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1:襲撃
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時刻は一時間ばかり遡って一八時半ごろのことである。
顧客である信販会社の事務センターでの業務を終えた培楽は、バスで最寄りの鉄道駅まで移動した。
ここで培楽は二つの選択肢のうちどちらを採用するかを考えた。
一つは一八時四九分の普通に乗り、のんびり座って家へと向かう。
もう一つは一九時二二分の特急に乗り、スピーディーにかつ座って家へと向かう。
「お給料日前だけど少し余裕はあるし、今日は豪華に特急に乗っちゃえ! その後もあるのだし……」
培楽が選んだのは後者であった。
家に戻るには、特急にせよ普通にせよ終点まで移動する必要がある。
その後、別の路線に乗り換えて更に二〇分ほど移動、そして駅から七分の道を歩く必要がある。
乗り換えた後の路線では座れないこと必至であったから、少なくとも乗り換え駅までは快適に座って移動したい、そんな気持ちが培楽にはあった。
特急を選んだことにより、四〇分ほどの時間の余裕ができた。
(帰って家で自炊は論外だし、乗り換え駅で外食は疲れそうだからパス。近所のスーパーのお惣菜じゃ味気ないし……あ、あのお店、いいかも)
培楽が周囲を見回していると、落ち着いた雰囲気のカフェが視界に飛び込んできた。
食事もできるようだし、価格もお手頃。郊外の駅には微妙に不似合いな店ではあるが、彼女にとってはその方が都合がよかった。
地元民の集会場のような店では、よそ者である自分が入りにくいと考えたからだ。
「はーっ! 生き返るぅ。明日はお休みだし、たまには贅沢もいいよね~」
これから何が起きるかも知らずに、培楽は地元産のフルーツを使ったサワーを勢いよく喉に流し込んだ。
お酒はほどほど以上に飲むクチで、休日などは昼から家でビールやサワーをあおっていることもしばしばだ。
生活のために仕事をしている彼女にとって、お酒は数少ない楽しみである。
(あんにゃろ~、何の権限があって……自分が何でも好きに決めていいと思うなよ~)
酒が入って少し気が大きくなったためか、培楽は脈絡もなく三日前の出来事を思い出していた。
※※
「申し訳ございません。その対応は契約に含まれておりませんので、別途お見積りいたしますが……」
「ウチのような会社の、それも表に出る案件なんだよ? 普段だったらウチがお金をもらって紹介するのをタダでいいって好意で言ってあげているんだよ? 宣伝効果が馬鹿にならないのをわかっている? これを逃すのはものすごいビジネスチャンスを逃すことになるんだけどなぁ……」
ネチネチと迫る顧客側の担当者に培楽は閉口していた。
先方の要求は、新しく始める検定試験に使うため、培楽の会社のCBT (コンピュータを使った試験)システムを無償で提供することであった。
システムを無償で提供するだけではなく、検定試験の会場の運営や試験監督の派遣なども培楽の会社で無償で請け負え、という内容である。
相手は業界では有名な大企業で、確かにある程度の宣伝効果は得られるだろうが、システムを無償で提供する程のものでもない。
ましてや試験会場の運営や試験監督の派遣などまで無償で請け負わされてはとてもではないが、割に合わない。
それだけではなく、この検定試験に培楽の会社は一切名前を出さないこと、そして顧客とCBTシステムの独占販売契約を締結することが条件であった。
さすがにそれは受け入れられないと培楽の上司が顧客のもとに赴き、この話は破談となった。
上司には感謝しているが、このような話を持ち出されること自体、培楽には受け入れがたいことであった。
先方の担当者は何の資格や権限があって、このような不当ともいえる要求を口にできるのだろうか?
提供者である培楽の会社という存在を忘れていやしないだろうか?
