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第8話:『ベルベットの傲慢と、暴かれた不正の血脈』
しおりを挟む氷雨が打ち据える白亜の前庭。私兵団長の硬直した背後で、重厚なオーク材の玄関扉が、重々しい音を立ててゆっくりと内側へ開かれた。
館の中から流れ出してきたのは、辺境の冷たい雨の匂いとは無縁の、むせ返るような甘い香水の匂いと、暖炉で赤々と燃える薪の熱気だった。
十人の傭兵たちが放つ泥と獣脂の悪臭と、館内から漏れ出す豪奢な生活の匂いが、玄関口の空間でひどく暴力的に衝突する。ガリウスたち飢えた猟犬の喉が、その匂いだけでゴクリと大きく鳴った。
開かれた扉の奥から、複数の従者を従えて姿を現したのは、ギュンター・フォン・ローゼンベルク男爵だった。
年齢は四十二歳。本家当主である兄ヘルマンの痩せ細った姿とは対照的に、豊かな食事とワインによって腹周りにはたっぷりと肉が付き、肌には脂ぎった艶がある。彼が身に纏っているのは、辺境の冬には場違いなほどに鮮やかな、深紅のベルベットの室内着だった。胸元には大粒のルビーの装飾が輝き、足元には泥一つ跳ねていない磨き上げられた革靴を履いている。
本家から吸い上げた血と肉の結晶が、男の全身を醜くも華やかに彩っていた。
「……一体何の騒ぎかと思えば。我が誇り高き男爵邸の庭に、ずいぶんと薄汚れた野良犬どもを引き入れたものだな、アルベルト」
ギュンターは、雨の降る外へは一歩も出ず、屋根のある玄関のポーチから馬上を見上げた。
その声には、怒りよりも明らかな「嘲笑」が混じっていた。
彼の目には、目の前の情景がどう映っているか。兄の命令で無理やり遣わされたであろう、哀れで無力な十五歳の甥。そして、給金も払えず統制の取れていない泥まみれの私兵たち。本家の威光などすでに地に落ちていると確信しているギュンターにとって、これは恐怖ではなく、ただの滑稽な茶番劇に過ぎなかった。
「団長、剣を納めろ。子供の癇癪に付き合って本気にする馬鹿がいるか」
ギュンターが呆れたように手を振ると、硬直していた私兵団長はひどく安堵したような息を吐き、剣の柄から手を離して一歩下がった。
「アルベルトよ、お前も十五になったというのに、まだそのような蛮行でしか自己主張ができんのか。……兄上も兄上だ。私に金の無心を断られたからといって、当主の署名を偽造した書類まで持たせ、子供を脅迫の使いに出すとは。かつての大英雄も、地に堕ちたものだな」
叔父は、アルベルトが掲げた監査の委任状を「兄ヘルマンが偽造させたもの」だと決めつけていた。借金で首が回らなくなった兄が、苦し紛れに強権を発動しようとしているのだと。
アルベルトは馬の背で微動だにせず、ただ漆黒の瞳で叔父を見下ろしていた。
雨水が少年の蒼白な頬を伝い、顎の先から滴り落ちる。
十五歳の子供が、大人の余裕と権力を見せつけられ、萎縮して泣き出しそうな顔。叔父はそれを期待して、これ見よがしにため息をついてみせた。
しかし、アルベルトの唇から紡がれたのは、弁明でも怒声でもなかった。
「赤獅子商会。そして、黒鉄ギルド」
雨音の中で、その二つの単語だけが、異様に冷たく、鮮明に響いた。
ギュンターの顔から、嘲笑の笑みがピタリと消え去った。
「過去三年間にわたり、本家から国境警備の傭兵団へ支給される兵糧と武具の修繕費が、相場の約一・五倍に高騰している。そして、その差額分である月額三百枚の金貨は、すべてこの二つの組織を経由し、叔父上の領地……いや、正確には叔父上の個人口座へと不正に還流されている」
「なっ……」
「おや、ご存知ないとは言わせませんよ。決済の最終承認印には、今あなたが指にはめているその男爵家の印章が堂々と押されていたのですから」
アルベルトの言葉は、感情を一切排した、ただ事実のみを羅列する機械のような響きを持っていた。しかし、その無機質さこそが、ギュンターの心臓を氷の刃で直接撫でるような恐ろしい威圧感を伴っていた。
なぜ、この小僧がそれを知っている。
ギュンターの脂ぎった顔に、初めて明確な動揺が走った。
それらの帳簿は、本家の老財務官であるクラウスですら気づかないよう、宰相派の息がかかった商会を使って巧妙に隠蔽したはずの数字だ。軍事や剣術にしか興味のなかった兄ヘルマンはおろか、十五歳の世間知らずの小僧に読み解けるような代物では絶対にない。
「……でたらめを言うな。辺境の物価高騰は、近隣の天候不順が原因だ。それを身内の横領だと? 笑わせるな、証拠がどこにある!」
ギュンターは声を荒らげ、玄関の柱を強く叩いた。取り繕っていた大人の余裕が剥がれ落ち、隠しきれない焦燥が顔を覗かせる。
「証拠は本家の地下文書室に揃っています。近隣諸国の関税記録と照らし合わせれば、あなたの巧妙な言い訳は三秒で破綻する。……それに、私は今、あなたと法廷で争うための議論をしに来たわけではない」
アルベルトは、手にした委任状をゆっくりと懐にしまった。
そして、馬上から冷たく見下ろす視線を、さらに鋭く、絶対的な冷酷さを伴ったものへと変貌させた。
「監査とは、疑わしいものを調べる行為ではない。すでに確定した罪を物理的に回収し、清算するための実務だ。叔父上、あなたが三年かけて本家から盗み出した金貨一万枚以上の資産は、利子をつけて本日、今この瞬間に全額差し押さえる」
「き、貴様……本気で言っているのか! たかだか十人の浮浪者崩れを連れただけで、この館の私兵二十人を相手に強盗を働こうというのか!」
「強盗ではない。正当な債権回収だ」
アルベルトが指先をわずかに動かすと同時だった。
背後に控えていたガリウスが、喉の奥から獣の咆哮を上げ、右手に握っていた錆びた長剣を、石段の上に立つ分家の私兵団長の首筋目掛けて躊躇なく叩きつけた。
「退きな、お坊ちゃん騎士!! 本家の借金取りのお通りだ!!」
ガリウスの巨体から放たれた一撃は、分厚い板金鎧の肩口を火花と共に激しく打ち据えた。団長が悲鳴を上げて体勢を崩したのを合図に、泥濘に伏せていた九人の猟犬たちが、一斉に獣の如き雄叫びを上げて館の玄関へと雪崩れ込んだ。
彼らは人を殺すためではない。目の前にある「金」への入り口をこじ開けるためだけに、狂気に満ちた力で分家の兵士たちを物理的に押し退けにかかったのだ。
「ひぃっ……!? や、やめろ! 中へ入れるな!!」
ギュンターが悲鳴を上げ、慌てて従者の背後に隠れる。
完璧に整備されていた白亜の館の玄関口は、一瞬にして怒号と金属音、そして泥の跳ねる凄惨な蹂躙の舞台へと変貌した。
アルベルトは馬から降りることもなく、冷たい雨に打たれながら、自らの命令で引き起こされたその暴力の渦を、ただ静かに、酷薄な瞳で見下ろしていた。
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