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第三十九話 クズとゲスを足して二で割ったようなもの
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パタパタと軽い足音、汗ばんだ額を拭う小さな手、ふわりと鼻孔をくすぐる甘い香り。ラウリにずっと虐げられてきたはずなのに、当たり前のように彼の世話を続けている。
――ああ、認めてやる。
ラウリは、アンニーナのことが好きだった。ふたりで進む未来を描いていた。なのに、猜疑と嫉妬から彼女をひどく傷つけ、母親の身代わりに据えた。その事実を認めたくなくて、彼女を好きだった事実ごと忘れたのだ。
――最低だな。
クズとゲスを足して二で割ったようなものだ。極めつけはそれでもこの性格を変えられないということ。
アンニーナに去られても、自分の性格なら他の女を抱くことができるだろう。なんなら、結婚もできる。だが、彼女でなければこの底なしの水差しは満たせない。毎朝涙が出るような孤独のなかで目が覚めて、夜は底知れぬ虚無を抱いて眠りにつくのだ。
ラウリにはそれを確信しているし、今や自分にお似合いだ、なんて殊勝なことを考えている。だから、敢えて言ったのだ。
「おまえ、エサイアスのところに行ってもいいんだぞ」
これ以上彼女を傷つけないように、これ以上彼女の優しさに縋らないように、ラウリは一刻も早く離れなくてはいけない。エサイアスは変人だが、身分があるし彼女と同じ年だし、アンニーナの一生を守る力がある。何より一途で浮気しない。幸い自分たち夫婦の間に子どもはいないし、今なら逃してやれる。
――幸せに。
自分で彼女を不幸にしておきながら、この言葉を願うのは筋違いだとはわかっている。それでも、彼女には笑っていてほしい。幸せになってほしかった。
だが、自分の言葉にさぞ喜んでいるはずと伺った妻の顔は、何故か泣いているように見えた。
*
「で。それがあなたのやり方ですか?」
エサイアスが兎型にカットされた林檎を齧ると、小気味よい音が病室に響いた。窓の外は雨雲が垂れ、夕方のように暗くなっている。
「うっせぇ、坊主あがりが生意気言うんじゃねぇよ。俺がアンニーナを譲ってやるっていうのに、何が不満なんだよ」
ラウリが目を覚ましてから、二週間がたっていた。寝ている時間が減り、胸の傷は順調に回復している。退院の日は近く、アンニーナは家の掃除をしてくると言って今朝帰っていった。彼女が雨に降られなければいいのだが。
「最後までかっこ悪いですね、兄さんは」
背後で伯爵家の執事がお見舞い用の林檎をカットしているのに、エサイアスは言葉を選ばない。先代のピエティラ侯爵が、亡き部下の奥方にひどく懸想し子どもを産ませたことは公然の秘密だった。ラウリも今はアンニーナがいないので好きに呼ばせている。それは置いておいて、彼にははっきりさせたいことがあった。そのためにエサイアスの訪問を心待ちにしていたのだ。
枕に背中を預けたまま、応接セットで寛ぐエサイアスを眇めた。
「なんです? アンなら大歓迎ですが、兄さんからじろじろ見られるのは気持ち悪いですね」
「あの修道院の壁の落書きは、おまえが書いたのか?」
エサイアスは瞬きして、ラウリを見返した。
「おや、もう分かりましたか。さすがは『王配殿下の懐刀』と呼ばれていただけはありますね」
そう言いながら、執事から渡されたハンカチで林檎の汁が付いた手を拭う。これでは誰のへのお見舞い品か分からない、とラウリはため息をついた。そんな彼に執事が声をかける。
「パヤソン補佐官も、林檎を召し上がりますか?」
「いいえ、結構です。次から大きめにカットして、そいつの口を長く塞いでおいてもらえますか?」
部下の不敬な冗談を、エサイアスはハハッと笑い飛ばした。
「もう少しかかると思ったのに」
「毎日見てる筆跡だぞ、気付かない方がどうかしてる」
おかしいとは思っていた。ボボジール修道会は徹底した秘密主義だと聞いている。いくらエサイアスが植物学に明るいとはいえ『修道士の眠り』の主原料や製造方法をつかえることなく話す姿には違和感があった。なんてことはない。エサイアスがそのクスリを製造していた本人だと考えればつじつまがあう。しかも、彼がいた神学校はボボジール修道会に属しているのだ。
執事が主の皿に、二つ目の林檎を乗せる。エサイアスはそれを見ながら、忌々しげに柳眉をしかめた。
「神学校の植物学の授業で、僕が教授の間違いを指摘したのが運のツキでした。あっという間にあのぼろい修道院に押し込められて、信者獲得のために人を操るクスリを開発しろと命令されたんです。わざわざ五人も監視役をつけて。日常の労働を妨げずに依存だけさせる薬? バカバカしい、効果と副作用は常に比例するんです。だったら、パンでも配ってろって言ってやりましたよ」
「だが、おまえは結局『修道士の眠り』を作ったんだろ?」
「僕がやりたくないと言うと、あの部屋に閉じ込められて食事を抜かれるのですから、仕方がなかったんです。だけど、最後のほうは誰も監禁部屋に来なくなって、例の火災がなければ僕は飢え死にするところでしたよ」
