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最終話
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いつもの朝餉に鴉用の平皿と湯呑み代わりの猪口が加わり、一層賑やかな朝餉となった。
幽世之神は和やかな雰囲気に包まれた賑やかさに微笑んで座につく。座についても笑みを隠す事無く、一晩で小さな食器が一揃い揃っているのを見て鴉は痛く恐縮し白藤と香染に何度も頭を下げに台所へ走った。
「晩酌用の今は使っていない物だけれど、高さは合うかしら?」
「気に入ったおかずがあれば言ってね! 遠慮は無しよ」
「あやややや、これはもう何と申し上げて良いのやら……ありがたいやら申し訳ないやら」
「食べにくい食器じゃ食べた心地にならないでしょう?」
そう言い含める白藤の声に、幽世之神の口角は一層上がる。
「ご機嫌だな」
「おっと、覗き見かい? やだなぁ。賑やかで良いなぁと思っていただけさ。猿もそう思わないかい?」
問い掛けられた猿田彦は座りながら、悪くないな、と幽世之神に同意する発言をして視線が合うとにやりと笑った。
二人が短く掛け合う内に遅れて子がやって来ると頭を下げて幽世之神に朝の挨拶をする。よくできたね、と挨拶を返す前に目の前に下がった子の頭を撫でると嬉しそうな顔をして猿田彦の隣にちょこんと座った。そして台所からの喧騒にはっとする。
「お手伝うです!」
「はい、いってらっしゃい」
手を振り見送る幽世之神に温い眼差しを向けた。
「何だか猿に馬鹿にされている気がする……」
「気の所為、気の所為」
二人きりの時にだけ見せる横柄さも何故か嬉しく思う幽世之神だった。背負わせて来たものの重さを話してくれた事が嬉しく少しでも理解できた様な、ほんの僅かかも知れないが一緒に背負えた様な、積年の胸の痞えが刮げ落ちた様な清々しさに似た気持ちに溢れていた。
わいわいと箸と匙を持った子を筆頭に朝餉の出来立ての料理が運ばれて来る。
「今日のお味噌汁はお豆腐とお大根ですよぉ!」
「おいしーのよー!」
「お手伝いできなくて申し訳ありません」
「焼き魚が冷めるから早く!」
其々が言いたい事を口にしながら、卓の上に次々と料理が並んでゆく。一通り行き渡ると、皆が幽世之神の挨拶を待つ。幽世之神は軽く咳払いをして挨拶をし、今日一日を迎えられた感謝と無事を口にして目を閉じる。皆も倣って目を閉じ、手を合わせる。
「さ、戴こうか」
幽世之神の声を皮切りに、香染は早速子の前に置かれた焼き魚に箸を伸ばし解して骨を取り始める。自分の食事を差し置いて手を動かしてくれる香染に子は感謝を伝え、箸の使い方を教えて欲しいと願い出た。
「ゆっくり覚えていこうね」
「あい!」
快諾された子は嬉しさに元気いっぱいの声を上げて、匙をぐっと握った。
「今日から猿は黄泉比良坂に出るのかい? もう一日くらい休んでも構わないよ?」
「しかし、昨日も午後から出ておりませんし。その間にも生命を落としたものはやって来るので、私が出ねばならんでしょう」
死は待ってはくれない。揺らめく蝋燭の灯りが消える瞬間、鳥居の内で再び灯る瞬間を待ち侘びるものや思い出せず頭を抱え縮こまるものの姿が脳裡を過ぎる。
「……うん。だから私は行かねばなりません」
「猿がそう言うのならば、そうなのだろうね。ならば私はもう止めないから、何かあったら鴉、頼むね。猿が何を言おうと、結界を突き抜けて私の所へ来ておくれね」
「畏まりました! 必ずや!」
「あっ、オイラも……」
行くと言い掛けた子の言葉を幽世之神が穏やかに遮って、今日の子の予定が告げられる。
「おチビさんは今日から箸の持ち方と、それに読み書きの練習だねぇ。読み書きは私が教えよう」
「かみしゃま、それ、むじゅかしい?」
簡単だよ、と返した幽世之神は微笑み諭す。
「お兄ちゃんのお手伝いがしたいなら、おチビさんはまだまだ先に勉強しておかないといけない事がたくさんあるからねぇ」
うぅん、と子は唸ると味噌汁を飲み込むと幸せそうな溜め息をついた。
「あんね、おにぃちゃんは目は良いかもだけど、鼻はじぇったいオイラの方が良いと思うんだ。だから、オイラ、早くお手伝えるようにがんばるね」
自信満々の子の言い分に噎せそうになりながらもどうにか堪えた。ぼやいたお伽話がいつか本当になりそうだと苦笑いを浮かべるしかない猿田彦は何年先になる事やら、と諦めていっそ楽しみだと思う事にするしか無かった。
鴉は小皿に盛られた料理を相変わらず器用に啄みつつ、たまに身を震わせて
「あ、美味し! ま! これも何と美味! 初めてのお味噌汁、美味しっ!」
とぶつぶつと独り言を繰り返して朝から感動に忙しない様子である。
「鴉さんのお口に合って良かったわ」
