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第三十八話 「考えてみます」
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何針も縫う大怪我だったが、運よくピエティラ侯爵家から高名な医師が派遣されていたおかげでラウリは助かった。彼の入院に伴い、アンニーナもずっとこの小さな病院にいる。ラウリに怪我をさせたリーアの夫はもう捕まったからアンニーナの身に危険はないのだが、家に帰っても一人っきりだしすることもない。病院の調理場や洗濯場が人手不足と聞いたので、朝は洗濯場に入り、昼夜食事の二時間ぐらい前になると厨房へ手伝いに行くのがいつのまにか習慣になっていた。
「アンニーナさんが手伝ってくれると、作業が早く済むわ」
「お役に立ててうれしいです」
「旦那さんが退院するまでといわず、ずっといてくれるとわたしも助かるんだけど」
小さな病院と言っても、職員も入れて常時三十人はいる。食堂や洗濯場を預かる女性たちにそう誘われ嬉しかったものの、ラウリが無事に退院するまでは何も返事が出来ない。
事件があった時間アンニーナは家にいて、市場の人が慌てて知らせに来てくれた。彼女が到着したとき廃屋の消火活動に騒然としており、ラウリもこの小さな病院に運び込まれた後だった。一面白い煙と灰でよく見えず、地面に飛び散った真っ赤な血を発見したとき、アンニーナは気が動転してしゃがみこんでしまった。丁度指揮を執っていたエサイアスが気づいて、スティーナに診療所まで案内してもらってなんとかなったようなものだ。
生きた心地がしなかった。ラウリは王都の警ら隊に属していても怪我して帰ってくることはなかったから、こんな田舎で大怪我を負うとは想像もしていなかったのだ。彼は手術後に何度か目を覚ましたものの、うつらうつら視線を彷徨わせるだけですぐに眠ってしまう。ありがたいことに一人部屋をあてがわれたので、時折医者や看護師が出入りするとき以外、ずっとこの静かな部屋に二人でいる。
彼女が聞いている話はこうだ。王都から買い付けにやってきた商人が実は薬物中毒者で、宿屋の松明と肉屋の肉切り包丁を盗み、子ども二人が迷い込んだ廃屋に松明を投げた。居合わせたラウリが商人を倒して子どもたちを救出し、おかげで今や彼はちょっとした英雄扱いをされている。だが、アンニーナは知っているのだ。何故なら、通りの騒ぎを見に来たリーアが連行される商人を見つけて、泣き叫んでいたから。
――肉切包丁を振り回したのが不倫相手の夫だと知れ渡っても、それでもこの人は丁重に扱われるのかしら?
夫は人妻のリーアに手を出し、その夫から報復に殺されかけたのだ。ラウリに助けられた(巻き込まれた?)子どもの両親がお礼を言いに来たものの、アンニーナは本当のことを話すわけにもいかない。何度も頭を下げる二人に、「こちらこそ、お子さんに怖い思いをさせてごめんなさい」と謝ってしまいたかった。
眠っているラウリは、至って静かだ。目を覚まさないが、縫った痕が痛いのか時折顔をしかめている。リーアの夫が振り上げた肉切り包丁はラウリの胸を直撃したが、胸のポケットに女物の髪飾りを入れていたおかげで刃が深く刺さり込むのを防いだそうだ。
――誰に贈るつもりだったのかしら? ……リーアさん?
粉々になったガラス細工のバレッタは華やかな彼女が身につけるには大人し目に見えたけれど、だからといってアンニーナのために買ったと思い込むほど自分もおめでたくない。ただ、キラキラしたガラスは粉々になっても綺麗だったから、捨てるにはもったいなく感じただけだ。
アンニーナは塞いだ気持ちを振り払い、すくっと立ち上がった。
「よし、今日こそやるわ!」
ギュッと胸の前で両手を握り込む。
アンニーナは毎朝ラウリの身体を清める。大人の男性の世話は初めてだけれど、何度かしているうちに慣れてきた。顔は毎日拭いているけれど、髭は剃っていなくてさすがにもじゃもじゃしてきたのだ。ラウリの髭は銀色なので、まるでサンタクロースのようだった。
アンニーナは看護師に聞いた通り、おっかなびっくり夫の顔に剃刀を当てる。死んだように眠っているのが幸いだった。髭剃り用のクリームを拭きとり、温かい湯に浸したタオルで顔を拭く。現れたのは、以前の精悍なのに綺麗な顔立ち。アンニーナが怖がりながらも、二年間愛してやまなかった顔だ。
――わたしは、どうしてこの人をあんなに怖がっていたのかしら?
