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第10話:『絨毯の泥濘と、数字という名の処刑台』
しおりを挟むぐちゃり。
豪奢な白亜の館の玄関ホールに、本来であれば絶対に存在するはずのない、極めて醜悪で湿り気を帯びた音が響き渡った。
アルベルト・フォン・ローゼンベルクの履く、雨水と泥をたっぷりと吸い込んだ黒い革靴。それが、館の入り口からホールの中央へと敷き詰められた、目も眩むような真紅のペルシャ絨毯の上に、容赦なく踏み下ろされた音だった。
西の砂漠地帯から数ヶ月をかけて運ばれ、熟練の職人が数年がかりで織り上げるという最高級の絨毯。その毛足の長い柔らかな表面に、辺境の貧しい土壌から削り取られた粘着質な泥が、べっとりと、そしてひどく暴力的に擦り付けられていく。
アルベルトが一歩足を進めるたびに、完璧に調和していた叔父の空間は、取り返しのつかない汚染を受けていった。
館の中は、外の氷雨が嘘のように暖かかった。大理石の壁に囲まれた空間には、巨大な暖炉から放たれる熱気が充満し、むせ返るような香水の匂いと、奥の厨房から漂ってくるであろう上質な獣肉を香草で焼き上げる匂いが渦巻いている。
冷たい雨に打たれ続け、体温を限界まで奪われていた十五歳の少年の肉体にとって、その急激な温度変化は本来であれば暴力に等しい。凍りついた毛細血管が急激に拡張し、全身を針で刺すような激痛が駆け巡る。アルベルトの蒼白な頬に、熱気による不自然な赤みが差し、濡れた黒髪からは雨水がとめどなく絨毯へと滴り落ちていた。
だが、彼の思考は熱気にあてられるどころか、絶対零度のまま研ぎ澄まされていた。
前世の企業再建請負人としての本能が、この空間を満たす「富」のすべてを瞬時に計算し、貸借対照表の負債の項目へと冷酷に割り当てていく。
「た、体面だと……?」
叔父であるギュンター・フォン・ローゼンベルク男爵は、目の前で自身の聖域が泥で汚されていく様を、ただ呆然と見下ろすことしかできなかった。
つい数分前まで、彼は絶対的な安全圏にいると信じていた。分家の豊かな資金で雇い入れた二十名の完全武装の私兵たちが、こんな貧弱な小僧と、飢えた十人の浮浪者崩れから自分を守ってくれると疑っていなかった。
しかし現実には、彼が月額金貨十枚という破格の給金で雇っていた私兵団長は、今や大理石の床に顔面を擦り付け、ガリウスの泥まみれのブーツの下で無様に泡を吹いて気絶している。他の兵士たちも、首元に錆びた剣を突きつけられ、身動き一つとれない状態だ。
圧倒的な武力差があったはずなのに、アルベルトが突きつけた「反逆罪」という目に見えない法的な鎖が、彼らの手足を完全に縛り上げてしまったのだ。
「帳簿を誤魔化し、主家を裏切り、母上を殺した宰相派と内通して私腹を肥やし続けたあなたが、今更体面を語るとは。……貴族の矜持というものは、これほどまでに安っぽい喜劇だったのですね」
アルベルトの声は、広大なホールに反響し、暖炉の火の爆ぜる音を切り裂いた。
怒りでも、恨みでもない。ただ目の前にある粗悪品を冷徹に評価するだけの、温度を持たない声。それが逆に、ギュンターの心臓を鷲掴みにし、底知れぬ恐怖を注入していく。
「さて、叔父上。茶番はここまでだ。あなたを反逆罪で処刑する前に、まずは一つ、簡単な仕事をしてもらいましょうか」
アルベルトは、靴底の泥をさらに深く絨毯へと沈み込ませながら、ゆっくりと叔父の正面、わずか三歩の距離まで歩み寄った。
ギュンターは、深紅のベルベットの室内着を纏った己の肥満体を震わせながら、後ずさろうとした。しかし、彼の背後には怯えて固まった従者たちが壁のように立ち塞がっており、逃げ場はない。
「き、貴様……本気で自分が何をしているのか分かっているのか! ここは王国法によって守られた、このギュンター男爵の館だぞ! 当主である兄上の許可もなく、無断で兵を踏み入れた罪、ただで済むと……!」
