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Case 9:落日の証明―神崎正隆の場合
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神崎正隆(52)は、毎朝鏡の前で、入念に白髪を染め、高級な美容液を肌に叩き込む。
若く美しい妻、里奈(34)の隣に立つのに相応しい男でありたい。その一心だった。18歳の年の差を埋めるために、彼はジムに通い、最新のトレンドを学び、彼女が望むものはすべて与えてきた。
自分はまだ「現役」だ。そう信じていた。
しかし、その自負は、リビングに置き忘れられた里奈のタブレット端末によって、無残に打ち砕かれた。
そこには、里奈が密かに通っている若手パーソナルトレーナー・海斗(24)との動画が保存されていた。
動画の中の里奈は、正隆には一度も見せたことのない、野生的な、そして心底悦びに震える表情を浮かべていた。相手の海斗は、汗ばんだ褐色の肌、血管の浮き出た逞しい腕、そして傲慢なほどに力強い視線を持っていた。
それは、正隆がどんなに高い金を払っても、どんなにサプリメントを飲んでも、二度と手に入れることのできない「暴力的なまでの若さ」だった。
数日後、正隆は里奈を高級レストランに連れ出した。
そこで、落ち着いた大人の包容力を見せながら、優しく不倫を諭すつもりだった。
「里奈、最近少し様子がおかしいじゃないか。……もし悩みがあるなら、僕に言ってほしい」
正隆が精一杯の余裕を見せて微笑むと、里奈はワイングラスを置いた。その目は、憐れみと退屈さに満ちていた。
「正隆さん。……あなた、私のために一生懸命『若作り』してくれてるけど、それ、見てて辛いの。あなたが夜、必死に頑張ってる姿を見るたびに、私、海斗くんのあの『何もしなくても溢れてくる熱』を思い出して、吐き気がしちゃうのよ」
正隆の心臓が、嫌な音を立てて脈打った。
「……彼に、何を与えられているんだ。金か? キャリアか?」
「生命力よ。……あなたはもう、夕日なの。沈んでいくだけの太陽。海斗くんは朝日。あなたには、彼が持っている『明日への渇き』が、もう一滴も残っていない」
正隆は、何も言い返せなかった。
里奈が求めているのは、正隆が築き上げた不動産でも、安定した老後でもなかった。ただ、今日を燃え尽くすための熱い肉体だったのだ。
その後、正隆は海斗が勤めるジムを遠くから見つめたことがある。
Tシャツ一枚で、大声で笑いながら、重いバーベルを軽々と持ち上げる海斗。その眩しさに、正隆は目を細めた。自分は、あの光の中にはもう二度と戻れない。
「……知らなければ、よかった」
正隆は、自宅の鏡を見つめるのをやめた。
里奈は今も、正隆の妻として彼の隣にいる。世間からは「いつまでも若々しい仲睦まじい夫婦」に見えているだろう。
だが、正隆は知っている。夜、里奈が隣で寝息を立てているとき、彼女の夢の中にいるのは自分ではなく、あの朝日を浴びた若い男であることを。
公にならなければ、自分はまだ「現役の男」でいられた。
だが今は、白髪を染める指先さえも、死に向かう儀式のように思えてならない。
彼は、里奈が海斗に会いに行くためのタクシー代を、黙って財布に入れた。
それが、老いていく自分が彼女を繋ぎ止めておける、唯一の、そして最も惨めな「入場料」だった。
若く美しい妻、里奈(34)の隣に立つのに相応しい男でありたい。その一心だった。18歳の年の差を埋めるために、彼はジムに通い、最新のトレンドを学び、彼女が望むものはすべて与えてきた。
自分はまだ「現役」だ。そう信じていた。
しかし、その自負は、リビングに置き忘れられた里奈のタブレット端末によって、無残に打ち砕かれた。
そこには、里奈が密かに通っている若手パーソナルトレーナー・海斗(24)との動画が保存されていた。
動画の中の里奈は、正隆には一度も見せたことのない、野生的な、そして心底悦びに震える表情を浮かべていた。相手の海斗は、汗ばんだ褐色の肌、血管の浮き出た逞しい腕、そして傲慢なほどに力強い視線を持っていた。
それは、正隆がどんなに高い金を払っても、どんなにサプリメントを飲んでも、二度と手に入れることのできない「暴力的なまでの若さ」だった。
数日後、正隆は里奈を高級レストランに連れ出した。
そこで、落ち着いた大人の包容力を見せながら、優しく不倫を諭すつもりだった。
「里奈、最近少し様子がおかしいじゃないか。……もし悩みがあるなら、僕に言ってほしい」
正隆が精一杯の余裕を見せて微笑むと、里奈はワイングラスを置いた。その目は、憐れみと退屈さに満ちていた。
「正隆さん。……あなた、私のために一生懸命『若作り』してくれてるけど、それ、見てて辛いの。あなたが夜、必死に頑張ってる姿を見るたびに、私、海斗くんのあの『何もしなくても溢れてくる熱』を思い出して、吐き気がしちゃうのよ」
正隆の心臓が、嫌な音を立てて脈打った。
「……彼に、何を与えられているんだ。金か? キャリアか?」
「生命力よ。……あなたはもう、夕日なの。沈んでいくだけの太陽。海斗くんは朝日。あなたには、彼が持っている『明日への渇き』が、もう一滴も残っていない」
正隆は、何も言い返せなかった。
里奈が求めているのは、正隆が築き上げた不動産でも、安定した老後でもなかった。ただ、今日を燃え尽くすための熱い肉体だったのだ。
その後、正隆は海斗が勤めるジムを遠くから見つめたことがある。
Tシャツ一枚で、大声で笑いながら、重いバーベルを軽々と持ち上げる海斗。その眩しさに、正隆は目を細めた。自分は、あの光の中にはもう二度と戻れない。
「……知らなければ、よかった」
正隆は、自宅の鏡を見つめるのをやめた。
里奈は今も、正隆の妻として彼の隣にいる。世間からは「いつまでも若々しい仲睦まじい夫婦」に見えているだろう。
だが、正隆は知っている。夜、里奈が隣で寝息を立てているとき、彼女の夢の中にいるのは自分ではなく、あの朝日を浴びた若い男であることを。
公にならなければ、自分はまだ「現役の男」でいられた。
だが今は、白髪を染める指先さえも、死に向かう儀式のように思えてならない。
彼は、里奈が海斗に会いに行くためのタクシー代を、黙って財布に入れた。
それが、老いていく自分が彼女を繋ぎ止めておける、唯一の、そして最も惨めな「入場料」だった。
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