あやめ祭り~再び逢うことが叶うなら~

柿崎まつる

文字の大きさ
29 / 86
第二章

29.嫉妬心(2)

しおりを挟む
 とたん、千花《チエンファ》の顔はボンッと紅くなり、小さな両手が一生懸命それを隠す。

溪蓀シースン様、その質問は恥ずかしいです」

 はっとなった溪蓀シースンも、同じようにあたふたした。

「ご、誤解があったら謝るわ! 私が聞きたいのは、その……行為じゃなくて、本当に気持ちの方なの」
「気持ちの方、そうですよね。てっきり……。わたしときたら、早とちりして。溪蓀シースン様がそんなこと問われるなんて」

 いつまでも顔の赤みが取れず、オタオタと視線をあちこちにやる千花チエンファ溪蓀シースン女官が微笑ましい側室たちの姿に口許をゆるませているとは、気が付かない二人であった。
 ようやく落ち着いた千花《チエンファ》が、ゆっくりと語り始める。

「……ある日、突然大きな波に呑まれるんです。最初は自分に何が起こっているか分からず、ただ翻弄されます。やがて、波が収まると目の前に大きなお月様が浮かんでいて、それが温かくて優しくていつまでも見ていたい気になります。月光に包まれると、自分がまるで特別な人間になったように感じ、その一方で、幸せ過ぎてこれは夢なのではないか、と不安になります」

――千花チエンファが、不安に思う必要はないと思うけれど。

 彼女の精神性や美貌はこれからも磨かれ続けるであろう。まさしく、原石が宝石になるように。

「嵐のあとにお月様に出会うのは、私にも理解できるような気がするわ」

 在りし日を懐かしむように目を細める溪蓀シースンに、千花チエンファは何かを思いあたったようだった。

溪蓀シースン様は、恋をしているのですか?」

 すると、彼女は澄み切った空を見上げ、寂しく笑った。

「そうよ。ずっと前から」

 千花チエンファの顔がにわかに曇り、それを見た溪蓀シースンは苦笑する。

「陛下にではないから、安心して。入内する前の話よ」

 明らかにホッとした千花チエンファは、新たな友人の秘められた恋心に興味を抱いた。

「その方は今、何をしていらっしゃるんですか?」
「さあ? 彼、無職の遊び人だったから、どこで何をしてるか分からないわね。噂も聞かないし」
「無職の遊び人ですか? 溪蓀シースン様のお相手なら、堅い職業のしっかりした方と思っていました。学者様とか、お役人様とか。ちょっと意外です」
「そうよね。自分でもびっくりしちゃう。好きになる人も、自分の気持ちも思い通りにいかないのが恋なのかもしれないわ。自分でもおかしいの。最後に顔を見てから四年よ。なのに、ずっと気持ちが冷めないの」

 置かれている環境のせいかもしれない。後宮は煌びやかな場所から一歩抜ければ、その実態は尼僧院に似ている。世俗から隔離され、狭い世界の中でひっそりとした暮らしを営む。
 浩海ハオハイを忘れて他の男性に眼を向けようにも、男性は賢宝シアンバオ一人っきり。千花チエンファ賢宝シアンバオを応援する身として、二人の間に波風を立てようとはもはや思えないのだ。

 二人で向かい合って夕食を楽しみ、互いに湯浴みを済ませる。溪蓀シースンは自分の寝台に千花チエンファを誘った。もともと、皇帝をお招きしても良いような広い寝台だ。褙子うわぎを脱いで、布団のなかに滑り込む。千花チエンファも最初は遠慮気味だったが、溪蓀シースンに引っ張り込まれて観念した様子だ。

溪蓀シースン様とお友達になった日に同じ布団で寝るなんて、わたし幸せ者です」

 皇帝の寵姫なのに、そんなことで幸せを感じるなんて、千花チエンファの欲のなさがもはや愛おしい。

「わたしたちこれで、家族も同然ね。誰かと一緒に寝るのは何年ぶりかしら? 昔はよく藍珠ランジュ青行チンシンと足をからめて身体を暖めあったものよ。千花チエンファは、ほかにご兄弟は?」