今の仕事は嫌いではないが、ビジネスの世界が少々苦手な彼女にとって、「生活のため」以上の仕事の目的は持ちにくい。
彼女は昔から商売やビジネスの世界に対して、苦手、というよりも何ともいえないモヤモヤを抱えていた。
培楽の会社はそうでもないが、人は商売やビジネスのためならどこまでも傍若無人になれる、培楽にはそう思える。
今日の客はそうではなかったが、三日前の客のように無理難題を吹っ掛けてくる客もいる。
そういう客に会うたびに培楽は「人からの要求とかは機械同士で話し合って決めちゃえばいいのに……」と考えるような性質であった。
※※
料理が出てくるのを待つ間、培楽は何気なしに店内を見回した。
彼女の他には三人組の客が一組いるだけだ。男性二人に女性一人、男性のうち一人は筋骨隆々の中年男、もう一人は女性と見間違うかのような中性的な若者だ。
若者を男性と判断したのはスーツが男性物だったからに過ぎない。他の二人もスーツ姿だ。
店は昼間の営業が中心らしく、夜は客が少ないと店員が話していた。営業時間は一九時半までなので、二二分の特急に乗る培楽にとって問題はない。
(あの三人は、私と同じ日帰り出張かな? スーツ姿だけど……)
培楽は三人組の恰好を見て、彼らの背景をいろいろと想像してみた。
入社五年目の培楽は、昨年から一人で出張することが増えてきた。
彼女の主な仕事は自社で販売しているe-ラーニングツールを導入した企業に対するトレーニングである。
今日も、近く (といっても現在の場所からはバスで二〇分くらいかかる)にある信販会社の事務センターで、人事の社員向けに新機能のトレーニングを行ってきたところだ。
この手の施設は大都市圏から電車で一~二時間ほどにある郊外の駅からバスや車で数十分離れた場所にあることが少なくない。今日の顧客もこのパターンだった。
(あの男の人の靴、泥がついている……あ、私も大丈夫かな?)
三人組のうち、最年長に見える中年男性の靴にわずかに泥がついているのを見て、培楽は思わず自分の足元に目をやった。幸いスニーカーには泥がついていなかった。
事前に顧客の担当者から、敷地内に足元が良くない場所があるので汚れてもいい恰好で来てください、と言われていたので培楽は迷わずスニーカーを選択していた。
上は濃いグレーのパンツスーツだが、これも汚れたときに目立たない色を選択した結果だ。
十分ほどして注文した山菜のキッシュプレートが運ばれてきた。
カフェを名乗っているが、「とんかつやハンバーグまで扱っている定食屋」のようなメニューが多い中、カフェらしくお酒にも合いそうと培楽の目を引いたのがこれであった。
培楽は早速キッシュを口の中へと運んだ。
「ん~っ!」
声にならない歓喜の声をあげて、培楽はキッシュの味を楽しむ。
柑橘のような香りに、スパイシーな味わい。残念ながら彼女はグルメの類ではないので、材料が何でとか隠し味が何かとかいったようなことはわからない。
十分な幸せを感じることができる味、それで彼女には十分だった。
今日は木曜日であるが、明日は代休で休みだ。
そのことも手伝って、気分が徐々に高揚してきている。
次に春キャベツとアンチョビのラビオリを口の中に入れる。
(これもお酒といい相性ね! まだ時間はあるから……)
「すみませーん、地ワインの赤をグラスで!」
空になりかけていたグラスを見て、培楽がお酒を追加する。
ワインが運ばれてくると、培楽はご機嫌な様子で料理と酒とを交互に口の中へと運んでいくのだった。
だが、彼女の幸せの時間は長くは続かない。
一九時を少し過ぎ、皿の食べ物と酒の残りが四分の一くらいになったときのことである。
不意に何台かの車が店の前に止まる音がした。
培楽は気にも留めなかったが、三人組がさっと立ち上がった。
「??」
三人組の様子に、培楽は「この人たち何か企んでいないかしら?」と訝しがったが、目の前の食べ物と酒の誘惑には勝てなかった。
バンッ! ガシャンッ!
