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8巻
8-2
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「その通り、お母さん」
「でも、アレだね。今やってることって、すごく地味だよね」
「ハナ、桜木くんは簡単にやってるように見えるかもしれんが、押してる力はかなり強いぞ――くうっ」
「そう言えば、亮くんの握力って百キロ以上あるんだっけ?」
「はああああああ――⁉」
そう絶叫したのは、未だ正座をさせられて、首を伸ばしてこちらの様子を見ていた純貴だ。
「握力が百キロ以上だとお――⁉」
「確か中学校の時の話だから、今もっとあるよね?」
「純貴を軽くあしらった姿を見たら、そんなに不思議に思えないわね」
「私もシルバーと戦ってる時の亮さんの姿覚えてるから、不思議に思えない」
「中学の時に握力が百キロ以上だとお――⁉」
「だって、亮くんだよ?」
「純貴を相手にして本当に手加減して無傷にしてもらえてよかったと思うわ」
「お兄ちゃん、忘れてるかもしれないけど、亮さんは中学の時にシルバーと戦って、ゴールドクラッシャーって呼ばれるようになったんだよ?」
どうやら藤本家の美女三人は長男の驚きを共有する気は無いようだ。
純貴は何を言っても、ろくに反応が返ってこないとわかって、無言で頭を抱えて首を横に振る。
そうして三人の美女と雑談しつつ、亮の地味な作業が始まって二十分が過ぎた。父が痛みを耐えて嫌な汗を顔中に浮かばせている中、亮はふと不味いことに気づいた。
「恵梨花……大変なことになった」
「え? どうしたの、亮くん? お父さんに何かあったの?」
「いや、親父さんじゃない……俺だ」
「亮くんが……? 一体どうし――」
恵梨花がそう口にしている途中で、亮の腹から「ギュルルルル――」と大きな音が鳴る。
「あーうん、わかった。お腹が空いたんだね?」
「その通りだ……気張らないと力が抜けてくる」
「うーん、それは確かに大変? だね……何か作ろうか? サンドイッチなんかどう? 早く作れるし。お母さん、食パンある?」
「あるわよ。確か亮くんって大食漢だったわね。私も手伝うわ」
「あ、私も手伝うー。亮さんに食べてもらえる……ふふっ」
美女三人が腕まくりをして姦しくワイワイとキッチンに向かう様から、もうそれだけで料理への期待値が限界突破しているように感じ、絶対に美味いものが出てくると確信させられた。何より、亮は恵梨花の料理の腕前を知っているのだから。
「……親父さんって幸せ者ですよね……」
つい、しみじみと亮が呟くと、父が痛みを堪えながら振り向かずに声を返す。
「……そうだな、それについては自信を持って言える」
「でしょうね。あんなに若くて超美人な奥さんに、あんなに気立てのよく優しい娘二人――いや、三人いるんでしたっけ」
「うむ。末の子は、どうも上の三人がしっかりしてるせいか、お調子者で少しわがままな子になったが……」
「へえ。でも、そこが可愛いんでしょう?」
「ふっ、確かにな。それにそれでも自慢の娘だ。ユキも、ハナもな。だからこそ、いずれ嫁に行く時のことを考えると――な。どうも冷静になれん」
「まあ、確かに親父さんからしたら娘に近寄る男が憎らしいかもしれませんが、今日のは俺じゃなかったらキツいと思いますよ」
「む……ユキの恩人たる君に、騙し討ちのような真似をしたのはすまないと思っている。だが、私の言ったことがそれほど間違ってないと――君にも覚えがあるからこそ試合を受けたのでは?」
「そいつは否定しませんよ」
「まあ、我々の目が節穴で、要らぬ試合だったのだと今はわかるが」
「お眼鏡に叶ってよかったと思ってますよ。本当に」
「それに君は最初から我々と歩み寄ろうとしていてくれてたな、純貴の態度に怒りもせず、試合でも君は手加減をして、本当に怪我もさせなかった。ハナのことを大事に思ってるからこそなんだとわからされたよ」
「……もしかして、兄さんにどう対応するかも見てたってことですか?」
「ハナと付き合うのなら……長く付き合うつもりがあるのなら、アレとの衝突は避けられんだろう?」
「……なるほど」
思っていた以上に、父は自分のことを真摯に見極めようとしていたのだと亮はわかった。
「……まあ、まったく寸止めをしようとしなかったのはこちらも予想していなかったがな。どさくさに紛れて一発殴るぐらいは見逃そうと思ったが、アレのシスコンぶりを甘く見ていたようだ。君でなければ大怪我させて大変なことになっていた」
「いや、それ。本当にそれですよ」
「君が純貴より強くてよかったことの一つだな……言っておくが、その強さも確かにそうであるが、それだけでハナとの付き合いを認めようと思った訳ではない。心根が真っ直ぐでハナを大事にしている、これからもしてくれるだろうと思ったから認めたのだ」
「……それについては心から嬉しく思いますが、やっぱり今日のは不意打ち過ぎますよ……」
つい亮が愚痴っぽく言うと、何が受けたのか父は肩を震わせた。
「ふっふ、ようやく高校生らしい面を見た気がするな。それについては本当にすまなかった。それより、今のこれはまだ続くのかね? もう長いことやってるように思うが……」
父が言っているのは背骨周りをグリグリ押していることで、時間的に見ても長くやっているので父がそう言うのも無理はない。
「あーちょっと、待ってください……よし、頃合いだな。親父さん、腕を上げてもらえますか」
亮は背中から手を離すと、立ち上がって父の両腕を取り、それを天井へ向けて突き上げる。
「くっ――」
なかなか強く引っ張っているので、父の口から声が漏れる。
