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不足の事態②
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「元より覚悟は出来てるわ。本来ならもっと早くこのときが来ているはずだったのだもの」
儚げな微笑みを浮かべる翠玉は、気丈に振る舞ってはいるがやはりどこか緊張していた。
だがそれは、おそらく初夜に対するものではないだろう。
儀皇帝の暗殺。
ひと月という猶予が出来たためしっかり準備を進めていたところ、予定外にそれが早まったのだ。
突然のことに緊張するなという方が無理だろう。
(私も、全く緊張しないのは無理だもの)
実は明凜は人を殺したことがない。
元暗殺者だった母からその技術や知識を余すことなく教えられた。
実際にその技術を駆使して蘭の後宮に侵入してきた賊などを捕まえたこともあるし、そのために相手を傷つけることもあった。
だが、確実に命を奪うようなことはしたことがないのだ。
儀皇帝は儀国にとっても周辺国にとっても害悪でしかない。
死をもって、この世から消えてもらわねばならない。
それは明凜も理解しているため、躊躇うことはないだろう。
そう思うのに、僅かに不安が残るのは母の言葉のせいだった。
『ほんの僅かでも躊躇いがあれば、それは隙を作ることになってしまう。その躊躇いが一時の感情で無くなるときもあるというのに……人の心とは不思議なものね』
母は父である蘭皇帝のことを言っていたようだが、おそらくそれはどんな相手にも言えることだろう。
人を殺したことがないということが僅かな躊躇いになってしまわないか。
それが不安ではあった。
とはいえ、直接的に命を奪う行為を躊躇ってしまった場合のことも考え、武器には致死量の毒を仕込んでいるのだけれど。
「とにかく今夜が勝負。しっかり準備をしなくてはね」
いつもよりは少々強ばった笑顔の翠玉に、明凜はできるだけ緊張がほぐれるようにと優しく微笑んだ。
「はい、そうですね」
***
湯に入り、香を焚きしめ、翠玉自身の準備も整ってきた頃には日はすっかり落ちていた。
夜も更けていく中、臥房で待つ翠玉には香鈴だけが付く。
明凜は黒装束に身を包み、香鈴には気付かれないよう房の隅に気配を殺し潜んでいた。
走廊から人の気配を感じ、そろそろ来るかと意識を集中する。
先触れらしき宦官が香鈴に何かを伝えているのが聞こえ、今こちらに向かってきているのかと予測した。
だが――。
「貴妃様、どうやら陛下は今夜こちらには来られないそうです」
「は?」
(は?)
翠玉の声と明凜の心の声が一致する。
来られない、とはどういうことだろうか?
「その……他の妃の元へ行かれることにしたようで……」
流石に気まずいのか、いつもはキリリとした香鈴も視線をさまよわせて口調が鈍っている。
対する翠玉は、ぽかんと呆気に取られたように口を開けていた。
それはそうだろう。覚悟を決めようと気を張っていたというのに、肝心の相手が来ないとなったのだから。
「……他の妃、とはどなたなのでしょうか?」
数拍間を開けて、表情はそのままに翠玉が問う。
香鈴は普段つり上がっている眉を下げ、言いづらそうに答えた。
「その……丁淑妃様です」
「丁淑妃様?」
丁淑妃とは、この後宮内で翠玉の次に位の高い妃だ。
元は貴妃の地位にいて、翠玉が嫁いでくる際貴妃の位を空けるために淑妃となった人物。
一番翠玉を恨んでいると思われる人物だが、今のところ何か仕掛けてくる様子は無かった。
……のだが。
(ついに翠玉様のもとへ陛下が訪れるとなって邪魔を始めたということかしら?)
翠玉に何かするよりも、皇帝の気を引くという手段に出るとは思わなかった。
これは良かったと見るべきか。
なんとも言えぬ気分で考えていると、翠玉の戸惑いの声が聞こえた。
「そう、ですか……えっと、では私はどうすれば?」
「……このまま普段通りお休み下さいませ」
答えた香鈴はスッと礼を取り、普段の口調に戻って答える。
そのまま「お休みなさいませ」と伝えると臥房を出て行ってしまった。
香鈴も居なくなり、しん……と静かになる臥房。
静寂の中、ぽつりと呟くように翠玉が「明凜」と名を呼んだ。
「はい」
短く答え、明凜はすぐに翠玉のそばへ現れる。
合わせた顔は、お互い苦笑いだった。
「何というか……気が抜けてしまったわね?」
「そう、ですね」
香鈴が『陛下は気まぐれですので直前になり取りやめるということもあります』と言っていたが、まさか本当に取りやめとなるとは思わないだろう。
「私、本当にこのまま眠って良いのかしら?」
「良いのでは無いですか?」
皇帝が来ないのならば、伽をすることも暗殺することも出来ないのだから。
「明凜ももう寝るの?」
「いえ、私は少し確かめたいことがありますので、それが終わったら戻って眠ろうと思います」
念のため、皇帝が本当に丁淑妃のもとへ向かったのか確認しておきたかった。
万が一、何かの手違いでやはり翠玉の元に来るとなればせっかくの機会を逃すことになるだろうから。
それに、丁淑妃がどのような人物なのか少し把握しておきたかった。
「そう、気をつけてね」
「はい。では、お休みなさいませ」
就寝の挨拶を交わし、明凜は臥房を出て紫水宮を離れた。