不意に入口の扉が叩かれ、ガラスが割れる音がした。
「ほえっ?!」
ラビオリの最後の一口を頬張っていた培楽は、異様な音に思わず声をあげて固まってしまう。
その直後、店内に向けて拳銃やら警棒やら盾やらを構えた警官と思われる集団が店内にぞろぞろと入り込んできた。
「動くな!」
「んっ?!」
周囲を警官らしき者達に囲まれて、思わず培楽がラビオリを喉に詰まらせかけた。
慌ててワインで流し込もうとするところを両脇から屈強な男達に取り押さえられ、席から無理矢理立たされる。
いつの間にか両手には手錠までかけられていた。
「ぢょ、ぢょっど……」
声に出して抗議しようとするが、口の中のラビオリが邪魔をして思うような言葉にならない。おまけに手錠が当たって手首が傷む。
力では屈強な男二人には到底対抗できず、培楽はズルズルと店の外へと引きずられていった。
よく見ると、店内にいた三人組は抵抗することなく、両脇を警官らしき者達に囲まれながら自らの足で歩いている。
店の前の道路には六台のパトカーが停車しており、三人組はそれぞれ別のパトカーに乗せられた。
「乗れ」
培楽は三人組とは別のパトカーの脇へと連れていかれ、乗るように命じられた。
(ど、どういうこと……? 私、何をされているの?)
抗議の言葉も思いつかず、状況もわからないまま、培楽は周囲をキョロキョロと見回した。
「早くしろ!」
その声とともに、培楽の身体はパトカーの中へと押し込められた。
「ちょ、ちょっと! 私、何もしていないですよ!」
ようやく事態を把握できた培楽が声をあげた。
「調べればわかる。とりあえず大人しくしなさい!」
調べればわかる、と左脇の男に言われて培楽は大人しくすることにした。
自分は警察のお世話になるようなことはしていない。恐らく同じカフェに居合わせた三人組が何かしたのだろう、と考えたからだ。
注意深い者や周囲をよく観察している者であれば、培楽などが連れ込まれたパトカーはかなり不自然なものであると疑っただろう。
というのも、培楽が今いる場所はY県。だが、パトカーの車体には「H県警」と書かれている。
Y県とH県は数百キロ離れているし、最後尾の一台に至ってはナンバーがレンタカーであることを示す「わ」ナンバーである。
それ以外にもカフェに突入する際に警察だと名乗りもしていないなど、不審な点は多々あった。
しかし、培楽はそれらには気付くことなく言われるままにパトカーに乗り込んでしまった。
抵抗したところで彼女を捕まえていた男達は武装していたし、培楽も日本人の成人女性としては平均的な体格であったから、拘束を振りほどいて逃走することは困難だっただろう。
少ししてパトカーが走り出した。
三人組も別々のパトカーに乗せられているが、それらのパトカーも走り出したようだ。
培楽が乗せられたパトカーは前から二台目を走っている。
(へぇ……サイレンを鳴らして走るんじゃないんだ)
妙なところに感心しながら培楽は車内をキョロキョロと見回した。
(こういうときって、マスコミとかが押し寄せて来るんじゃなかったっけ? って私が映ったりしたら会社クビになっちゃうかも?!)
パトカーが走っている道は、人通りがほとんどない。
都市圏からは離れているし、駅前を除けば住宅がポツンポツンとあるだけで、後は畑や荒地が広がっているような場所だ。
外が徐々に暗くなっていく。
日没から三〇分ほど経過しているので当然といえば当然なのだが、明かりの少ない場所を走っているうちに培楽は徐々に不安を抱くようになってきた。
急激に酔いが覚めていくのを感じている。
(あの三人、何をやったのかな……そういえば、靴が泥で汚れていたっけ。死体を山に埋めたとか?!)