力を緩めて、また引っ張ってを数回繰り返した末に、亮は父の両手を放した。
「次に親父さん、立ってくれますか」
「うむ――うん?」
立ち上がる際に違和感を覚えているようで、首を傾げている。
「何か――変な感じ? がするな」
「曲がっていた背骨を真っ直ぐにしましたからね。長いこと曲がったままなのが普通に感じていたんですから、そのせいでしょう」
「さっきので――そんなことが可能なのかね?」
指で押し続けることで骨の位置をズラすことが出来るなど、考えに及ばないのだろう。
「案外出来るものなんですよ。それに驚くのはこれからですよ。腰の痛みはそのままですよね?」
「う、うむ、そうだな」
腰からの痛みを気にするように手を当てている父。
「それじゃ、失礼――」
これからすることは画的に非常に見苦しくなるから、あまりやりたくないのだが、仕方ないと亮は中腰になって、父の腰回りにタオルを当てて、そこから、父の腹に手を回した。つまり、亮は立っている父に後ろから、中腰の姿勢で抱きついているような状態になったのだ。
「それじゃ、親父さん、足を曲げずに、手を床につけるように前に屈んでください」
「う、うむ? いや、だが私は――」
亮が変な姿勢で後ろから抱きついているのに戸惑った様子ながら、指示されたことに逡巡する父。
「わかってますよ、その体勢が痛くなることぐらい。だから俺がこうして支えてるんですよ。そしたら痛くないんで、いいから思い切ってやってください。俺だってこの体勢は辛いんですから」
「う、うむ、わかった――」
そうして父は言われた通り、足を曲げずに前に屈んでググッと床へ両手を伸ばす。
「――っ⁉ 本当に、痛くないの、だな」
「でしょう? じゃあ体起こして息吸って――はい、吐きながら前に屈んで――」
これも数回繰り返してから、亮は父の腰から離れた。
「はあ、終わった――じゃあ、座ってください」
「うむ……――っ⁉」
座る際に父は驚いた顔で振り返ってきて、亮はついついドヤ顔になる。
「痛みがなかったんでしょ?」
「あ、ああ――全くないとは言わんが、今までとはまるで違うことは確かだ!」
「ふっふ、そうでしょう。さあ、続きをするので前向いてください」
「う、うむ――!」
ここに来て父は亮の腕を完全に信頼したようだ。少し興奮しているようにも見える。
「さっきの前屈が原因かね? 何故あんなので痛みがなくなったのだ?」
亮は父の背中の筋肉をほぐすようにマッサージをしながら答える。
「細かい説明を省くと、親父さんの腰痛の原因は、背骨と背骨の間隔が狭まっていたからなんですよ」
「ふむ……?」
「その上、その背骨が曲がっていましてね。まずはそれを力技で真っ直ぐにしました」
「なるほど……」
「そして真っ直ぐにした後は、狭まっている間隔を広げるために、腕を伸ばし、仕上げにさっきの前屈みです。あれで、グッと腰から背中が伸びて――」
「それで骨と骨の間隔が広がったということか⁉」
「そうです。よし、じゃあ、もっかいだけさっきの前屈やりますよ」
父は「うむ!」と、もうノリノリで亮の言う通りに動き、先ほどと同じように前屈を済ませた。
「よっし、これで終わりか。親父さん、無理のない範囲で体動かしてみてください」
頷いた父はゆっくり一人で軽く前に屈んでみて、すぐに驚愕に染まった顔で体を起こす。
そして椅子に座って立ってを何度も繰り返し、その度に亮へ驚きの目を向け、そして興奮した様子で、床にじかに座ると、曲げた足の指先に手を伸ばし、靴下を脱いだ。そして、靴下をはき直す。
「は、はけた……」
感慨深く呟く父に、亮は苦笑を浮かべる。
そして、そこから立ち上がる際にもまた顔を驚きに染めると、ガシッと亮の両手をとった。
「ありがとう、ありがとう、桜木くん! こんなに体が軽いと感じたのはいつ以来だろうか――!」
「はは、助けになれてよかったですよ。でも、今日ほどでなくとも、治療のための施術はあと、二、三回必要ですよ。そうすれば手術もしなくてよくなるでしょう。痛みはほとんど減ったとは思いますが、完全にじゃないでしょう?」
「あと、二、三回⁉ それでこの痛みがなくなるのかね⁉ さらに手術も必要なくなるのか⁉」
「ええ、そうですよ。それでほぼ完治と見ていいです。あくまでもこの腰痛の原因については、ですが。施術は学校帰りでよければ、俺がまたやってもいいんですが……時間、合わないですよね?」
「む、確かにそうだな」
「なので親父さんが知ってる整体のとこに行くか、それか俺のじじい――じいさんのとこ行きますか? 行くなら連絡先教えますけど」
「君に整体の技術を教授した御祖父かね⁉ では、是非頼む!」
「ええ、じゃあ、後で連絡先教えます。俺からも後で連絡しときますよ」
「おお……よろしく頼む!」
父が晴れやかな顔で、亮の両手を握ってブンブンと振る。
腰痛から解放されるのがよほど嬉しいのだということがよくわかる。
「あ、でも、あれですよ。痛みがなくなってから油断してると、またすぐに何かしらが原因で腰痛が来る可能性は高いんで、近いところでマッサージだけでも毎週通うようにした方がいいですよ」
「む、そうか……そうだな。これからは時間をちゃんと空けるように考えなくてはいかんな……もう、あの痛みはごめんだしな」
そう言ってしみじみと首を横に振る父に、亮は苦笑する。
「はーい、お待ちどー! あれ? 何やってんの、お父さんと亮くん……もう終わったの?」
そこで恵梨花がサンドイッチを載せた皿を持ってきた。後ろには同じように、雪奈と華恵も皿を持っていた。
未だ父が亮の両手をガッシリ掴んでいるのを見て、揃って小首を傾げている。
「む、ハナ、ユキ、母さんも、見てくれ――」
