あやめ祭り~再び逢うことが叶うなら~

柿崎まつる

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第三章

57. 足袋

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 宝物のように抱かれて、無意識に相手の肩口に頬をすりよせる。眠りに落ちる直前のような心地よさに身を任せていたが、しばらくして馴染みのある声が耳元で響いた。

ホワン恵嬪様」 
「ディ……ディン内侍?」
「はい。落ち着かれましたか?」
 
 護衛官が苦笑する気配に、血の気が引いた。浩海ハオハイと勘違いして、助けに来てくれたディン内侍に『バカ』だの『遅い』だの言ってしまった。その上。溪蓀《シースン》は、慌てて身を起こす。

「すみません、わたし……っ!」
「問われて返事をしなかったのも、抱きつかれても離さなかったのは拙です。お相子ということで、お気になさらないでください」
「……そ、うですか」

 暗闇で相手の顔が見えないのが良いのか、悪いのか。抱擁が解かれて牢獄の寒さが気になるはずなのに、羞恥心で顔がほてってしかたない。とりもとりあえず、脱がされた足袋を履こうと石床を探るが、なかなか目当てのものは見つからなかった。

「上で女官が、たいそう心配しております。失礼ながら、拙が履かせても宜しいですか?」

 宦官とはいえ、元は男性。足を見せることにためらいはあるが、背に腹は代えられない。

「……お願いできましたら。ディン内侍は、こんなに暗くても視界がきくのですか?」
「陛下を護衛するのに明るい場所とは限りません。と言いたいところですが、拙も物の形がうっすらわかる程度ですよ」

 そう言いながら、丁寧に足袋と靴を履かせていく。溪蓀シースンはその答えに安堵する一方、くるぶしにあたるディン内侍の指先をひんやりと感じた。

「この二人はしばらく目覚めないでしょう。ヤオ家の権力をかさに着て、内侍少監まで上りましたが、それに見合う能力があるわけでもなし。当主が失脚し、地位から引きずり降ろされるのは時間の問題でした。拙の不手際で、ホワン恵嬪様を不快な目に遭わせてしまって申し訳ありません」

 ヤオ内侍少監に足を舐められたショックよりも、ディン内侍に自ら抱き着いた羞恥心のほうが、よっぽど溪蓀シースンの神経を追い詰めている。護衛官は彼女の乱れたかんざしを外すと、手櫛で髪を整え始めた。

ディン内侍の不手際などとは、思ってはおりません。助けて下さって感謝しております。ただ、ヤオ内侍少監に強く妬まれておいででしたね。心中お察しします」
ヤオ家はもともと武門で政界では新参です。拙の実家は一応古い文門ですから、そのあたりもあったのでしょう。浄身した身で、家名にこだわるなど愚の骨頂です。挙句に、拙へのうっぷんを晴らすために、ホワン恵嬪様を狙ったのは許しがたい」
「わたし? わたしに狼藉を働くことで、どうしてディン内侍への仕返しになるのですか?」

 溪蓀シースンが首をかしげると、無言でかんざしの束を握らされる。

ディン内侍?」
「失礼いたします」
「あっ」

 背中と両膝をすくわれたと思うや、身体が浮遊する。足元がおぼつかないとはいえ、自分は千花チェンファほど小柄ではない。それなりに体重はあるのだ。溪蓀シースンは、羞恥心を紛らわそうと口を開く。

「わたしを告発する匿名の文書が、届いていたそうですね」

 石床に響く足音は止み、ディン内侍のため息が彼女のひたいにかかった。

「匿名ですが、誰の仕業かはわかっています」
「やはり、ヤオ家の陰謀なのですか?」
「いいえ。しかし、あなたをゆだねるにたる男か、拙にはとうてい思えなかった。それゆえ、なかなか行動に移すことができませんでした」
「行動に移す? 何をですか?」

 視界の利かぬ状況で、必死にディン内侍の表情を読もうとしたができなかった。護衛官は、ふふっと寂しそうに息を吐いた。

「さきほど確信しました。あなたのお心は少しも動いていない。拙の見極めなど必要なかったのですね」
「……何の話をされているのですか?」
ホワン恵嬪様も、すぐに分かりますよ」

 階段の途中から日が差してくる。地上へ上がれば、そこは疑わしい人間に罪を自白させるための広場。溪蓀シースンは何気なく置かれた木の椅子に黒い染みを見つけて、ゾクッとする。地面に降ろされると膝が笑って、姿勢を正すのにいつもより労力を使った。

轎子かごを準備させました。御沙汰が出るまで、ホワン恵嬪様は英明インミン宮をお出になりませぬよう、陛下からのご命令でございます」
「わかりました。ディン内侍にもご足労をおかけします」

 もとはといえば、溪蓀シースンが男物の深衣を隠し持っていたことが原因だ。自分は姦淫の罪に問われて、牢屋に連れ戻されるかもしれない。
 箱型の轎子きょうしの横には四人の担ぎ手と女官が控えていた。溪蓀シースンの頭髪を見て卒倒しそうな女官に詫びながら轎子きょうしに乗ると、ゆっくりと視界が高くなった。
 
――わたしはこれからどうなるの?

 金赤の壁はいつもより低く感じたが、依然として外廷はうかがえない。果てのない蒼天が広がるだけ。溪蓀《シースン》は寄る辺なく、先行きの見えない状況を心細く感じていた。
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