何かしていないと不安になるためか、培楽は自身ではなくカフェで見かけた三人組のことを考えだした。
(そ、そうよね? 有無を言わさずパトカーに乗せるなんて、よっぽどヤバいことしているよね、あの人たち……)
三人組のことを考えても培楽の状況が好転することはないのだが、それでも彼女は考えることを止められなかった。
先ほどまでの酒による酔いは完全に覚めてしまっている。
彼女は今まで警察の厄介になるようなことをした経験がなかったから、これから何をされるのか不安で仕方ないのだ。
「あの~……これから私、どうなるのでしょうか?」
「……」「いずれわかる」
恐る恐る両脇を固める男達に尋ねてみたが、期待していた返答はなかった。
車は列を保ったまま更に進んでいく。
(……? 行き先って、警察署だよね? こんな何もないところにあるのだっけ?)
いつまで経っても目的地に到着しないのに培楽は不信感を抱いた。
(もしかしたら、私がそう思っているだけで、まだそんなに時間が経っていないのかも)
しかし、培楽は自らの感覚が誤っているに違いないと思い直すことにした。
(警察だものね、おかしなことはしないよね?)
培楽が自らの感覚を疑ったのは、相手が警察だからであった。
社会人になってから四年強、これまでには何度か性質の悪い客の相手をしたことがある。
何かにつけて無茶な値引きを要求する客━━
自らの誤りを製品の不具合だとして無償で関係のない作業をさせようとする客━━
作業に対して無知なフリをしてとんでもない安値を提示する客━━
などである。
培楽が入社する以前は今よりも状況は酷く、それこそ人間としての尊厳を奪うような、聞くに堪えない行為も横行していたらしい。
だが、幸い培楽が入社してからはそこまでの酷い場面に出くわしたことはなかった。
こうした輩に比べれば警察はマトモであると培楽は信じていたのだ。
事情を説明すればわかってもらえて無事に家に戻れる、培楽は楽観的にそう信じ込んでいた。
数分後にパトカーが何者かに襲撃されるまでは。
顧客である信販会社の事務センターでの業務を終えた培楽は、バスで最寄りの鉄道駅まで移動した。
ここで培楽は二つの選択肢のうちどちらを採用するかを考えた。
一つは一八時四九分の普通に乗り、のんびり座って家へと向かう。
もう一つは一九時二二分の特急に乗り、スピーディーにかつ座って家へと向かう。
「お給料日前だけど少し余裕はあるし、今日は豪華に特急に乗っちゃえ! その後もあるのだし……」
培楽が選んだのは後者であった。
家に戻るには、特急にせよ普通にせよ終点まで移動する必要がある。
その後、別の路線に乗り換えて更に二〇分ほど移動、そして駅から七分の道を歩く必要がある。
乗り換えた後の路線では座れないこと必至であったから、少なくとも乗り換え駅までは快適に座って移動したい、そんな気持ちが培楽にはあった。
特急を選んだことにより、四〇分ほどの時間の余裕ができた。
(帰って家で自炊は論外だし、乗り換え駅で外食は疲れそうだからパス。近所のスーパーのお惣菜じゃ味気ないし……あ、あのお店、いいかも)
培楽が周囲を見回していると、落ち着いた雰囲気のカフェが視界に飛び込んできた。
食事もできるようだし、価格もお手頃。郊外の駅には微妙に不似合いな店ではあるが、彼女にとってはその方が都合がよかった。
地元民の集会場のような店では、よそ者である自分が入りにくいと考えたからだ。
「はーっ! 生き返るぅ。明日はお休みだし、たまには贅沢もいいよね~」
これから何が起きるかも知らずに、培楽は地元産のフルーツを使ったサワーを勢いよく喉に流し込んだ。
お酒はほどほど以上に飲むクチで、休日などは昼から家でビールやサワーをあおっていることもしばしばだ。
生活のために仕事をしている彼女にとって、お酒は数少ない楽しみである。
