3 / 31
2:一難去って、絶体絶命?
しおりを挟む
「大丈夫か? ここで目と顔を洗え!」
培楽の前方から男の声が聞こえた。
未だに培楽の目には痛みがあり涙が止まらないため、男の姿はよく見えない。
「見えないのか? 背中を押すぞ!」
男の声の直後、培楽の背中がぐいと押され、その場に跪くような恰好になった。
「冷てえかも知れないが、我慢しろよ! 目が見えないよりマシだろう!」
男がそう言うと、培楽の顔目がけてばしゃっと冷水が浴びせられた。
「ひゃっ!」
訳もわからずに培楽は目をパチパチと開いたり閉じたりする。
徐々に痛みが和らいでいき、涙も止まる。
「ほらよ。顔を拭きな。これで見えるようになるだろう」
「あ、ありがとうございます……」
男からタオルを渡され、培楽はそれで顔を拭いた。ようやく視界が回復し、周囲の様子がわかるようになった。
「どこ……ですか、ここは?」
培楽の目の前に広がっていたのは、神社の境内であった。
鳥居の塗装は剥がれており、周囲に転がっている大きな石の破片はもともとは狛犬だったものだと思われる。
社は朽ち果てて壁に穴が開いているし、辛うじて無事なのは手水舎の代わりの水道のみという燦燦たる状況だ。
「悪いがそれを説明している時間はない。代理の知り合いなのだろう? 急ぐぞ!」
培楽の目の前にいたのは作業着姿の中年男性であった。先ほど両脇を固めていた警官らしき者ではない。
中年男性は培楽のショルダーバッグを引っ張り、ついてくるように命じた。
「あ、ちょ、ちょっと?!」
訳もわからないまま、培楽は引っ張られる格好で中年男性の後を追う。
「気をつけろよ。さっきの連中、追いかけてくるからな。まだ気付いてないと思うが……」
そう警告すると、中年男性は培楽のショルダーバッグから手を離した。
「さっきの連中?」
培楽が中年男性の後を走りながら尋ねた。
「見つかったらヤバいぞ。奴ら、手段を選ばないからな。代理や先生から聞いていないのか?」
「代理? 先生??」
そう言われても培楽には「代理」や「先生」が誰だか皆目見当もつかない。
(警察の人の役職かな……?)
培楽はそう考えて、目の前を走る中年男性の後をついて行くことを決めた。
パトカーが襲撃されたことから、カフェにいた三人組には他に仲間がいるということになる。
そして、その仲間はパトカーを襲うほどの凶悪な連中だ。培楽の目が開けられないほど傷んだのは、薬品か何かを撒いたからに違いない。
そのような狼藉に及ぶ連中であれば、先ほどの中年男性の言葉通り手段を選ばずこちらを襲ってくる可能性がある。下手をすれば生命に関わる。
また、中年男性は役職名を言っていた。警官であれば同僚をそう呼ぶのだろうと培楽は推測した。
少なくともここで追手に捕まるよりも警官らしき中年男性の後について行った方がマシなはずだ。
※※
「ハァ、ハァ。あの……いつになったら着くのでしょうか?」
培楽は喘ぐような声で前を走る中年男性に尋ねた。
走る速度はゆっくり目のジョギングくらいなので決して速くないが、それでも十数分も走っていれば息が上がる。
培楽は普段から積極的に身体を動かしている方ではないし、運動神経も人並みだ。それに一時間くらい前までは酒を飲んでいたのだから、息が上がるのも当然だ。
「……もうすぐだ。あの建物だ」
「ええっと……」
中年男性が指差した先には大きな引き戸のある木造平屋の建物があった。
個人宅にしては大きすぎる。
培楽の実家は東北地方のそれなりの規模の都市の住宅街にあるが、その近くにある集会場に似た建物であった。
少なくとも警察署には見えない。駐在所だろうか? と培楽は見当違いの推測をしていた。
「連中に見つかると厄介だ。それに皆疲れているだろう。いったん集まって休息をとってから移動するぞ」
「は、はいっ!」
戸惑う培楽を無視して、中年男性からの指示が飛んだ。培楽は思わずその場で立ち止まって返事をしてしまう。宮仕えの悲しい性なのだろうか?