昨日から出される料理は鴉にとって初めて口にすると言っても過言ではない程に美味な物ばかりだったのは事実なのだが、自分で悪食と言ってしまった手前、どこまで信用して貰えているのかは聞くに聞けないのが歯痒かった。そんな鴉の気持ちを知ってか知らずか、香染は鴉の小皿が空くとそっと追加で料理を足していた。彼女も身に覚えがあるのだ……生前の糧となってくれたもの達への申し訳なさを感じつつも、此処で初めて口にする食べ物の美味しさと言ったら正に驚愕以外の何物でも無かったのだ。
「びっくりしちゃうわよね、鴉さん。私もそうだったもの。同じね」
鴉にそっと囁くと香染は微笑みながら再び魚の骨取り作業へと戻った。
「ああ、思い出した! 特に白藤と香染には言っておかないと! 林に住む動物達がね、遊びに来たいそうなんだ。知っての通り皆、穏やかな面々だが特に熊と狼が気にしていてね。いきなり台所の小窓から覗いたり、庭掃除や洗濯をしている時に驚かせてしまったらと気にしていたんだった!」
「あらあら、じゃあお茶請けの準備が必要でしょうか?」
「いやいや、いつ遊びに来るかも解らないし、あのもの達は食べ物を集りに来るわけじゃないんだから。ただ驚かないでいてくれたらそれで良いよ」
「畏まりました。楽しみにお待ちしておきましょう」
あっさりとした口調だったが白藤は心持ち楽し気な表情で突然の訪問者を受け入れた。
「おべんきょして、おしゃんぽして……」
「おチビちゃんも遊びたい?」
香染が聞くと子は幽世之神をちらっと見て無言で頷いた。
「でしたら、その時は御館様もお姉様も休憩なさらないとですね!」
「……賑やかだなぁ」
呆れながらもそれでいて満足そうな猿田彦の呟きに反応したのは鴉だけだったが、目を合わせて瞬きをしただけでまた目の前の皿の料理を啄み始めた。
ーーなかなか空気の読める奴じゃないかーー
ふふん、と口の端を上げながらお浸しに箸を伸ばす。猿田彦を真似て鴉もお浸しに嘴を伸ばす。そしてまた目だけ合わせて周囲の喧騒の中、沈黙の笑いを共有した。
賑やかなまま朝餉を終え、いつも通りに皆で茶を飲みながら予定の擦り合わせをする。子は幽世之神に向かって何度も勉強とは怖くないか? と頓狂な事を聞き、その度に怖くないよ、と返していたがそれでも不安そうに白藤や香染に本当かを繰り返し確認していた。
「初めての事は怖いものよ」
「そう言われますと、猿田彦神。私も本日初仕事で大変緊張しておりまして怖いですぅ」
いつの間にか隣に来ていた鴉が丸い目を潤ませて、尾を小さく震わせながらか細い声で告げて見上げていた。
「嘘を……つけ!」
猿田彦の一喝に鴉は首を縮こませて、大袈裟に怯える振りをする。そこへぱたぱたと軽やかな足音と共に弁当の包みを二つ抱えて香染と子が駆け寄って来た。
「お忘れ物ですよー! 此方が猿田彦様で、此方が鴉さんのね」
「これはこれは何ともありがたく!」
差し出された揃いの風呂敷に包まれた弁当を感動の面差しで見つめ、間違えて香染の手を突いてしまわない様に結び目に器用に嘴を挿し入れ深々と頭を下げた。
「お口に合います様に。いってらっしゃいませ」
「いてらさい!」
鴉に合わせて頭を下げる香染とぶんぶんと手を振る子に見送られ、黄泉比良坂へと歩き出した。猿田彦は自分の肩を軽く叩くと、弁当を咥えたまま速度を合わせて飛ぶのに四苦八苦している鴉に留まれと示す。遠慮していた鴉だが流石に速度を合わせる事がいよいよ困難になり、申し訳なさそうに肩にそっと降り立った。
「おや、旦那。おはようさん。今日からはお供さんが一緒かい?」
「さあ? どうだろうね」
片手で甲羅を一撫ですると猿田彦は振り返らず鳥居を目指した。
「禍を転じて福と為す……かねぇ」
主亀はのんびりと日光浴と洒落込む事とした。
鳥居の手前の茂みに弁当を二つ隠すと、肩に乗った鴉と顔を見合わせ聳え立つ石鳥居を潜った。
「さあ、行こうか」
「緊張しますな」
ざっと砂利を踏み出す音の後に威厳ある低い声が黄泉比良坂に響き渡る。
「記憶のあるものは我が前に来られよ。記憶の無きものは思い起こされる時が来るまで待たれよ」 そっと目の前に現れた腰の曲がった老婆の顔の高さに膝を折って猿田彦は声を掛け、一通り話を聞く。そして手を引き、鳥居を潜らせて再び灯った蝋燭の炎を鴉と共に覗き込み嘘が無かった事を確認して手前の右側を指差すと鴉が翼を広げた。
「翼あるものについて行くが良い。今の貴女は走る事もできる。そして定められた場所で時が来るのを待たれよ」
若返り、しゃんと背の伸びた女は驚きの余り声も出せず両手で口を覆った。女の気持ちが落ち着くまで、鴉は頭上を旋回し、女が頷くのと無言の猿田彦から挙がった手で高度を落とし、ゆっくりと女の前を飛んだ。
「上出来じゃないか」
「て、照れますな! しかしおチビさんがお仲間に加わった時に、少しばかり先輩面とかいうのがしてみたいのものですなぁ」
鴉は本当に照れていたが軽口を叩いてぷいっと横を向いてしまう。
「まだお一人をご案内しただけですし、猿田彦神の御使として……立派な口上等も言ってみたいのが本心ですが……噛んじゃいそうです」