ラウリは、特別な人間じゃない。傲慢な自信家で浮気三昧だし、アンニーナの感情をぐちゃぐちゃにするけれど、ひっそりと自分の母親の死を悼んだりしている。陽気で面倒見が良くて誰からも好かれているけれど、エサイアスはそんな彼を繊細な見栄っ張りだと言う。
結婚生活は三年目を迎えたけれど、アンニーナはまだラウリと言う人間を理解していない。子どもが出来てその子どもも巣立って、二人ともヨボヨボのおじいちゃんおばあちゃんになったころには理解できるだろうか。
――でも、この人の介護はわたし一人じゃ無理だわ。
ラウリは大柄なので、非力なアンニーナでは寝返りを打たせるだけでも一苦労なのだ。ましてや歳をとった彼女にそんなことが出来るとは思えない。来るとも限らない何十年も先の未来を考えてしまう彼女である。
タオルや手桶を片付けて戻ってくると、ふと静かに眠るラウリの顔が違う誰かと重なって見えるではないか。
――誰だったかしら?
よく似た顔を最近、すごく近い距離で見た記憶がある。市場で顔を合わせる程度の距離ではなく。
――え? ……エサイアス様?
アンニーナの目が大きく瞬いた。違う。二人の年齢差から言うと、エサイアスがラウリに似ているのだ。エサイアスが卵型の中性的な顔つきであるのに対して、ラウリはいかにも男性らしいはっきりとした骨格の持ち主だ。だが、目元や鼻筋といったパーツが驚くほど似ていた。
――どうして?
そのとき、枕元からかすれた声が聞こえてくる。
「アン……ニーナ」
「あ、目が覚めたんですか? お水飲みます?」
ラウリは緩く首を振った。その顔はひどく憔悴して、いつもの美男子ぶりも半減している。キラキラしていない夫はやっぱり少しも怖くなかった。額に汗がにじんでいたので、アンニーナは丁寧に拭く。ラウリは何度か口を開くのをためらう様子を見せていた。それを不思議に思い、顔を近づけると思わぬことを言われる。
「おまえ、……エサイアスのところに行ってもいいんだぞ」
問われた意味が分からず、首を傾げた。
「は……伯爵様のところに行くって、どういう意味ですか?」
「俺は三十年近く、この性格をやっているんだ。今さら誠実な男に変わることはない」
アンニーナもラウリの言葉を疑わなかった。今は、周囲にラウリのタイプの女性がいないだけだ。相手さえいれば、ラウリはまた浮気を始めるだろう。アンニーナにとって、二年間続いたラウリの浮気をなかったことには出来ない。彼女の傷は癒える前に何度もえぐられ、もはや元の形に戻ることはないのだ。
ラウリはしゃべるのでさえ苦痛なのか、目を閉じて少し休憩した。
「おまえの父親の借金のことは忘れていい。俺の蓄えの半分をやるし。……もし、もしも。エサイアスの内縁の妻の立場が嫌というなら、おまえのしたいように生きればいい。……仕事も結婚も、俺が口をきいてやるから」
アンニーナは、生まれて初めて選択肢を与えられた。身に余る財産と身分の保証。開かれた人生、限りなき自由。
――また、だわ。
ラウリは、一向にアンニーナの気持ちを理解しようとしない。彼女の望みを知ろうともしない、アンニーナに一方的に愛させて尽くさせて、ちょっと優しくして舞い上がらせて、また要らないと無視する。この繰り返しだ。しかも、今回はついに彼女を捨てるという。
アンニーナはこころもち速足でラウリのベッドの反対側に移動し、窓の外を見た。冬の朝日を浴びていると、涙がこぼれる。
――ダメ、ここで泣いちゃダメ。
「か……考えてみます。あなたの体調が良くなるころにはお返事します」
「そうか、動けるようになるまで傍にいてくれるなら助かる。……決まったら教えてくれ」
ラウリはそういうや、また眠りに入った。