「目立つところにいると連中に見つかるからな。ついてきてくれ」
中年男性は靴も脱がずに建物の中に入ると両脇にある部屋には立ち入らず、廊下を直進して突き当りの棚の前で足を止めた。そこで腰を曲げて前かがみになった。
「??」
培楽が慌てて立ち止まると、中年男性は棚の一番下の段の板を横にスライドさせた。
「すごい……」
板の下からは人が一人通れるくらいの幅の階段が現れた。わずかに明るいのは、下の方で明かりが点されているからのようだ。
「静かにしてくれ。先に行ってもらうぞ」
中年男性は培楽を階段に押し込んだ後、自身も階段を何段か下って棚の板を元に戻した。これなら知っている者でなければ、この通路を見つけることはできないだろう。
階段を下りると、その先には狭い倉庫のようなスペースが広がっていた。左右には空の木箱がいくつか置かれている。
壁には棒状の間接照明が点されており、この明かりが上から見えたようであった。
「この先の部屋に集まることになっている。案内しよう」
再び中年男性が培楽の前に出て進み始めた。
倉庫の先には扉があり、中年男性はポケットからカードキーを取り出して扉を開けた。
ホテルの客室のドアのように金属部分にカードを接触させて開錠するタイプのものだ。
こんな場所なのに進んでいるな、と培楽は訝しがったが、警察が関係している建物ならあり得るかもしれないと自分を納得させた。
「一人、連れてきたぞ」
「失礼します」
中年男性に続いて培楽も中に入る。
中は一二畳か一四畳くらいの広い部屋で、山登りをするような恰好をした老女と、ジャージ姿の若い男性の姿があった。
「ケージか、他はどうしたんだい?」
中年男性の姿を見て、老女が尋ねた。
「ダンさんと先生が連れてくると思う。俺とは反対側に行ったから、もうちょっとかかるんじゃないか?」
「そうかい。代理は無事なんだろうね?」
「先生が一緒だから大丈夫だろう。ここは知っているだろうし」
「なら待つしかないね」
ケージと呼ばれた中年男性と老女のやり取りの間、ジャージ姿の若い男性は一言も口を開かなかった。
その代わりに培楽の方を見て首を傾げている。
「あの……どうかされました?」
「いや、大丈夫だ。先生かダンさんが来ればわかるからな。今は休んでくれ」
「はぁ……」
培楽には状況がよくわからなかったが、とりあえず安全な場所に逃げ込めたと考えることにした。
「すみません、鏡と水道がある場所はないですか?」
培楽がケージに尋ねた。
落ち着いて服を見ると、オレンジ色のシミだらけになっていた。
ここまでの状態になってしまうと完全にシミを抜くのは不可能だろうが、少なくとも家に戻るまでの間、周囲の目をごまかせる程度には綺麗にしておきたかった。
「あっちだ」
ケージが指差した廊下の奥には洗面台があった。その先はトイレのようだ。
「うわぁ……こんなになっちゃったんだ」
洗面台の鏡で改めて自分の姿を見た培楽は、その惨状に目を覆いたい気分になった。
上着を脱いで先にこちらのシミを落とす。
といってもティッシュに水を含ませてシミの部分に当てることくらいしかできない。シミ抜き用の道具など持っていないし、あったところでジャケットの大部分にシミ広がっているので、対処しようがない。
「痛っ! 何これ……」
手を顔にやると触った場所がヒリヒリと傷む。
「唐辛子のスプレーだ。なに、人体に害はないから洗えば大丈夫だ。もし、沁みるようなら油を出してやるが、必要か?」
部屋の方から声が聞こえてきた。ケージの声だ。
この場面でどうして油が必要になるのか培楽には理由がわからなかったが、沁みてどうしようもないというほどでもないので申し出を断った。
しばらく上着と格闘した後、培楽はシャツに目をやった。
こちらは上着のおかげで被害は少ないが、正面の部分にV字状にオレンジ色のシミがついている。
