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第4話:『泥濘の行軍と、凍てつく視座』
しおりを挟む空は分厚い鉛色の雲に覆われ、容赦のない冷雨がローゼンベルク辺境伯領の痩せた大地を打ち据えていた。
城の中庭に集められたのは、私兵隊長ガリウスに選抜された十名の兵士たちである。彼らの装備は正規軍のそれとは程遠く、錆の浮いた鉄兜に、継ぎ接ぎだらけの革鎧、そして雨水を吸って黒ずんだ外套という惨めな有様だった。しかし、その落ち窪んだ両眼に宿る光だけは、数時間前の死んだような濁りから一変し、血の匂いを嗅ぎつけた飢狼のようにギラギラと血走っている。
アルベルトは、家令が急ごしらえで用意した黒い雨合羽を羽織り、一頭の軍馬に跨っていた。
かつては名馬と呼ばれたであろうその芦毛の馬も、今や肋骨が浮き出るほどに痩せ細り、冷たい雨に打たれて時折悲しげな嘶きを上げている。今のローゼンベルク家には、まともな馬一頭を維持するだけの飼料すら事欠くのだ。
十五歳の少年の肉体にとって、氷雨の中での乗馬はただの苦行でしかなかった。雨水は容赦なく合羽の隙間から侵入し、最高級の絹の肌着を冷たく濡らして体温を奪っていく。手綱を握る指先はすでに感覚を失い、太ももの内側は鞍との摩擦で皮が剥け、焼けるような痛みを訴えていた。
「出発する」
アルベルトの短く、感情の乗らない命令を合図に、泥だらけの小部隊は城門を抜けた。
目的地である叔父ギュンターの男爵領までは、馬と歩兵の足で約三時間の道程である。しかし、整備すらされていない辺境の街道は、降り続く雨によって足首まで埋まるほどの泥濘と化しており、一歩足を踏み出すごとに、靴底が泥に吸い付く粘着質な音が不快に響いた。
アルベルトは馬上から、眼下に広がる己の領地を静かに観察していた。
道すがら目に入るのは、雑草が生い茂り放棄された農地と、崩れかけた土壁の家屋ばかりだ。雨戸の隙間からは、骨と皮だけになった領民たちが、泥の中を行進する兵士たちを怯えた目で見つめている。彼らの瞳に領主への敬意は欠片もなく、あるのはただ、明日の麦粥すら保証されない絶対的な貧困への諦めだけだった。
前世のアルベルトであれば、この惨状を「経営破綻した工場の末路」と即座に切り捨てていただろう。設備投資は滞り、労働者のモチベーションは崩壊し、不良債権だけが雪だるま式に膨らんでいる。
だが、今の彼にとって、この領地は自らの命を繋ぐための唯一の「資産」だった。
「……ひどい有様だな」
アルベルトの独り言に、馬の横を泥まみれになって歩いていたガリウスが、鼻で笑うように応じた。
「今更気付きましたかい、若様。これが大旦那様と、あんたの叔父貴が作り上げた今のローゼンベルクの現実ですよ。こんな泥水を啜るような生活を三年も続けりゃ、忠義なんてものは真っ先に腹の中で消化されちまう」
「そうだろうな。忠義などという目に見えない無形資産に依存した組織は、必ず腐敗する」
アルベルトの冷え切った返答に、ガリウスは僅かに眉を顰めた。十五歳の貴族の口から出る言葉にしては、あまりにも乾ききっていたからだ。
「若様。あんた、さっきから随分と平気な顔をして馬に乗ってますがね。……その手、震えてますぜ」
ガリウスの指摘通り、手綱を握るアルベルトの両手は、寒さと疲労で小刻みに痙攣していた。唇は紫色に変色し、雨水が前髪を伝って絶え間なく頬を濡らしている。本来であれば、温かい暖炉の前で読書でもしているべき齢の、しかも剣など一度も振ったことのないひ弱な坊ちゃんだ。この泥濘の行軍だけで、音を上げて泣き出してもおかしくない。
「肉体の機能低下は自覚している。だが、思考に影響はない」
「強がりを。……本気で叔父貴の屋敷を叩くつもりなら、今のうちに引き返した方が身のためですぜ。あそこは分家とはいえ、本家から吸い上げた金で雇った私兵が二十は常駐している。いくら俺たちが不意を突こうが、ただじゃ済まねぇ。若様の首が飛ぶ可能性だってあるんだ」
「ガリウス」
アルベルトは馬の歩みを止めず、ただ視線だけを真横に落として巨漢の傭兵を見据えた。
「企業……いや、家を存続させるための大手術に、無傷で済む方法など存在しない。腐りきった患部を切り落とすには、まずこちらが刃を握り、返り血を浴びる覚悟が必要だ」
「返り血ねぇ……」
「叔父の私兵が二十名いようが関係ない。奴らは金で雇われただけの烏合の衆だ。圧倒的な『大義名分』と、それを裏付ける『狂気』を見せつければ、必ず萎縮する。お前たちには、その狂気の演出を任せる」
「狂気の演出、ね。若様が一番狂ってるように見えますがね」
ガリウスは呆れたように肩を竦めたが、その口元には、不気味なほどの獰猛な笑みが張り付いていた。
道中の泥濘はさらに深さを増し、冷たい雨は容赦なく彼らの体力を削り取っていく。しかし、アルベルトの背筋は凍りつくほどに真っ直ぐに伸びていた。肉体の苦痛は、脳内の片隅に追いやられ、冷徹な計算式の一部として処理されている。
やがて、二時間半の無言の行軍の末、灰色の視界の先にある変化が現れた。
放棄された荒れ地が突如として途切れ、綺麗に区画整理された豊かな麦畑が広がっていたのだ。畑の周囲には真新しい防獣用の石壁が築かれ、遠くに見える放牧地では、丸々と太った羊の群れが雨宿り小屋の下で身を寄せ合っている。
まるで、見えない線で世界が二つに切り裂かれているかのような、あまりにも残酷な光景だった。
「見えてきやしたぜ、若様。あれが泥棒男爵様の、立派なご領地だ」
ガリウスが、顎で前方を示しながら唾を吐き捨てた。
アルベルトは手綱を引き、痩せ馬の足を止めた。
丘を下った先には、本家の陰鬱な石造りの城とは比べ物にならないほど豪奢な、白亜の館が建ち並んでいた。門前には真新しい鉄鎧を着込んだ私兵たちが立ち、雨の中でも怠りなく周囲を警戒している。
本家を借金漬けにし、領民を餓死寸前まで追い詰めて吸い上げた血の結晶が、目の前の白亜の館だった。
アルベルトの漆黒の瞳が、爬虫類のように細められる。
「見事な利益の独占だ。……だが、今日限りで全て差し押さえる」
十五歳の少年の口から紡がれたのは、怒りでも悲しみでもなく、氷のように冷徹な宣告だった。
雨は、いよいよ激しさを増していた。泥に塗れた十人の猟犬たちを連れた死神が、ついに叔父の館の門前へと静かに歩みを進めようとしていた。
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