(あんにゃろ~、何の権限があって……自分が何でも好きに決めていいと思うなよ~)
酒が入って少し気が大きくなったためか、培楽は脈絡もなく三日前の出来事を思い出していた。
※※
「申し訳ございません。その対応は契約に含まれておりませんので、別途お見積りいたしますが……」
「ウチのような会社の、それも表に出る案件なんだよ? 普段だったらウチがお金をもらって紹介するのをタダでいいって好意で言ってあげているんだよ? 宣伝効果が馬鹿にならないのをわかっている? これを逃すのはものすごいビジネスチャンスを逃すことになるんだけどなぁ……」
ネチネチと迫る顧客側の担当者に培楽は閉口していた。
先方の要求は、新しく始める検定試験に使うため、培楽の会社のCBT (コンピュータを使った試験)システムを無償で提供することであった。
システムを無償で提供するだけではなく、検定試験の会場の運営や試験監督の派遣なども培楽の会社で無償で請け負え、という内容である。
相手は業界では有名な大企業で、確かにある程度の宣伝効果は得られるだろうが、システムを無償で提供する程のものでもない。
ましてや試験会場の運営や試験監督の派遣などまで無償で請け負わされてはとてもではないが、割に合わない。
それだけではなく、この検定試験に培楽の会社は一切名前を出さないこと、そして顧客とCBTシステムの独占販売契約を締結することが条件であった。
さすがにそれは受け入れられないと培楽の上司が顧客のもとに赴き、この話は破談となった。
上司には感謝しているが、このような話を持ち出されること自体、培楽には受け入れがたいことであった。
先方の担当者は何の資格や権限があって、このような不当ともいえる要求を口にできるのだろうか?
提供者である培楽の会社という存在を忘れていやしないだろうか?
今の仕事は嫌いではないが、ビジネスの世界が少々苦手な彼女にとって、「生活のため」以上の仕事の目的は持ちにくい。
彼女は昔から商売やビジネスの世界に対して、苦手、というよりも何ともいえないモヤモヤを抱えていた。
培楽の会社はそうでもないが、人は商売やビジネスのためならどこまでも傍若無人になれる、培楽にはそう思える。
今日の客はそうではなかったが、三日前の客のように無理難題を吹っ掛けてくる客もいる。
そういう客に会うたびに培楽は「人からの要求とかは機械同士で話し合って決めちゃえばいいのに……」と考えるような性質であった。
※※
料理が出てくるのを待つ間、培楽は何気なしに店内を見回した。
彼女の他には三人組の客が一組いるだけだ。男性二人に女性一人、男性のうち一人は筋骨隆々の中年男、もう一人は女性と見間違うかのような中性的な若者だ。
若者を男性と判断したのはスーツが男性物だったからに過ぎない。他の二人もスーツ姿だ。
店は昼間の営業が中心らしく、夜は客が少ないと店員が話していた。営業時間は一九時半までなので、二二分の特急に乗る培楽にとって問題はない。
(あの三人は、私と同じ日帰り出張かな? スーツ姿だけど……)
培楽は三人組の恰好を見て、彼らの背景をいろいろと想像してみた。
入社五年目の培楽は、昨年から一人で出張することが増えてきた。
彼女の主な仕事は自社で販売しているe-ラーニングツールを導入した企業に対するトレーニングである。
今日も、近く (といっても現在の場所からはバスで二〇分くらいかかる)にある信販会社の事務センターで、人事の社員向けに新機能のトレーニングを行ってきたところだ。
この手の施設は大都市圏から電車で一~二時間ほどにある郊外の駅からバスや車で数十分離れた場所にあることが少なくない。今日の顧客もこのパターンだった。
(あの男の人の靴、泥がついている……あ、私も大丈夫かな?)
