2 / 9
二
しおりを挟む
少し皺が刻まれた白衣を着た医師からは、樟脳の臭いがした。白衣の下に着ている私服に染みついているのだろうと、老いた医師を見て尚哉はぼんやりとーー祖母の家の箪笥周りと同じ臭いだーーそんなことを考えていると医師は枝のような節くれだった指で机をトン、と叩くと口を開いて尚哉の名前を呼んだ。
「橋垣さん? 貴方、かなりひどい臭覚過敏なんじゃないのかなと思うのだけれども、いつから?」
「子供の頃から、です」
医師はカルテに書き込みながら、あらゆる病気の罹患歴や事故に遭ったか否を聞いてゆく。その問いかけのどれにも尚哉はありませんと答えながらも無意識で事故という単語に顔を顰める。
「子供の頃からだったなら、満足に学校も行けなかったでしょう?」
「ええ、まぁ。家で……」
幼稚園では少々トイレに駆け込むのが遅れて吐いても大した騒ぎにはならなかったが、小学生になると環境のせいか、少し大人になった気負いからか周囲が途端に変わった為、我慢して休み時間に隠れて吐いていた。
だが、クラスメイト達の持ち物が発する各家庭の臭いや体臭が混じり合い、閉め切った教室に充満したある日。トイレに行きたいと手を挙げるのも揶揄いの対象になる年齢だ。どうしようかと迷った結果、授業中に吐いてしまってからはいじめが始まり、尚哉の足はどんどん学校から遠ざかった。
自宅以外は大抵臭いに耐えられないのだが、不思議なことに雑木林や桜、躑躅、梔子、強い匂いとされる沈丁花の香りさえも不快感はなく、優しく包まれているようだった。初めて良い匂いがあるのだと知った。
幼い尚哉にとって、自然界が発する匂いが唯一の救いとなった。人気のない神社に植えられた椿の側で本を読み、渡されたプリント問題を解く。母に作ってもらったお茶の水筒をぶら下げて、満開の桜の木の下に散歩へと出かける。そんな尚哉を両親は責めることなく、他の子供と同じように外に出ることに喜び安堵した。
父は尚哉の好きなヒーローの本をヒーローショーが開催される日には必ず買って帰った。小学生になってからは簡単な問題集などを買い与え、解らない問題は帰宅した尚哉が理解するまで何度でも教えてくれた。母は家の中で尚哉が嫌がる場所を徹底的に掃除し、無臭を保つ生活の中で、早い段階で衣類用洗剤を変え食器用洗剤を変え、ひたすら尚哉に寄り添ってくれた。良い両親だった。それが、あんな……。
「橋垣さん、これ、紹介状。臭覚過敏症ってね、厳密には診断名ではないから、一回、原因を探ってみたらどう? 何故そうなったのか原因が判れば適切な薬が処方されますよ。きっとその方が貴方も生き易いでしょう? 橋垣さん? 聞いていますか?」
はっと視線を上げた尚哉に医師から渡された消毒薬の臭いの染みついた封筒の宛先は、朝行って昼過ぎにやっと数分間だけ診てもらえると有名な総合病院だった。軽く頭を下げると、会計を済ませて病院を後にした。
「橋垣さん? 貴方、かなりひどい臭覚過敏なんじゃないのかなと思うのだけれども、いつから?」
「子供の頃から、です」
医師はカルテに書き込みながら、あらゆる病気の罹患歴や事故に遭ったか否を聞いてゆく。その問いかけのどれにも尚哉はありませんと答えながらも無意識で事故という単語に顔を顰める。
「子供の頃からだったなら、満足に学校も行けなかったでしょう?」
「ええ、まぁ。家で……」
幼稚園では少々トイレに駆け込むのが遅れて吐いても大した騒ぎにはならなかったが、小学生になると環境のせいか、少し大人になった気負いからか周囲が途端に変わった為、我慢して休み時間に隠れて吐いていた。
だが、クラスメイト達の持ち物が発する各家庭の臭いや体臭が混じり合い、閉め切った教室に充満したある日。トイレに行きたいと手を挙げるのも揶揄いの対象になる年齢だ。どうしようかと迷った結果、授業中に吐いてしまってからはいじめが始まり、尚哉の足はどんどん学校から遠ざかった。
自宅以外は大抵臭いに耐えられないのだが、不思議なことに雑木林や桜、躑躅、梔子、強い匂いとされる沈丁花の香りさえも不快感はなく、優しく包まれているようだった。初めて良い匂いがあるのだと知った。
幼い尚哉にとって、自然界が発する匂いが唯一の救いとなった。人気のない神社に植えられた椿の側で本を読み、渡されたプリント問題を解く。母に作ってもらったお茶の水筒をぶら下げて、満開の桜の木の下に散歩へと出かける。そんな尚哉を両親は責めることなく、他の子供と同じように外に出ることに喜び安堵した。
