の声が、狭い個室に落ちた。
美咲の言葉が止まった。ドリンクバーの氷が、カランと虚しく溶ける音がする。
「……え? 今、なんて言ったの?」
「17歳。……高校2年生なの」
美咲の顔から、一気に血の気が引いていくのがわかった。単なる「年下の愛人」という認識が、一瞬にして「取り返しのつかない犯罪的行為」へと塗り替えられたのだ。
「……正気なの? 高校生? 加恋、それ……冗談でしょ?」
「冗談じゃないわ。最初は大学生だって嘘をつかれてた。でも、もう……そんなの関係なくなるくらい、愛してしまったの」
美咲は、絶句したまま加恋を見つめた。
「不倫」という言葉すら生温く感じるほどの、深い奈落。
美咲は震える手で頭を押さえ、深いため息をついた。
「加恋……あなた、死ぬ気なのね」
しかし、運命はさらに追い打ちをかける。
数日後、晴人の通う高校の教務室に、一通の通報が入る。「山村晴人が、平日の昼間に年上の女性と、隣町の繁華街の路地裏で親密そうにしていた」という具体的な目撃情報だった。
晴人は教務室に呼び出され、厳しい追及を受けた。
知らせを聞いた加恋は絶望した。もう終わりだ。すべてが暴かれ、明日のニュースに自分の名前が出るのだと覚悟した。
だが、事態は意外な展開を見せる。
「先生、それは誤解です。その女性は、僕の姉の知人で、受験用の参考書を譲ってもらうために会っていただけです。ちょうどその場所で待ち合わせをしたんです」
晴人は、あらかじめ用意していたかのように冷静に嘘をついた。さらに幸運だったのは、目撃された繁華街のすぐ近くに、大型の学習塾と、晴人の姉がかつて通っていた予備校があったことだ。
学校側は、彼のこれまでの完璧な成績と素行、そして「姉の知人」という具体性を信じ、厳重注意だけで調査を打ち切った。
「……なんとか、誤解だってことで押し通せたよ」
電話の向こうで報告する晴人の声は、安堵で震えていた。
辛うじて繋ぎ止めた、皮皮一枚の救い。
けれど加恋は、その「誤解」という脆い土台の上に、自分たちの人生を預け続けることの底知れぬ恐怖に、夜通し震えることしかできなかった。
加恋がその「視線」に気づいたのは、晴人との密会を始めて3ヶ月が過ぎた、11月の曇り空の午後のことだった。
その日、二人は隣町の、古びた個人経営の映画館にいた。
上映されていたのは、名前も知らない異国の古い恋愛映画だ。客席はまばらで、最後列の隅に座る二人の存在を気にする者などいないはずだった。暗闇の中、晴人が加恋の指先をそっと絡める。その熱い感触に、加恋は安堵のため息をついた。夫・悟との冷え切った家から逃れ、唯一「個」として認められる場所。
「加恋さん、手が冷たいね」
「……外、少し冷えてきたから」
晴人は、自分のパーカーのポケットに、加恋の手を強引に引き入れた。その強引さが、17歳の少年らしい幼さと、男としての独占欲を感じさせて、加恋の胸を甘く締め付けた。
映画が終わり、二人は時間差で劇場を出た。
数分後、駅へと続く細い路地裏で合流した瞬間、加恋は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「……加恋?」
呼び止められた声に、加恋の心臓が凍りついた。
振り返ると、そこにはパンフレットの束を抱えた一人の女性が立っていた。高校時代からの親友、美咲だった。旅行会社に勤める彼女は、近隣のホテルや提携先への営業回りでもしているのか、ビジネスバッグを肩にかけて驚いた顔で立っていた。
「やっぱり。後ろ姿で、もしやと思ったんだけど……」
美咲の視線は、加恋の隣に立つ少年に向けられた。
晴人は咄嗟にフードを深く被り、顔を伏せた。美咲は、その青年の若さに一瞬目を見開いたものの、その時は「驚くほど若い愛人」程度にしか思わなかった。
「美咲……。どうして、こんなところに」
「それはこっちのセリフよ。加恋、その子は?」