父はそう言って、床へ手を伸ばすように前に屈んでみせる。さらに片足立ちになって、足の指先に手を伸ばしたりもする。
「まあ……もう痛くないの? もしかして、手術の心配もなくなって?」
華恵が目を丸くして問いかけると、父が機嫌よさそうに答える。
「うむ。まったく痛みがない訳ではないが、楽に体が動かせるようになった。手術も必要なさそうだ」
「信じられない……よかったわね、あなた」
「嘘、ここまで劇的に良くなるものなの……? お父さんのこんな機嫌良さそうな顔は久しぶりに見たわ……亮さんって強くて優しいだけでなく、こんな……もう、本当に素敵」
「うわー、本当にすごい。良かったね、お父さん。ありがとう、亮くん! あ、これ食べて?」
恵梨花に言われるまでもなく、亮の目はサンドイッチに釘付けで、もう椅子に座り直している。
「これが私の作ったタマゴサンドで、これがユキ姉が作ったBLTチーズのホットサンド、それでこれがお母さんが作ったカツサンド。全部食べていいからね、亮くん」
「じゃあ、遠慮なく――いただきます」
まずはと恵梨花が用意した、テレビで見たことあるような大きな卵焼きというかオムレツみたいなものを挟んだサンドイッチに手を伸ばして、大口で頬張る。
「うっま」
口の中にこれでもかと卵の旨味が広がって、亮の頬が盛大に緩む。
「美味しい?」
恵梨花の問いかけに亮は無言でコクコクと首を縦に振る。そして亮が飲むようにサンドイッチを食べ続ける姿を、恵梨花は満足そうに眺めた。
「わっ、もうハナの作ったタマゴサンドがなくなってる……あ、亮さん、私はハナほど料理上手でなくて、ほとんどカットしたのを挟んだだけなんですけど、どうぞ、食べてください。あ、お父さんの治療、わざわざありがとうございました」
雪奈がはにかむようにして勧めてくれたBLTチーズのサンドもやはり美味かった。カリカリのベーコンに酸味のあるトマト、シャキッとしたレタスにチーズ。マヨネーズもいい具合に塗られたそれは文句なしに美味く、無言で瞬く間に食べた亮を、雪奈も幸せそうに眺めていた。
「亮くん、本当に何て言うか、ここまで主人の腰が良くなるとは思ってもみなくて……手術が必要だったかもしれないって考えると、言葉に言い表せないほど感謝してるわ。本当にありがとう――って言ってるそばからハナとユキが作ったサンドイッチが消えてる⁉ あ、亮くん、カツは揚げたてだから気をつけて――大丈夫みたいね。それにしても、本当に大した食べっぷりね……」
華恵の感謝の言葉にも、モグモグしながら頷きで返し、亮はカツサンドを豪快に頬張った。恵梨花の母だけあって、その味にはやはり文句の付け所がなく、ソースが塗られ、千切りキャベツも挟まれた揚げたてのカツサンドは、ボリュームがあって非常に美味かった。
「はあー、美味かった」
瞬く間にサンドイッチ全てを食べ終え、アイスコーヒーをすすっている亮を、雪奈と華恵が唖然としながら見ている。
「あれ……? もしかして三分もかかってない……? 食パン一斤使ったサンドイッチが……?」
「大食漢なのはわかってるつもりだったけど……すごいわね」
「もう、亮くん、いつも言ってるけど、ちゃんと噛んでるの⁉」
「噛んでる噛んでる。ちゃんと噛んでる。すげえ美味かったぞ――あ、ご馳走さまでした」
華恵と雪奈の方にも向いて亮が頭を下げると、三人を代表するように華恵が言う。
「あ、ええ、お粗末様……うーん、作り甲斐があるわね。ああ、そうだ亮くん、今日って元々は主人と純貴が帰ってくる前の夕方に帰る予定だったのだろうけど、夜って予定は入ってるのかしら?」
「夜ですか? 特に予定は入れてませんけど」
「よかった。なら、夕飯食べていかない? さっきハナとユキともそう話してたのよ」
「ふむ、それはいいな。桜木くん、遠慮せずに食べていきなさい」
父が真っ先に朗らかな顔で賛成してくれた。数時間前に初めて会った時の顔と同じとはとても思えないほどだ。
「いや、そんな、急にお邪魔するのも――」
いきなりの話だったので、ついそんな風に口から出るが――
「遠慮しなくていいのよ。すき焼きしようと思ってるのよ、好きかしら?」
「す、すき焼――そこまで言われて固辞するのは却って失礼ですね。是非、いただきます」
すき焼きと聞いてすぐさま意見を翻し、キリッとした顔で亮が承諾すると、華恵は噴き出した。
「ふふっ、よかったわ――ならそれまでの間、ハナの部屋にでもいたらどうかしら? いいわよね?」
「む、むう……そう、だな。桜木くん、ハナの部屋でゆっくりしてくるといい」
父が渋面ながらに頷いた。
「やった! さあ、亮くん、私の部屋に行こう?」
父の返答に驚き戸惑っていた亮の手を恵梨花が取ると――
「反対反対! ハナと部屋に二人っきりなど、父さんが認めてもこの兄は認めない‼」
当然のように純貴が反対してきた。が――
「純貴? あなたには誰も聞いてないわよ?」
「お兄ちゃんに発言権なんてあると思ってんの? 黙って正座してて」
「純貴……もう諦めろ」
母、長女、父にそう言われて、兄はこの世の終わりのような顔をして項垂れた。
「ああ、純貴、ちょっと車で遠くのデパ地下まで行って、高級そうなお肉たくさん買ってきてくれる? 亮くんはいっぱい食べるみたいだし。ああ、あなたのお小遣いでね」
「あ、それなら一個で百円とか二百円ぐらいしそうな卵とかも買ってきて、お兄ちゃん」
「あ、なら高そうな椎茸も‼」
母、長女、次女に追い打ちをかけられて、純貴は泣きそうな顔で父を見上げた。
「……私も出してやる。いや、一緒に行ってやるから行くぞ、純貴」
父は仕方なさそうにため息を吐いて、長男にそう促した。
