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閉じられた障子が陽の光を遮り、薄暗く重い空気の中、幸成は一人座したまま握りしめた両手を見つめた。
幸成の姿を見た奉公人達は、皆幽霊でも見たかのように驚いていた。
それはそうだ。
まさか誰一人として、幸成が戻ってくるとは思いもしていなかったのだから。
「───幸成さま……よくご無事で……」
障子を開け、あの日幸成を見送った黒川が姿を見せた。
その嬉しそうな表情が、言葉が嘘では無いと幸成を笑顔にした。
「…………ありがとう。きっと、そう言ってくれるのは…黒川だけだ」
「…………幸成さま……」
言葉の意味が解り、黒川は辛そうに顔を歪めた。
あの日幸成を見送った後、もし、大口真神が現れなかったとしても、幸成がこの屋敷に戻って来ないように、心のどこかで願っていた。
父、正成の異状なまでの幸成への冷たい態度も、兄の成一郎の幸成に向けられる淫欲を含んだ眼差しも、ずっと不憫でならなかったのだ。
あの前の晩も……
廊下を通った黒川の耳に届いた音が、幸成の部屋の中で成一郎が何をしたか、想像する間もなく理解させていた。
「そんな顔するな。……俺は目的があって戻ってきたんだ。大切な人の為に……」
誇らしげに微笑む幸成に、黒川は目を疑った。
以前の幸成はいつも父や兄の顔色を窺い、傷付けられ続けた自尊心が常に俯かせていた。
それが今は、目的に向かって真っ直ぐ顔を上げているのだと分かった。
ずっと側で見てきた幸成の、初めて目にする誇らしげな姿だ。
「……幸成さま………」
しかしそれにも黒川の顔が辛そうに歪んだ。
幸成があの二人に……特に成一郎に太刀打ち出来るとは思えない。
幼い頃から見ていたからこそ解る。
成一郎はどこか壊れている。
正成は気付いていないが、人として、必要な物が掛けている。
「───しかし幸成さま……」
思わず黒川の口が開きかけた時、襖が開き正成と成一郎が姿を現せた。
その途端、座敷の空気が張り詰めた糸のような静寂に包まれた。
つい今しがたまで、誇らしげに笑っていた幸成の顔も、緊張から強ばっている。
それでも以前とは違い、その瞳は父の正成を真直ぐに見つめた。
「……ここに戻ってきたと言うことは、大口真神を討ち取った……という事で相違ないな。幸成」
低く冷たい父の声が威圧するように吐かれ、幸成は膝の上の手を一層キツく握った。
そうでもしないと、その声に身体ごと震えだしてしまいそうだったのだ。
「……どうなんだ……幸成」
黙っていた幸成を急かすように、成一郎が口を開く。
「……大口真神を、討ち取ってなどおりません」
握りしめた手の平に爪が食い込み、紅く滲んでいることすら気付かずに、幸成は父に向かってはっきりと声にした。
しかし「当然分かっていた」とでも言っているように眉ひとつ動かさない正成に、幸成の喉がゴクリと音を立てた。
──何を言っても聞き入れてなどもらえるわけが無い。
──言うだけ無駄だ。
──どうせ怒らせるだけだ。
──役立たずだと、罵られるだけだ。
過去の自分が、頭の中で囁き続ける。
しかしそれを噛み潰すように、幸成の奥歯がギリッと音を立てた。
「私は……父上に、進言したき事があり……こうして戻って参りました」
それでも逸らさずに正成の目を見据える幸成の声が、その意志の強さをも伝えるように座敷に響きわたった。
幸成の姿を見た奉公人達は、皆幽霊でも見たかのように驚いていた。
それはそうだ。
まさか誰一人として、幸成が戻ってくるとは思いもしていなかったのだから。
「───幸成さま……よくご無事で……」
障子を開け、あの日幸成を見送った黒川が姿を見せた。
その嬉しそうな表情が、言葉が嘘では無いと幸成を笑顔にした。
「…………ありがとう。きっと、そう言ってくれるのは…黒川だけだ」
「…………幸成さま……」
言葉の意味が解り、黒川は辛そうに顔を歪めた。
あの日幸成を見送った後、もし、大口真神が現れなかったとしても、幸成がこの屋敷に戻って来ないように、心のどこかで願っていた。
父、正成の異状なまでの幸成への冷たい態度も、兄の成一郎の幸成に向けられる淫欲を含んだ眼差しも、ずっと不憫でならなかったのだ。
あの前の晩も……
廊下を通った黒川の耳に届いた音が、幸成の部屋の中で成一郎が何をしたか、想像する間もなく理解させていた。
「そんな顔するな。……俺は目的があって戻ってきたんだ。大切な人の為に……」
誇らしげに微笑む幸成に、黒川は目を疑った。
以前の幸成はいつも父や兄の顔色を窺い、傷付けられ続けた自尊心が常に俯かせていた。
それが今は、目的に向かって真っ直ぐ顔を上げているのだと分かった。
ずっと側で見てきた幸成の、初めて目にする誇らしげな姿だ。
「……幸成さま………」
しかしそれにも黒川の顔が辛そうに歪んだ。
幸成があの二人に……特に成一郎に太刀打ち出来るとは思えない。
幼い頃から見ていたからこそ解る。
成一郎はどこか壊れている。
正成は気付いていないが、人として、必要な物が掛けている。
「───しかし幸成さま……」
思わず黒川の口が開きかけた時、襖が開き正成と成一郎が姿を現せた。
その途端、座敷の空気が張り詰めた糸のような静寂に包まれた。
つい今しがたまで、誇らしげに笑っていた幸成の顔も、緊張から強ばっている。
それでも以前とは違い、その瞳は父の正成を真直ぐに見つめた。
「……ここに戻ってきたと言うことは、大口真神を討ち取った……という事で相違ないな。幸成」
低く冷たい父の声が威圧するように吐かれ、幸成は膝の上の手を一層キツく握った。
そうでもしないと、その声に身体ごと震えだしてしまいそうだったのだ。
「……どうなんだ……幸成」
黙っていた幸成を急かすように、成一郎が口を開く。
「……大口真神を、討ち取ってなどおりません」
握りしめた手の平に爪が食い込み、紅く滲んでいることすら気付かずに、幸成は父に向かってはっきりと声にした。
しかし「当然分かっていた」とでも言っているように眉ひとつ動かさない正成に、幸成の喉がゴクリと音を立てた。
──何を言っても聞き入れてなどもらえるわけが無い。
──言うだけ無駄だ。
──どうせ怒らせるだけだ。
──役立たずだと、罵られるだけだ。
過去の自分が、頭の中で囁き続ける。
しかしそれを噛み潰すように、幸成の奥歯がギリッと音を立てた。
「私は……父上に、進言したき事があり……こうして戻って参りました」
それでも逸らさずに正成の目を見据える幸成の声が、その意志の強さをも伝えるように座敷に響きわたった。
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