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第六章
264:社長秘書の説得
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ジン・ヌマタが「タブーなきエンジニア集団」に参加を決めた翌日、ECN社社長室では、社長のオイゲン・イナと秘書のメイ・カワナが深刻な顔で会話を交わしていた。
しかし、そこに声によるやりとりはない。
端末のキーボードの打鍵音などを利用した「打音メッセ」で二人は会話を交わしている。
ことの発端はオイゲンがハドリから━━正確にはハドリの部下であるノブヤ・ヤマガタから━━の打診の内容をメイに伝えたことだ。
「タブーなきエンジニア集団」の討伐に際して、OP社がオイゲンの同行を求めている!
メイにはある程度予測できた内容であったが、実際にオイゲンからその内容を聞かされると想像以上の衝撃を受けた。
彼女もその打診がとても断れるものでないことは理解している。
しかし、代替案も思いつかずキーボードを叩く指を止めていると、オイゲンから一つの提案が伝えられた。もちろん、「打音メッセ」によってである。
「『タブーなきエンジニア集団』に身を寄せて欲しい。ジンにいるミヤハラを頼ってくれると助かる」
「社長は……どうされるのですか?」
「ハドリ氏に同行することになると思う」
オイゲンとてそれ以上のことは言えない。実際に発せられたのはキーボードなどの音であったが。
彼は隙を見て逃げ出すつもりではいるが、無事に逃げおおせるか自信は持てなかった。
だからこそ、ハドリに同行した後にどうするかをメイに伝えられなかった。
「それから先は……?」
欲しい答えを求めてメイがキーボードを叩いた。
「わからない。無事に戻ってきたいとは思っているけど……」
オイゲンからの答えを聞いた直後、急にメイのキータイプ音が、くぐもったものになる。
「ジンへ行くのは、業務命令なのですか……?」
「個人としてのお願いです」
「どうしても受け入れなければならないのですか?」
メイからの問いの直後、やってしまった、とオイゲンは思った。
いつもはオイゲンの指示をかたくなに守るメイなのだが、時々かたくなにそれを拒否することがある。どちらにせよ「かたくなに」なるのは確かなのだが。
オイゲンとしても、すべての指示を確信に基づいて出しているわけではない。
だから、メイにかたくなに指示を守ろうとされると困ることもある。そのようなときは、オイゲンが自らブレーキをかけるのだが、これは結構な難事である。
一方、かたくなに拒否しているときのメイを動かすのも難事だ。これは彼女にブレーキをかけるよりも大変かもしれない。
オイゲンは今日のところは説得をあきらめることにした。一度彼女が態度を決めたら、それを覆すのは至難の技なのだ。
「いえ、無理にとはいいません。ごめんなさい」
オイゲンが折れた。
そのタイミングでちょうど、終業を示すチャイムが鳴った。
「チャイム鳴りましたね。ひと勝負してみますか?」
オイゲンは「打音メッセ」で、メイに話しかけた。メイが拒否するのを承知の上で、だ。
「ひと勝負」とは、トランプゲームのノー・トランプ (ファイブ・ハンドレッド)のことである。サブマリン島でこのゲームを知る者は決して多くない。
オイゲンがこのゲームを持ちかけたのは、彼の知る限りメイの唯一といってよい趣味だったからである。
メイとオイゲンがまだ経営企画室に所属していた頃、オイゲンは彼女からこのゲームを教わった。
そして、経営企画室時代から携帯端末でメイのプレイに付き合うこともしばしばだった。職場で業務時間外に楽しむだけであったのだが。
「……わかりました。やります」
オイゲンの予想に反して、メイは誘いに乗ってきた。
オイゲンとしても彼女の意図をつかみかねているのだが、彼女が完全に機嫌を損ねたわけではないと思って胸を撫で下ろした。
対人恐怖症の彼女が本来二人からなる二チームが対戦する形の四人で行うこのゲームを趣味としているのは、オイゲンから見て不思議で仕方ない。
結局この日は「ひと勝負」と言っておきながら、結局四回もゲームをする羽目になった。
メイが止めると言わなかったからだ。
さすがに時間が遅くなったと、オイゲンが切り上げようとした。
メイは素直にゲームを止めたが、帰り支度を始めようとしない。
「とんでもない指示を出したことは謝ります」
メイの様子に気づいたオイゲンが今度は口頭でそう伝えたのだが、メイは首を横に振った。
視線を合わせてこないのでわかりにくいのだが、どうもメイはオイゲンに何か言いたいらしい。
言いにくいことであれば「打音メッセ」を使えばよいのだが、そうしないところを見ると、口頭で言いたいのか、複雑な話なのだろう。
「打音メッセ」でもある程度複雑な会話は可能なのだが、伝達速度では声による会話に遠く及ばない。
実際のところはわからないが、社長室で声を出して話せばOP社に内容が筒抜けになる可能性がある。話の内容がわからないが、他人に話が漏れるのは問題がありそうだ。
どこか場所を変えて話すか、とオイゲンは考える。
飲食店はメイと二人でいるところを怪しまれるのが気になるので避けたいところだ。
実際のところ、オイゲンは本人が意識しているほど目立たない人間なのだが、大企業の社長という立場を過剰に意識しているところがある。
オイゲンの自宅は論外だ。秘書を職権にまかせて連れ込むなど、オイゲンの倫理観からすればとんでもないことだ。それが例え彼女の話を聞くだけにしても。
同様にオイゲンがメイの自宅へ行くのも論外である。
オイゲンは熟慮した上で、喫茶店が運営しているレンタルスペースを利用することにした。これなら他人に中を見られることはないし、オイゲンの知っているスペースなら防音対策もなされている。
「場所を変えてお話しますか?」
「……お願いします」
「打音メッセ」での会話を終えた後、オイゲンはレンタルスペースを予約した。
三〇分後に落ち合うことにして、オイゲンはメイを先に帰した。
しかし、そこに声によるやりとりはない。
端末のキーボードの打鍵音などを利用した「打音メッセ」で二人は会話を交わしている。
ことの発端はオイゲンがハドリから━━正確にはハドリの部下であるノブヤ・ヤマガタから━━の打診の内容をメイに伝えたことだ。
「タブーなきエンジニア集団」の討伐に際して、OP社がオイゲンの同行を求めている!