これだけ口が回るなら何の問題もなさそうだが、鴉には鴉の意地というものがあるらしい。猿田彦は焦らずとも慣れるものだ、と照れくさそうな鴉を促して鳥居の外へと向かう。
やはり獣は嘘をつく事も無く、駄々も捏ねずに示された場所へと素直に向かう。どうにか少しでも良い場所に行きたい人間は我欲を通そうと誤魔化したり言い訳をしたりと小煩かったが、辛抱強くも毅然とした態度で行くべき場所を指し示す。案内を任された鴉は足の重い人間を背後から頭で押したり襟首を足で鷲掴んだりして、主の意を受け継ぐ。
最奥から戻った鴉は大袈裟に身を震わせて、肩に飛び乗った。
「何かあったかい?」
「お前も道連れだぁ! って、尻尾を掴まれました。ふう、つるんつるんの滑りの良い羽で助かりました」
「ああ……そう言う事もあるのか。最奥への案内は私がしようか」
「いえいえ、その手間を省く為におりますので! 慣れも肝心、お任せあれ!」
初日であっても断固案内役は譲らない姿勢の鴉に猿田彦は手を翳すと悪意除けの術を掛けた。
「ま、気休めだけどね」
「誠にありがとうございます。元気百倍頑張ります!」
程々にな、と言う声が聞こえているのかいないのか、鴉は肩の上で鼻息荒く首の辺りの毛を逆立てて頬を何度か掠め、猿田彦はこそばゆさに片目を細めた。
陽の無い黄泉比良坂では己の腹時計と切りの良さが昼餉の決め手となる。猿田彦は次の魂を案内したら昼餉にしようと決めて鳥居の前に立った。
千切れ掛けた右腕と折れた左足で猿田彦の前に立った男性は、ばつの悪そうな顔で若干捻れた首で俯いている。その姿から猿田彦は何者かに殺されさぞや恨みも深かろうと、男の話を聞く前にある程度の覚悟を決めて歩み寄った。すると男は小さく悲鳴を上げて、誤解だの何だのと喚き始めて思わず面食らわせた。
「喧しい。落ち着け。俺はお前の話が聞きたいだけだ。その誤解とやらをまずは話してくれ」
「あああ、違うんだ、本当に俺じゃない。あんな卑劣な事をする訳が無い!」
「卑劣とは?」
問い掛ける猿田彦の落ち着いた声音に男は不自然に曲がった首を擡げて真っ直ぐ彼の目を見た。
「俺……私が、その、電車の中で痴漢した挙句つけ回して、刃物で脅して……無理矢理押さえ込んで死に掛けるまで犯した、と……」
「ほう、それだけ聞けば確かに卑劣だな」
猿田彦の感情のない返答に男は目を見開いて抗議する。
「私はそんな事やっていない! やれるわけが無い! 私にだって被害者と同じ年頃の娘がいるんだ、そんな悍ましい事ができる訳が無い……でも誰にも信じて貰えなかった。背格好が似ているだけではっきりしない防犯カメラの写真を私だと言われても、そんなの有り得ない。それでも刑事は信じてくれなかった。妻からは離婚を申し出られ、娘からは汚物を見る目で心無い言葉を浴びせられて……はは、疲れた……落ちている最中思い出すのは娘がまだ小さくて皆で笑っていた幸せだった頃の事ばかり……疲れたんだ、私は私が生きている事が娘の将来の足枷になってしまうくらいなら……ははっ」
「そうか、疲れて自死を選んだか。お前の言い分が嘘か誠か見極めよう。さあ、鳥居を潜るが良い」
男は自分を見る猿田彦の目に嫌悪も何も浮かんでいない事を不思議に思いながら、言われるがまま鳥居を潜った。手に握り締めていた蝋燭にぽっと火が灯る。驚いたのは蝋燭を握っている男だけで、猿田彦と鴉は炎の中に映し出される男の生涯をじっと見つめた。
生まれ落ちてからの学生背活。汗を流し真面目に取り組んだ部活動。進学、就職、結婚と時は炎の中で進んでゆく。炎が揺れて猿田彦達の目を惹いた。それは娘の誕生を号泣して喜ぶ男の姿を映していた。そこからは偶に意見の食い違いはあるものの幸せそうな家族が過ごす光景が流れた。蝋燭がじじっと音を立てたのはいつもと変わらぬ日常の中、早朝から刑事と思われる者達が押しかける所だった。朝食と弁当を作っていた妻は何かを聞かされ、その場にへたり込み、男達はズカズカと家の中へ入り、布団の中の男から掛け布団を引っぺがして、寝起きのぼんやりとした男に罪状を突きつけて連行を試みる。男が覚醒して幾ら否定しても、はいはい後でゆっくりね、で終わらせて車に押し込んで走り去る。そこからは猿田彦が眉を寄せる程の罵詈雑言と偶に止められる録音機、違うと言い続ける男が何日にも渡って映し出された。
「随分と酷い扱い!」
鴉が思わず言葉に出してしまう程の事情聴取を超えた恫喝が繰り広げられていたのだった。
「黙って、炎を見て」
短く猿田彦が鴉に注意をして、再び炎を見る。結局、決定的証拠もなく釈放された男だったが、妻は窶れ果て、娘は無精髭をそのままに帰ってきた男に一言、きもっ、と吐き捨てて男の目の前から消えた。
夜景の綺麗な高い建物の上には微かに星が瞬き、男は虚な目で煙草を吸い込んで咽せている。涙目の男は娘が妻の胎に宿った瞬間からずっと控えていた煙草すら最初は男に対して優しく無かった。咽せて涙目になっても煙草を吸い続けていると段々と慣れたのか男は穏やかな表情になっていくのが解った。その目はこの世の全てを諦めた虚無だった。