「さ、これでシスコン兄はいなくなったから、ゆっくりしなさい、ハナ」
亮が恵梨花に連れられて部屋に向かう際に、華恵がウィンクしながら恵梨花にそっと囁いた。
「……ありがとう、お母さん」
恵梨花は顔を真っ赤にしてお礼を返したのであった。
「はい、亮くん、どうぞ」
自室の扉を開いて、少し恥ずかしそうにしながら促す恵梨花に従って、亮は恵梨花の部屋に足を踏み入れた。
途端に鼻に広がるいい匂いに、亮は少し動揺しかけた。
(恵梨花の匂い……だな、これは)
当たり前かもしれないが、いつも恵梨花から伝わるいい匂いが、この部屋には充満していた。
いつも思うが、どうして女の子は男と違ってこんなにいい匂いがするのか、不思議で仕方ない。特に恵梨花の匂いは亮にとって格別で、安らぐような、でも胸を高鳴らせるような、そんな相反した二つの匂いが見事に矛盾なく同居しているのだ。一層不思議で仕方がない。それは単に恵梨花が匂いに至るまで亮の好みのどストライクが故なのだが、亮がそこまで深く考えたことがなかった。
ともあれ部屋に入った亮は、特に何か意識するでもなく、部屋の中に目を走らせる。
白のレースと花柄のカーテンに覆われた窓の手前にベッド、横に学習机、その手前には小さなローテーブルとクッションが置かれていた。その脇にある小さなタンスの上にはぬいぐるみがあり、入り口から横に向かうとクローゼットだと思われる扉があった。本棚にはところどころ亮にはよくわからない可愛らしい小物があったりと、ごく普通の女の子の部屋と思われた。
(都の部屋となんか雰囲気似てるな……)
やはり恵梨花ほどのとびきりの美少女といえども、自室はやはり他の女の子と同じようになるのか、という感想を亮は抱いた。だが、亮は忘れている。無意識に比べてしまった中学の時の同級生である都も、読者モデルなんてやってるとびきりの美少女だということを。
(あいつの部屋もいい匂いしたな、そういえば……)
中学の時のことをふと懐かしく思っていると、後ろから恵梨花に声をかけられる。
「ほら、亮くん、もっと中に入って? あっ、あんまりジロジロ見ないでね!」
「あ、ああ」
我に返った亮が一歩足を動かすと、恵梨花はさっと脇を通って、部屋の中心まで入り亮の方を振り返る。
「亮くん、今日は本当に色々とごめんね? 驚かせるのわかっててユキ姉のことを話さずに来たんだけど、それだって私の我儘で……ごめんなさい」
「いや、だから気にしなくていいって……恵梨花からしたら、それだけが俺を驚かせることだって思ってたのはわかってるから」
「うん……まさか、お父さんとお兄ちゃんがいきなり帰ってくるなんて……」
「まあ、それはな、本当に驚いたけど。でも、それだって、親父さんとも兄さんともそれなりに打ち解けられたとは思うし、結果オーライじゃねえか。いいよ、もう。気にすんな」
そう言って、俯いている恵梨花の頭に手を置いてポンポンと撫でる。
「うん……ありがとう、亮くん」
上目遣いで嬉しそうにはにかむ恵梨花に、亮は心臓を跳ねさせながら、手を下ろす。少し名残惜しそうにその手に目をやった恵梨花だが、すぐニコッと顔を上げた。
「でも、今日は本当にありがとう。お兄ちゃんあんなだったのに、手加減して相手してくれたり……別に少しぐらい怪我させてもよかったんだけど……あと、お父さんの腰もあんなに良くしてくれて! お母さんもすごく喜んでたよ!」
「ははっ、ならよかったよ」
「あと、やっぱり……そうだ、私、言ってなかった」
「何を?」
亮が問い返すと、恵梨花は深く頭を下げた。
「亮くん、ユキ姉を助けてくれて……本当に、ありがとう」
「あー、うん。わかったから。頭上げてくれって恵梨花」
感謝の言葉は今日何度も言われて食傷気味で、気持ちはわかるが恵梨花にまで頭を下げられるのはいい気分ではない。それは恵梨花もわかっているのだろう、亮が言うとすぐに頭を上げた。
「ユキ姉ね、亮くんに助けられて、そして事件のことから立ち直ってきたら、それから時間を空けては毎日のように、泉座の駅に自分を助けてくれた人――ゴールドクラッシャーって呼ばれてる人を探してたんだ」
「……そうだったのか」
「うん……ユキ姉のそんな姿いつまでも見てられなくてね、だから私も自分に出来る範囲で噂されてるゴールドクラッシャーを探してみようと思ったら――」
そう言うと、恵梨花は苦笑して亮を見上げた。
「隣にいるんだもん。滅茶苦茶驚いたよ」
さもありなん。亮は少しばかり気まずくなりながら同じように苦笑を浮かべる。
「俺だって、まさか、あの時のあの子が恵梨花のお姉さんだなんてな」
「ふふっ、本当だね」
恵梨花が顔を綻ばすと、亮はふと疑問に思った。
「それにしても、毎日のように泉座に行ってた割に? 俺は見かけたことねえんだけどな」
「……そう言えば、そうなるんだよね? 亮くんもしょっちゅうって訳でなくても、たまに行ってたんだよね?」
「そうなんだよな……うん? そういや、駅で探してたって言ってたな。どっちの駅だ?」
「え、どっちって――あ……表の方だ」
「ああ、やっぱりか。俺が泉座行く時は基本裏の方使ってたからな」
「確かに亮くんそう言ってたね、現に先週はそっちで待ち合わせしたし……」
恵梨花が姉の不運を思いやったのか無念そうにため息を吐く。
「まあ、お姉さんには悪いが、あの駅でいきなり声をかけられるよりは、今日ここでの方が――とも思えるかな、俺は」
「あー、どっちも亮くんには驚きだけど、駅でよりはってこと?」
「そうだな、あんなとこでゴールドクラッシャーだとか言われたら隠しようがねえ。どうにか誤魔化そうとするぞ、俺は」
「た、確かに」
