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第二章
29.嫉妬心(2)
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とたん、千花《チエンファ》の顔はボンッと紅くなり、小さな両手が一生懸命それを隠す。
「溪蓀様、その質問は恥ずかしいです」
はっとなった溪蓀も、同じようにあたふたした。
「ご、誤解があったら謝るわ! 私が聞きたいのは、その……行為じゃなくて、本当に気持ちの方なの」
「気持ちの方、そうですよね。てっきり……。わたしときたら、早とちりして。溪蓀様がそんなこと問われるなんて」
いつまでも顔の赤みが取れず、オタオタと視線をあちこちにやる千花と溪蓀。馬女官が微笑ましい側室たちの姿に口許をゆるませているとは、気が付かない二人であった。
ようやく落ち着いた千花《チエンファ》が、ゆっくりと語り始める。
「……ある日、突然大きな波に呑まれるんです。最初は自分に何が起こっているか分からず、ただ翻弄されます。やがて、波が収まると目の前に大きなお月様が浮かんでいて、それが温かくて優しくていつまでも見ていたい気になります。月光に包まれると、自分がまるで特別な人間になったように感じ、その一方で、幸せ過ぎてこれは夢なのではないか、と不安になります」
――千花が、不安に思う必要はないと思うけれど。
彼女の精神性や美貌はこれからも磨かれ続けるであろう。まさしく、原石が宝石になるように。
「嵐のあとにお月様に出会うのは、私にも理解できるような気がするわ」
在りし日を懐かしむように目を細める溪蓀に、千花は何かを思いあたったようだった。
「溪蓀様は、恋をしているのですか?」
すると、彼女は澄み切った空を見上げ、寂しく笑った。
「そうよ。ずっと前から」
千花の顔がにわかに曇り、それを見た溪蓀は苦笑する。
「陛下にではないから、安心して。入内する前の話よ」
明らかにホッとした千花は、新たな友人の秘められた恋心に興味を抱いた。
「その方は今、何をしていらっしゃるんですか?」
「さあ? 彼、無職の遊び人だったから、どこで何をしてるか分からないわね。噂も聞かないし」
「無職の遊び人ですか? 溪蓀様のお相手なら、堅い職業のしっかりした方と思っていました。学者様とか、お役人様とか。ちょっと意外です」
「そうよね。自分でもびっくりしちゃう。好きになる人も、自分の気持ちも思い通りにいかないのが恋なのかもしれないわ。自分でもおかしいの。最後に顔を見てから四年よ。なのに、ずっと気持ちが冷めないの」
置かれている環境のせいかもしれない。後宮は煌びやかな場所から一歩抜ければ、その実態は尼僧院に似ている。世俗から隔離され、狭い世界の中でひっそりとした暮らしを営む。
浩海を忘れて他の男性に眼を向けようにも、男性は賢宝一人っきり。千花と賢宝を応援する身として、二人の間に波風を立てようとはもはや思えないのだ。
二人で向かい合って夕食を楽しみ、互いに湯浴みを済ませる。溪蓀は自分の寝台に千花を誘った。もともと、皇帝をお招きしても良いような広い寝台だ。褙子を脱いで、布団のなかに滑り込む。千花も最初は遠慮気味だったが、溪蓀に引っ張り込まれて観念した様子だ。
「溪蓀様とお友達になった日に同じ布団で寝るなんて、わたし幸せ者です」
皇帝の寵姫なのに、そんなことで幸せを感じるなんて、千花の欲のなさがもはや愛おしい。
「わたしたちこれで、家族も同然ね。誰かと一緒に寝るのは何年ぶりかしら? 昔はよく藍珠や青行と足をからめて身体を暖めあったものよ。千花は、ほかにご兄弟は?」
すると、彼女は何故か、寂しく笑った。
