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〈四〉29歳で菓子処ゆずやへ戻る

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 そんなぼくに転機が訪れたのは、入社して、5年がたった頃だった。頻繁に父親から、電話がかかって来るようになった。

「けんた、かえってきてゆずやをてつだえ……」

 父親はろれつの回らない声で電話をかけてきた。明らかに酔っていることが分かる。

「戻らないって前も言ったじゃん。しつこいなぁ」

「それがおやにいうことか! このおやふこうものがっ!」

 断っても数日したらまた電話がかかってくる。その繰り返しだった。

 ぼくは、自分が発達障害だと分かるまでの間、仕事がうまくできるようになりたくて多くの本を読みあさった。その中には、親孝行の大切さを説いたものがたくさんあった。

 父親には、これまでいろいろとひどいことを言われ、辛い思いをしてきた。今の言葉で言うとモラハラだろう。だが、生み育ててもらった恩がある。ぼくは、思い切って会社を辞めて、菓子処ゆずやへ戻ることにした。

 きちんと財務諸表を見た上で会社を辞めるべきだったが、極端に数字に弱いぼくは、それをせず菓子処ゆずやへ戻ってきてしまった。

 戻ってみて父親がしつこく電話をしてきた理由が分かった。ゆずやの経営状態は火の車で、自分はそのストレスから逃れたかっただけだったのだ。ゆずやへ戻って以来、ぼくは休みなく働き続け、気が休まる日がなかった。

 そのような状況の中、隠れて酒を飲む父親の姿を目にし、ぼくは極度のストレスからおねしょをしてしまったのだと思う。

「30歳で、おねしょだなんて……。もう嫌だ、もう消えてしまいたい……」

 ぼくは、とても惨めな気持ちになった。ぽつりぽつりと、目から涙が落ちてきた。乾いてきたシーツが、今度は涙でぬれた。

「あっ……」

 ぼくは、中学1年生のときのことを思い出した。

「そういえば、昔も同じようなことをつぶやいていたなぁ」

 たびたびドライヤーで、布団を乾かしながら、ぼくは昔も同じような言葉を口にしていた。

「12歳でおねしょだなんて……。ぼくは、なんでみんなと違うんだろう……。もう嫌だ、もう消えてしまいたい……」

 ぼくの頭の中に、中学1年生の時の記憶がよみがえってきた。
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