三人組のうち、最年長に見える中年男性の靴にわずかに泥がついているのを見て、培楽は思わず自分の足元に目をやった。幸いスニーカーには泥がついていなかった。
事前に顧客の担当者から、敷地内に足元が良くない場所があるので汚れてもいい恰好で来てください、と言われていたので培楽は迷わずスニーカーを選択していた。
上は濃いグレーのパンツスーツだが、これも汚れたときに目立たない色を選択した結果だ。
十分ほどして注文した山菜のキッシュプレートが運ばれてきた。
カフェを名乗っているが、「とんかつやハンバーグまで扱っている定食屋」のようなメニューが多い中、カフェらしくお酒にも合いそうと培楽の目を引いたのがこれであった。
培楽は早速キッシュを口の中へと運んだ。
「ん~っ!」
声にならない歓喜の声をあげて、培楽はキッシュの味を楽しむ。
柑橘のような香りに、スパイシーな味わい。残念ながら彼女はグルメの類ではないので、材料が何でとか隠し味が何かとかいったようなことはわからない。
十分な幸せを感じることができる味、それで彼女には十分だった。
今日は木曜日であるが、明日は代休で休みだ。
そのことも手伝って、気分が徐々に高揚してきている。
次に春キャベツとアンチョビのラビオリを口の中に入れる。
(これもお酒といい相性ね! まだ時間はあるから……)
「すみませーん、地ワインの赤をグラスで!」
空になりかけていたグラスを見て、培楽がお酒を追加する。
ワインが運ばれてくると、培楽はご機嫌な様子で料理と酒とを交互に口の中へと運んでいくのだった。
だが、彼女の幸せの時間は長くは続かない。
一九時を少し過ぎ、皿の食べ物と酒の残りが四分の一くらいになったときのことである。
不意に何台かの車が店の前に止まる音がした。
培楽は気にも留めなかったが、三人組がさっと立ち上がった。
「??」
三人組の様子に、培楽は「この人たち何か企んでいないかしら?」と訝しがったが、目の前の食べ物と酒の誘惑には勝てなかった。
バンッ! ガシャンッ!
不意に入口の扉が叩かれ、ガラスが割れる音がした。
「ほえっ?!」
ラビオリの最後の一口を頬張っていた培楽は、異様な音に思わず声をあげて固まってしまう。
その直後、店内に向けて拳銃やら警棒やら盾やらを構えた警官と思われる集団が店内にぞろぞろと入り込んできた。
「動くな!」
「んっ?!」
周囲を警官らしき者達に囲まれて、思わず培楽がラビオリを喉に詰まらせかけた。
慌ててワインで流し込もうとするところを両脇から屈強な男達に取り押さえられ、席から無理矢理立たされる。
いつの間にか両手には手錠までかけられていた。
「ぢょ、ぢょっど……」
声に出して抗議しようとするが、口の中のラビオリが邪魔をして思うような言葉にならない。おまけに手錠が当たって手首が傷む。
力では屈強な男二人には到底対抗できず、培楽はズルズルと店の外へと引きずられていった。
よく見ると、店内にいた三人組は抵抗することなく、両脇を警官らしき者達に囲まれながら自らの足で歩いている。
店の前の道路には六台のパトカーが停車しており、三人組はそれぞれ別のパトカーに乗せられた。
「乗れ」
培楽は三人組とは別のパトカーの脇へと連れていかれ、乗るように命じられた。
(ど、どういうこと……? 私、何をされているの?)