「……わたしには兄一人です。十歳も離れているから、さすがに一緒に寝たことはなかったです。物心ついた頃には、兄は科挙の勉強のために家を出てしまっていました。だけど、故郷に帰ってきたときは、木登りを教えてくれたり、一緒に木の実をとったりして本当に楽しかったです。覚えておいて損はないと、文字も教えてくれました。わたしは体が小さいから、近所の男の子たちによく苛められていたのだけど、兄が帰ってくるたびに懲らしめてくれて、最後には男の子たちは誰もいじめてこなくなりました」
とつとつと語られる思い出話。あの手紙の文面からはキザっぽい雰囲気しか読み取れなかったが、勇景海は妹想いの、良い兄のようだ。
「兄がいると、父も母もそれは楽しそうで、家のなかが毎日お祝いのようでした」
「良いお兄様ね。科挙にも受かって親孝行だわ。うちの青行は勉強より悪戯が好きみたいで、郷試まで上がれるのやら、分からないわ」
千花は話しているうちに眠たくなってきたのか、意識して使っていた都言葉も、一足早く眠りに着く。
「ちかっぱ……自慢ん兄やった。うちん事ば可愛のっちくれて」
自慢の兄やった? どうして、過去形なのだろう。勇景海は戸部省のエリート官僚だ。自慢の兄が、ある日突然人が変わったとでもいうのだろうか? それを問いただそうとして、隣を向けば千花の目からポロポロと涙が零れ落ちていた。しばし、言葉を失うものの、人が望郷にかられるのは当たり前のことだわ、と溪蓀は考える。
「故郷に帰りたくなった?」
「……うんにゃ。賢宝様んお側にいたい」
その一言に千花の気持ちが込められている。
溪蓀がもう一度彼女を見ると、すでにまぶたを完全に落ち、規則正しい寝息をたてていた。あどけない寝顔。浙江から出て来て、少し前まで宮女をしていた。自分が後宮に身を置く理由があるならば、それはきっと千花を守ることだろう。
溪蓀は細い肩口まで布団を被せてやり、自身も目を閉じる。
「おやすみ、千花。よい夢を」
「溪蓀様、その質問は恥ずかしいです」
はっとなった溪蓀も、同じようにあたふたした。
「ご、誤解があったら謝るわ! 私が聞きたいのは、その……行為じゃなくて、本当に気持ちの方なの」
「気持ちの方、そうですよね。てっきり……。わたしときたら、早とちりして。溪蓀様がそんなこと問われるなんて」
いつまでも顔の赤みが取れず、オタオタと視線をあちこちにやる千花と溪蓀。馬女官が微笑ましい側室たちの姿に口許をゆるませているとは、気が付かない二人であった。
ようやく落ち着いた千花《チエンファ》が、ゆっくりと語り始める。
「……ある日、突然大きな波に呑まれるんです。最初は自分に何が起こっているか分からず、ただ翻弄されます。やがて、波が収まると目の前に大きなお月様が浮かんでいて、それが温かくて優しくていつまでも見ていたい気になります。月光に包まれると、自分がまるで特別な人間になったように感じ、その一方で、幸せ過ぎてこれは夢なのではないか、と不安になります」
――千花が、不安に思う必要はないと思うけれど。
彼女の精神性や美貌はこれからも磨かれ続けるであろう。まさしく、原石が宝石になるように。
「嵐のあとにお月様に出会うのは、私にも理解できるような気がするわ」
在りし日を懐かしむように目を細める溪蓀に、千花は何かを思いあたったようだった。
「溪蓀様は、恋をしているのですか?」
すると、彼女は澄み切った空を見上げ、寂しく笑った。
「そうよ。ずっと前から」
千花の顔がにわかに曇り、それを見た溪蓀は苦笑する。
「陛下にではないから、安心して。入内する前の話よ」
明らかにホッとした千花は、新たな友人の秘められた恋心に興味を抱いた。
