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第15章:歪んだ安息
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週末、僕は数ヶ月ぶりに北関東の実家へと向かった。特急の車窓から流れる冬の枯れた風景を眺めながら、バッグの中にあるハードディスクの重みを感じていた。そこには、先日スタジオで撮影した、あの生々しい母の記録が眠っている。
実家のドアを開けると、懐かしいスナックの芳香剤と、母が煮炊きしている醤油の匂いが混じり合って鼻を突いた。
「お帰り、京介。遠いところ悪いわねえ」
エプロン姿で現れた母は、数日前にレンズ越しに喘いでいた「彩子」とは別人のように、柔らかく、どこか幼い表情で僕を迎えた。
「エアコン、やっぱり調子悪いの? 営業できないと困るでしょ」
「そうなのよ。急に止まったり、変な音がしたりして。これから夜の営業なのに、お客さんに寒い思いをさせるわけにいかないじゃない? 業者さんに見てもらっても『買い替え時ですね』としか言われなくて。高い買い物だし、やっぱり京介に確認してもらわないと不安で」
僕は脚立を持ち出し、スナックの天井近くに設置されたエアコンの点検を始めた。
内部の清掃状態や基板の異音を確認する。
「完全に壊れてるわけじゃないけど、コンプレッサーが限界に近いね。騙し騙し使うより、早めに手を打ったほうがいいよ。僕がネットで安くて性能がいいのを探して、見積もりも比較しておくから。変な業者に引っかからないようにしてね」
「助かるわあ。やっぱり餅は餅屋、電気のことは京介ね」
母は心底安心したように笑い、お茶の準備をするためにカウンターの奥へ消えた。
僕は脚立の上から、普段は見ることのない角度でカウンターの裏側を見下ろした。
そこには、母の私生活の断片が散乱していた。客用の伝票や領収書に混じって、母が「仕事用」として使っている、もう一台のスマートフォンが、充電ケーブルに繋がれたまま置かれていた。
ふと、その画面が明るくなった。通知センターに表示されたのは、専用のメールアドレスに届いた新着メールのプレビューだった。
【重要:オフィス・エクラ】次回作『深淵の背徳(仮)』撮影コンセプト送付
心臓が跳ねた。メールの冒頭には、ミドル・ヴィレッジのプロデューサーと交わしたという過激な打ち合わせ内容が、無機質な文字列として並んでいる。
「衣装は指定のロングブーツと……」
「後半は完全な……」
母はこのスマホを、この北関東の、僕も知っているスナックのカウンターで、客の目を盗んではチェックしているのだ。自分が、どれほど過激に、どれほど無惨に汚されることを期待されているかも知らず、それを「プロへの階段」だと信じ込んで。
「京介ー、お茶入ったわよ。お菓子も食べる?」
母の明るい声が廊下から聞こえ、僕は慌てて視線をエアコンに戻した。台所から戻ってきた母は、相変わらず無頓着な笑顔で、僕の隣に座った。
「機械って、お母さんにはさっぱりで。でも、こうして京介が来てくれるから本当に安心だわ」
母は、僕が自分の「裏の顔」に繋がる通知を見たことなど微塵も疑っていない。彼女のその浅はかなまでの自信と、僕に対する純粋な信頼が、今の僕にはどんな暴力よりも残酷に感じられた。僕は、出されたお茶を一口飲み、喉の奥に広がる苦味を噛み締めた。目の前の母は、僕を守り、愛してくれた「麻紀」だ。
けれど、その指先が、今夜もまた見知らぬ男たちのために、あの淫らなスマートフォンの画面をなぞることを、僕は知っている。
「……エアコン、すぐに見積もり送るよ。今日の営業は、設定温度に気をつけてね」
僕は、自分の声が他人のもののように冷たく響くのを感じながら、母の横顔を盗み見た。そこには、自分を「まだ価値のある女」だと信じ込んでいる、一人の哀れな女優の横顔があった。
実家のドアを開けると、懐かしいスナックの芳香剤と、母が煮炊きしている醤油の匂いが混じり合って鼻を突いた。
「お帰り、京介。遠いところ悪いわねえ」
エプロン姿で現れた母は、数日前にレンズ越しに喘いでいた「彩子」とは別人のように、柔らかく、どこか幼い表情で僕を迎えた。
「エアコン、やっぱり調子悪いの? 営業できないと困るでしょ」
「そうなのよ。急に止まったり、変な音がしたりして。これから夜の営業なのに、お客さんに寒い思いをさせるわけにいかないじゃない? 業者さんに見てもらっても『買い替え時ですね』としか言われなくて。高い買い物だし、やっぱり京介に確認してもらわないと不安で」
僕は脚立を持ち出し、スナックの天井近くに設置されたエアコンの点検を始めた。
内部の清掃状態や基板の異音を確認する。
「完全に壊れてるわけじゃないけど、コンプレッサーが限界に近いね。騙し騙し使うより、早めに手を打ったほうがいいよ。僕がネットで安くて性能がいいのを探して、見積もりも比較しておくから。変な業者に引っかからないようにしてね」
「助かるわあ。やっぱり餅は餅屋、電気のことは京介ね」
母は心底安心したように笑い、お茶の準備をするためにカウンターの奥へ消えた。
僕は脚立の上から、普段は見ることのない角度でカウンターの裏側を見下ろした。
そこには、母の私生活の断片が散乱していた。客用の伝票や領収書に混じって、母が「仕事用」として使っている、もう一台のスマートフォンが、充電ケーブルに繋がれたまま置かれていた。
ふと、その画面が明るくなった。通知センターに表示されたのは、専用のメールアドレスに届いた新着メールのプレビューだった。
【重要:オフィス・エクラ】次回作『深淵の背徳(仮)』撮影コンセプト送付
心臓が跳ねた。メールの冒頭には、ミドル・ヴィレッジのプロデューサーと交わしたという過激な打ち合わせ内容が、無機質な文字列として並んでいる。
「衣装は指定のロングブーツと……」
「後半は完全な……」
母はこのスマホを、この北関東の、僕も知っているスナックのカウンターで、客の目を盗んではチェックしているのだ。自分が、どれほど過激に、どれほど無惨に汚されることを期待されているかも知らず、それを「プロへの階段」だと信じ込んで。
「京介ー、お茶入ったわよ。お菓子も食べる?」
母の明るい声が廊下から聞こえ、僕は慌てて視線をエアコンに戻した。台所から戻ってきた母は、相変わらず無頓着な笑顔で、僕の隣に座った。
「機械って、お母さんにはさっぱりで。でも、こうして京介が来てくれるから本当に安心だわ」
母は、僕が自分の「裏の顔」に繋がる通知を見たことなど微塵も疑っていない。彼女のその浅はかなまでの自信と、僕に対する純粋な信頼が、今の僕にはどんな暴力よりも残酷に感じられた。僕は、出されたお茶を一口飲み、喉の奥に広がる苦味を噛み締めた。目の前の母は、僕を守り、愛してくれた「麻紀」だ。
けれど、その指先が、今夜もまた見知らぬ男たちのために、あの淫らなスマートフォンの画面をなぞることを、僕は知っている。
「……エアコン、すぐに見積もり送るよ。今日の営業は、設定温度に気をつけてね」
僕は、自分の声が他人のもののように冷たく響くのを感じながら、母の横顔を盗み見た。そこには、自分を「まだ価値のある女」だと信じ込んでいる、一人の哀れな女優の横顔があった。
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