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第三章
58.黄砂(1)
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北都の春は短い。
季節風に乗って砂漠から巻きあげられた砂が黄霧となり、人々の目や鼻を刺激する。朝議が行われる太和門といえど、例外ではなかった。これでは仕事にならぬと、いつもは解放される四方の門を締めきって、文武百官がすし詰めの状態で並んでいる。
朝議の主な議題は、一週間後に控えた端午節についてであった。屈原の弔いから始まったその祭は、この後に流行る疫病を追い払うための需要な儀式だった。
後継者を得、親政を執るようになった皇帝をたたえようと、祭りには例年以上の賑やかさを期待されている。文官武官共に、その準備に滞りはなかった。
ところが朝議の最後に、その賢宝から不穏な言葉が発せられた。
「姚内侍少監が、余の側室に狼藉をはたらいた」
「陛下。狼藉といいますと?」
新任の葉左丞相が、眉根を寄せる。賢宝は荘厳な木造建築に張りのある声を響かせた。
「冤罪をかかげ牢に連れ込み、手下と共に嬪を押さえつけた」
「なんと!」
「片側の足袋を脱がせた挙句に、足裏の匂いを嗅いで、そこを舐めた」
太和門は、一時騒然となった。白豚宦官が少女に狼藉を働くところを想像した者もあれば、行為の相手を選べと正直に呆れる者もある。実力に伴わない人事と事前に酷評が湧いたため、姚内侍少監の処遇には皆冷ややかだ。
「笞刑ののち、罷免する。内侍監、姚財寿。あとは善処せよ」
「かしこまりました」
「陛下のご恩情に、感謝いたします」
宦官の長である内侍監に続き、官僚の端にいた三十代半ばの武官がかしこまる。引退を余儀なくされた姚家の前当主の庶子に当たり、今の未成年の当主の補佐役についている。その体躯は青い官服の上から分かるほど鍛えられ、精悍な面持ちは粗削りだが人の良さをうかがわせる。もとは都督府に属し地方で勤務していたが戦功を立て、今は兵部省の役職に就いていた。
「嬪は、よほどショックだったとみえる。それ以来一歩も宮の外に出ず、不憫にも泣き暮らしているようだ。食も細くなり、このままでは冷宮送りは必至だが、皇后がそれをひどく憐れんでいる」
冷宮とは後宮の片隅にある、寵を失った妃嬪の宮のことだ。今は前皇帝の妃嬪が数人、身を寄せ合って暮らしている。天子の寵を頂いた以上は実家に戻ることも出来ないのだ。十七歳の賢宝の妻たちはいずれも若く、そこには充分同情の余地があった。
官を代表して、葉左丞相が声を上げる。
「陛下。その側室様の名を伺っても宜しいですか?」
「黄恵嬪だ」
その瞬間、普段より狭い朝議の場に、言葉にならない微妙な空気がただよった。黄恵嬪は美貌と刺繍の腕以上に、妹分であった皇后のために自ら毒をあおる烈女で名が通っていた。宦官に足を舐められたぐらいで、絶望するタマだろうか。
にもかかわらず、青年皇帝は玉座の上で足を組みかえ、憂慮をしめした。
「皇后からの提案だが、余の嬪をそなたたちの誰かに託してはどうかと考えている」
「起居注によりますと、黄恵嬪様は五年前の入内以来、一度も陛下のお渡りを受けたことがありません。一度も寵をいただいていないのなら立場は女官と変わらず、市井に下っても問題ないと、内侍省では判断いたしました」
「不思議なことに、夫婦の縁を結ぶ機会がなかった。多分、前の世では恵嬪と余は姉弟の仲なのであろう」
内侍監と皇帝の言葉に、官僚たちは互いに顔を見合わせる。葉左丞相も、周囲の高官たちと会話を交わしていた。
「そなたたちの意見を聞きたい。李尚書、答えよ」
緋色の生地に錦鶏の補子の官服を着た男が、頭を上げる。文官の割にはガッチリとした体躯で、冷厳な眼差しは老練な政治家であった父親によく似ていた。立っているだけで、気の弱い人間を委縮させるには充分なのだ。
「陛下のしたいようになされるのがよろしいかと」
厳格な声音は、鋼鉄のような印象を裏切らないものだった。
姚家とは違い、李家は伝統的に、近しい娘を妃嬪に推挙することもなければ、後ろ盾に就くこともない。後宮を味方につけるメリットを感じないのだ。
望む言葉を得、青年皇帝は口許で弧を描いた。
「葉左丞相はどうか」
「陛下のみ心のままに。百官の意見もわたしと同じでしょう」