「アンニーナさんが手伝ってくれると、作業が早く済むわ」
「お役に立ててうれしいです」
「旦那さんが退院するまでといわず、ずっといてくれるとわたしも助かるんだけど」
小さな病院と言っても、職員も入れて常時三十人はいる。食堂や洗濯場を預かる女性たちにそう誘われ嬉しかったものの、ラウリが無事に退院するまでは何も返事が出来ない。
事件があった時間アンニーナは家にいて、市場の人が慌てて知らせに来てくれた。彼女が到着したとき廃屋の消火活動に騒然としており、ラウリもこの小さな病院に運び込まれた後だった。一面白い煙と灰でよく見えず、地面に飛び散った真っ赤な血を発見したとき、アンニーナは気が動転してしゃがみこんでしまった。丁度指揮を執っていたエサイアスが気づいて、スティーナに診療所まで案内してもらってなんとかなったようなものだ。
生きた心地がしなかった。ラウリは王都の警ら隊に属していても怪我して帰ってくることはなかったから、こんな田舎で大怪我を負うとは想像もしていなかったのだ。彼は手術後に何度か目を覚ましたものの、うつらうつら視線を彷徨わせるだけですぐに眠ってしまう。ありがたいことに一人部屋をあてがわれたので、時折医者や看護師が出入りするとき以外、ずっとこの静かな部屋に二人でいる。
彼女が聞いている話はこうだ。王都から買い付けにやってきた商人が実は薬物中毒者で、宿屋の松明と肉屋の肉切り包丁を盗み、子ども二人が迷い込んだ廃屋に松明を投げた。居合わせたラウリが商人を倒して子どもたちを救出し、おかげで今や彼はちょっとした英雄扱いをされている。だが、アンニーナは知っているのだ。何故なら、通りの騒ぎを見に来たリーアが連行される商人を見つけて、泣き叫んでいたから。
――肉切包丁を振り回したのが不倫相手の夫だと知れ渡っても、それでもこの人は丁重に扱われるのかしら?
夫は人妻のリーアに手を出し、その夫から報復に殺されかけたのだ。ラウリに助けられた(巻き込まれた?)子どもの両親がお礼を言いに来たものの、アンニーナは本当のことを話すわけにもいかない。何度も頭を下げる二人に、「こちらこそ、お子さんに怖い思いをさせてごめんなさい」と謝ってしまいたかった。
眠っているラウリは、至って静かだ。目を覚まさないが、縫った痕が痛いのか時折顔をしかめている。リーアの夫が振り上げた肉切り包丁はラウリの胸を直撃したが、胸のポケットに女物の髪飾りを入れていたおかげで刃が深く刺さり込むのを防いだそうだ。
――誰に贈るつもりだったのかしら? ……リーアさん?
粉々になったガラス細工のバレッタは華やかな彼女が身につけるには大人し目に見えたけれど、だからといってアンニーナのために買ったと思い込むほど自分もおめでたくない。ただ、キラキラしたガラスは粉々になっても綺麗だったから、捨てるにはもったいなく感じただけだ。
アンニーナは塞いだ気持ちを振り払い、すくっと立ち上がった。
「よし、今日こそやるわ!」
ギュッと胸の前で両手を握り込む。
アンニーナは毎朝ラウリの身体を清める。大人の男性の世話は初めてだけれど、何度かしているうちに慣れてきた。顔は毎日拭いているけれど、髭は剃っていなくてさすがにもじゃもじゃしてきたのだ。ラウリの髭は銀色なので、まるでサンタクロースのようだった。
アンニーナは看護師に聞いた通り、おっかなびっくり夫の顔に剃刀を当てる。死んだように眠っているのが幸いだった。髭剃り用のクリームを拭きとり、温かい湯に浸したタオルで顔を拭く。現れたのは、以前の精悍なのに綺麗な顔立ち。アンニーナが怖がりながらも、二年間愛してやまなかった顔だ。
――わたしは、どうしてこの人をあんなに怖がっていたのかしら?