そこで蝋燭は落ちてゆく男を映して消えた。
「一番信じて欲しい者にすら信じてもらえず、背負え無かった……辛かったな。しかし、自死を選んだとなると時間は少々掛かるぞ?」
「構いません、私の弱さが招いた事です」
「猿田彦神、冤罪は後を絶たぬものですし、私が生前新聞で見た限りでは最近は特に性犯罪に関しては厳しい様でございます。あ、いや、失礼」
思わず口が出てしまった鴉は慌てて口を閉じた。
猿田彦は一瞬目を閉じて、すっと腕を上げた。
「手前から二番目の左側へ。鴉が案内する。心決まったら降るが良い」
猿田彦が決断を口にすると同時に鴉は猿田彦の肩から飛び立った。
「最後に貴方方だけでも私が犯人ではないと理解してくれて良かった……良かった」
「うん、冤罪で辛すぎる思いをしたね。でも私が示せるのはあの場所だけだ」
良いんです、と男は答えると素直に鴉の後に続いた。男はひどく従順だったと戻って来た鴉が首をくるりと回しながら報告する。猿田彦はそうかい、とだけ答えたが鴉はどうも納得していない様子だった。
「猿田彦神、あれはおかしいですぞ。現代ではあの様な詰問は禁じられておるはずです」
「新聞とやらで得た知識かい? 禁じられた行いをした者もいずれにしても此処へ来る時が来る。自死を選んだ事に変わりは無いのだから、お前さんが悩む事は無い。行き先を決めたの私だ。お前さんはちゃんと送り届けてくれた。以上だよ。さ、昼にしよう」
憤り冷めやらぬ鴉に言い聞かせ、猿田彦は鴉の弁当の包みを先に解いてやった。次いで自分のを開く。いつもの食べ易い握り飯と色鮮やかなおかずが綺麗に詰め込まれていた。
「猿田彦神! ご覧下さい! 私にもこんなにちっちゃいおにぎりが! ああ、きっと手間だったでしょうに……ありがたい事です、本当に……」
鴉は目を潤ませて揃いの握り飯に嘴を寄せて、弁当を作ってくれた二人へ心の底から感謝をする。昨日初めて会って、そして一晩を過ごしただけで同じ内容の小さな弁当を作ってくれるだなんて思ってもいなかった。誰一人として味方になってくれるも者のいなかった男の全てを諦めた顔を頭から振り払い、冷えても柔らかく美味な握り飯を啄んだ。
ーー猿田彦神はこの様な思いを繰り返して来られたのだな……ならば私も見習わねばならぬなーー
猿田彦の御使として、直ぐとは言えなくとも生前の記憶に左右されず腹の中に仕舞い込んで、凛とした姿であろうと意を新たに優しい味の卵焼きを啄んだ。そしてふと思う。
「猿田彦神! いつかお子が我々の中に加わったなら、お弁当も大中小と並ぶのでしょうか? ふふ、楽しみです。楽しみですね、猿田彦神!」
ころころと笑う鴉に一瞬、今よりも背丈が伸びたおチビさんが黄泉比良坂を駆け回る姿を想像して軽い眩暈を覚えた。
「こんな場所に来なくても……」
「こんな場所だからこそ、貴方様と共に在りたいと思うのでしょう。貴方様も決して独りではないとお子なりに示したくて今日からお勉強なのでしょう……んんっ、僭越ながら私もですが」
語尾をごにょごにょと濁らせた鴉はしれっとした顔で良い音を立てながらお新香を突いている。猿田彦は言葉を返せず握り飯を頬張った。
鴉の言う通りだった。慣れたはずの暗く哀愁と怨嗟が混ざり合う空間に独り立つ事は何でも無いと思い続けていたし、実際何でも無いはずだったのにこうして鴉相手に同じ弁当を広げ会話を楽しむ事が痛くなる程胸を熱くするのだ。これも見抜いての幽世之神の言動かと悔しい気もするが、納得して笑うしか無かった。
「お前さん、足りないだろう」
自分の弁当から卵焼きと金平牛蒡と半分に割った握り飯を鴉の弁当箱へと放り込むと鴉は大層慌てた様子を見せた。
「お前さんのお陰で私は行ったり来たりしなくて済む様になったけれど、その分お前さんは体力を使うだろう? 食べられるなら食べておかなくてはね」
「猿田彦神! 生涯ついてゆきます!」
「いや、それもうずっとじゃないか」
「そうです! お覚悟を! お子もそのおつもりだと思いますよ」
目を潤ませたり胸を張ったりと忙しいやつだと猿田彦は小さく笑った。
ーーああ、賑やかな黄泉比良坂も悪くないかもしれないな、なあ? おチビさんーー
何やら楽し気な猿田彦に鴉はほんの少し気が安まっているのを感じた。寂寞に麻痺した猿田彦の心がゆっくりとでも溶けてゆく事を鴉は願わずにはいられなかった。
「少し腹休めをしたら行こうか。待っているものは沢山いるのだから」
「畏まりました」
例え無言の時が流れても猿田彦にも鴉にも不思議と焦る気持ちは湧いて来なかった。薄暗がりの中、一人と一羽は目を閉じ時の流れを吹き抜ける温い風で感じていた。
頭を抱えるもの、不安そうに辺りを見回すもの、鳥居の前で覚悟を決めた面構えのもの達が犇く黄泉比良坂に朗々たる声が響く。