向かうのは紫水宮からほど近い丁淑妃の宮・石榴宮。
闇に潜みながら、明凜は無音で足を進めた。
儚げな微笑みを浮かべる翠玉は、気丈に振る舞ってはいるがやはりどこか緊張していた。
だがそれは、おそらく初夜に対するものではないだろう。
儀皇帝の暗殺。
ひと月という猶予が出来たためしっかり準備を進めていたところ、予定外にそれが早まったのだ。
突然のことに緊張するなという方が無理だろう。
(私も、全く緊張しないのは無理だもの)
実は明凜は人を殺したことがない。
元暗殺者だった母からその技術や知識を余すことなく教えられた。
実際にその技術を駆使して蘭の後宮に侵入してきた賊などを捕まえたこともあるし、そのために相手を傷つけることもあった。
だが、確実に命を奪うようなことはしたことがないのだ。
儀皇帝は儀国にとっても周辺国にとっても害悪でしかない。
死をもって、この世から消えてもらわねばならない。
それは明凜も理解しているため、躊躇うことはないだろう。
そう思うのに、僅かに不安が残るのは母の言葉のせいだった。
『ほんの僅かでも躊躇いがあれば、それは隙を作ることになってしまう。その躊躇いが一時の感情で無くなるときもあるというのに……人の心とは不思議なものね』
母は父である蘭皇帝のことを言っていたようだが、おそらくそれはどんな相手にも言えることだろう。
人を殺したことがないということが僅かな躊躇いになってしまわないか。
それが不安ではあった。
とはいえ、直接的に命を奪う行為を躊躇ってしまった場合のことも考え、武器には致死量の毒を仕込んでいるのだけれど。
「とにかく今夜が勝負。しっかり準備をしなくてはね」
いつもよりは少々強ばった笑顔の翠玉に、明凜はできるだけ緊張がほぐれるようにと優しく微笑んだ。
「はい、そうですね」
***
湯に入り、香を焚きしめ、翠玉自身の準備も整ってきた頃には日はすっかり落ちていた。
夜も更けていく中、臥房で待つ翠玉には香鈴だけが付く。
明凜は黒装束に身を包み、香鈴には気付かれないよう房の隅に気配を殺し潜んでいた。
走廊から人の気配を感じ、そろそろ来るかと意識を集中する。
先触れらしき宦官が香鈴に何かを伝えているのが聞こえ、今こちらに向かってきているのかと予測した。
だが――。
「貴妃様、どうやら陛下は今夜こちらには来られないそうです」
「は?」
(は?)
翠玉の声と明凜の心の声が一致する。
来られない、とはどういうことだろうか?
「その……他の妃の元へ行かれることにしたようで……」
流石に気まずいのか、いつもはキリリとした香鈴も視線をさまよわせて口調が鈍っている。
対する翠玉は、ぽかんと呆気に取られたように口を開けていた。
それはそうだろう。覚悟を決めようと気を張っていたというのに、肝心の相手が来ないとなったのだから。
「……他の妃、とはどなたなのでしょうか?」
数拍間を開けて、表情はそのままに翠玉が問う。
香鈴は普段つり上がっている眉を下げ、言いづらそうに答えた。
「その……丁淑妃様です」
「丁淑妃様?」
丁淑妃とは、この後宮内で翠玉の次に位の高い妃だ。
元は貴妃の地位にいて、翠玉が嫁いでくる際貴妃の位を空けるために淑妃となった人物。
一番翠玉を恨んでいると思われる人物だが、今のところ何か仕掛けてくる様子は無かった。
……のだが。
(ついに翠玉様のもとへ陛下が訪れるとなって邪魔を始めたということかしら?)
翠玉に何かするよりも、皇帝の気を引くという手段に出るとは思わなかった。
これは良かったと見るべきか。
なんとも言えぬ気分で考えていると、翠玉の戸惑いの声が聞こえた。
「そう、ですか……えっと、では私はどうすれば?」
「……このまま普段通りお休み下さいませ」
答えた香鈴はスッと礼を取り、普段の口調に戻って答える。
そのまま「お休みなさいませ」と伝えると臥房を出て行ってしまった。
香鈴も居なくなり、しん……と静かになる臥房。
静寂の中、ぽつりと呟くように翠玉が「明凜」と名を呼んだ。
「はい」
短く答え、明凜はすぐに翠玉のそばへ現れる。
合わせた顔は、お互い苦笑いだった。
「何というか……気が抜けてしまったわね?」
「そう、ですね」
香鈴が『陛下は気まぐれですので直前になり取りやめるということもあります』と言っていたが、まさか本当に取りやめとなるとは思わないだろう。
「私、本当にこのまま眠って良いのかしら?」
「良いのでは無いですか?」
皇帝が来ないのならば、伽をすることも暗殺することも出来ないのだから。
「明凜ももう寝るの?」
「いえ、私は少し確かめたいことがありますので、それが終わったら戻って眠ろうと思います」
念のため、皇帝が本当に丁淑妃のもとへ向かったのか確認しておきたかった。
万が一、何かの手違いでやはり翠玉の元に来るとなればせっかくの機会を逃すことになるだろうから。
それに、丁淑妃がどのような人物なのか少し把握しておきたかった。
「そう、気をつけてね」
「はい。では、お休みなさいませ」
就寝の挨拶を交わし、明凜は臥房を出て紫水宮を離れた。
向かうのは紫水宮からほど近い丁淑妃の宮・石榴宮。
闇に潜みながら、明凜は無音で足を進めた。
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