「その方は今、何をしていらっしゃるんですか?」
「さあ? 彼、無職の遊び人だったから、どこで何をしてるか分からないわね。噂も聞かないし」
「無職の遊び人ですか? 溪蓀様のお相手なら、堅い職業のしっかりした方と思っていました。学者様とか、お役人様とか。ちょっと意外です」
「そうよね。自分でもびっくりしちゃう。好きになる人も、自分の気持ちも思い通りにいかないのが恋なのかもしれないわ。自分でもおかしいの。最後に顔を見てから四年よ。なのに、ずっと気持ちが冷めないの」
置かれている環境のせいかもしれない。後宮は煌びやかな場所から一歩抜ければ、その実態は尼僧院に似ている。世俗から隔離され、狭い世界の中でひっそりとした暮らしを営む。
浩海を忘れて他の男性に眼を向けようにも、男性は賢宝一人っきり。千花と賢宝を応援する身として、二人の間に波風を立てようとはもはや思えないのだ。
二人で向かい合って夕食を楽しみ、互いに湯浴みを済ませる。溪蓀は自分の寝台に千花を誘った。もともと、皇帝をお招きしても良いような広い寝台だ。褙子を脱いで、布団のなかに滑り込む。千花も最初は遠慮気味だったが、溪蓀に引っ張り込まれて観念した様子だ。
「溪蓀様とお友達になった日に同じ布団で寝るなんて、わたし幸せ者です」
皇帝の寵姫なのに、そんなことで幸せを感じるなんて、千花の欲のなさがもはや愛おしい。
「わたしたちこれで、家族も同然ね。誰かと一緒に寝るのは何年ぶりかしら? 昔はよく藍珠や青行と足をからめて身体を暖めあったものよ。千花は、ほかにご兄弟は?」
すると、彼女は何故か、寂しく笑った。
「……わたしには兄一人です。十歳も離れているから、さすがに一緒に寝たことはなかったです。物心ついた頃には、兄は科挙の勉強のために家を出てしまっていました。だけど、故郷に帰ってきたときは、木登りを教えてくれたり、一緒に木の実をとったりして本当に楽しかったです。覚えておいて損はないと、文字も教えてくれました。わたしは体が小さいから、近所の男の子たちによく苛められていたのだけど、兄が帰ってくるたびに懲らしめてくれて、最後には男の子たちは誰もいじめてこなくなりました」
とつとつと語られる思い出話。あの手紙の文面からはキザっぽい雰囲気しか読み取れなかったが、勇景海は妹想いの、良い兄のようだ。
「兄がいると、父も母もそれは楽しそうで、家のなかが毎日お祝いのようでした」
「良いお兄様ね。科挙にも受かって親孝行だわ。うちの青行は勉強より悪戯が好きみたいで、郷試まで上がれるのやら、分からないわ」
千花は話しているうちに眠たくなってきたのか、意識して使っていた都言葉も、一足早く眠りに着く。
「ちかっぱ……自慢ん兄やった。うちん事ば可愛のっちくれて」
自慢の兄やった? どうして、過去形なのだろう。勇景海は戸部省のエリート官僚だ。自慢の兄が、ある日突然人が変わったとでもいうのだろうか? それを問いただそうとして、隣を向けば千花の目からポロポロと涙が零れ落ちていた。しばし、言葉を失うものの、人が望郷にかられるのは当たり前のことだわ、と溪蓀は考える。
「故郷に帰りたくなった?」
「……うんにゃ。賢宝様んお側にいたい」
その一言に千花の気持ちが込められている。
溪蓀がもう一度彼女を見ると、すでにまぶたを完全に落ち、規則正しい寝息をたてていた。あどけない寝顔。浙江から出て来て、少し前まで宮女をしていた。自分が後宮に身を置く理由があるならば、それはきっと千花を守ることだろう。
溪蓀は細い肩口まで布団を被せてやり、自身も目を閉じる。
「おやすみ、千花。よい夢を」
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