「……親戚の子よ。受験の相談に乗ってて」
「ふーん。ずいぶん熱心な親戚ね」
美咲の目は笑っていなかった。その場はなんとか誤魔化し、晴人を先に帰らせたが、加恋は逃げられないことを悟っていた。その日の夜、美咲から届いたメッセージは、逃げ場を塞ぐものだった。
『今夜、いつものファミレスで話せる? 旅行のパンフ、渡したいのもあるし。一人で来て』
深夜のファミレスの個室。
「これ、次の結婚記念日の旅行案」
美咲は無造作に、リゾートホテルのパンフレットをテーブルに置いた。けれど、本題はそこではない。
「……加恋、あなた何してるの?」
美咲は開口一番、鋭い刃を突きつけた。
「あのさっきの子、どう見ても『親戚』の距離感じゃないわよね。あんなに若い男の子を連れ回して……。悟さんという人がいながら、何を考えてるの? 不倫なんて、あなたに一番似合わない言葉だと思ってたのに」
美咲の言葉は、正論だった。既婚者が、二十歳前後に見える若者と路地裏で密会する。その事実だけで、社会的な常識からは大きく逸脱している。
美咲はあくまで「なぜ既婚者のあなたが、そんなリスクを冒してまで火遊びをしているのか」という怒りをぶつけていた。
「遊びじゃないの、美咲」
「遊びじゃないなら、なおさらタチが悪いわよ。若くて綺麗な男の子にチヤホヤされて、自分を見失ってるだけじゃないの?」
「違うわ……」
加恋は震える手でカップを握りしめ、溢れ出しそうな感情を必死に抑えようとした。しかし、美咲の追求は止まらない。
「悟さんを裏切ってまで、その子とどうなりたいの? その子の未来を潰す気? 相手はまだ大学生くらいでしょ。自分の置かれてる立場を、もう一度よく考えなさいよ!」
「……高校生なの」
掠れた、けれど明瞭な加恋の声が、狭い個室に落ちた。
美咲の言葉が止まった。ドリンクバーの氷が、カランと虚しく溶ける音がする。
「……え? 今、なんて言ったの?」
「17歳。……高校2年生なの」
美咲の顔から、一気に血の気が引いていくのがわかった。単なる「年下の愛人」という認識が、一瞬にして「取り返しのつかない犯罪的行為」へと塗り替えられたのだ。
「……正気なの? 高校生? 加恋、それ……冗談でしょ?」
「冗談じゃないわ。最初は大学生だって嘘をつかれてた。でも、もう……そんなの関係なくなるくらい、愛してしまったの」
美咲は、絶句したまま加恋を見つめた。
「不倫」という言葉すら生温く感じるほどの、深い奈落。
美咲は震える手で頭を押さえ、深いため息をついた。
「加恋……あなた、死ぬ気なのね」
しかし、運命はさらに追い打ちをかける。
数日後、晴人の通う高校の教務室に、一通の通報が入る。「山村晴人が、平日の昼間に年上の女性と、隣町の繁華街の路地裏で親密そうにしていた」という具体的な目撃情報だった。
晴人は教務室に呼び出され、厳しい追及を受けた。
知らせを聞いた加恋は絶望した。もう終わりだ。すべてが暴かれ、明日のニュースに自分の名前が出るのだと覚悟した。
だが、事態は意外な展開を見せる。
「先生、それは誤解です。その女性は、僕の姉の知人で、受験用の参考書を譲ってもらうために会っていただけです。ちょうどその場所で待ち合わせをしたんです」
晴人は、あらかじめ用意していたかのように冷静に嘘をついた。さらに幸運だったのは、目撃された繁華街のすぐ近くに、大型の学習塾と、晴人の姉がかつて通っていた予備校があったことだ。
学校側は、彼のこれまでの完璧な成績と素行、そして「姉の知人」という具体性を信じ、厳重注意だけで調査を打ち切った。
「……なんとか、誤解だってことで押し通せたよ」
電話の向こうで報告する晴人の声は、安堵で震えていた。
辛うじて繋ぎ止めた、皮皮一枚の救い。
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