抗議の言葉も思いつかず、状況もわからないまま、培楽は周囲をキョロキョロと見回した。
「早くしろ!」
その声とともに、培楽の身体はパトカーの中へと押し込められた。
「ちょ、ちょっと! 私、何もしていないですよ!」
ようやく事態を把握できた培楽が声をあげた。
「調べればわかる。とりあえず大人しくしなさい!」
調べればわかる、と左脇の男に言われて培楽は大人しくすることにした。
自分は警察のお世話になるようなことはしていない。恐らく同じカフェに居合わせた三人組が何かしたのだろう、と考えたからだ。
注意深い者や周囲をよく観察している者であれば、培楽などが連れ込まれたパトカーはかなり不自然なものであると疑っただろう。
というのも、培楽が今いる場所はY県。だが、パトカーの車体には「H県警」と書かれている。
Y県とH県は数百キロ離れているし、最後尾の一台に至ってはナンバーがレンタカーであることを示す「わ」ナンバーである。
それ以外にもカフェに突入する際に警察だと名乗りもしていないなど、不審な点は多々あった。
しかし、培楽はそれらには気付くことなく言われるままにパトカーに乗り込んでしまった。
抵抗したところで彼女を捕まえていた男達は武装していたし、培楽も日本人の成人女性としては平均的な体格であったから、拘束を振りほどいて逃走することは困難だっただろう。
少ししてパトカーが走り出した。
三人組も別々のパトカーに乗せられているが、それらのパトカーも走り出したようだ。
培楽が乗せられたパトカーは前から二台目を走っている。
(へぇ……サイレンを鳴らして走るんじゃないんだ)
妙なところに感心しながら培楽は車内をキョロキョロと見回した。
(こういうときって、マスコミとかが押し寄せて来るんじゃなかったっけ? って私が映ったりしたら会社クビになっちゃうかも?!)
パトカーが走っている道は、人通りがほとんどない。
都市圏からは離れているし、駅前を除けば住宅がポツンポツンとあるだけで、後は畑や荒地が広がっているような場所だ。
外が徐々に暗くなっていく。
日没から三〇分ほど経過しているので当然といえば当然なのだが、明かりの少ない場所を走っているうちに培楽は徐々に不安を抱くようになってきた。
急激に酔いが覚めていくのを感じている。
(あの三人、何をやったのかな……そういえば、靴が泥で汚れていたっけ。死体を山に埋めたとか?!)
何かしていないと不安になるためか、培楽は自身ではなくカフェで見かけた三人組のことを考えだした。
(そ、そうよね? 有無を言わさずパトカーに乗せるなんて、よっぽどヤバいことしているよね、あの人たち……)
三人組のことを考えても培楽の状況が好転することはないのだが、それでも彼女は考えることを止められなかった。
先ほどまでの酒による酔いは完全に覚めてしまっている。
彼女は今まで警察の厄介になるようなことをした経験がなかったから、これから何をされるのか不安で仕方ないのだ。
「あの~……これから私、どうなるのでしょうか?」
「……」「いずれわかる」
恐る恐る両脇を固める男達に尋ねてみたが、期待していた返答はなかった。
車は列を保ったまま更に進んでいく。
(……? 行き先って、警察署だよね? こんな何もないところにあるのだっけ?)
いつまで経っても目的地に到着しないのに培楽は不信感を抱いた。
(もしかしたら、私がそう思っているだけで、まだそんなに時間が経っていないのかも)
しかし、培楽は自らの感覚が誤っているに違いないと思い直すことにした。
(警察だものね、おかしなことはしないよね?)
培楽が自らの感覚を疑ったのは、相手が警察だからであった。
社会人になってから四年強、これまでには何度か性質の悪い客の相手をしたことがある。
何かにつけて無茶な値引きを要求する客━━
自らの誤りを製品の不具合だとして無償で関係のない作業をさせようとする客━━
作業に対して無知なフリをしてとんでもない安値を提示する客━━
などである。
培楽が入社する以前は今よりも状況は酷く、それこそ人間としての尊厳を奪うような、聞くに堪えない行為も横行していたらしい。
だが、幸い培楽が入社してからはそこまでの酷い場面に出くわしたことはなかった。
こうした輩に比べれば警察はマトモであると培楽は信じていたのだ。
事情を説明すればわかってもらえて無事に家に戻れる、培楽は楽観的にそう信じ込んでいた。
数分後にパトカーが何者かに襲撃されるまでは。
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