上着のように脱いでシミ抜きをするわけにもいかないので、着たまま濡れたティッシュを当ててシミを抜いていく。
(いつになったら警察署に向かうんだろう? 全然動く気配がないけど……)
培楽は、この場所に案内したケージと呼ばれた中年男性を警察関係者だと信じ込んでいた。
「刑事」だとすれば、制服姿でないとしても不思議ではないと思ったからだ。
パトカーが襲撃された理由がよくわからないが、襲撃犯から培楽を守ったことには間違いない。
このままここを出て家に戻ろうとした場合、再び襲撃犯に襲われる可能性もある。
今は彼らと一緒にこの場に身を潜めるのが得策だろう、そう培楽は考えていた。
シャツとしばらく格闘して、シミがどうにかごまかせるくらいになったとき、後ろでドアが開く音がした。
「失礼します。代理をお連れしました。彼は無事です」
野太い声なのに話し方は丁寧だ、と培楽が思ったところに反対側からジャージ姿の男の声がした。
「先生、来たか。ダンさんももうすぐ到着すると思う」
「ダンさんとは追っ手を撒くために別れましたので、すぐに到着するでしょう」
急に周囲が慌ただしくなってきた。
出発の時間が近いのかもしれない、と考えた培楽は慌てて上着を羽織る。
「ダンだ。今戻った。主任を連れて来た。皆無事だ」
先生と呼ばれた男に続くような恰好でダンと名乗る男が中に入ってきた。
培楽のいる洗面台からは部屋の様子が見えない。
そろそろ戻らないと置いていかれるかもしれない、と考えた培楽は慌てて部屋に戻り始めた。
「主任だって! 俺が連れてきたぞ。そっちの主任は誰だ?!」
部屋に入ろうとした瞬間に培楽の耳に入ったのはケージの怒鳴り声であった。
「待ってください。主任はダンさんが連れてきている方です」
答えたのは、落ち着いた中性的な声の主だった。
「へっ? 間違いな、いや、ありませんでしょうか?」
ケージの口調が急に丁寧なものになる。
「間違いない。ダンさんが連れているこの女性が主任です」
「ってことは……先生、待ってくださいよ! おい! そこの女、お前は誰だ?!」
「へっ?」
急にケージが走り出してきて、培楽の後ろに回り込んだ。
「まさか『奴ら』の仲間じゃないだろうね?」
いつの間にか老女が培楽の正面を塞ぐように立ちはだかった。
「わ、私は……」
「いいからこっちに出ろ!」
後ろのケージに促されて、培楽が恐る恐る部屋の中へと入った。
「い゛っ?!」
培楽が素っ頓狂な声をあげたのは、中にいた幾人かに見覚えがあったからだ。
電車を待つ間に入ったカフェにいた三人組だった。
筋骨隆々の中年男に、中性的な若者、そして長身でいかにもデキるといった雰囲気の女性である。
「この女の人は知らない。代理、一体誰でしょうか?」
褐色の肌の男性が中性的な若者に尋ねながら、培楽と若者の間に割って入った。
培楽は気が付かなかったが、それはまるで若者を守るための壁になろうという動きであった。
「私の知らない人……いいえ、確か駅前のカフェにいた……」
代理と呼ばれた中性的な若者が答えた。
(あ゛ーっ! 私ったら何をやっているんだろう? よりによって警察じゃない方について行くなんて!)
培楽は自らの決断を呪ったが、すでに遅い。
「おい、お前は誰だ!」
ケージが培楽の背中を小突いた。
「え、えーっと……あ、RAスタディのこ、木口と申しますっ!」
「何だそれは? 誰か、知っているか?」
培楽の答えを聞いたケージが周囲に尋ねた。
ちなみにRAスタディというのは、培楽が所属する会社名である。培楽はとっさに自分の所属を答えてしまったのだ。
「知らないねぇ、そんな団体は。代理の後をつけるなんていい度胸しているじゃないか。一思いにズドンとやっちまった方が後腐れがなくていいんじゃないかい」
「ひゃっ!」
老女が脇にやって来て、培楽のこめかみのあたりに冷たい筒のようなものを突きつけてきた。
(って、これって銃? 私、消されちゃうの?! まずい、まずいって!)