メイにはある程度予測できた内容であったが、実際にオイゲンからその内容を聞かされると想像以上の衝撃を受けた。
彼女もその打診がとても断れるものでないことは理解している。
しかし、代替案も思いつかずキーボードを叩く指を止めていると、オイゲンから一つの提案が伝えられた。もちろん、「打音メッセ」によってである。
「『タブーなきエンジニア集団』に身を寄せて欲しい。ジンにいるミヤハラを頼ってくれると助かる」
「社長は……どうされるのですか?」
「ハドリ氏に同行することになると思う」
オイゲンとてそれ以上のことは言えない。実際に発せられたのはキーボードなどの音であったが。
彼は隙を見て逃げ出すつもりではいるが、無事に逃げおおせるか自信は持てなかった。
だからこそ、ハドリに同行した後にどうするかをメイに伝えられなかった。
「それから先は……?」
欲しい答えを求めてメイがキーボードを叩いた。
「わからない。無事に戻ってきたいとは思っているけど……」
オイゲンからの答えを聞いた直後、急にメイのキータイプ音が、くぐもったものになる。
「ジンへ行くのは、業務命令なのですか……?」
「個人としてのお願いです」
「どうしても受け入れなければならないのですか?」
メイからの問いの直後、やってしまった、とオイゲンは思った。
いつもはオイゲンの指示をかたくなに守るメイなのだが、時々かたくなにそれを拒否することがある。どちらにせよ「かたくなに」なるのは確かなのだが。
オイゲンとしても、すべての指示を確信に基づいて出しているわけではない。
だから、メイにかたくなに指示を守ろうとされると困ることもある。そのようなときは、オイゲンが自らブレーキをかけるのだが、これは結構な難事である。
一方、かたくなに拒否しているときのメイを動かすのも難事だ。これは彼女にブレーキをかけるよりも大変かもしれない。
オイゲンは今日のところは説得をあきらめることにした。一度彼女が態度を決めたら、それを覆すのは至難の技なのだ。
「いえ、無理にとはいいません。ごめんなさい」
オイゲンが折れた。
そのタイミングでちょうど、終業を示すチャイムが鳴った。
「チャイム鳴りましたね。ひと勝負してみますか?」
オイゲンは「打音メッセ」で、メイに話しかけた。メイが拒否するのを承知の上で、だ。
「ひと勝負」とは、トランプゲームのノー・トランプ (ファイブ・ハンドレッド)のことである。サブマリン島でこのゲームを知る者は決して多くない。
オイゲンがこのゲームを持ちかけたのは、彼の知る限りメイの唯一といってよい趣味だったからである。
メイとオイゲンがまだ経営企画室に所属していた頃、オイゲンは彼女からこのゲームを教わった。
そして、経営企画室時代から携帯端末でメイのプレイに付き合うこともしばしばだった。職場で業務時間外に楽しむだけであったのだが。
「……わかりました。やります」
オイゲンの予想に反して、メイは誘いに乗ってきた。
オイゲンとしても彼女の意図をつかみかねているのだが、彼女が完全に機嫌を損ねたわけではないと思って胸を撫で下ろした。
対人恐怖症の彼女が本来二人からなる二チームが対戦する形の四人で行うこのゲームを趣味としているのは、オイゲンから見て不思議で仕方ない。
結局この日は「ひと勝負」と言っておきながら、結局四回もゲームをする羽目になった。
メイが止めると言わなかったからだ。
さすがに時間が遅くなったと、オイゲンが切り上げようとした。
メイは素直にゲームを止めたが、帰り支度を始めようとしない。
「とんでもない指示を出したことは謝ります」
メイの様子に気づいたオイゲンが今度は口頭でそう伝えたのだが、メイは首を横に振った。
視線を合わせてこないのでわかりにくいのだが、どうもメイはオイゲンに何か言いたいらしい。
言いにくいことであれば「打音メッセ」を使えばよいのだが、そうしないところを見ると、口頭で言いたいのか、複雑な話なのだろう。
「打音メッセ」でもある程度複雑な会話は可能なのだが、伝達速度では声による会話に遠く及ばない。
実際のところはわからないが、社長室で声を出して話せばOP社に内容が筒抜けになる可能性がある。話の内容がわからないが、他人に話が漏れるのは問題がありそうだ。
どこか場所を変えて話すか、とオイゲンは考える。
飲食店はメイと二人でいるところを怪しまれるのが気になるので避けたいところだ。
実際のところ、オイゲンは本人が意識しているほど目立たない人間なのだが、大企業の社長という立場を過剰に意識しているところがある。
オイゲンの自宅は論外だ。秘書を職権にまかせて連れ込むなど、オイゲンの倫理観からすればとんでもないことだ。それが例え彼女の話を聞くだけにしても。
同様にオイゲンがメイの自宅へ行くのも論外である。
オイゲンは熟慮した上で、喫茶店が運営しているレンタルスペースを利用することにした。これなら他人に中を見られることはないし、オイゲンの知っているスペースなら防音対策もなされている。
「場所を変えてお話しますか?」
「……お願いします」
「打音メッセ」での会話を終えた後、オイゲンはレンタルスペースを予約した。
三〇分後に落ち合うことにして、オイゲンはメイを先に帰した。
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