名器と呼ばれて…

MisakiNonagase

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第8章:聖域の陥落、独占の味

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その日の朝、加代子はいつも通り謙介の朝食を準備しながら、ごく自然な口調で切り出した。
「あなた、今日の夕飯、いつもより少し遅くなるわ。買い出しのあと、ちょっと寄りたいところがあるから」
 謙介は新聞から目を離すこともなく、「ああ」とだけ短く答えた。仕事に向かう彼にとって、妻が数時間遅く帰宅することなど、夕食さえ出てくればどうでもいいことなのだろう。その無関心が、今の加代子には最高の免罪符だった。
​ 謙介を送り出し、家事を手早く済ませた加代子は、入念に身支度を整えて家を出た。向かう先は、大輝が一人暮らしをしている都内のワンルームマンション。ホテルの無機質な部屋ではなく、生活の匂いがする彼のテリトリーに足を踏み入れる。それは、彼という人間の最も深い場所を占領することと同義だった。
​ 大輝のマンションは、学生街に近い、どこにでもある築浅の物件だった。呼び出し音を鳴らすと、すぐに鍵が開く。「加代子……待ってた」
 出迎えた大輝は、外で会うときよりもどこか幼く、無防備に見えた。それと同時に、彼の瞳には隠しようのない飢えが宿っている。
​ 「お邪魔するわね、大輝くん」
​ 一歩足を踏み入れると、若者らしい少し乱雑な空間が広がっていた。加代子は、自分の息子よりも若い男の生活圏を、値踏みするようにゆっくりと見渡した。
 大輝は加代子のバッグを受け取ると、我慢できないといった様子で背後から彼女を抱きしめた。「……ずっと、ここで二人きりになりたかった。加代子、最近SNSの鍵かけたでしょ? 他の男に、あんまり見られたくないんだ」
​ その独占欲に満ちた呟きに、加代子は心の内で甘い悦びを感じた。自分だけを見ている25歳の若者。だが加代子は、この部屋のどこかに、彼が普段抱いているはずの「彼女」の影があることも察していた。洗面所に置かれた二つの歯ブラシ、あるいは棚の奥に隠されたわずかな違和感。しかし、加代子はそれを追及しようとは微塵も思わなかった。
​ (どんなに若い彼女がこの部屋に来ようと、今のあなたを満足させられるのは、私だけ)
​ 加代子が振り返り、大輝の首に腕を回すと、彼は吸い付くように唇を重ねてきた。ベッドに倒れ込むと、大輝の熱情はこれまで以上に激しく、執拗だった。「加代子、本当にすごいよ。中が……吸い付いてくる。やっぱり、ここじゃなきゃダメだ。最高の『名器』だよ、加代子は」
​ 大輝が自分の身体に溺れ、獣のような声を漏らすたび、加代子の全能感は極限まで高まった。一度終わっても、大輝はすぐにまた彼女を求めた。
「加代子、まだいいでしょ? 今日は遅くなるって言ってたじゃん」
 朝、謙介に告げた「少し遅くなる」という言葉が、大輝をさらに煽る材料になっていた。加代子は大輝の要求を拒まず、何度も、何度も彼を狂わせることに没頭した。自分を「名器」と呼び、縋り付いてくる若者の熱量を、全身で受け止める。
​ 結局、マンションを出たのは予定を大幅に過ぎ、街に夜の気配が色濃く漂い始めた頃だった。
 急ぎ足で駅へと向かいながら、加代子はバッグの中で震えるスマホを取り出した。画面には、和文からの通知。
「加代子、今夜もあなたのことを考えていいですか?」
​ 大輝の部屋に残した自分の匂いと、家路を急ぐ充足感。そして、和文から届く熱い誘惑。
 加代子は満足げに、自分が男たちの人生を狂わせる「毒」になりつつあることを確信していた。19時を過ぎて帰宅しても、今の自分にはそれを跳ね除けるだけの「女としての全能感」が備わっていた。
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