「記憶あるものは我が前に。記憶のないものは時を待たれよ。道案内は任されたーー我が名は猿田彦大神なり」
幽世之神は和やかな雰囲気に包まれた賑やかさに微笑んで座につく。座についても笑みを隠す事無く、一晩で小さな食器が一揃い揃っているのを見て鴉は痛く恐縮し白藤と香染に何度も頭を下げに台所へ走った。
「晩酌用の今は使っていない物だけれど、高さは合うかしら?」
「気に入ったおかずがあれば言ってね! 遠慮は無しよ」
「あやややや、これはもう何と申し上げて良いのやら……ありがたいやら申し訳ないやら」
「食べにくい食器じゃ食べた心地にならないでしょう?」
そう言い含める白藤の声に、幽世之神の口角は一層上がる。
「ご機嫌だな」
「おっと、覗き見かい? やだなぁ。賑やかで良いなぁと思っていただけさ。猿もそう思わないかい?」
問い掛けられた猿田彦は座りながら、悪くないな、と幽世之神に同意する発言をして視線が合うとにやりと笑った。
二人が短く掛け合う内に遅れて子がやって来ると頭を下げて幽世之神に朝の挨拶をする。よくできたね、と挨拶を返す前に目の前に下がった子の頭を撫でると嬉しそうな顔をして猿田彦の隣にちょこんと座った。そして台所からの喧騒にはっとする。
「お手伝うです!」
「はい、いってらっしゃい」
手を振り見送る幽世之神に温い眼差しを向けた。
「何だか猿に馬鹿にされている気がする……」
「気の所為、気の所為」
二人きりの時にだけ見せる横柄さも何故か嬉しく思う幽世之神だった。背負わせて来たものの重さを話してくれた事が嬉しく少しでも理解できた様な、ほんの僅かかも知れないが一緒に背負えた様な、積年の胸の痞えが刮げ落ちた様な清々しさに似た気持ちに溢れていた。
わいわいと箸と匙を持った子を筆頭に朝餉の出来立ての料理が運ばれて来る。
「今日のお味噌汁はお豆腐とお大根ですよぉ!」
「おいしーのよー!」
「お手伝いできなくて申し訳ありません」
「焼き魚が冷めるから早く!」
其々が言いたい事を口にしながら、卓の上に次々と料理が並んでゆく。一通り行き渡ると、皆が幽世之神の挨拶を待つ。幽世之神は軽く咳払いをして挨拶をし、今日一日を迎えられた感謝と無事を口にして目を閉じる。皆も倣って目を閉じ、手を合わせる。
「さ、戴こうか」
幽世之神の声を皮切りに、香染は早速子の前に置かれた焼き魚に箸を伸ばし解して骨を取り始める。自分の食事を差し置いて手を動かしてくれる香染に子は感謝を伝え、箸の使い方を教えて欲しいと願い出た。
「ゆっくり覚えていこうね」
「あい!」
快諾された子は嬉しさに元気いっぱいの声を上げて、匙をぐっと握った。
「今日から猿は黄泉比良坂に出るのかい? もう一日くらい休んでも構わないよ?」
「しかし、昨日も午後から出ておりませんし。その間にも生命を落としたものはやって来るので、私が出ねばならんでしょう」
死は待ってはくれない。揺らめく蝋燭の灯りが消える瞬間、鳥居の内で再び灯る瞬間を待ち侘びるものや思い出せず頭を抱え縮こまるものの姿が脳裡を過ぎる。
「……うん。だから私は行かねばなりません」
「猿がそう言うのならば、そうなのだろうね。ならば私はもう止めないから、何かあったら鴉、頼むね。猿が何を言おうと、結界を突き抜けて私の所へ来ておくれね」
「畏まりました! 必ずや!」
「あっ、オイラも……」
行くと言い掛けた子の言葉を幽世之神が穏やかに遮って、今日の子の予定が告げられる。
「おチビさんは今日から箸の持ち方と、それに読み書きの練習だねぇ。読み書きは私が教えよう」
「かみしゃま、それ、むじゅかしい?」
簡単だよ、と返した幽世之神は微笑み諭す。
「お兄ちゃんのお手伝いがしたいなら、おチビさんはまだまだ先に勉強しておかないといけない事がたくさんあるからねぇ」
うぅん、と子は唸ると味噌汁を飲み込むと幸せそうな溜め息をついた。
「あんね、おにぃちゃんは目は良いかもだけど、鼻はじぇったいオイラの方が良いと思うんだ。だから、オイラ、早くお手伝えるようにがんばるね」
自信満々の子の言い分に噎せそうになりながらもどうにか堪えた。ぼやいたお伽話がいつか本当になりそうだと苦笑いを浮かべるしかない猿田彦は何年先になる事やら、と諦めていっそ楽しみだと思う事にするしか無かった。
鴉は小皿に盛られた料理を相変わらず器用に啄みつつ、たまに身を震わせて
「あ、美味し! ま! これも何と美味! 初めてのお味噌汁、美味しっ!」
とぶつぶつと独り言を繰り返して朝から感動に忙しない様子である。
「鴉さんのお口に合って良かったわ」
昨日から出される料理は鴉にとって初めて口にすると言っても過言ではない程に美味な物ばかりだったのは事実なのだが、自分で悪食と言ってしまった手前、どこまで信用して貰えているのかは聞くに聞けないのが歯痒かった。そんな鴉の気持ちを知ってか知らずか、香染は鴉の小皿が空くとそっと追加で料理を足していた。彼女も身に覚えがあるのだ……生前の糧となってくれたもの達への申し訳なさを感じつつも、此処で初めて口にする食べ物の美味しさと言ったら正に驚愕以外の何物でも無かったのだ。