人が集まる泉座の駅は噂の中心地そのものだ。そんなところでゴールドクラッシャーの話をすれば、あっという間に広がってしまうだろう。
「でも、アレだね。今やってることって、すごく地味だよね」
「ハナ、桜木くんは簡単にやってるように見えるかもしれんが、押してる力はかなり強いぞ――くうっ」
「そう言えば、亮くんの握力って百キロ以上あるんだっけ?」
「はああああああ――⁉」
そう絶叫したのは、未だ正座をさせられて、首を伸ばしてこちらの様子を見ていた純貴だ。
「握力が百キロ以上だとお――⁉」
「確か中学校の時の話だから、今もっとあるよね?」
「純貴を軽くあしらった姿を見たら、そんなに不思議に思えないわね」
「私もシルバーと戦ってる時の亮さんの姿覚えてるから、不思議に思えない」
「中学の時に握力が百キロ以上だとお――⁉」
「だって、亮くんだよ?」
「純貴を相手にして本当に手加減して無傷にしてもらえてよかったと思うわ」
「お兄ちゃん、忘れてるかもしれないけど、亮さんは中学の時にシルバーと戦って、ゴールドクラッシャーって呼ばれるようになったんだよ?」
どうやら藤本家の美女三人は長男の驚きを共有する気は無いようだ。
純貴は何を言っても、ろくに反応が返ってこないとわかって、無言で頭を抱えて首を横に振る。
そうして三人の美女と雑談しつつ、亮の地味な作業が始まって二十分が過ぎた。父が痛みを耐えて嫌な汗を顔中に浮かばせている中、亮はふと不味いことに気づいた。
「恵梨花……大変なことになった」
「え? どうしたの、亮くん? お父さんに何かあったの?」
「いや、親父さんじゃない……俺だ」
「亮くんが……? 一体どうし――」
恵梨花がそう口にしている途中で、亮の腹から「ギュルルルル――」と大きな音が鳴る。
「あーうん、わかった。お腹が空いたんだね?」
「その通りだ……気張らないと力が抜けてくる」
「うーん、それは確かに大変? だね……何か作ろうか? サンドイッチなんかどう? 早く作れるし。お母さん、食パンある?」
「あるわよ。確か亮くんって大食漢だったわね。私も手伝うわ」
「あ、私も手伝うー。亮さんに食べてもらえる……ふふっ」
美女三人が腕まくりをして姦しくワイワイとキッチンに向かう様から、もうそれだけで料理への期待値が限界突破しているように感じ、絶対に美味いものが出てくると確信させられた。何より、亮は恵梨花の料理の腕前を知っているのだから。
「……親父さんって幸せ者ですよね……」
つい、しみじみと亮が呟くと、父が痛みを堪えながら振り向かずに声を返す。
「……そうだな、それについては自信を持って言える」
「でしょうね。あんなに若くて超美人な奥さんに、あんなに気立てのよく優しい娘二人――いや、三人いるんでしたっけ」
「うむ。末の子は、どうも上の三人がしっかりしてるせいか、お調子者で少しわがままな子になったが……」
「へえ。でも、そこが可愛いんでしょう?」
「ふっ、確かにな。それにそれでも自慢の娘だ。ユキも、ハナもな。だからこそ、いずれ嫁に行く時のことを考えると――な。どうも冷静になれん」
「まあ、確かに親父さんからしたら娘に近寄る男が憎らしいかもしれませんが、今日のは俺じゃなかったらキツいと思いますよ」
「む……ユキの恩人たる君に、騙し討ちのような真似をしたのはすまないと思っている。だが、私の言ったことがそれほど間違ってないと――君にも覚えがあるからこそ試合を受けたのでは?」
「そいつは否定しませんよ」
「まあ、我々の目が節穴で、要らぬ試合だったのだと今はわかるが」
「お眼鏡に叶ってよかったと思ってますよ。本当に」
「それに君は最初から我々と歩み寄ろうとしていてくれてたな、純貴の態度に怒りもせず、試合でも君は手加減をして、本当に怪我もさせなかった。ハナのことを大事に思ってるからこそなんだとわからされたよ」
「……もしかして、兄さんにどう対応するかも見てたってことですか?」
「ハナと付き合うのなら……長く付き合うつもりがあるのなら、アレとの衝突は避けられんだろう?」
「……なるほど」
思っていた以上に、父は自分のことを真摯に見極めようとしていたのだと亮はわかった。
「……まあ、まったく寸止めをしようとしなかったのはこちらも予想していなかったがな。どさくさに紛れて一発殴るぐらいは見逃そうと思ったが、アレのシスコンぶりを甘く見ていたようだ。君でなければ大怪我させて大変なことになっていた」
「いや、それ。本当にそれですよ」
「君が純貴より強くてよかったことの一つだな……言っておくが、その強さも確かにそうであるが、それだけでハナとの付き合いを認めようと思った訳ではない。心根が真っ直ぐでハナを大事にしている、これからもしてくれるだろうと思ったから認めたのだ」
「……それについては心から嬉しく思いますが、やっぱり今日のは不意打ち過ぎますよ……」
つい亮が愚痴っぽく言うと、何が受けたのか父は肩を震わせた。
「ふっふ、ようやく高校生らしい面を見た気がするな。それについては本当にすまなかった。それより、今のこれはまだ続くのかね? もう長いことやってるように思うが……」
父が言っているのは背骨周りをグリグリ押していることで、時間的に見ても長くやっているので父がそう言うのも無理はない。
「あーちょっと、待ってください……よし、頃合いだな。親父さん、腕を上げてもらえますか」
亮は背中から手を離すと、立ち上がって父の両腕を取り、それを天井へ向けて突き上げる。
「くっ――」
なかなか強く引っ張っているので、父の口から声が漏れる。
力を緩めて、また引っ張ってを数回繰り返した末に、亮は父の両手を放した。
「次に親父さん、立ってくれますか」
「うむ――うん?」
立ち上がる際に違和感を覚えているようで、首を傾げている。