培楽の頭の中は完全にパニックに陥っていた。
逃げ出そうにも周囲を囲まれてしまっているし、それ以前に足がすくんで動けない。
何とか立ってはいるが、いつへたり込んでもおかしくない状況だ。
「おっかさん、さすがに人殺しはマズくないですか?」
ジャージ姿の男がおっかさんと呼ばれた老女の肩に手を置いた。
(そ、そうよ! 人殺しは足がつくし、罪が重くなるから止めましょう! ね! ね! )
培楽にとっては救世主が現れたような気分だった。この際生命が助かれば他はどうでもよかった。
「甘いの。こ奴が『奴ら』の仲間じゃないという証拠がどこにある? パトカーに乗っておったのは間違いないのだろう?」
「それは、私がそっちと間違われて巻き添えになったからで!」
老女の言葉に思わず培楽が反論した。この場を乗り切らないとどう考えても命が助かりそうもない、そう考えた培楽は必死だった。
「そうだな、状況を考えれば仕方ない、か……」
ジャージ姿の男が引き下がった。
「ちょ、ちょ、ちょっと! ひいっ!」
培楽が声をあげたが、今の絶望的な状況が改善するわけでもない。
絶体絶命の状況に培楽にはなすすべもなかった。
一対七の状況ではどう考えても逃げ出すことすら難しい。
「ちょっといいですか?」
老女の背後から若者の声が聞こえてきた。
培楽の前方から男の声が聞こえた。
未だに培楽の目には痛みがあり涙が止まらないため、男の姿はよく見えない。
「見えないのか? 背中を押すぞ!」
男の声の直後、培楽の背中がぐいと押され、その場に跪くような恰好になった。
「冷てえかも知れないが、我慢しろよ! 目が見えないよりマシだろう!」
男がそう言うと、培楽の顔目がけてばしゃっと冷水が浴びせられた。
「ひゃっ!」
訳もわからずに培楽は目をパチパチと開いたり閉じたりする。
徐々に痛みが和らいでいき、涙も止まる。
「ほらよ。顔を拭きな。これで見えるようになるだろう」
「あ、ありがとうございます……」
男からタオルを渡され、培楽はそれで顔を拭いた。ようやく視界が回復し、周囲の様子がわかるようになった。
「どこ……ですか、ここは?」
培楽の目の前に広がっていたのは、神社の境内であった。
鳥居の塗装は剥がれており、周囲に転がっている大きな石の破片はもともとは狛犬だったものだと思われる。
社は朽ち果てて壁に穴が開いているし、辛うじて無事なのは手水舎の代わりの水道のみという燦燦たる状況だ。
「悪いがそれを説明している時間はない。代理の知り合いなのだろう? 急ぐぞ!」
培楽の目の前にいたのは作業着姿の中年男性であった。先ほど両脇を固めていた警官らしき者ではない。
中年男性は培楽のショルダーバッグを引っ張り、ついてくるように命じた。
「あ、ちょ、ちょっと?!」
訳もわからないまま、培楽は引っ張られる格好で中年男性の後を追う。
「気をつけろよ。さっきの連中、追いかけてくるからな。まだ気付いてないと思うが……」
そう警告すると、中年男性は培楽のショルダーバッグから手を離した。
「さっきの連中?」
培楽が中年男性の後を走りながら尋ねた。
「見つかったらヤバいぞ。奴ら、手段を選ばないからな。代理や先生から聞いていないのか?」
「代理? 先生??」
そう言われても培楽には「代理」や「先生」が誰だか皆目見当もつかない。
(警察の人の役職かな……?)
培楽はそう考えて、目の前を走る中年男性の後をついて行くことを決めた。
パトカーが襲撃されたことから、カフェにいた三人組には他に仲間がいるということになる。
そして、その仲間はパトカーを襲うほどの凶悪な連中だ。培楽の目が開けられないほど傷んだのは、薬品か何かを撒いたからに違いない。
そのような狼藉に及ぶ連中であれば、先ほどの中年男性の言葉通り手段を選ばずこちらを襲ってくる可能性がある。下手をすれば生命に関わる。
また、中年男性は役職名を言っていた。警官であれば同僚をそう呼ぶのだろうと培楽は推測した。
少なくともここで追手に捕まるよりも警官らしき中年男性の後について行った方がマシなはずだ。
※※
「ハァ、ハァ。あの……いつになったら着くのでしょうか?」
培楽は喘ぐような声で前を走る中年男性に尋ねた。
走る速度はゆっくり目のジョギングくらいなので決して速くないが、それでも十数分も走っていれば息が上がる。
培楽は普段から積極的に身体を動かしている方ではないし、運動神経も人並みだ。それに一時間くらい前までは酒を飲んでいたのだから、息が上がるのも当然だ。
「……もうすぐだ。あの建物だ」
「ええっと……」
中年男性が指差した先には大きな引き戸のある木造平屋の建物があった。
個人宅にしては大きすぎる。
培楽の実家は東北地方のそれなりの規模の都市の住宅街にあるが、その近くにある集会場に似た建物であった。
少なくとも警察署には見えない。駐在所だろうか? と培楽は見当違いの推測をしていた。
「連中に見つかると厄介だ。それに皆疲れているだろう。いったん集まって休息をとってから移動するぞ」
「は、はいっ!」
戸惑う培楽を無視して、中年男性からの指示が飛んだ。培楽は思わずその場で立ち止まって返事をしてしまう。宮仕えの悲しい性なのだろうか?
