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第一章
2.無職(2)
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李家というのはこの国にゴマンとある姓だ。だというのに、北都で李家といえば浩海の生家があげられる。梓禁城にほど近い四合院。皇族の住む『王府』と変わらぬ門構えを誇っていた。
彼は遅がけの朝ご飯を口に運びながら、怒髪天をつく形相の父親をみあげている。揚げパンをはさんだ総菜クレープから緑豆でつくった粥まで、卓子の上には一人分とは思えぬ料理がならんでいた。
「浩海! お前は毎晩毎晩あそびほうけて、少しは吏部郎中になった兄をみならえ。このごくつぶしめが!」
そうだとも。浩海《ハオハイ》は李家のごくつぶしだ。高級官僚の父と兄が稼いだ金銭を湯水のようにつかう。だが、それのなにが悪い。貯めこんだ金は消費しないと、世の中はまわっていかない。彼はいつものごとく済ました顔で笑みを浮かべていたが、その実瞳は笑っていなかった。
父はそんな彼に気が付いているのか。怒鳴るだけどなって一応のうっぷんをはらし、どさっと椅子に腰かける。
「お前はいつまで遊んでいるんだ? そろそろ真面目に将来のことを考えたらどうなんだ?」
「さぁ、どうにでもなるでしょう」
浩海が鼻白むと、父親の表情がかたまった。
「どうにでもなる? ……お前という息子は。だったら、なにで食べていくつもりだ?」
「この家の金で。父さんや兄さんの稼ぎがあるのですから、僕一人くらい養えるでしょう。なんだったら、執事の仕事でも覚えましょうか?」
「うちの執事の給料じゃ、色街の支払いはまかないきれんぞ!」
バンッと机を叩いた父親。控えている執事と目が合い、きまり悪そうに茉莉花茶をすする。以前より小さくなった肩が揺れていた。そういえば、父親は七十近いはずだ。
――どうでもいいんだけどな。
浩海はもやもやとした苛立ちを覚え、今度は包子にかぶりつく。小豆あんの上品な甘さは彼の大好物で、家人は次男坊の帰宅に合わせてこれを用意しなければならないとか。執事がこっそり教えてくれた。
――ただの昼行灯を大層なあつかいだ。
幼い頃に母親を亡くした次男坊に、砂糖菓子のような甘さで接する父親。仕官を辞退したときは、ひどくなじられたものの、それ以降は色街通いも放任されていた。こうして叱られることも久しぶりだ。
今朝は少し風向きが違うようだ。父親は浩海から視線をそらしたまま唸り声をあげた。
「今日呼んだのは、それだけじゃない。お前におりいって話があったからだ」
※※※※※
それから何日か経ったころ、市場で食材を求める彼女をみつけた。
貴族の令嬢というのに、人生を諦めたかのような簡素なかんざしをつけ、付き添いの一人も連れていない。しかしながら、真っすぐに伸びた背中は美しく、つい目で追ってしまう。
――名前の通り、五月のアヤメを見ているようだ。
「溪蓀さん」
雑踏のなか、華奢な肩が振り返った。気の強いまなじりが浩海には心地よい。そばに近付くと、頭一つ分の差があった。
「どなた?」
「僕は李浩海。君はこの辺りに住んでいるの?」
「李浩海? ああ、『李家の次男』。実るまえに落ちてしまったスモモのことね」
少女はさげすみに満ちた視線を向けた。浩海がフフッと笑う。
どうやらお互い有名人らしい。没落貴族の気位の高いお嬢様と、飛ぶ鳥落とす勢いの名家の出なのに遊んでばかりいるお坊ちゃま。
「たいした噂だねえ」
言葉とは裏腹に浩海に気にした素振りはない。向けられるの軽蔑の味すら酒の肴にちょうど良いというのが彼の感想だ。科挙に合格し、殿試で探花(三位)になった彼を人々はあがめたてた。『やはり左丞相の御子だ』と。ところがどうだ、彼が仕官を辞退し、妓楼を転々とする生活を送り始めるや否や、『やはり甘ったれの貴族のぼんぼんだ。仕官は端から無理だったんだ』と面白おかしく嘲笑した。それ以来、自分は生きたいように生きる、と浩海は決めている。
溪蓀は、不可解に柳眉をよせた。
「怒らないの?」
「だって、本当のことだもの。僕は一文も稼いでいないし、仕官を辞退したからもう二度と役人にはなれない」
「それにしても一度は進士までのぼったんでしょう? 頭が良くてお金も暇もあるのに、どうしてそれを活用しないのよ?」
「あれ? 僕のこと良く知っているね。それに心配してくれるんだ?」
いい気分で返した浩海に、彼女は冷たい視線をおくる。
「わたしが心配、どうして? 妓楼に昼近くまで居すわる、金持ちで怠惰な人間に」
彼は目をぱちくりさせた。妓楼で浩海は溪蓀を食い入るように見つめたが、一度として彼女と目が合うことはなかった。
「僕に気づいてた? いいね。僕、あのとき君に一目ぼれしたんだよ」
「働けるのに働かない男はゴミよ。二度と話し掛けないでちょうだい。わたしは家族を養うのに忙しいの」
