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第9話:『泥靴の侵略と、崩落する白亜の境界線』
しおりを挟む鈍く、しかし鼓膜を破らんばかりの重い金属音が、雨に沈む白亜の玄関口に木霊した。
ガリウスの放った錆びた長剣の一撃は、私兵団長の分厚い肩当てを叩き割りはしなかったものの、その巨体に込められた歴戦の体重と狂気は、見事に騎士の体勢を崩した。
団長がよろめき、石段の上で無様に膝をついたその一瞬の隙。それこそが、背後で飢えに目を血走らせていた九人の猟犬たちにとって、十分すぎる「開門の合図」だった。
彼らは正規軍の訓練で教えられるような、洗練された剣術など一切使わなかった。ただ、目の前にある壁を力任せに押し退け、その奥にある黄金の匂いへと喰らいつくためだけの、獣の突撃である。
一人の傭兵が、団長の横に立っていた分家の若い兵士の腰元へ、泥まみれの身体ごと突っ込んだ。
若い兵士は悲鳴を上げ、咄嗟にハルバードの柄で防御しようとしたが、傭兵は刃を恐れることなくその柄を左手で掴み、右手の拳に握り込んだ石ころのような鉄の柄頭を、兵士の兜の隙間、鼻柱のど真ん中へと躊躇なく叩き込んだ。
骨の砕ける嫌な音と共に、鮮血が雨水に混じって石段に散る。
分家の兵士たちは、装備も体格も本家の傭兵たちを上回っていた。しかし、彼らの手足には見えない重い鎖が巻き付いていた。アルベルトが直前に宣告した「反逆罪」という論理の罠だ。本家の人間を本気で斬り殺せば、間違いなく絞首台が待っている。その絶対的な恐怖による一瞬の躊躇いが、彼らの剣先を決定的に鈍らせていた。
対するガリウスたちは、失うものなど何一つない。今日ここで金を手に入れなければ、明日には餓死するか、借金取りに内臓を売られるかのどちらかだ。
生きるか死ぬかという極限の飢餓感が、躊躇いという贅沢な感情を完全に焼き尽くしている。
彼らは剣の刃ではなく、肩での体当たり、泥靴での蹴り、そして兜越しに頭突きを食らわすという泥臭い乱闘によって、玄関のポーチを埋め尽くしていた分家の防衛線を、文字通り力で押し潰していった。
泥と血、錆びた鉄の匂い、そして男たちの怒号と悲鳴が、むせ返るような香水の匂いが漂う白亜の館の入り口で、どす黒い渦となって巻き起こる。
「ひぃっ……! な、何をしているお前たち! 押し返せ! その汚らしい浮浪者どもを館の中へ入れるな!!」
ギュンター男爵は、豪奢な玄関ホールの内側まで後ずさりしながら、裏返った声で叫んだ。
彼が身に纏う深紅のベルベットの室内着に、外の乱闘で飛んだ泥水が点々と付着する。己の権力と富の象徴であった完璧な空間が、圧倒的な暴力を前にして紙屑のように蹂躙されていく。
信じられない、という顔だった。
たかが十五歳の、剣も振れない無力な子供の言葉一つで、自分が三年かけて築き上げた私兵団がこうも脆く崩れ去るなど、彼の浅薄な想像力では到底理解できる現象ではなかった。
「お、おい! アルベルト! 狂ったのか! 身内同士で血を流せば、ただでさえ危うい辺境伯家の体面が……!」
ギュンターは、雨の中でただ一人静止している甥に向かって、懇願にも似た叫びを上げた。
しかし、馬上にあるアルベルトの漆黒の瞳は、足元で繰り広げられる凄惨な乱闘にも、喚き散らす叔父の姿にも、一切の感情を揺らすことはなかった。
彼はまるで、工場の解体作業の進捗を眺める冷徹な現場監督のように、ただ静かに事態の推移を見下ろしているだけだ。
やがて、ガリウスが私兵団長の顔面を蹴り上げ、完全に失神させて大理石の床に転がしたのを皮切りに、分家の兵士たちは次々と戦意を喪失し、壁際へと追いやられていった。玄関の扉を塞ぐ障害物は、完全に排除された。
「若様。掃除が終わりましたぜ」
ガリウスが、息を切らしながらも獰猛な笑みを浮かべ、館の内側から振り返った。彼の顔には敵の返り血が浴びせられ、右手の剣からはポタポタと赤い雫が落ちている。
アルベルトは無言のまま、ゆっくりと痩せ馬の鞍から足を外した。
ズブリ。
氷雨に打たれ続けた冷たい泥濘の中に、アルベルトの黒い革靴が着地する。十五歳の肉体は芯まで冷え切っており、本来ならば立っていることすら困難なはずだった。しかし、彼の背筋は鋼の棒が入っているかのように真っ直ぐに伸び、その足取りには微塵の揺らぎもない。
アルベルトは、悲鳴を上げてうずくまる分家の兵士たちの間を、まるで庭園を散歩するかのような優雅さで通り抜け、玄関の石段を一段、また一段と上っていく。
そして、ついにその泥に塗れた黒い靴底が、館の境界線である玄関の敷居を越え、真っ白な大理石の床の上に、べっとりと黒い足跡を刻み込んだ。
同時に、アルベルトの身体を、館内のむせ返るような暖炉の熱気と、甘い香水の匂いが包み込む。
本家が寒さと飢えに震える中、叔父がどれほど莫大な富を独占し、豪奢な生活を送っていたか。その明確な証拠である室内の空気を肺の奥まで吸い込みながら、アルベルトはゆっくりと顔を上げた。
「た、体面だと……?」
ギュンターは、目の前に歩み寄ってきた少年の姿に、言葉を失った。
アルベルトの全身はずぶ濡れで、顔は蒼白だ。だが、その瞳だけが、この世のものとは思えないほどの冷たい炎を宿して彼を見据えていた。
前世で幾多の企業を解体し、経営者の首を物理的ではなく社会的に刎ね飛ばしてきた、絶対的な捕食者の視線。
「帳簿を誤魔化し、主家を裏切り、母上を殺した宰相派と内通して私腹を肥やし続けたあなたが、今更体面を語るとは。……貴族の矜持というものは、これほどまでに安っぽい喜劇だったのですね」
アルベルトは、靴底の泥を叔父の足元に敷かれた最高級のペルシャ絨毯にこすりつけるように一歩踏み出した。
「さて、叔父上。茶番はここまでだ。あなたを反逆罪で処刑する前に、まずは一つ、簡単な仕事をしてもらいましょうか」
アルベルトの静かな宣告が、暖炉の火の爆ぜる音だけが響く玄関ホールに、氷のように冷たく響き渡った。
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