「びっくりしちゃうわよね、鴉さん。私もそうだったもの。同じね」
鴉にそっと囁くと香染は微笑みながら再び魚の骨取り作業へと戻った。
「ああ、思い出した! 特に白藤と香染には言っておかないと! 林に住む動物達がね、遊びに来たいそうなんだ。知っての通り皆、穏やかな面々だが特に熊と狼が気にしていてね。いきなり台所の小窓から覗いたり、庭掃除や洗濯をしている時に驚かせてしまったらと気にしていたんだった!」
「あらあら、じゃあお茶請けの準備が必要でしょうか?」
「いやいや、いつ遊びに来るかも解らないし、あのもの達は食べ物を集りに来るわけじゃないんだから。ただ驚かないでいてくれたらそれで良いよ」
「畏まりました。楽しみにお待ちしておきましょう」
あっさりとした口調だったが白藤は心持ち楽し気な表情で突然の訪問者を受け入れた。
「おべんきょして、おしゃんぽして……」
「おチビちゃんも遊びたい?」
香染が聞くと子は幽世之神をちらっと見て無言で頷いた。
「でしたら、その時は御館様もお姉様も休憩なさらないとですね!」
「……賑やかだなぁ」
呆れながらもそれでいて満足そうな猿田彦の呟きに反応したのは鴉だけだったが、目を合わせて瞬きをしただけでまた目の前の皿の料理を啄み始めた。
ーーなかなか空気の読める奴じゃないかーー
ふふん、と口の端を上げながらお浸しに箸を伸ばす。猿田彦を真似て鴉もお浸しに嘴を伸ばす。そしてまた目だけ合わせて周囲の喧騒の中、沈黙の笑いを共有した。
賑やかなまま朝餉を終え、いつも通りに皆で茶を飲みながら予定の擦り合わせをする。子は幽世之神に向かって何度も勉強とは怖くないか? と頓狂な事を聞き、その度に怖くないよ、と返していたがそれでも不安そうに白藤や香染に本当かを繰り返し確認していた。
「初めての事は怖いものよ」
「そう言われますと、猿田彦神。私も本日初仕事で大変緊張しておりまして怖いですぅ」
いつの間にか隣に来ていた鴉が丸い目を潤ませて、尾を小さく震わせながらか細い声で告げて見上げていた。
「嘘を……つけ!」
猿田彦の一喝に鴉は首を縮こませて、大袈裟に怯える振りをする。そこへぱたぱたと軽やかな足音と共に弁当の包みを二つ抱えて香染と子が駆け寄って来た。
「お忘れ物ですよー! 此方が猿田彦様で、此方が鴉さんのね」
「これはこれは何ともありがたく!」
差し出された揃いの風呂敷に包まれた弁当を感動の面差しで見つめ、間違えて香染の手を突いてしまわない様に結び目に器用に嘴を挿し入れ深々と頭を下げた。
「お口に合います様に。いってらっしゃいませ」
「いてらさい!」
鴉に合わせて頭を下げる香染とぶんぶんと手を振る子に見送られ、黄泉比良坂へと歩き出した。猿田彦は自分の肩を軽く叩くと、弁当を咥えたまま速度を合わせて飛ぶのに四苦八苦している鴉に留まれと示す。遠慮していた鴉だが流石に速度を合わせる事がいよいよ困難になり、申し訳なさそうに肩にそっと降り立った。
「おや、旦那。おはようさん。今日からはお供さんが一緒かい?」
「さあ? どうだろうね」
片手で甲羅を一撫ですると猿田彦は振り返らず鳥居を目指した。
「禍を転じて福と為す……かねぇ」
主亀はのんびりと日光浴と洒落込む事とした。
鳥居の手前の茂みに弁当を二つ隠すと、肩に乗った鴉と顔を見合わせ聳え立つ石鳥居を潜った。
「さあ、行こうか」
「緊張しますな」
ざっと砂利を踏み出す音の後に威厳ある低い声が黄泉比良坂に響き渡る。
「記憶のあるものは我が前に来られよ。記憶の無きものは思い起こされる時が来るまで待たれよ」 そっと目の前に現れた腰の曲がった老婆の顔の高さに膝を折って猿田彦は声を掛け、一通り話を聞く。そして手を引き、鳥居を潜らせて再び灯った蝋燭の炎を鴉と共に覗き込み嘘が無かった事を確認して手前の右側を指差すと鴉が翼を広げた。
「翼あるものについて行くが良い。今の貴女は走る事もできる。そして定められた場所で時が来るのを待たれよ」
若返り、しゃんと背の伸びた女は驚きの余り声も出せず両手で口を覆った。女の気持ちが落ち着くまで、鴉は頭上を旋回し、女が頷くのと無言の猿田彦から挙がった手で高度を落とし、ゆっくりと女の前を飛んだ。
「上出来じゃないか」
「て、照れますな! しかしおチビさんがお仲間に加わった時に、少しばかり先輩面とかいうのがしてみたいのものですなぁ」
鴉は本当に照れていたが軽口を叩いてぷいっと横を向いてしまう。
「まだお一人をご案内しただけですし、猿田彦神の御使として……立派な口上等も言ってみたいのが本心ですが……噛んじゃいそうです」
これだけ口が回るなら何の問題もなさそうだが、鴉には鴉の意地というものがあるらしい。猿田彦は焦らずとも慣れるものだ、と照れくさそうな鴉を促して鳥居の外へと向かう。