「目立つところにいると連中に見つかるからな。ついてきてくれ」
中年男性は靴も脱がずに建物の中に入ると両脇にある部屋には立ち入らず、廊下を直進して突き当りの棚の前で足を止めた。そこで腰を曲げて前かがみになった。
「??」
培楽が慌てて立ち止まると、中年男性は棚の一番下の段の板を横にスライドさせた。
「すごい……」
板の下からは人が一人通れるくらいの幅の階段が現れた。わずかに明るいのは、下の方で明かりが点されているからのようだ。
「静かにしてくれ。先に行ってもらうぞ」
中年男性は培楽を階段に押し込んだ後、自身も階段を何段か下って棚の板を元に戻した。これなら知っている者でなければ、この通路を見つけることはできないだろう。
階段を下りると、その先には狭い倉庫のようなスペースが広がっていた。左右には空の木箱がいくつか置かれている。
壁には棒状の間接照明が点されており、この明かりが上から見えたようであった。
「この先の部屋に集まることになっている。案内しよう」
再び中年男性が培楽の前に出て進み始めた。
倉庫の先には扉があり、中年男性はポケットからカードキーを取り出して扉を開けた。
ホテルの客室のドアのように金属部分にカードを接触させて開錠するタイプのものだ。
こんな場所なのに進んでいるな、と培楽は訝しがったが、警察が関係している建物ならあり得るかもしれないと自分を納得させた。
「一人、連れてきたぞ」
「失礼します」
中年男性に続いて培楽も中に入る。
中は一二畳か一四畳くらいの広い部屋で、山登りをするような恰好をした老女と、ジャージ姿の若い男性の姿があった。
「ケージか、他はどうしたんだい?」
中年男性の姿を見て、老女が尋ねた。
「ダンさんと先生が連れてくると思う。俺とは反対側に行ったから、もうちょっとかかるんじゃないか?」
「そうかい。代理は無事なんだろうね?」
「先生が一緒だから大丈夫だろう。ここは知っているだろうし」
「なら待つしかないね」
ケージと呼ばれた中年男性と老女のやり取りの間、ジャージ姿の若い男性は一言も口を開かなかった。
その代わりに培楽の方を見て首を傾げている。
「あの……どうかされました?」
「いや、大丈夫だ。先生かダンさんが来ればわかるからな。今は休んでくれ」
「はぁ……」
培楽には状況がよくわからなかったが、とりあえず安全な場所に逃げ込めたと考えることにした。
「すみません、鏡と水道がある場所はないですか?」
培楽がケージに尋ねた。
落ち着いて服を見ると、オレンジ色のシミだらけになっていた。
ここまでの状態になってしまうと完全にシミを抜くのは不可能だろうが、少なくとも家に戻るまでの間、周囲の目をごまかせる程度には綺麗にしておきたかった。
「あっちだ」
ケージが指差した廊下の奥には洗面台があった。その先はトイレのようだ。
「うわぁ……こんなになっちゃったんだ」
洗面台の鏡で改めて自分の姿を見た培楽は、その惨状に目を覆いたい気分になった。
上着を脱いで先にこちらのシミを落とす。
といってもティッシュに水を含ませてシミの部分に当てることくらいしかできない。シミ抜き用の道具など持っていないし、あったところでジャケットの大部分にシミ広がっているので、対処しようがない。
「痛っ! 何これ……」
手を顔にやると触った場所がヒリヒリと傷む。
「唐辛子のスプレーだ。なに、人体に害はないから洗えば大丈夫だ。もし、沁みるようなら油を出してやるが、必要か?」
部屋の方から声が聞こえてきた。ケージの声だ。
この場面でどうして油が必要になるのか培楽には理由がわからなかったが、沁みてどうしようもないというほどでもないので申し出を断った。
しばらく上着と格闘した後、培楽はシャツに目をやった。
こちらは上着のおかげで被害は少ないが、正面の部分にV字状にオレンジ色のシミがついている。
