婚約者の本性を暴こうとメイドになったら溺愛されました!

柿崎まつる

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56.フィリップと二人の少女(親世代の話)①

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 国境沿いの森は、そろそろ夕闇に染まりそうだった。幻獣であるグレードサラマンダーの卵を破壊し、心臓石を取り出した犯罪者を追い詰めるために、エーヴリル・モーリーン・オブ・ルワンドは弓を構える。

「逃すか!」
 
 エーヴリルの放った矢が、アビゲイルのふくらはぎをかすめた。

「きゃあっ!」

 女はそのまま、木の幹に座り込んだ。エーヴリルの狙い通りだ。アビゲイル・ドニアをなるべく傷つけず連れて帰る必要があった。明日にも裁判にかけ、見せしめとして処刑台に登らせる。そうしなければ、グレードサラマンダーの心臓石を狙う不逞の輩が溢れかえる未来になる。エーヴリルは次代の女王として、災いの芽を根こそぎ摘まねばならなかった。

「殿下! 待ってくれ!」
 
 そのとき、エーヴリルのまえに騎士服を着た人影が飛び出す。肩までの金髪が緩やかに波打ち、愁いを帯びたブラウンの双眸が彼女を一気にとらえた。フィリップは大病を患っていることを微塵も感じさせなかった。むしろ、微かにやつれた目元が影を生み、妖しい色気さえ作り出している。王都一の色男と謳われ、その笑み一つでエーヴリルとアビゲイルの心をわしづかみにしてきた男なのだ。
 だが、エーヴリルはこのときばかりは躊躇わず、剣を抜いた。

「そこを退いてください、師匠。騎士団の到着はまだですか?」

 先代の騎士団長であるフィリップが、弟子の硬い表情に唇を噛む。エーヴリルには、それが従妹の助命が容易でないことを察したゆえの表情に映った。
 
「騎士団には無理を言って、森の入り口で待機してもらっている。――頼む。アビゲイルを見逃してくれないか?」

 彼女は、あからさまに眉をしかめる。それはおおよそ十八歳の少女が浮かべるものではなく、すでに次代の為政者の風格を備えていた。
 
「師匠の勝手な行動は、信じがたい。公私混同もいいところです。アビゲイルは幻獣を殺戮しました。目的が何であれ、人の国の為政者として幻獣たちに申し訳が立ちません。死刑は当然のことです」
「それも、すべて俺のためにやったことだ」
「……人のためにやった犯罪が許される国なら、今日明日にでも滅んでしまうでしょう。こんな初歩的な話を師匠とする必要はないはずですが」

 王太女は、冷たく吐き捨てる。
 当のアビゲイルは木の幹に身を投げて、疲労困憊だ。もともと鍛錬とは無縁の水の精霊遣いだ。昨日からの逃亡劇により薄汚れたズボンから流れた血が、枯葉の上にぽたぽたと垂れていた。
 剣を構えるエーヴリルに構わず、フィリップは深い一歩を踏み込む。
 
「頼む。聞いてくれたら、俺は殿下の言うことを何でも聞く。……もちろん、殿下との結婚も受け入れる」

 懇願するフィリップとは対照的に、エーヴリルの表情はさらに険しいものとなった。
 
「今、その話をしたくはありません。むしろ、屈辱的過ぎてわたしの方からお断りさせていただきたい。わたしを舐めないでください。こんな女を救うために、師匠が自己犠牲を払うなど、到底耐えられません」
「自己犠牲じゃない。殿下が世継ぎの姫でなければ、とっくに受け入れていた。殿下とは親子ほど年が離れていて、俺は貴族でも下級だからマナも少ないし、何よりこの病気のことがある。殿下を残して死ぬ未来しかないけれど、本当は最期まで殿下のそばにいたい。先日、殿下に縁談が持ちあがって、ようやく自分の気持ちを自覚したところだった」
「師匠はマナを使わなくとも、剣の腕は我が国最強です。病気に関しては、今超特急で薬を開発させているところです。そのおためごかしの常套句なら、耳にタコができるほど聞きました。もう、け……っ」

 突如、エーヴリルの手から剣が落ちる。フィリップが得意の早業ではたき落としたのだ。左腕で弟子の腰を抱きよせ、右手でその頤を持つ。あまりに自然な動きに、エーヴリルは反応できなかった。ただ、壮年期の深みを増した美貌が下りてくるのをぼさっと眺めているだけ。エーヴリルの固まった唇に、フィリップのそれが押し重なる。
 
「ん……っ! ん……っ、んん――――!」

 ここは、屋外でそばにはアビゲイルもいる。予想外のことに驚いたが、そこはエーヴリルも伊達に王太女の座にいるわけではなかった。流されまいと必死に歯を食いしばる彼女に、フィリップはいったん唇を離すと優しく語り掛ける。
 
「エーヴリル。……いい子だから口を開くんだ」

 彼女は初めて好きな人に名前を呼ばれて、胸がしめつけられるようだった。
 
「師匠! こんなことをして、わたしを説得させられるとでも――っ、ふぁ……っ」

 口のなかに押し込まれた舌が、口蓋や唇のすぐ裏をじっくりと舐めまわす。エーヴリルの下腹部から今まで感じたことのない甘い痺れが立ち上り、全身がゾクゾクとした。力強く抱きしめられると、まるで自分が小さな生き物にでもなった気持ちになる。

 ――こんなこと、間違っているのに。

 次第に霞がかる頭のなか、エーヴリルは考えた。
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