「何か――変な感じ? がするな」
「曲がっていた背骨を真っ直ぐにしましたからね。長いこと曲がったままなのが普通に感じていたんですから、そのせいでしょう」
「さっきので――そんなことが可能なのかね?」
指で押し続けることで骨の位置をズラすことが出来るなど、考えに及ばないのだろう。
「案外出来るものなんですよ。それに驚くのはこれからですよ。腰の痛みはそのままですよね?」
「う、うむ、そうだな」
腰からの痛みを気にするように手を当てている父。
「それじゃ、失礼――」
これからすることは画的に非常に見苦しくなるから、あまりやりたくないのだが、仕方ないと亮は中腰になって、父の腰回りにタオルを当てて、そこから、父の腹に手を回した。つまり、亮は立っている父に後ろから、中腰の姿勢で抱きついているような状態になったのだ。
「それじゃ、親父さん、足を曲げずに、手を床につけるように前に屈んでください」
「う、うむ? いや、だが私は――」
亮が変な姿勢で後ろから抱きついているのに戸惑った様子ながら、指示されたことに逡巡する父。
「わかってますよ、その体勢が痛くなることぐらい。だから俺がこうして支えてるんですよ。そしたら痛くないんで、いいから思い切ってやってください。俺だってこの体勢は辛いんですから」
「う、うむ、わかった――」
そうして父は言われた通り、足を曲げずに前に屈んでググッと床へ両手を伸ばす。
「――っ⁉ 本当に、痛くないの、だな」
「でしょう? じゃあ体起こして息吸って――はい、吐きながら前に屈んで――」
これも数回繰り返してから、亮は父の腰から離れた。
「はあ、終わった――じゃあ、座ってください」
「うむ……――っ⁉」
座る際に父は驚いた顔で振り返ってきて、亮はついついドヤ顔になる。
「痛みがなかったんでしょ?」
「あ、ああ――全くないとは言わんが、今までとはまるで違うことは確かだ!」
「ふっふ、そうでしょう。さあ、続きをするので前向いてください」
「う、うむ――!」
ここに来て父は亮の腕を完全に信頼したようだ。少し興奮しているようにも見える。
「さっきの前屈が原因かね? 何故あんなので痛みがなくなったのだ?」
亮は父の背中の筋肉をほぐすようにマッサージをしながら答える。
「細かい説明を省くと、親父さんの腰痛の原因は、背骨と背骨の間隔が狭まっていたからなんですよ」
「ふむ……?」
「その上、その背骨が曲がっていましてね。まずはそれを力技で真っ直ぐにしました」
「なるほど……」
「そして真っ直ぐにした後は、狭まっている間隔を広げるために、腕を伸ばし、仕上げにさっきの前屈みです。あれで、グッと腰から背中が伸びて――」
「それで骨と骨の間隔が広がったということか⁉」
「そうです。よし、じゃあ、もっかいだけさっきの前屈やりますよ」
父は「うむ!」と、もうノリノリで亮の言う通りに動き、先ほどと同じように前屈を済ませた。
「よっし、これで終わりか。親父さん、無理のない範囲で体動かしてみてください」
頷いた父はゆっくり一人で軽く前に屈んでみて、すぐに驚愕に染まった顔で体を起こす。
そして椅子に座って立ってを何度も繰り返し、その度に亮へ驚きの目を向け、そして興奮した様子で、床にじかに座ると、曲げた足の指先に手を伸ばし、靴下を脱いだ。そして、靴下をはき直す。
「は、はけた……」
感慨深く呟く父に、亮は苦笑を浮かべる。
そして、そこから立ち上がる際にもまた顔を驚きに染めると、ガシッと亮の両手をとった。
「ありがとう、ありがとう、桜木くん! こんなに体が軽いと感じたのはいつ以来だろうか――!」
「はは、助けになれてよかったですよ。でも、今日ほどでなくとも、治療のための施術はあと、二、三回必要ですよ。そうすれば手術もしなくてよくなるでしょう。痛みはほとんど減ったとは思いますが、完全にじゃないでしょう?」
「あと、二、三回⁉ それでこの痛みがなくなるのかね⁉ さらに手術も必要なくなるのか⁉」
「ええ、そうですよ。それでほぼ完治と見ていいです。あくまでもこの腰痛の原因については、ですが。施術は学校帰りでよければ、俺がまたやってもいいんですが……時間、合わないですよね?」
「む、確かにそうだな」
「なので親父さんが知ってる整体のとこに行くか、それか俺のじじい――じいさんのとこ行きますか? 行くなら連絡先教えますけど」
「君に整体の技術を教授した御祖父かね⁉ では、是非頼む!」
「ええ、じゃあ、後で連絡先教えます。俺からも後で連絡しときますよ」
「おお……よろしく頼む!」
父が晴れやかな顔で、亮の両手を握ってブンブンと振る。
腰痛から解放されるのがよほど嬉しいのだということがよくわかる。
「あ、でも、あれですよ。痛みがなくなってから油断してると、またすぐに何かしらが原因で腰痛が来る可能性は高いんで、近いところでマッサージだけでも毎週通うようにした方がいいですよ」
「む、そうか……そうだな。これからは時間をちゃんと空けるように考えなくてはいかんな……もう、あの痛みはごめんだしな」
そう言ってしみじみと首を横に振る父に、亮は苦笑する。
「はーい、お待ちどー! あれ? 何やってんの、お父さんと亮くん……もう終わったの?」
そこで恵梨花がサンドイッチを載せた皿を持ってきた。後ろには同じように、雪奈と華恵も皿を持っていた。
未だ父が亮の両手をガッシリ掴んでいるのを見て、揃って小首を傾げている。
「む、ハナ、ユキ、母さんも、見てくれ――」
父はそう言って、床へ手を伸ばすように前に屈んでみせる。さらに片足立ちになって、足の指先に手を伸ばしたりもする。
「まあ……もう痛くないの? もしかして、手術の心配もなくなって?」