父は尚哉の好きなヒーローの本をヒーローショーが開催される日には必ず買って帰った。小学生になってからは簡単な問題集などを買い与え、解らない問題は帰宅した尚哉が理解するまで何度でも教えてくれた。母は家の中で尚哉が嫌がる場所を徹底的に掃除し、無臭を保つ生活の中で、早い段階で衣類用洗剤を変え食器用洗剤を変え、ひたすら尚哉に寄り添ってくれた。良い両親だった。それが、あんな……。
「橋垣さん、これ、紹介状。臭覚過敏症ってね、厳密には診断名ではないから、一回、原因を探ってみたらどう? 何故そうなったのか原因が判れば適切な薬が処方されますよ。きっとその方が貴方も生き易いでしょう? 橋垣さん? 聞いていますか?」
はっと視線を上げた尚哉に医師から渡された消毒薬の臭いの染みついた封筒の宛先は、朝行って昼過ぎにやっと数分間だけ診てもらえると有名な総合病院だった。軽く頭を下げると、会計を済ませて病院を後にした。
0
あなたにおすすめの小説
行き場を失った恋の終わらせ方
当麻月菜
恋愛
「君との婚約を白紙に戻してほしい」
自分の全てだったアイザックから別れを切り出されたエステルは、どうしてもこの恋を終わらすことができなかった。
避け続ける彼を求めて、復縁を願って、あの日聞けなかった答えを得るために、エステルは王城の夜会に出席する。
しかしやっと再会できた、そこには見たくない現実が待っていて……
恋の終わりを見届ける貴族青年と、行き場を失った恋の中をさ迷う令嬢の終わりと始まりの物語。
※他のサイトにも重複投稿しています。
【完結】ジュリアはバツイチ人生を謳歌する
ariya
恋愛
エレン王国の名門貴族・アグリア伯爵家に嫁いだジュリア・アグリア(旧姓ベルティー)。
夫のアベル・アグリア伯爵は、騎士として王妃の護衛任務に没頭し、結婚翌日からほぼ別居状態。
社交界のパーティーでは妻のエスコートを代理人に任せ、父の葬儀にも顔を出さず、事務的な会話と手紙のやり取りだけの日々が続く。
ジュリアは8年間の冷遇に耐え抜いたが、ある朝の食事中、静かに切り出す。
「私たち、離婚しましょう」
アベルは絶句するが、ジュリアは淡々と不満を告げる。
どれも自分のしでかしたことにアベルは頭を抱える。
彼女はすでに離婚届と慰謝料の用意を済ませ、夫の仕事に理解を示さなかった「有責妻」として後腐れなく別れるつもりだった。
アベルは内心で反発しつつも、ジュリアの決意の固さに渋々サイン。
こうしてジュリア・アグリアは、伯爵夫人としての全てを置き去りにし、バツイチ人生を開始する。
冷徹公爵の誤解された花嫁
柴田はつみ
恋愛
片思いしていた冷徹公爵から求婚された令嬢。幸せの絶頂にあった彼女を打ち砕いたのは、舞踏会で耳にした「地味女…」という言葉だった。望まれぬ花嫁としての結婚に、彼女は一年だけ妻を務めた後、離縁する決意を固める。
冷たくも美しい公爵。誤解とすれ違いを繰り返す日々の中、令嬢は揺れる心を抑え込もうとするが――。
一年後、彼女が選ぶのは別れか、それとも永遠の契約か。
王の影姫は真実を言えない
柴田はつみ
恋愛
社交界で“国王の妾”と陰口を叩かれる謎の公爵夫人リュミエール。彼女は王命により、絶世の美貌を誇る英雄アラン公爵の妻となったが、その結婚は「公爵が哀れ」「妻は汚名の女」と同情と嘲笑の的だった。
けれど真実は――リュミエールは国王シオンの“妾”ではなく、異母妹。王家の血筋を巡る闇と政争から守るため、彼女は真実を口にできない。夫アランにさえ、打ち明ければ彼を巻き込んでしまうから。
一方アランもまた、王命と王宮の思惑の中で彼女を守るため、あえて距離を取り冷たく振る舞う。
さようなら、私の初恋
しょくぱん
恋愛
「さよなら、私の初恋。……もう、全部お返しします」
物心ついた時から、彼だけが世界のすべてだった。 幼馴染の騎士団長・レオンに捧げた、十数年の純粋な初恋。 彼が「無敵」でいられたのは、アリアが無自覚に与え続けた『治癒の加護』があったから。
だが婚約直前、アリアは知ってしまう。 彼にとって自分は、仲間内で競い合う「賭けの対象」でしかなかったことを。
「あんな女、落とすまでのゲームだよ」
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる