銀の花は運命に微笑む

深緋莉楓

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 さすがに就職の面接に際してこの体質をどうにかしたい、とわざわざ相談するのは違うだろうと祖父母には言わずに一人で診断を決めた。しかし手に入れられたのはぺらぺらの紹介状だけ。
 紹介状を眺めていて、ふと気づく。自分に記憶がなくとも、あれほど思ってくれていた両親なら、何かがおかしいと病院を巡っていたはずだと。それでも自分の身体は治らなかったーーそう思うとより一層紹介状が不必要に感じる。
 いつまでも両親の遺産や保険金があるわけでもないし、頼りっぱなしで生きてゆくのも本意ではない。
 単位はきちんと計算して修得済み。あとは今書いている卒業論文に問題がなければ無事大学卒業が決まったも同然。就職するには企業説明会や企業訪問、集団面接を何度か突破すれば個別面接が行われる現実が大きな壁となって尚哉に自身の異常を再認識させた。
「……どうしよ」
 大通りを避けた尚哉は、ささくれだった心を鎮めるような微かな花の匂いに導かれるように歩いてゆく。猫背になって爪先を見ながら歩く姿は、無自覚なのだろうがこの世の終わりを背負っているようだった。
 匂いを頼りに歩いて来た視界に太く立派に広がる根が入る。微かだった香りも強くなり、尚哉は深呼吸をした。金木犀に似た、金木犀よりも軽く爽やかな優しい匂い。
「……ああ、やっぱり」
 顔を上げると何本もの銀木犀が小さな白い花を競うように咲かせていた。
「知らなかった。こんな場所があったなんて」
 控えめながらも頭上から降り注ぐ匂いと木々の深い緑に浮かぶ白い花々の美しさに感動を覚えながら呟く。一際太い幹の下に座り、そっと花を落とさないように背を預けて目を閉じた。鼻腔から、洋服を通り越して皮膚から染み込む銀木犀の香りに癒されながら、これからを考えようとしたが、あまりの心地良さに無心になっていた。
 どのくらいそうしていたのか、冷んやりとした風が尚哉の肌を撫でる。ゆっくりと目を開けるのと同時に、土を踏む音が聞こえ、一瞬花々の香りが風もないのにすうっと薄まったのを感じた。
「え?」
 不審に思い思わず声を上げると、同年代の女性が尚哉の存在に気づき彼女も同じく驚愕の声を上げたがすぐに頭を下げた。
「あ、あの、お邪魔してごめんなさい!」
 慌てて謝罪しながら、それでも女性は銀木犀の元へと寄って行く。
「花を見たらすぐ帰りますから! 少しだけ許してください! ごめんなさい!」
 ゆっくり立ち上がった尚哉を警戒する様子もなく、ただ少し離れた木の下で花を見上げながら香りを楽しもうとしている女性に尚哉は驚いて声をかけた。
「貴女は、何故……その……匂い、が……」
 尚哉に視線を向けた女性は、あ、と小さな声を上げた。
「ごめんなさい! 花の香り、やっぱり消えちゃいましたか? ごめんなさい、出直します! ここ、すごいんです、こんなに大きく育った銀木犀が群生してるなんて、本当に本当にすごいことなので楽しんでください!」
「待って! 待ってください、ちゃんと花の香りはします……一瞬薄れたけど、ちゃんと!」
「え? 貴方には届いているんですか? 私がいても?」
 不思議そうに首を傾げる女性だが、首を傾げたいのは直哉もだった。
「……橋垣尚哉と言います。俺は、その……臭いに異常に敏感で、唯一大丈夫なのが自然が発する匂いだけなんです。でも貴女からは臭いがしなくて……失礼」
 女性は少し驚いた表情をしつつも尚哉にしっかりと向き合った。
「あの、私は佐々木美月と申します。えっと、あだ名は、歩く空気清浄機とか人間消臭剤でした!」
 顔を真っ赤にして絞り出すように言う姿からは、つらさが滲み出ていた。
「あだ名……だから一瞬だけ香りが薄れて……?」
「そうだと思います。私がいると臭いが消えちゃうみたいで、学生時代は良い顔されなくて大変でした」
「臭いが消えるのに? それってイジメ? あ、すみません」
