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7.メイドの先生②
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キャロルは櫛を放り出して、白目をむいた。危ないので、弧を描いた櫛はわたしが空中でキャッチする。
「え? えええええっ! アリス様、グラシアン卿の屋敷に潜入するのとメイドの仕事を覚えるのと、どう関係があるんですか? ……まさか、メイドとしてお屋敷に潜入するつもりとはおっしゃいませんよね?」
キャロルが取り乱すのも無理はなかった。わたしは彼女の白い手の甲を撫でてから、櫛を握らせた。
「落ち着いて、キャロル。わたしだって、自分の言っていることはよくわかっているつもりよ。だけど、チャンスはそこしかないの。王太女に見せる態度とメイドに見せる態度は百八十度違うはずよ。見るに堪えない本性だったら、その場でわたしの正体を明かして婚約破棄してやるの」
「婚約破棄って、そんな大それたことを……っ!」
「すべては、ルワンド王国の将来のためよ。信頼のおけない男を王配に据えるわけにはいかないわ」
「グラシアン卿に限って、そんなことは。いえ、もちろん可能性はないとも言えませんが、でも! ただでさえ、アリス様はご結婚の準備と政務でお忙しいのに、このうえまたメイドの勉強なんて。一体いつお眠りになるつもりですか。そもそも、アリス様がメイドの仕事をお知りになって、この先ためになるとはとうてい思えません」
「わたしの睡眠時間には、この際目をつぶってほしいの。婚約破棄になれば、しばらく結婚式の準備は必要ないでしょ? それにいざとなれば、回復魔法を使うから大丈夫よ」
「以前に回復魔法は傷を治しても体力を回復させることはできないと、アリス様ご自身がおっしゃっていませんでしたか?」
「じゃあ、回復薬を使うわよ。――ともかく。キャロル、あなたしか頼る人はいないのよ。わたしにメイドの仕事を伝授してほしいの。キャロルは侍女だけれど、メイドの仕事もわかるでしょ?」
わたしは、ぎゅっとキャロルの腰に両腕を回す。押してダメなら、もっと押せだ。彼女は櫛を持ったまま、わたしの髪の毛を優しく撫でてくれた。
「アリス様はグラシアン卿の人となりを知る以外に、何か目的があるんですね?」
さすがはわたしの専属メイド、可愛いだけではない。
わたしはキャロルから離れ、また鏡と向き合った。ウェーブのかかった金髪に、丸いアーモンド形の深緑色の双眸。化粧を落としてみれば、十八歳という年相応の平凡な顔立ちだ。
「一度くらいは、王宮の外に出てみたいのよ」
わたしには兄弟がいない。父も早くに亡くなり、国のなかでわたしより身分が高いのは女王陛下ただお一人なのだ。たくさんの使用人と騎士たちに大事に守られかしずかれ、教師や家臣たちに褒められることはあっても、とがめられることはない。一番近しいと思われるお茶会に招待する令嬢たちですら、わたしを別格に扱ってくる。わたしは、常に優遇されているのだ。
人より恵まれているのはその分期待されているからだ。その期待には応えるべきだとわかっているが、たまに息を吐きたいときがある。
「何もこの立場が嫌だと言っているわけじゃないわ。ただ、わたし以外の立場の人がどんな生活を送っているのか、たまに気になるのよ。わたしが王太女じゃなかったら、どんな人生をおくるんだろうって」
キャロルがほぅっとため息をつく。
「……わかりました。このキャロルが、微力ながらアリス様にメイドのノウハウをお教えいたします。でも、絶対にご無理はなさらないでくださいね」
わたしの熱意が通じたのか、不承不承ながら了解してくれた。
「ありがとう、キャロル!」
それ以来、わたしはこっそりと、カニア侯爵家に目立たず出入りするための修業に励んだ。自室にキャロル以外の人間を入れることが減ったが、女官長には前もってマリッジブルーだと伝えておいたので問題はない。掃除洗濯は、浴室で行う。なかなか落ちないシミや汚れに何度水魔法を使おうと思ったことか、数えきれない。毎日この仕事をしている人に、本当に頭が下がる。
そして、紅茶とコーヒーを淹れるときも、思っていた以上にてこずった。キャロルはわたしが淹れたまずいコーヒーを何度も飲んで、一時的に舌がおかしくなってしまった。実に、申し訳ない。だが、自分で淹れられるようになってみると、道理もわかって知識も増えてこれがなかなか楽しい。
あとは、簡単な調理とベッドメイキング。考えてみれば、火を扱うことは生まれて初めてだった。何度か小さな火傷をして、そのたびに水魔法で治癒する。メイドの仕事はコツさえつかめば悩むことはないが、なにしろ一日中身体を動かさなくてはいけない、なかなかの重労働だった。
わたしはこうして、メイドという新しいスキルを手に入れたのだ。
「え? えええええっ! アリス様、グラシアン卿の屋敷に潜入するのとメイドの仕事を覚えるのと、どう関係があるんですか? ……まさか、メイドとしてお屋敷に潜入するつもりとはおっしゃいませんよね?」
キャロルが取り乱すのも無理はなかった。わたしは彼女の白い手の甲を撫でてから、櫛を握らせた。
「落ち着いて、キャロル。わたしだって、自分の言っていることはよくわかっているつもりよ。だけど、チャンスはそこしかないの。王太女に見せる態度とメイドに見せる態度は百八十度違うはずよ。見るに堪えない本性だったら、その場でわたしの正体を明かして婚約破棄してやるの」
「婚約破棄って、そんな大それたことを……っ!」
「すべては、ルワンド王国の将来のためよ。信頼のおけない男を王配に据えるわけにはいかないわ」
「グラシアン卿に限って、そんなことは。いえ、もちろん可能性はないとも言えませんが、でも! ただでさえ、アリス様はご結婚の準備と政務でお忙しいのに、このうえまたメイドの勉強なんて。一体いつお眠りになるつもりですか。そもそも、アリス様がメイドの仕事をお知りになって、この先ためになるとはとうてい思えません」
「わたしの睡眠時間には、この際目をつぶってほしいの。婚約破棄になれば、しばらく結婚式の準備は必要ないでしょ? それにいざとなれば、回復魔法を使うから大丈夫よ」
「以前に回復魔法は傷を治しても体力を回復させることはできないと、アリス様ご自身がおっしゃっていませんでしたか?」
「じゃあ、回復薬を使うわよ。――ともかく。キャロル、あなたしか頼る人はいないのよ。わたしにメイドの仕事を伝授してほしいの。キャロルは侍女だけれど、メイドの仕事もわかるでしょ?」
わたしは、ぎゅっとキャロルの腰に両腕を回す。押してダメなら、もっと押せだ。彼女は櫛を持ったまま、わたしの髪の毛を優しく撫でてくれた。
「アリス様はグラシアン卿の人となりを知る以外に、何か目的があるんですね?」
さすがはわたしの専属メイド、可愛いだけではない。
わたしはキャロルから離れ、また鏡と向き合った。ウェーブのかかった金髪に、丸いアーモンド形の深緑色の双眸。化粧を落としてみれば、十八歳という年相応の平凡な顔立ちだ。
「一度くらいは、王宮の外に出てみたいのよ」
わたしには兄弟がいない。父も早くに亡くなり、国のなかでわたしより身分が高いのは女王陛下ただお一人なのだ。たくさんの使用人と騎士たちに大事に守られかしずかれ、教師や家臣たちに褒められることはあっても、とがめられることはない。一番近しいと思われるお茶会に招待する令嬢たちですら、わたしを別格に扱ってくる。わたしは、常に優遇されているのだ。
人より恵まれているのはその分期待されているからだ。その期待には応えるべきだとわかっているが、たまに息を吐きたいときがある。
「何もこの立場が嫌だと言っているわけじゃないわ。ただ、わたし以外の立場の人がどんな生活を送っているのか、たまに気になるのよ。わたしが王太女じゃなかったら、どんな人生をおくるんだろうって」
キャロルがほぅっとため息をつく。
「……わかりました。このキャロルが、微力ながらアリス様にメイドのノウハウをお教えいたします。でも、絶対にご無理はなさらないでくださいね」
わたしの熱意が通じたのか、不承不承ながら了解してくれた。
「ありがとう、キャロル!」
それ以来、わたしはこっそりと、カニア侯爵家に目立たず出入りするための修業に励んだ。自室にキャロル以外の人間を入れることが減ったが、女官長には前もってマリッジブルーだと伝えておいたので問題はない。掃除洗濯は、浴室で行う。なかなか落ちないシミや汚れに何度水魔法を使おうと思ったことか、数えきれない。毎日この仕事をしている人に、本当に頭が下がる。
そして、紅茶とコーヒーを淹れるときも、思っていた以上にてこずった。キャロルはわたしが淹れたまずいコーヒーを何度も飲んで、一時的に舌がおかしくなってしまった。実に、申し訳ない。だが、自分で淹れられるようになってみると、道理もわかって知識も増えてこれがなかなか楽しい。
あとは、簡単な調理とベッドメイキング。考えてみれば、火を扱うことは生まれて初めてだった。何度か小さな火傷をして、そのたびに水魔法で治癒する。メイドの仕事はコツさえつかめば悩むことはないが、なにしろ一日中身体を動かさなくてはいけない、なかなかの重労働だった。
わたしはこうして、メイドという新しいスキルを手に入れたのだ。
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