美少女は今度こそ軽侮もあらわに睨みつけると、すたすたと雑踏のなかに紛れてしまう。やり取りを見ていた周囲の者たちが、いわんこっちゃないと浩海に呆れた視線を送った。
「嫌われちゃったかな? 僕は気にする性分じゃないけどね」
彼は遅がけの朝ご飯を口に運びながら、怒髪天をつく形相の父親をみあげている。揚げパンをはさんだ総菜クレープから緑豆でつくった粥まで、卓子の上には一人分とは思えぬ料理がならんでいた。
「浩海! お前は毎晩毎晩あそびほうけて、少しは吏部郎中になった兄をみならえ。このごくつぶしめが!」
そうだとも。浩海《ハオハイ》は李家のごくつぶしだ。高級官僚の父と兄が稼いだ金銭を湯水のようにつかう。だが、それのなにが悪い。貯めこんだ金は消費しないと、世の中はまわっていかない。彼はいつものごとく済ました顔で笑みを浮かべていたが、その実瞳は笑っていなかった。
父はそんな彼に気が付いているのか。怒鳴るだけどなって一応のうっぷんをはらし、どさっと椅子に腰かける。
「お前はいつまで遊んでいるんだ? そろそろ真面目に将来のことを考えたらどうなんだ?」
「さぁ、どうにでもなるでしょう」
浩海が鼻白むと、父親の表情がかたまった。
「どうにでもなる? ……お前という息子は。だったら、なにで食べていくつもりだ?」
「この家の金で。父さんや兄さんの稼ぎがあるのですから、僕一人くらい養えるでしょう。なんだったら、執事の仕事でも覚えましょうか?」
「うちの執事の給料じゃ、色街の支払いはまかないきれんぞ!」
バンッと机を叩いた父親。控えている執事と目が合い、きまり悪そうに茉莉花茶をすする。以前より小さくなった肩が揺れていた。そういえば、父親は七十近いはずだ。
――どうでもいいんだけどな。
浩海はもやもやとした苛立ちを覚え、今度は包子にかぶりつく。小豆あんの上品な甘さは彼の大好物で、家人は次男坊の帰宅に合わせてこれを用意しなければならないとか。執事がこっそり教えてくれた。
――ただの昼行灯を大層なあつかいだ。
幼い頃に母親を亡くした次男坊に、砂糖菓子のような甘さで接する父親。仕官を辞退したときは、ひどくなじられたものの、それ以降は色街通いも放任されていた。こうして叱られることも久しぶりだ。
今朝は少し風向きが違うようだ。父親は浩海から視線をそらしたまま唸り声をあげた。
「今日呼んだのは、それだけじゃない。お前におりいって話があったからだ」
※※※※※
それから何日か経ったころ、市場で食材を求める彼女をみつけた。
貴族の令嬢というのに、人生を諦めたかのような簡素なかんざしをつけ、付き添いの一人も連れていない。しかしながら、真っすぐに伸びた背中は美しく、つい目で追ってしまう。
――名前の通り、五月のアヤメを見ているようだ。
「溪蓀さん」
雑踏のなか、華奢な肩が振り返った。気の強いまなじりが浩海には心地よい。そばに近付くと、頭一つ分の差があった。
「どなた?」
「僕は李浩海。君はこの辺りに住んでいるの?」
「李浩海? ああ、『李家の次男』。実るまえに落ちてしまったスモモのことね」
少女はさげすみに満ちた視線を向けた。浩海がフフッと笑う。
どうやらお互い有名人らしい。没落貴族の気位の高いお嬢様と、飛ぶ鳥落とす勢いの名家の出なのに遊んでばかりいるお坊ちゃま。
「たいした噂だねえ」
言葉とは裏腹に浩海に気にした素振りはない。向けられるの軽蔑の味すら酒の肴にちょうど良いというのが彼の感想だ。科挙に合格し、殿試で探花(三位)になった彼を人々はあがめたてた。『やはり左丞相の御子だ』と。ところがどうだ、彼が仕官を辞退し、妓楼を転々とする生活を送り始めるや否や、『やはり甘ったれの貴族のぼんぼんだ。仕官は端から無理だったんだ』と面白おかしく嘲笑した。それ以来、自分は生きたいように生きる、と浩海は決めている。
溪蓀は、不可解に柳眉をよせた。
「怒らないの?」
「だって、本当のことだもの。僕は一文も稼いでいないし、仕官を辞退したからもう二度と役人にはなれない」
「それにしても一度は進士までのぼったんでしょう? 頭が良くてお金も暇もあるのに、どうしてそれを活用しないのよ?」
「あれ? 僕のこと良く知っているね。それに心配してくれるんだ?」
いい気分で返した浩海に、彼女は冷たい視線をおくる。
「わたしが心配、どうして? 妓楼に昼近くまで居すわる、金持ちで怠惰な人間に」
彼は目をぱちくりさせた。妓楼で浩海は溪蓀を食い入るように見つめたが、一度として彼女と目が合うことはなかった。
「僕に気づいてた? いいね。僕、あのとき君に一目ぼれしたんだよ」
「働けるのに働かない男はゴミよ。二度と話し掛けないでちょうだい。わたしは家族を養うのに忙しいの」
美少女は今度こそ軽侮もあらわに睨みつけると、すたすたと雑踏のなかに紛れてしまう。やり取りを見ていた周囲の者たちが、いわんこっちゃないと浩海に呆れた視線を送った。
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