やはり獣は嘘をつく事も無く、駄々も捏ねずに示された場所へと素直に向かう。どうにか少しでも良い場所に行きたい人間は我欲を通そうと誤魔化したり言い訳をしたりと小煩かったが、辛抱強くも毅然とした態度で行くべき場所を指し示す。案内を任された鴉は足の重い人間を背後から頭で押したり襟首を足で鷲掴んだりして、主の意を受け継ぐ。
最奥から戻った鴉は大袈裟に身を震わせて、肩に飛び乗った。
「何かあったかい?」
「お前も道連れだぁ! って、尻尾を掴まれました。ふう、つるんつるんの滑りの良い羽で助かりました」
「ああ……そう言う事もあるのか。最奥への案内は私がしようか」
「いえいえ、その手間を省く為におりますので! 慣れも肝心、お任せあれ!」
初日であっても断固案内役は譲らない姿勢の鴉に猿田彦は手を翳すと悪意除けの術を掛けた。
「ま、気休めだけどね」
「誠にありがとうございます。元気百倍頑張ります!」
程々にな、と言う声が聞こえているのかいないのか、鴉は肩の上で鼻息荒く首の辺りの毛を逆立てて頬を何度か掠め、猿田彦はこそばゆさに片目を細めた。
陽の無い黄泉比良坂では己の腹時計と切りの良さが昼餉の決め手となる。猿田彦は次の魂を案内したら昼餉にしようと決めて鳥居の前に立った。
千切れ掛けた右腕と折れた左足で猿田彦の前に立った男性は、ばつの悪そうな顔で若干捻れた首で俯いている。その姿から猿田彦は何者かに殺されさぞや恨みも深かろうと、男の話を聞く前にある程度の覚悟を決めて歩み寄った。すると男は小さく悲鳴を上げて、誤解だの何だのと喚き始めて思わず面食らわせた。
「喧しい。落ち着け。俺はお前の話が聞きたいだけだ。その誤解とやらをまずは話してくれ」
「あああ、違うんだ、本当に俺じゃない。あんな卑劣な事をする訳が無い!」
「卑劣とは?」
問い掛ける猿田彦の落ち着いた声音に男は不自然に曲がった首を擡げて真っ直ぐ彼の目を見た。
「俺……私が、その、電車の中で痴漢した挙句つけ回して、刃物で脅して……無理矢理押さえ込んで死に掛けるまで犯した、と……」
「ほう、それだけ聞けば確かに卑劣だな」
猿田彦の感情のない返答に男は目を見開いて抗議する。
「私はそんな事やっていない! やれるわけが無い! 私にだって被害者と同じ年頃の娘がいるんだ、そんな悍ましい事ができる訳が無い……でも誰にも信じて貰えなかった。背格好が似ているだけではっきりしない防犯カメラの写真を私だと言われても、そんなの有り得ない。それでも刑事は信じてくれなかった。妻からは離婚を申し出られ、娘からは汚物を見る目で心無い言葉を浴びせられて……はは、疲れた……落ちている最中思い出すのは娘がまだ小さくて皆で笑っていた幸せだった頃の事ばかり……疲れたんだ、私は私が生きている事が娘の将来の足枷になってしまうくらいなら……ははっ」
「そうか、疲れて自死を選んだか。お前の言い分が嘘か誠か見極めよう。さあ、鳥居を潜るが良い」
男は自分を見る猿田彦の目に嫌悪も何も浮かんでいない事を不思議に思いながら、言われるがまま鳥居を潜った。手に握り締めていた蝋燭にぽっと火が灯る。驚いたのは蝋燭を握っている男だけで、猿田彦と鴉は炎の中に映し出される男の生涯をじっと見つめた。
生まれ落ちてからの学生背活。汗を流し真面目に取り組んだ部活動。進学、就職、結婚と時は炎の中で進んでゆく。炎が揺れて猿田彦達の目を惹いた。それは娘の誕生を号泣して喜ぶ男の姿を映していた。そこからは偶に意見の食い違いはあるものの幸せそうな家族が過ごす光景が流れた。蝋燭がじじっと音を立てたのはいつもと変わらぬ日常の中、早朝から刑事と思われる者達が押しかける所だった。朝食と弁当を作っていた妻は何かを聞かされ、その場にへたり込み、男達はズカズカと家の中へ入り、布団の中の男から掛け布団を引っぺがして、寝起きのぼんやりとした男に罪状を突きつけて連行を試みる。男が覚醒して幾ら否定しても、はいはい後でゆっくりね、で終わらせて車に押し込んで走り去る。そこからは猿田彦が眉を寄せる程の罵詈雑言と偶に止められる録音機、違うと言い続ける男が何日にも渡って映し出された。
「随分と酷い扱い!」
鴉が思わず言葉に出してしまう程の事情聴取を超えた恫喝が繰り広げられていたのだった。
「黙って、炎を見て」
短く猿田彦が鴉に注意をして、再び炎を見る。結局、決定的証拠もなく釈放された男だったが、妻は窶れ果て、娘は無精髭をそのままに帰ってきた男に一言、きもっ、と吐き捨てて男の目の前から消えた。
夜景の綺麗な高い建物の上には微かに星が瞬き、男は虚な目で煙草を吸い込んで咽せている。涙目の男は娘が妻の胎に宿った瞬間からずっと控えていた煙草すら最初は男に対して優しく無かった。咽せて涙目になっても煙草を吸い続けていると段々と慣れたのか男は穏やかな表情になっていくのが解った。その目はこの世の全てを諦めた虚無だった。
そこで蝋燭は落ちてゆく男を映して消えた。
「一番信じて欲しい者にすら信じてもらえず、背負え無かった……辛かったな。しかし、自死を選んだとなると時間は少々掛かるぞ?」
「構いません、私の弱さが招いた事です」
「猿田彦神、冤罪は後を絶たぬものですし、私が生前新聞で見た限りでは最近は特に性犯罪に関しては厳しい様でございます。あ、いや、失礼」
思わず口が出てしまった鴉は慌てて口を閉じた。
猿田彦は一瞬目を閉じて、すっと腕を上げた。
「手前から二番目の左側へ。鴉が案内する。心決まったら降るが良い」
猿田彦が決断を口にすると同時に鴉は猿田彦の肩から飛び立った。
「最後に貴方方だけでも私が犯人ではないと理解してくれて良かった……良かった」
「うん、冤罪で辛すぎる思いをしたね。でも私が示せるのはあの場所だけだ」
良いんです、と男は答えると素直に鴉の後に続いた。男はひどく従順だったと戻って来た鴉が首をくるりと回しながら報告する。猿田彦はそうかい、とだけ答えたが鴉はどうも納得していない様子だった。
「猿田彦神、あれはおかしいですぞ。現代ではあの様な詰問は禁じられておるはずです」
「新聞とやらで得た知識かい? 禁じられた行いをした者もいずれにしても此処へ来る時が来る。自死を選んだ事に変わりは無いのだから、お前さんが悩む事は無い。行き先を決めたの私だ。お前さんはちゃんと送り届けてくれた。以上だよ。さ、昼にしよう」
憤り冷めやらぬ鴉に言い聞かせ、猿田彦は鴉の弁当の包みを先に解いてやった。次いで自分のを開く。いつもの食べ易い握り飯と色鮮やかなおかずが綺麗に詰め込まれていた。
「猿田彦神! ご覧下さい! 私にもこんなにちっちゃいおにぎりが! ああ、きっと手間だったでしょうに……ありがたい事です、本当に……」
鴉は目を潤ませて揃いの握り飯に嘴を寄せて、弁当を作ってくれた二人へ心の底から感謝をする。昨日初めて会って、そして一晩を過ごしただけで同じ内容の小さな弁当を作ってくれるだなんて思ってもいなかった。誰一人として味方になってくれるも者のいなかった男の全てを諦めた顔を頭から振り払い、冷えても柔らかく美味な握り飯を啄んだ。
ーー猿田彦神はこの様な思いを繰り返して来られたのだな……ならば私も見習わねばならぬなーー
猿田彦の御使として、直ぐとは言えなくとも生前の記憶に左右されず腹の中に仕舞い込んで、凛とした姿であろうと意を新たに優しい味の卵焼きを啄んだ。そしてふと思う。
「猿田彦神! いつかお子が我々の中に加わったなら、お弁当も大中小と並ぶのでしょうか? ふふ、楽しみです。楽しみですね、猿田彦神!」
ころころと笑う鴉に一瞬、今よりも背丈が伸びたおチビさんが黄泉比良坂を駆け回る姿を想像して軽い眩暈を覚えた。
「こんな場所に来なくても……」
「こんな場所だからこそ、貴方様と共に在りたいと思うのでしょう。貴方様も決して独りではないとお子なりに示したくて今日からお勉強なのでしょう……んんっ、僭越ながら私もですが」
語尾をごにょごにょと濁らせた鴉はしれっとした顔で良い音を立てながらお新香を突いている。猿田彦は言葉を返せず握り飯を頬張った。
鴉の言う通りだった。慣れたはずの暗く哀愁と怨嗟が混ざり合う空間に独り立つ事は何でも無いと思い続けていたし、実際何でも無いはずだったのにこうして鴉相手に同じ弁当を広げ会話を楽しむ事が痛くなる程胸を熱くするのだ。これも見抜いての幽世之神の言動かと悔しい気もするが、納得して笑うしか無かった。
「お前さん、足りないだろう」
自分の弁当から卵焼きと金平牛蒡と半分に割った握り飯を鴉の弁当箱へと放り込むと鴉は大層慌てた様子を見せた。
「お前さんのお陰で私は行ったり来たりしなくて済む様になったけれど、その分お前さんは体力を使うだろう? 食べられるなら食べておかなくてはね」
「猿田彦神! 生涯ついてゆきます!」
「いや、それもうずっとじゃないか」
「そうです! お覚悟を! お子もそのおつもりだと思いますよ」
目を潤ませたり胸を張ったりと忙しいやつだと猿田彦は小さく笑った。
ーーああ、賑やかな黄泉比良坂も悪くないかもしれないな、なあ? おチビさんーー
何やら楽し気な猿田彦に鴉はほんの少し気が安まっているのを感じた。寂寞に麻痺した猿田彦の心がゆっくりとでも溶けてゆく事を鴉は願わずにはいられなかった。
「少し腹休めをしたら行こうか。待っているものは沢山いるのだから」
「畏まりました」
例え無言の時が流れても猿田彦にも鴉にも不思議と焦る気持ちは湧いて来なかった。薄暗がりの中、一人と一羽は目を閉じ時の流れを吹き抜ける温い風で感じていた。
頭を抱えるもの、不安そうに辺りを見回すもの、鳥居の前で覚悟を決めた面構えのもの達が犇く黄泉比良坂に朗々たる声が響く。
「記憶あるものは我が前に。記憶のないものは時を待たれよ。道案内は任されたーー我が名は猿田彦大神なり」
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