「そうか。問題は誰に託すかだが」
妃嬪であった娘を愛妾に置くわけにはいかない。二十歳を過ぎた烈女を正妻として迎える男がこの場にいるか、大半の者は確信を得ていなかった。
季節風に乗って砂漠から巻きあげられた砂が黄霧となり、人々の目や鼻を刺激する。朝議が行われる太和門といえど、例外ではなかった。これでは仕事にならぬと、いつもは解放される四方の門を締めきって、文武百官がすし詰めの状態で並んでいる。
朝議の主な議題は、一週間後に控えた端午節についてであった。屈原の弔いから始まったその祭は、この後に流行る疫病を追い払うための需要な儀式だった。
後継者を得、親政を執るようになった皇帝をたたえようと、祭りには例年以上の賑やかさを期待されている。文官武官共に、その準備に滞りはなかった。
ところが朝議の最後に、その賢宝から不穏な言葉が発せられた。
「姚内侍少監が、余の側室に狼藉をはたらいた」
「陛下。狼藉といいますと?」
新任の葉左丞相が、眉根を寄せる。賢宝は荘厳な木造建築に張りのある声を響かせた。
「冤罪をかかげ牢に連れ込み、手下と共に嬪を押さえつけた」
「なんと!」
「片側の足袋を脱がせた挙句に、足裏の匂いを嗅いで、そこを舐めた」
太和門は、一時騒然となった。白豚宦官が少女に狼藉を働くところを想像した者もあれば、行為の相手を選べと正直に呆れる者もある。実力に伴わない人事と事前に酷評が湧いたため、姚内侍少監の処遇には皆冷ややかだ。
「笞刑ののち、罷免する。内侍監、姚財寿。あとは善処せよ」
「かしこまりました」
「陛下のご恩情に、感謝いたします」
宦官の長である内侍監に続き、官僚の端にいた三十代半ばの武官がかしこまる。引退を余儀なくされた姚家の前当主の庶子に当たり、今の未成年の当主の補佐役についている。その体躯は青い官服の上から分かるほど鍛えられ、精悍な面持ちは粗削りだが人の良さをうかがわせる。もとは都督府に属し地方で勤務していたが戦功を立て、今は兵部省の役職に就いていた。
「嬪は、よほどショックだったとみえる。それ以来一歩も宮の外に出ず、不憫にも泣き暮らしているようだ。食も細くなり、このままでは冷宮送りは必至だが、皇后がそれをひどく憐れんでいる」
冷宮とは後宮の片隅にある、寵を失った妃嬪の宮のことだ。今は前皇帝の妃嬪が数人、身を寄せ合って暮らしている。天子の寵を頂いた以上は実家に戻ることも出来ないのだ。十七歳の賢宝の妻たちはいずれも若く、そこには充分同情の余地があった。
官を代表して、葉左丞相が声を上げる。
「陛下。その側室様の名を伺っても宜しいですか?」
「黄恵嬪だ」
その瞬間、普段より狭い朝議の場に、言葉にならない微妙な空気がただよった。黄恵嬪は美貌と刺繍の腕以上に、妹分であった皇后のために自ら毒をあおる烈女で名が通っていた。宦官に足を舐められたぐらいで、絶望するタマだろうか。
にもかかわらず、青年皇帝は玉座の上で足を組みかえ、憂慮をしめした。
「皇后からの提案だが、余の嬪をそなたたちの誰かに託してはどうかと考えている」
「起居注によりますと、黄恵嬪様は五年前の入内以来、一度も陛下のお渡りを受けたことがありません。一度も寵をいただいていないのなら立場は女官と変わらず、市井に下っても問題ないと、内侍省では判断いたしました」
「不思議なことに、夫婦の縁を結ぶ機会がなかった。多分、前の世では恵嬪と余は姉弟の仲なのであろう」
内侍監と皇帝の言葉に、官僚たちは互いに顔を見合わせる。葉左丞相も、周囲の高官たちと会話を交わしていた。
「そなたたちの意見を聞きたい。李尚書、答えよ」
緋色の生地に錦鶏の補子の官服を着た男が、頭を上げる。文官の割にはガッチリとした体躯で、冷厳な眼差しは老練な政治家であった父親によく似ていた。立っているだけで、気の弱い人間を委縮させるには充分なのだ。
「陛下のしたいようになされるのがよろしいかと」
厳格な声音は、鋼鉄のような印象を裏切らないものだった。
姚家とは違い、李家は伝統的に、近しい娘を妃嬪に推挙することもなければ、後ろ盾に就くこともない。後宮を味方につけるメリットを感じないのだ。
望む言葉を得、青年皇帝は口許で弧を描いた。
「葉左丞相はどうか」
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