 思いがそのまま出てしまったことを詫びると、美月は器用に両手と首を同時に振った。
「イジメだったのかは……色々言われましたけど、暴力や教科書を捨てられたりなんてことはなかったですし。臭いが消える時に必ず私がいて、私には匂いが解るので、良い匂いねとか、香水変えたの? なんて言ってたんですけど、ほら、周りの人達は無臭空間なわけで……なんていうか、不気味だったんじゃないですかね? 嫌味だけ」
 ふう、と息をついた美月は恐る恐る尚哉を見た。美月の話を脳内で噛み砕いている最中で無言の尚哉に美月は更に言葉を続けた。
「だって、せっかくお気に入りの香水をつけても、私がいたら無臭になっちゃうんですよ? おしゃれに敏感な年頃ですもん……嫌味の一つも言いたくなると思います……はい」
 言い切ると俯いた美月は、あっさりとあだ名を明かした時とは違って見えた。
 言葉だけ、嫌味だけ。それだけでもどれだけ肩身が狭くつらかっただろうかと思うと、尚哉は自分が学校に行けずにいたことや臭いでの嘔吐、手放せないエチケット袋、就職など悩んでいることを話していた。
 初対面だから、と言う事実が気軽に話す助けになったのも否めない。
「そんな……おつらいことが……ご両親も……うぅ……」
 話を聞き終わった美月は大きな目に涙を溜め、瞬き一つで零れ落ちてしまいそうだ。慌ててハンカチを渡そうとしたが、病院でのことを思い出し躊躇する。
「ごめ、なさ……わ、私、泣き上戸っていうんですか? 涙腺脆くて。つらいのは橋垣さんなのに」
 そう言いながら自分のバッグの中から慌ててハンカチを出すと一気に両目に当てた。
「泣いてくれて、ありがとうございます」
 心の底からすっと出た言葉。
 美月はハンカチをずらして尚哉を見た。他者からの悪意ある言葉を受けてきた美月は言葉に含まれた裏の音には敏感だ。色々なものを抱えている人を前に勝手に泣いて、勝手に慌てている最中にかけられた言葉には、悪意の欠片も感じられなかった。
 覗き見る尚哉も心配そうにはしているが迷惑そうな顔はしていない。安心した美月は一歩踏み込んだ話をしてみようと思い、鼻声で話しかけた。
「これから、どうするんですか? その、就職とか?」
 尚哉はいきなりの質問に、銀木犀を見上げながら唸った。様々な考えが頭の中を高速で行き来する。
「こんな体質じゃ、ね……」
「体質なら、私もです!」
 確かに。と二人は初めて少しだけ笑った。
「本来なら企業に入って勉強させてもらってからじゃないと厳しいと思うけど、幸いシステムアーキテクト……あ、システムエンジニア、解りますか? その資格を活かして自宅でフリーランスとか? 顧客探しからですから、やっぱり甘いですよね」
 自嘲気味に笑い、首を傾けて花を見つめる尚哉の横顔は女性の美月から見ても美しいと思えた。
「あの!」
 一旦は落ち着いた美月の張り詰めた声に驚いて再び視線を戻すと、美月は深呼吸の真っ最中だった。
「あの、私……私と一緒に働きませんか? あ、でも私もこれからの話で、えっと、起業を考えていて、その、私もこれから先ずっと消臭剤って呼ばれたり思われたりするのはつらいなぁって……そんなの橋垣さんのつらさとは比べ物にならないんですけど。でも自分だけの場所で働けたらって思って。システムエンジニアさんならホームページとか作れますか? 臭いがダメな橋垣さんと消臭剤の私なら橋垣さんの負担が減りませんか? 当然リモートでもかまいません! 私が起業するまで、待ってもらえませんか? 一緒がダメなら顧客リストに入れてもらえませんか?」
「ちょっと待って……えっと、ホームページは作れますよ。で、どんな業種で起業しようと思っているんですか?」
「笑わないでくださいね? 実はーー」
 照れくさそうに歪んだ唇から小さな声で紡ぎ出された案に、尚哉は一瞬目を丸くしてすぐに笑い出した。
「それなら俺にぴったりの仕事です。一緒に起業しませんか? 社長?」
「しゃ、しゃ、社長!?」
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