 すると、彼女は何故か、寂しく笑った。

「……わたしには兄一人です。十歳も離れているから、さすがに一緒に寝たことはなかったです。物心ついた頃には、兄は科挙の勉強のために家を出てしまっていました。だけど、故郷に帰ってきたときは、木登りを教えてくれたり、一緒に木の実をとったりして本当に楽しかったです。覚えておいて損はないと、文字も教えてくれました。わたしは体が小さいから、近所の男の子たちによく苛められていたのだけど、兄が帰ってくるたびに懲らしめてくれて、最後には男の子たちは誰もいじめてこなくなりました」

 とつとつと語られる思い出話。あの手紙の文面からはキザっぽい雰囲気しか読み取れなかったが、勇景海ヨンジンハイは妹想いの、良い兄のようだ。

「兄がいると、父も母もそれは楽しそうで、家のなかが毎日お祝いのようでした」 
「良いお兄様ね。科挙にも受かって親孝行だわ。うちの青行チンシンは勉強より悪戯が好きみたいで、郷試まで上がれるのやら、分からないわ」

 千花チエンファは話しているうちに眠たくなってきたのか、意識して使っていた都言葉も、一足早く眠りに着く。

「ちかっぱ……自慢ん兄やった。うちん事ば可愛のっちくれて」
 
 自慢の兄やった? どうして、過去形なのだろう。勇景海ヨンジンハイは戸部省のエリート官僚だ。自慢の兄が、ある日突然人が変わったとでもいうのだろうか? それを問いただそうとして、隣を向けば千花チエンファの目からポロポロと涙が零れ落ちていた。しばし、言葉を失うものの、人が望郷にかられるのは当たり前のことだわ、と溪蓀シースンは考える。

「故郷に帰りたくなった?」
「……うんにゃ。賢宝シアンパオ様んお側にいたい」

 その一言に千花チエンファの気持ちが込められている。
 溪蓀シースンがもう一度彼女を見ると、すでにまぶたを完全に落ち、規則正しい寝息をたてていた。あどけない寝顔。浙江から出て来て、少し前まで宮女をしていた。自分が後宮に身を置く理由があるならば、それはきっと千花チエンファを守ることだろう。
 溪蓀シースンは細い肩口まで布団を被せてやり、自身も目を閉じる。
 
「おやすみ、千花チエンファ。よい夢を」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です

朝陽七彩
恋愛
 私は。 「夕鶴、こっちにおいで」  現役の高校生だけど。 「ずっと夕鶴とこうしていたい」  担任の先生と。 「夕鶴を誰にも渡したくない」  付き合っています。  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  神城夕鶴(かみしろ ゆづる)  軽音楽部の絶対的エース  飛鷹隼理(ひだか しゅんり)  アイドル的存在の超イケメン先生  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  彼の名前は飛鷹隼理くん。  隼理くんは。 「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」  そう言って……。 「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」  そして隼理くんは……。  ……‼  しゅっ……隼理くん……っ。  そんなことをされたら……。  隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。  ……だけど……。  え……。  誰……?  誰なの……?  その人はいったい誰なの、隼理くん。  ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。  その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。  でも。  でも訊けない。  隼理くんに直接訊くことなんて。  私にはできない。  私は。  私は、これから先、一体どうすればいいの……?

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

屋上の合鍵

守 秀斗
恋愛
夫と家庭内離婚状態の進藤理央。二十五才。ある日、満たされない肉体を職場のビルの地下倉庫で慰めていると、それを同僚の鈴木哲也に見られてしまうのだが……。

【完結・おまけ追加】期間限定の妻は夫にとろっとろに蕩けさせられて大変困惑しております

紬あおい
恋愛
病弱な妹リリスの代わりに嫁いだミルゼは、夫のラディアスと期間限定の夫婦となる。 二年後にはリリスと交代しなければならない。 そんなミルゼを閨で蕩かすラディアス。 普段も優しい良き夫に困惑を隠せないミルゼだった…

処理中です...