上着のように脱いでシミ抜きをするわけにもいかないので、着たまま濡れたティッシュを当ててシミを抜いていく。
(いつになったら警察署に向かうんだろう? 全然動く気配がないけど……)
培楽は、この場所に案内したケージと呼ばれた中年男性を警察関係者だと信じ込んでいた。
「刑事」だとすれば、制服姿でないとしても不思議ではないと思ったからだ。
パトカーが襲撃された理由がよくわからないが、襲撃犯から培楽を守ったことには間違いない。
このままここを出て家に戻ろうとした場合、再び襲撃犯に襲われる可能性もある。
今は彼らと一緒にこの場に身を潜めるのが得策だろう、そう培楽は考えていた。
シャツとしばらく格闘して、シミがどうにかごまかせるくらいになったとき、後ろでドアが開く音がした。
「失礼します。代理をお連れしました。彼は無事です」
野太い声なのに話し方は丁寧だ、と培楽が思ったところに反対側からジャージ姿の男の声がした。
「先生、来たか。ダンさんももうすぐ到着すると思う」
「ダンさんとは追っ手を撒くために別れましたので、すぐに到着するでしょう」
急に周囲が慌ただしくなってきた。
出発の時間が近いのかもしれない、と考えた培楽は慌てて上着を羽織る。
「ダンだ。今戻った。主任を連れて来た。皆無事だ」
先生と呼ばれた男に続くような恰好でダンと名乗る男が中に入ってきた。
培楽のいる洗面台からは部屋の様子が見えない。
そろそろ戻らないと置いていかれるかもしれない、と考えた培楽は慌てて部屋に戻り始めた。
「主任だって! 俺が連れてきたぞ。そっちの主任は誰だ?!」
部屋に入ろうとした瞬間に培楽の耳に入ったのはケージの怒鳴り声であった。
「待ってください。主任はダンさんが連れてきている方です」
答えたのは、落ち着いた中性的な声の主だった。
「へっ? 間違いな、いや、ありませんでしょうか?」
ケージの口調が急に丁寧なものになる。
「間違いない。ダンさんが連れているこの女性が主任です」
「ってことは……先生、待ってくださいよ! おい! そこの女、お前は誰だ?!」
「へっ?」
急にケージが走り出してきて、培楽の後ろに回り込んだ。
「まさか『奴ら』の仲間じゃないだろうね?」
いつの間にか老女が培楽の正面を塞ぐように立ちはだかった。
「わ、私は……」
「いいからこっちに出ろ!」
後ろのケージに促されて、培楽が恐る恐る部屋の中へと入った。
「い゛っ?!」
培楽が素っ頓狂な声をあげたのは、中にいた幾人かに見覚えがあったからだ。
電車を待つ間に入ったカフェにいた三人組だった。
筋骨隆々の中年男に、中性的な若者、そして長身でいかにもデキるといった雰囲気の女性である。
「この女の人は知らない。代理、一体誰でしょうか?」
褐色の肌の男性が中性的な若者に尋ねながら、培楽と若者の間に割って入った。
培楽は気が付かなかったが、それはまるで若者を守るための壁になろうという動きであった。
「私の知らない人……いいえ、確か駅前のカフェにいた……」
代理と呼ばれた中性的な若者が答えた。
(あ゛ーっ! 私ったら何をやっているんだろう? よりによって警察じゃない方について行くなんて!)
培楽は自らの決断を呪ったが、すでに遅い。
「おい、お前は誰だ!」
ケージが培楽の背中を小突いた。
「え、えーっと……あ、RAスタディのこ、木口と申しますっ!」
「何だそれは? 誰か、知っているか?」
培楽の答えを聞いたケージが周囲に尋ねた。
ちなみにRAスタディというのは、培楽が所属する会社名である。培楽はとっさに自分の所属を答えてしまったのだ。
「知らないねぇ、そんな団体は。代理の後をつけるなんていい度胸しているじゃないか。一思いにズドンとやっちまった方が後腐れがなくていいんじゃないかい」
「ひゃっ!」
老女が脇にやって来て、培楽のこめかみのあたりに冷たい筒のようなものを突きつけてきた。
(って、これって銃? 私、消されちゃうの?! まずい、まずいって!)
