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第3話:『偽りの署名と、飢えたる猟犬の買収』
しおりを挟む地下の文書管理室から自室に戻ったアルベルトは、重厚なオーク材の机に向かっていた。
机上には、先ほどクラウスから半ば強引に巻き上げた数枚の空白の羊皮紙と、最高級の証書用インク、そして先端を鋭く削った羽ペンが置かれている。
窓の外では、辺境特有の冷たい雨が降り始めていた。雨粒が分厚いガラス窓を打ち据えるようなどこか暴力的な音が、薄暗い部屋の中に響いている。
アルベルトは無表情のままペンを取ると、手元に置いた父ヘルマンの過去の決裁文書を見つめた。そこに記された『ヘルマン・フォン・ローゼンベルク』という署名の筆跡を、彼の冷徹な眼球が精密機械のようにスキャンしていく。
前世において、彼は数え切れないほどの契約書や決済書類の真贋を見極めてきた。筆跡には、その人間の精神状態、疲労度、そして絶望の深さが克明に表れる。
三年前の母の死を境に、父の筆跡は激変していた。かつての力強く跳ねるような文字は影を潜め、現在の署名はどれも線の末端が微かに震え、インクの溜まり具合からペンを握る手の躊躇いが痛いほどに読み取れる。それは、己の無力さに押し潰され、ただ惰性で家を率いている敗北者の文字だった。
「……筆圧は弱く、しかし最初の文字だけはやけにインクが滲んでいる。何かを決断することへの恐怖の表れか」
誰に聞かせるでもなく独り言ちると、アルベルトは空白の羊皮紙にペンを走らせた。
サリ、サリ、と。
静かな部屋に、羊皮紙を削る乾いた音が響く。彼は自らの若く力強い筆圧を意図的に殺し、五十を過ぎた疲弊しきった男の絶望を指先に降ろしていく。一文字、また一文字。失敗すれば、単なる偽造罪どころか当主への反逆を問われる危険な行為だが、十五歳の少年の脈拍は一度たりとも乱れることはなかった。
やがて、羊皮紙の最下段に、父のそれと寸分違わぬ、弱々しくも辺境伯としての絶対的な効力を持つ署名が完成した。
アルベルトが作成したのは『領内全域における特別監査権限および、一時的な兵の徴用権を長男アルベルトに委譲する』という、事実上の全権委任状だった。
インクが乾くのを冷たい目で見届けながら、アルベルトは小さく息を吐いた。これで法的な大義名分(という名の凶器)は手に入った。しかし、叔父の領地に乗り込み、その喉元に刃を突きつけるには、書類だけでは足りない。腐敗した貴族社会において、最後に物を言うのは「剥き出しの暴力」を背景にした脅迫だからだ。
数時間後。アルベルトは冷たい雨が降り頻る中、傘も差さずに城の裏手にある兵舎へと足を運んでいた。
城の豪奢な造りとは打って変わり、兵舎は深刻な予算不足を体現するような惨状だった。屋根のあちこちからは雨漏りがし、床の石畳は泥と吐瀉物で汚れ、鼻を突くのは安いエール酒と、何日も洗われていない獣じみた体臭、そして錆びついた鉄の匂いだ。
昼間から薄暗い食堂にたむろする兵士たちは、突如現れた領主の息子を見て一様に驚きの表情を浮かべたが、誰一人として敬礼しようとはしなかった。彼らの目にあるのは、給金を三ヶ月も滞納している雇い主への軽蔑と、諦観だけだ。
アルベルトは周囲の敵意を含んだ視線を完全に無視し、泥に塗れた床を躊躇うことなく進んで、食堂の最奥で一人酒を煽っている巨漢の男の前に立った。
男の顔には額から頬にかけて醜い刃傷があり、使い込まれた革鎧はあちこちが擦り切れている。彼こそが、ローゼンベルク家が直接雇用している私兵部隊の隊長、ガリウスだった。かつては王都の騎士団にも所属していたという凄腕だが、度重なる給金の未払いにより、今ではただの荒んだ酔っ払いと化している。
「なんの用ですかい、若様」
ガリウスは木製のジョッキから口を離さず、アルベルトを見上げることもなく濁った声で言った。
「こんな泥溜まりは、絹の服を着たお坊ちゃんが来る場所じゃありませんぜ。それとも、ようやく俺たちの未払い給金を払ってくれるってんで?」
「ガリウス隊長。現在、当家の私兵は名簿上は百五十名だが、実働できるのは何名だ」
アルベルトの抑揚のない冷たい声に、ガリウスは僅かに眉をひそめた。十五歳の少年が出す声とは、到底思えなかったからだ。
「……動けるのは、せいぜい五十ってとこです。残りは飢えに耐えかねて逃げ出したか、武器を質に入れて酒を飲んでますよ。それがどうかしましたか」
「その五十名のうち、お前の命令一つで今すぐ人を殺せる……あるいは、貴族を捕縛できる精鋭を十名集めろ。今すぐだ」
「はっ?」
ガリウスがジョッキを叩きつけるように卓に置き、ようやくアルベルトを真っ直ぐに睨みつけた。歴戦の傭兵特有の、人を射殺すような鋭い眼光。並の少年であればそれだけで竦み上がるような威圧感だったが、アルベルトは瞬き一つしなかった。
「冗談は顔だけにしてくださいや。相手が誰であれ、給金も払わねぇ雇い主の言うことなんて、今のこいつらは聞きゃしませんよ。名誉や忠誠心なんざ、腹の足しにはならねぇんです」
「忠誠心など求めていない。私が提示するのは、明確な利益だ」
アルベルトは懐から、先ほど偽造したばかりの全権委任状を取り出し、ガリウスの目の前に広げた。
「私兵部隊の給金が滞っている原因は、叔父であるギュンター男爵の長年にわたる横領だ。私はこれから、この監査権限を用いて叔父の領地に直接乗り込み、奴の裏帳簿を押さえる。そして、奴が不正に蓄財した金庫を物理的にこじ開ける」
ガリウスの目が、委任状の署名と、目の前の少年の冷酷な横顔を交互に行き来した。
「……男爵様を、監査する? 本気ですか。下手すりゃ身内同士の内戦になりかねねぇ」
「戦にはならない。私が論理と証拠で奴の首を絞め上げる。お前たちに求めるのは、私が帳簿を押さえる間、男爵の私兵どもが手出しできないように威圧し、私の背中を守ることだけだ。それが済めば……」
アルベルトはガリウスの濁った瞳を真っ直ぐに射抜き、悪魔のように囁いた。
「叔父の金庫から回収した横領金の中から、お前たち十名に、未払い給金の三年分を『現金』で即座に支払ってやる」
「……さん、ねんぶん、だと?」
「不足か? ならば五年分だ。加えて、男爵の屋敷から押収した美術品や武具の一部も、お前たちの裁量で懐に入れて構わない。これは監査を装った、合法的な略奪だ」
ガリウスの息が荒くなった。周囲で聞き耳を立てていた兵士たちの間にも、ざわめきが走る。
名誉ではなく、忠誠でもない。剥き出しの物欲と、自らを飢えさせた者への明確な復讐の提示。
それは、誇りを失い泥に塗れた男たちの最も柔らかい急所を、正確に抉る一言だった。
「……後で父上に知れれば、若様もただじゃ済みませんぜ。本当に、払えるんですね?」
「私は一度交わした契約は必ず守る。ただし、私の命令に一瞬でも遅れた者は、容赦なく切り捨てるがな」
アルベルトの底知れぬ漆黒の瞳を見つめ返していたガリウスは、やがて、狂気を帯びた獣のような笑みを浮かべて立ち上がった。二メートル近い巨体が、一瞬にして殺気を纏う。
「野郎ども、聞いたか!! 武器を拾え! 鎧を着ろ! 泥棒男爵の金庫を引っ掻き回しに行くぞ!!」
兵舎全体が、爆発的な歓声と鉄の擦れ合う音に包まれた。
アルベルトは狂奔する兵士たちを冷めた目で見つめながら、静かに踵を返した。
偽造された権限と、金で買われた飢えた猟犬たち。
これで手札は揃った。いよいよ、腐りきった叔父の領地へと足を踏み入れる時だ。
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