ラウリは、特別な人間じゃない。傲慢な自信家で浮気三昧だし、アンニーナの感情をぐちゃぐちゃにするけれど、ひっそりと自分の母親の死を悼んだりしている。陽気で面倒見が良くて誰からも好かれているけれど、エサイアスはそんな彼を繊細な見栄っ張りだと言う。
結婚生活は三年目を迎えたけれど、アンニーナはまだラウリと言う人間を理解していない。子どもが出来てその子どもも巣立って、二人ともヨボヨボのおじいちゃんおばあちゃんになったころには理解できるだろうか。
――でも、この人の介護はわたし一人じゃ無理だわ。
ラウリは大柄なので、非力なアンニーナでは寝返りを打たせるだけでも一苦労なのだ。ましてや歳をとった彼女にそんなことが出来るとは思えない。来るとも限らない何十年も先の未来を考えてしまう彼女である。
タオルや手桶を片付けて戻ってくると、ふと静かに眠るラウリの顔が違う誰かと重なって見えるではないか。
――誰だったかしら?
よく似た顔を最近、すごく近い距離で見た記憶がある。市場で顔を合わせる程度の距離ではなく。
――え? ……エサイアス様?
アンニーナの目が大きく瞬いた。違う。二人の年齢差から言うと、エサイアスがラウリに似ているのだ。エサイアスが卵型の中性的な顔つきであるのに対して、ラウリはいかにも男性らしいはっきりとした骨格の持ち主だ。だが、目元や鼻筋といったパーツが驚くほど似ていた。
――どうして?
そのとき、枕元からかすれた声が聞こえてくる。
「アン……ニーナ」
「あ、目が覚めたんですか? お水飲みます?」
ラウリは緩く首を振った。その顔はひどく憔悴して、いつもの美男子ぶりも半減している。キラキラしていない夫はやっぱり少しも怖くなかった。額に汗がにじんでいたので、アンニーナは丁寧に拭く。ラウリは何度か口を開くのをためらう様子を見せていた。それを不思議に思い、顔を近づけると思わぬことを言われる。
「おまえ、……エサイアスのところに行ってもいいんだぞ」
問われた意味が分からず、首を傾げた。
「は……伯爵様のところに行くって、どういう意味ですか?」
「俺は三十年近く、この性格をやっているんだ。今さら誠実な男に変わることはない」
アンニーナもラウリの言葉を疑わなかった。今は、周囲にラウリのタイプの女性がいないだけだ。相手さえいれば、ラウリはまた浮気を始めるだろう。アンニーナにとって、二年間続いたラウリの浮気をなかったことには出来ない。彼女の傷は癒える前に何度もえぐられ、もはや元の形に戻ることはないのだ。
ラウリはしゃべるのでさえ苦痛なのか、目を閉じて少し休憩した。
「おまえの父親の借金のことは忘れていい。俺の蓄えの半分をやるし。……もし、もしも。エサイアスの内縁の妻の立場が嫌というなら、おまえのしたいように生きればいい。……仕事も結婚も、俺が口をきいてやるから」
アンニーナは、生まれて初めて選択肢を与えられた。身に余る財産と身分の保証。開かれた人生、限りなき自由。
――また、だわ。
ラウリは、一向にアンニーナの気持ちを理解しようとしない。彼女の望みを知ろうともしない、アンニーナに一方的に愛させて尽くさせて、ちょっと優しくして舞い上がらせて、また要らないと無視する。この繰り返しだ。しかも、今回はついに彼女を捨てるという。
アンニーナはこころもち速足でラウリのベッドの反対側に移動し、窓の外を見た。冬の朝日を浴びていると、涙がこぼれる。
――ダメ、ここで泣いちゃダメ。
「か……考えてみます。あなたの体調が良くなるころにはお返事します」
「そうか、動けるようになるまで傍にいてくれるなら助かる。……決まったら教えてくれ」
ラウリはそういうや、また眠りに入った。
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