培楽の頭の中は完全にパニックに陥っていた。
逃げ出そうにも周囲を囲まれてしまっているし、それ以前に足がすくんで動けない。
何とか立ってはいるが、いつへたり込んでもおかしくない状況だ。
「おっかさん、さすがに人殺しはマズくないですか?」
ジャージ姿の男がおっかさんと呼ばれた老女の肩に手を置いた。
(そ、そうよ! 人殺しは足がつくし、罪が重くなるから止めましょう! ね! ね! )
培楽にとっては救世主が現れたような気分だった。この際生命が助かれば他はどうでもよかった。
「甘いの。こ奴が『奴ら』の仲間じゃないという証拠がどこにある? パトカーに乗っておったのは間違いないのだろう?」
「それは、私がそっちと間違われて巻き添えになったからで!」
老女の言葉に思わず培楽が反論した。この場を乗り切らないとどう考えても命が助かりそうもない、そう考えた培楽は必死だった。
「そうだな、状況を考えれば仕方ない、か……」
ジャージ姿の男が引き下がった。
「ちょ、ちょ、ちょっと! ひいっ!」
培楽が声をあげたが、今の絶望的な状況が改善するわけでもない。
絶体絶命の状況に培楽にはなすすべもなかった。
一対七の状況ではどう考えても逃げ出すことすら難しい。
「ちょっといいですか?」
老女の背後から若者の声が聞こえてきた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました
蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈
絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。
絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!!
聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ!
ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!!
+++++
・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)
タダ働きなので待遇改善を求めて抗議したら、精霊達から『破壊神』と怖れられています。
渡里あずま
ファンタジー
出来損ないの聖女・アガタ。
しかし、精霊の加護を持つ新たな聖女が現れて、王子から婚約破棄された時――彼女は、前世(現代)の記憶を取り戻した。
「それなら、今までの報酬を払って貰えますか?」
※※※
虐げられていた子が、モフモフしながらやりたいことを探す旅に出る話です。
※重複投稿作品※
表紙の使用画像は、AdobeStockのものです。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
田舎農家の俺、拾ったトカゲが『始祖竜』だった件〜女神がくれたスキル【絶対飼育】で育てたら、魔王がコスメ欲しさに竜王が胃薬借りに通い詰めだした
月神世一
ファンタジー
「くそっ、魔王はまたトカゲの抜け殻を美容液にしようとしてるし、女神は酒のつまみばかり要求してくる! 俺はただ静かに農業がしたいだけなのに!」
ブラック企業で過労死した日本人、カイト。
彼の願いはただ一つ、「誰にも邪魔されない静かな場所で農業をすること」。
女神ルチアナからチートスキル【絶対飼育】を貰い、異世界マンルシア大陸の辺境で念願の農場を開いたカイトだったが、ある日、庭から虹色の卵を発掘してしまう。
孵化したのは、可愛らしいトカゲ……ではなく、神話の時代に世界を滅亡させた『始祖竜』の幼体だった!
しかし、カイトはスキル【絶対飼育】のおかげで、その破壊神を「ポチ」と名付けたペットとして完璧に飼い慣らしてしまう。
ポチのくしゃみ一発で、敵の軍勢は老衰で塵に!?
ポチの抜け殻は、魔王が喉から手が出るほど欲しがる究極の美容成分に!?
世界を滅ぼすほどの力を持つポチと、その魔素を浴びて育った規格外の農作物を求め、理知的で美人の魔王、疲労困憊の竜王、いい加減な女神が次々にカイトの家に押しかけてくる!
「世界の管理者」すら手が出せない最強の農場主、カイト。
これは、世界の運命と、美味しい野菜と、ペットの散歩に追われる、史上最も騒がしいスローライフ物語である!
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
クラス転移したけど、皆さん勘違いしてません?
青いウーパーと山椒魚
ファンタジー
加藤あいは高校2年生。
最近ネット小説にハマりまくっているごく普通の高校生である。
普通に過ごしていたら異世界転移に巻き込まれた?
しかも弱いからと森に捨てられた。
いやちょっとまてよ?
皆さん勘違いしてません?
これはあいの不思議な日常を書いた物語である。
本編完結しました!
相変わらず話ごちゃごちゃしていると思いますが、楽しんでいただけると嬉しいです!
1話は1000字くらいなのでササッと読めるはず…
セクスカリバーをヌキました!
桂
ファンタジー
とある世界の森の奥地に真の勇者だけに抜けると言い伝えられている聖剣「セクスカリバー」が岩に刺さって存在していた。
国一番の剣士の少女ステラはセクスカリバーを抜くことに成功するが、セクスカリバーはステラの膣を鞘代わりにして収まってしまう。
ステラはセクスカリバーを抜けないまま武闘会に出場して……
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる