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第5話:『泥水の記憶と、白亜の門の番犬』
しおりを挟む白亜の館を見下ろす丘の上で、雨はまるで無数の氷の矢のようにアルベルトの華奢な肉体を打ち据えていた。
黒い雨合羽の表面を叩く雨音は、十五歳の少年の聴覚を麻痺させるほどにやかましい。息を吐くたびに白い靄が口元から漏れ、凍りついた手綱を握る指先はすでに赤紫色に変色していた。だが、彼の眼球だけは、眼下に広がる豪奢な叔父の領地を精密機械のように冷酷に計測し続けている。
泥に塗れた私兵隊長ガリウスと、九人の飢えた兵士たちは、アルベルトの背後で荒い息を吐きながら待機していた。彼らの瞳には、眼前の富に対する剥き出しの強欲と、それを独占してきた男爵への憎悪が渦巻いている。
忠誠心などという不確かなものではない。極限の飢えと、金貨という即物的な餌だけで繋ぎ止められた、極めて脆く危険な関係だ。一歩間違えれば、この狂犬たちは真っ先に背を向け、あるいは主であるアルベルト自身の喉笛に食らいつくだろう。
だが、それでいい。アルベルトは冷たい雨を瞬きもせずに受けながら、内心でそう断じた。
前世の冷たい記憶が、雨音の向こう側から唐突に蘇る。
企業再建の専門家として辣腕を振るっていた三十代の冬。彼は、自らが手塩にかけて育て上げ、右腕として絶対の信頼を置いていたはずの部下に裏切られた。敵対的買収を仕掛けてきたファンドに内部情報を横流しされ、役員会で致命的な弾劾を受けたのだ。
『あなたは冷酷すぎた。会社は数字ではなく、人間の心で動いているのです』
それが、裏切った部下が最後に放った言葉だった。その夜、自暴自棄になって歩いていた雪道で、彼は大型トラックのライトに視界を奪われ、あっけなく命を落とした。
だからこそ、今のアルベルトは「人間の心」などというものを一切信用していない。忠義、恩義、愛情。そういった無形資産は貸借対照表には載らず、状況次第でいかようにも反転する最大の不良債権だ。
確かなものは、冷酷なまでの「利害の完全な一致」のみ。
今、背後にいるガリウスたちとアルベルトの間には、本家の監査という大義名分を隠れ蓑にした「合法的な略奪」という、極めて強固な利害の一致がある。それさえ機能していれば、彼らは最強の猟犬として働く。
「行くぞ」
アルベルトの短く、ひび割れた声が響いた。
痩せ細った芦毛の軍馬が、ぬかるんだ斜面をゆっくりと下り始める。ガリウスたち十名の兵士も、鈍い金属音を響かせながら無言でそれに続いた。
丘を下りきり、叔父の館の敷地へと繋がる一本道に入った瞬間、馬の蹄が立てる音が劇的に変化した。
ぐちゃり、という泥を噛む音から、カツン、という硬質な音へ。
辺境の農村部ではあり得ない、隙間なく敷き詰められた滑らかな石畳の街道だ。雨水は泥濘むことなく、計算された傾斜に沿って排水溝へと吸い込まれていく。靴の底が泥に沈まないというただそれだけの事実が、本家と分家の間にある絶望的な経済格差を、暴力的までに突きつけてきた。
「……大した金のかけようだ」
ガリウスが、石畳にこびりついた泥をブーツで擦りながら憎々しげに吐き捨てる。
アルベルトは無言で手綱を操り、石畳の先にある巨大な鉄格子の門へと真っ直ぐに向かった。
門の左右には、雨避けの立派な天蓋が設置されており、四人の門番が立っていた。彼らは分家の私兵でありながら、本家のガリウスたちよりも遥かに上等な、一点の錆もない銀色の胸当てを身につけ、手には鋭く磨き上げられたハルバードを握っている。
冷雨の中を泥まみれになって歩いてきたアルベルトたちに気づくと、門番の一人があからさまな嘲笑を浮かべて前に出た。
「止まれ! ここはギュンター・フォン・ローゼンベルク男爵閣下の館である。……なんだ、本家の乞食部隊じゃないか。給金が払われねぇからって、大旦那様の馬まで盗んで夜逃げでもする気か?」
門番の言葉に、他の三人も下劣な笑い声を上げた。
無理もない。現在のアルベルトたちの風体は、およそ貴族とその軍隊には見えない。ただの泥棒の寄せ集めだ。背後のガリウスが怒りで剣の柄に手をかけようとしたのを、アルベルトは冷たい視線で制止した。
ここで感情的に怒鳴り散らすのは、無能な経営者のやることだ。
アルベルトは馬の歩みを一切緩めず、ハルバードを構えた門番の目の前、鼻先が触れ合うほどの距離まで馬を進めさせた。門番がぎょっとして後ずさりしようとするが、背後には鉄格子の門があり逃げ場はない。
馬上から、十五歳の少年は氷点下の視線を見下ろした。
雨水が滴る前髪の奥、漆黒の瞳には、一切の感情が存在していなかった。怒りも、屈辱も、焦燥もない。ただ、目の前の障害物をいかにして論理的に排除するかという、機械的な演算だけが冷たく回っている。
「口を慎め、分家の飼い犬」
低く、地を這うような声だった。
怒鳴ったわけではない。しかし、その声には長年、大企業の頂点で無数の人間の首を切り落としてきた絶対的な権力者の覇気が宿っていた。雨音さえも一瞬途切れたかのように錯覚させる、異様な静けさ。
「次期辺境伯である私の顔を忘れたか。それとも、男爵領では主家の血族に対してハルバードを突きつけるよう教育されているのか」
「あ、アルベルト若様……?」
門番の顔から、さあっと血の気が引いた。泥まみれの少年が、本家の長男その人であると気づいたからだ。しかし、彼はすぐに気を持ち直し、再び傲慢な態度を取り繕った。
「こ、これは失礼をば。しかし、本家の若様であっても、事前の通達なしに兵を連れて館へ入ることは禁じられております。男爵閣下は現在、重要な書類仕事の最中でありまして」
「重要書類。なるほど、それはちょうどいい」
アルベルトは冷たく口角を上げ、懐から濡れないように油紙で包んでいた羊皮紙を取り出した。
そして、それを見下ろすように門番の顔の前に突きつけた。
「これは現ローゼンベルク辺境伯の署名が入った、領内全域の特別監査権限を証明する委任状だ。現在この瞬間より、私は男爵領のすべての帳簿、金庫、および証書庫の強制監査を実行する」
「なっ……監査、だと……!?」
「男爵の書類仕事とやらも、私が直接検閲してやる。道を開けろ。一秒でも私の歩みを遅らせた者は、辺境伯に対する公務執行妨害および反逆罪とみなし、その場で首を刎ねる」
アルベルトの宣言と同時だった。
背後に控えていた十名の飢えた猟犬たちが、一斉に腰の剣を引き抜いた。
ジャキリ、と。
雨音を切り裂いて響いた十の鋼の音。ガリウスたちの目には、すでに一切の躊躇いがなかった。目の前の番犬たちを切り伏せれば、その奥にある莫大な黄金が手に入る。彼らの放つ剥き出しの殺気が、白亜の門の前にどす黒く立ち込めた。
圧倒的な大義名分と、それを執行するための理不尽な暴力。
門番たちの手から、ハルバードが震える音を立てていた。
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