そのときのことを思い出してか、エサイアスはぐったりと椅子にもたれかかる。修道院の壁には『飽きた』『腹減った』と書かれていたから、彼の言うことに間違いはないのだろう。
――ああ、認めてやる。
ラウリは、アンニーナのことが好きだった。ふたりで進む未来を描いていた。なのに、猜疑と嫉妬から彼女をひどく傷つけ、母親の身代わりに据えた。その事実を認めたくなくて、彼女を好きだった事実ごと忘れたのだ。
――最低だな。
クズとゲスを足して二で割ったようなものだ。極めつけはそれでもこの性格を変えられないということ。
アンニーナに去られても、自分の性格なら他の女を抱くことができるだろう。なんなら、結婚もできる。だが、彼女でなければこの底なしの水差しは満たせない。毎朝涙が出るような孤独のなかで目が覚めて、夜は底知れぬ虚無を抱いて眠りにつくのだ。
ラウリにはそれを確信しているし、今や自分にお似合いだ、なんて殊勝なことを考えている。だから、敢えて言ったのだ。
「おまえ、エサイアスのところに行ってもいいんだぞ」
これ以上彼女を傷つけないように、これ以上彼女の優しさに縋らないように、ラウリは一刻も早く離れなくてはいけない。エサイアスは変人だが、身分があるし彼女と同じ年だし、アンニーナの一生を守る力がある。何より一途で浮気しない。幸い自分たち夫婦の間に子どもはいないし、今なら逃してやれる。
――幸せに。
自分で彼女を不幸にしておきながら、この言葉を願うのは筋違いだとはわかっている。それでも、彼女には笑っていてほしい。幸せになってほしかった。
だが、自分の言葉にさぞ喜んでいるはずと伺った妻の顔は、何故か泣いているように見えた。
*
「で。それがあなたのやり方ですか?」
エサイアスが兎型にカットされた林檎を齧ると、小気味よい音が病室に響いた。窓の外は雨雲が垂れ、夕方のように暗くなっている。
「うっせぇ、坊主あがりが生意気言うんじゃねぇよ。俺がアンニーナを譲ってやるっていうのに、何が不満なんだよ」
ラウリが目を覚ましてから、二週間がたっていた。寝ている時間が減り、胸の傷は順調に回復している。退院の日は近く、アンニーナは家の掃除をしてくると言って今朝帰っていった。彼女が雨に降られなければいいのだが。
「最後までかっこ悪いですね、兄さんは」
背後で伯爵家の執事がお見舞い用の林檎をカットしているのに、エサイアスは言葉を選ばない。先代のピエティラ侯爵が、亡き部下の奥方にひどく懸想し子どもを産ませたことは公然の秘密だった。ラウリも今はアンニーナがいないので好きに呼ばせている。それは置いておいて、彼にははっきりさせたいことがあった。そのためにエサイアスの訪問を心待ちにしていたのだ。
枕に背中を預けたまま、応接セットで寛ぐエサイアスを眇めた。
「なんです? アンなら大歓迎ですが、兄さんからじろじろ見られるのは気持ち悪いですね」
「あの修道院の壁の落書きは、おまえが書いたのか?」
エサイアスは瞬きして、ラウリを見返した。
「おや、もう分かりましたか。さすがは『王配殿下の懐刀』と呼ばれていただけはありますね」
そう言いながら、執事から渡されたハンカチで林檎の汁が付いた手を拭う。これでは誰のへのお見舞い品か分からない、とラウリはため息をついた。そんな彼に執事が声をかける。
「パヤソン補佐官も、林檎を召し上がりますか?」
「いいえ、結構です。次から大きめにカットして、そいつの口を長く塞いでおいてもらえますか?」
部下の不敬な冗談を、エサイアスはハハッと笑い飛ばした。
「もう少しかかると思ったのに」
「毎日見てる筆跡だぞ、気付かない方がどうかしてる」
おかしいとは思っていた。ボボジール修道会は徹底した秘密主義だと聞いている。いくらエサイアスが植物学に明るいとはいえ『修道士の眠り』の主原料や製造方法をつかえることなく話す姿には違和感があった。なんてことはない。エサイアスがそのクスリを製造していた本人だと考えればつじつまがあう。しかも、彼がいた神学校はボボジール修道会に属しているのだ。
執事が主の皿に、二つ目の林檎を乗せる。エサイアスはそれを見ながら、忌々しげに柳眉をしかめた。
「神学校の植物学の授業で、僕が教授の間違いを指摘したのが運のツキでした。あっという間にあのぼろい修道院に押し込められて、信者獲得のために人を操るクスリを開発しろと命令されたんです。わざわざ五人も監視役をつけて。日常の労働を妨げずに依存だけさせる薬? バカバカしい、効果と副作用は常に比例するんです。だったら、パンでも配ってろって言ってやりましたよ」
「だが、おまえは結局『修道士の眠り』を作ったんだろ?」
「僕がやりたくないと言うと、あの部屋に閉じ込められて食事を抜かれるのですから、仕方がなかったんです。だけど、最後のほうは誰も監禁部屋に来なくなって、例の火災がなければ僕は飢え死にするところでしたよ」
そのときのことを思い出してか、エサイアスはぐったりと椅子にもたれかかる。修道院の壁には『飽きた』『腹減った』と書かれていたから、彼の言うことに間違いはないのだろう。
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