華恵が目を丸くして問いかけると、父が機嫌よさそうに答える。
「うむ。まったく痛みがない訳ではないが、楽に体が動かせるようになった。手術も必要なさそうだ」
「信じられない……よかったわね、あなた」
「嘘、ここまで劇的に良くなるものなの……? お父さんのこんな機嫌良さそうな顔は久しぶりに見たわ……亮さんって強くて優しいだけでなく、こんな……もう、本当に素敵」
「うわー、本当にすごい。良かったね、お父さん。ありがとう、亮くん! あ、これ食べて?」
恵梨花に言われるまでもなく、亮の目はサンドイッチに釘付けで、もう椅子に座り直している。
「これが私の作ったタマゴサンドで、これがユキ姉が作ったBLTチーズのホットサンド、それでこれがお母さんが作ったカツサンド。全部食べていいからね、亮くん」
「じゃあ、遠慮なく――いただきます」
まずはと恵梨花が用意した、テレビで見たことあるような大きな卵焼きというかオムレツみたいなものを挟んだサンドイッチに手を伸ばして、大口で頬張る。
「うっま」
口の中にこれでもかと卵の旨味が広がって、亮の頬が盛大に緩む。
「美味しい?」
恵梨花の問いかけに亮は無言でコクコクと首を縦に振る。そして亮が飲むようにサンドイッチを食べ続ける姿を、恵梨花は満足そうに眺めた。
「わっ、もうハナの作ったタマゴサンドがなくなってる……あ、亮さん、私はハナほど料理上手でなくて、ほとんどカットしたのを挟んだだけなんですけど、どうぞ、食べてください。あ、お父さんの治療、わざわざありがとうございました」
雪奈がはにかむようにして勧めてくれたBLTチーズのサンドもやはり美味かった。カリカリのベーコンに酸味のあるトマト、シャキッとしたレタスにチーズ。マヨネーズもいい具合に塗られたそれは文句なしに美味く、無言で瞬く間に食べた亮を、雪奈も幸せそうに眺めていた。
「亮くん、本当に何て言うか、ここまで主人の腰が良くなるとは思ってもみなくて……手術が必要だったかもしれないって考えると、言葉に言い表せないほど感謝してるわ。本当にありがとう――って言ってるそばからハナとユキが作ったサンドイッチが消えてる⁉ あ、亮くん、カツは揚げたてだから気をつけて――大丈夫みたいね。それにしても、本当に大した食べっぷりね……」
華恵の感謝の言葉にも、モグモグしながら頷きで返し、亮はカツサンドを豪快に頬張った。恵梨花の母だけあって、その味にはやはり文句の付け所がなく、ソースが塗られ、千切りキャベツも挟まれた揚げたてのカツサンドは、ボリュームがあって非常に美味かった。
「はあー、美味かった」
瞬く間にサンドイッチ全てを食べ終え、アイスコーヒーをすすっている亮を、雪奈と華恵が唖然としながら見ている。
「あれ……? もしかして三分もかかってない……? 食パン一斤使ったサンドイッチが……?」
「大食漢なのはわかってるつもりだったけど……すごいわね」
「もう、亮くん、いつも言ってるけど、ちゃんと噛んでるの⁉」
「噛んでる噛んでる。ちゃんと噛んでる。すげえ美味かったぞ――あ、ご馳走さまでした」
華恵と雪奈の方にも向いて亮が頭を下げると、三人を代表するように華恵が言う。
「あ、ええ、お粗末様……うーん、作り甲斐があるわね。ああ、そうだ亮くん、今日って元々は主人と純貴が帰ってくる前の夕方に帰る予定だったのだろうけど、夜って予定は入ってるのかしら?」
「夜ですか? 特に予定は入れてませんけど」
「よかった。なら、夕飯食べていかない? さっきハナとユキともそう話してたのよ」
「ふむ、それはいいな。桜木くん、遠慮せずに食べていきなさい」
父が真っ先に朗らかな顔で賛成してくれた。数時間前に初めて会った時の顔と同じとはとても思えないほどだ。
「いや、そんな、急にお邪魔するのも――」
いきなりの話だったので、ついそんな風に口から出るが――
「遠慮しなくていいのよ。すき焼きしようと思ってるのよ、好きかしら?」
「す、すき焼――そこまで言われて固辞するのは却って失礼ですね。是非、いただきます」
すき焼きと聞いてすぐさま意見を翻し、キリッとした顔で亮が承諾すると、華恵は噴き出した。
「ふふっ、よかったわ――ならそれまでの間、ハナの部屋にでもいたらどうかしら? いいわよね?」
「む、むう……そう、だな。桜木くん、ハナの部屋でゆっくりしてくるといい」
父が渋面ながらに頷いた。
「やった! さあ、亮くん、私の部屋に行こう?」
父の返答に驚き戸惑っていた亮の手を恵梨花が取ると――
「反対反対! ハナと部屋に二人っきりなど、父さんが認めてもこの兄は認めない‼」
当然のように純貴が反対してきた。が――
「純貴? あなたには誰も聞いてないわよ?」
「お兄ちゃんに発言権なんてあると思ってんの? 黙って正座してて」
「純貴……もう諦めろ」
母、長女、父にそう言われて、兄はこの世の終わりのような顔をして項垂れた。
「ああ、純貴、ちょっと車で遠くのデパ地下まで行って、高級そうなお肉たくさん買ってきてくれる? 亮くんはいっぱい食べるみたいだし。ああ、あなたのお小遣いでね」
「あ、それなら一個で百円とか二百円ぐらいしそうな卵とかも買ってきて、お兄ちゃん」
「あ、なら高そうな椎茸も‼」
母、長女、次女に追い打ちをかけられて、純貴は泣きそうな顔で父を見上げた。
「……私も出してやる。いや、一緒に行ってやるから行くぞ、純貴」
父は仕方なさそうにため息を吐いて、長男にそう促した。
「さ、これでシスコン兄はいなくなったから、ゆっくりしなさい、ハナ」
亮が恵梨花に連れられて部屋に向かう際に、華恵がウィンクしながら恵梨花にそっと囁いた。
「……ありがとう、お母さん」
恵梨花は顔を真っ赤にしてお礼を返したのであった。
「はい、亮くん、どうぞ」
自室の扉を開いて、少し恥ずかしそうにしながら促す恵梨花に従って、亮は恵梨花の部屋に足を踏み入れた。
途端に鼻に広がるいい匂いに、亮は少し動揺しかけた。
(恵梨花の匂い……だな、これは)
当たり前かもしれないが、いつも恵梨花から伝わるいい匂いが、この部屋には充満していた。
いつも思うが、どうして女の子は男と違ってこんなにいい匂いがするのか、不思議で仕方ない。特に恵梨花の匂いは亮にとって格別で、安らぐような、でも胸を高鳴らせるような、そんな相反した二つの匂いが見事に矛盾なく同居しているのだ。一層不思議で仕方がない。それは単に恵梨花が匂いに至るまで亮の好みのどストライクが故なのだが、亮がそこまで深く考えたことがなかった。
ともあれ部屋に入った亮は、特に何か意識するでもなく、部屋の中に目を走らせる。
白のレースと花柄のカーテンに覆われた窓の手前にベッド、横に学習机、その手前には小さなローテーブルとクッションが置かれていた。その脇にある小さなタンスの上にはぬいぐるみがあり、入り口から横に向かうとクローゼットだと思われる扉があった。本棚にはところどころ亮にはよくわからない可愛らしい小物があったりと、ごく普通の女の子の部屋と思われた。
(都の部屋となんか雰囲気似てるな……)
やはり恵梨花ほどのとびきりの美少女といえども、自室はやはり他の女の子と同じようになるのか、という感想を亮は抱いた。だが、亮は忘れている。無意識に比べてしまった中学の時の同級生である都も、読者モデルなんてやってるとびきりの美少女だということを。
(あいつの部屋もいい匂いしたな、そういえば……)
中学の時のことをふと懐かしく思っていると、後ろから恵梨花に声をかけられる。
「ほら、亮くん、もっと中に入って? あっ、あんまりジロジロ見ないでね!」
「あ、ああ」
我に返った亮が一歩足を動かすと、恵梨花はさっと脇を通って、部屋の中心まで入り亮の方を振り返る。
「亮くん、今日は本当に色々とごめんね? 驚かせるのわかっててユキ姉のことを話さずに来たんだけど、それだって私の我儘で……ごめんなさい」
「いや、だから気にしなくていいって……恵梨花からしたら、それだけが俺を驚かせることだって思ってたのはわかってるから」
「うん……まさか、お父さんとお兄ちゃんがいきなり帰ってくるなんて……」
「まあ、それはな、本当に驚いたけど。でも、それだって、親父さんとも兄さんともそれなりに打ち解けられたとは思うし、結果オーライじゃねえか。いいよ、もう。気にすんな」
そう言って、俯いている恵梨花の頭に手を置いてポンポンと撫でる。
「うん……ありがとう、亮くん」
上目遣いで嬉しそうにはにかむ恵梨花に、亮は心臓を跳ねさせながら、手を下ろす。少し名残惜しそうにその手に目をやった恵梨花だが、すぐニコッと顔を上げた。
「でも、今日は本当にありがとう。お兄ちゃんあんなだったのに、手加減して相手してくれたり……別に少しぐらい怪我させてもよかったんだけど……あと、お父さんの腰もあんなに良くしてくれて! お母さんもすごく喜んでたよ!」
「ははっ、ならよかったよ」
「あと、やっぱり……そうだ、私、言ってなかった」
「何を?」
亮が問い返すと、恵梨花は深く頭を下げた。
「亮くん、ユキ姉を助けてくれて……本当に、ありがとう」
「あー、うん。わかったから。頭上げてくれって恵梨花」
感謝の言葉は今日何度も言われて食傷気味で、気持ちはわかるが恵梨花にまで頭を下げられるのはいい気分ではない。それは恵梨花もわかっているのだろう、亮が言うとすぐに頭を上げた。
「ユキ姉ね、亮くんに助けられて、そして事件のことから立ち直ってきたら、それから時間を空けては毎日のように、泉座の駅に自分を助けてくれた人――ゴールドクラッシャーって呼ばれてる人を探してたんだ」
「……そうだったのか」
「うん……ユキ姉のそんな姿いつまでも見てられなくてね、だから私も自分に出来る範囲で噂されてるゴールドクラッシャーを探してみようと思ったら――」
そう言うと、恵梨花は苦笑して亮を見上げた。
「隣にいるんだもん。滅茶苦茶驚いたよ」
さもありなん。亮は少しばかり気まずくなりながら同じように苦笑を浮かべる。
「俺だって、まさか、あの時のあの子が恵梨花のお姉さんだなんてな」
「ふふっ、本当だね」
恵梨花が顔を綻ばすと、亮はふと疑問に思った。
「それにしても、毎日のように泉座に行ってた割に? 俺は見かけたことねえんだけどな」
「……そう言えば、そうなるんだよね? 亮くんもしょっちゅうって訳でなくても、たまに行ってたんだよね?」
「そうなんだよな……うん? そういや、駅で探してたって言ってたな。どっちの駅だ?」
「え、どっちって――あ……表の方だ」
「ああ、やっぱりか。俺が泉座行く時は基本裏の方使ってたからな」
「確かに亮くんそう言ってたね、現に先週はそっちで待ち合わせしたし……」
恵梨花が姉の不運を思いやったのか無念そうにため息を吐く。
「まあ、お姉さんには悪いが、あの駅でいきなり声をかけられるよりは、今日ここでの方が――とも思えるかな、俺は」
「あー、どっちも亮くんには驚きだけど、駅でよりはってこと?」
「そうだな、あんなとこでゴールドクラッシャーだとか言われたら隠しようがねえ。どうにか誤魔化そうとするぞ、俺は」
「た、確かに」
人が集まる泉座の駅は噂の中心地そのものだ。そんなところでゴールドクラッシャーの話をすれば、あっという間に広がってしまうだろう。
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