「許可なら、すでに提示したはずですが」
アルベルトは懐から、再びあの油紙に包まれた羊皮紙の束を取り出した。父の署名を偽造した、全権委任状である。
「それが偽造だと言うのなら、後日、王都の法廷で争う権利は保証しましょう。あなたがそれまで首を繋いでいられたらの話ですが」
アルベルトは羊皮紙を無造作に懐へ戻し、視線をホールの天井へと向けた。
そこには、王都の最高級のガラス職人に作らせたであろう、巨大で豪奢なシャンデリアが吊るされていた。数百の蝋燭が、館の主の虚栄心をそのまま形にしたかのように、無駄なほどの光を放っている。
「見事なシャンデリアだ。ガラスの透明度からして、東方諸国の職人を呼び寄せた特注品でしょう。費用は金貨で約五百枚といったところか。……そして今、我々の足元で泥を吸っているこの絨毯。これも市価で金貨三百枚は下らない。壁を飾る無数の絵画や、純銀の燭台を合わせれば、この玄関ホールだけで金貨二千枚の資産が眠っている」
アルベルトの口から、次々と冷徹な数字が弾き出されていく。
ギュンターの顔から、さらに血の気が引いた。なぜ、十五歳の子供が、自慢の調度品の正確な値段を瞬時に言い当てることができるのか。
「金貨二千枚。それは、我がローゼンベルク本家が国境沿いに配備している正規の討伐隊、三百名の兵士たちが、凍える冬を越すための二年間分の食糧と薪の費用に完全に等しい」
アルベルトの視線が、天井からゆっくりと叔父の脂ぎった顔へと下ろされた。
漆黒の瞳の奥に、初めて明確な「殺意」のようなものが灯る。しかしそれは、熱く燃え盛る怒りの炎ではなく、絶対零度に凍りついた刃のような冷たさだった。
「叔父上。あなたがこの薄ら寒い虚栄心を満たすために費やした金貨のせいで、本家の兵士たちは満足な装備も与えられず、魔獣の牙に腹を裂かれ、あるいは飢えと寒さで泥を啜って死んでいった。その後ろで、今まさにあなたが雇っていた私兵団長を気絶させた男がいますね」
アルベルトは振り返らずに、背後で剣を構える巨漢の傭兵、ガリウスを顎で示した。
ガリウスの粗末な革鎧はあちこちが破れ、隙間からは寒さと栄養失調で浮き出た肋骨が見え隠れしている。彼は獣のような獰猛な笑みを浮かべたまま、その目にはギュンターの肉を引き裂いて喰らおうかという強烈な飢餓感を滾らせていた。
「彼は本家の私兵隊長ですが、直近三ヶ月間の給金が未払いです。なぜ未払いなのか。それは、本家の財務から毎月規則正しく引き出されている『辺境警備費』が、赤獅子商会と黒鉄ギルドという隠れ蓑を経由し、すべてあなたの懐へと吸い込まれているからです。……私の計算に、何か間違いがありますか?」
「そ、それは……」
ギュンターの喉が、干からびたように鳴った。
口を開こうにも、極度の恐怖と動揺で声が出ない。額からは滝のように冷や汗が流れ落ち、深紅のベルベットの襟元を醜く濡らしている。
「あ、あり得ん……! そんな妄言、誰が信じるものか! 私は分家の当主として、正当な交易によってこの富を築いたのだ! その証拠に、あの商会との取引記録はすべて合法的に……!」
「合法?」
アルベルトは、薄く笑った。
それは、獲物の息の根を止める瞬間の捕食者の笑みだった。
「叔父上、あなたは一つ勘違いをしている。私は今、裁判官としてあなたを法的に裁くためにここへ来たのではない。私は『監査』という名目で、あなたの資産を『物理的に差し押さえる』ために来たのです」
アルベルトは一歩、また一歩と距離を詰め、ついにギュンターの目の前で立ち止まった。
十五歳の少年の身長は、豊かな食事で太った四十二歳の叔父の胸元ほどしかない。しかし、ギュンターはまるで巨大な怪物に見下ろされているかのような錯覚に陥り、膝の震えを止めることができなかった。
「私が求めているのは、法廷での陳腐な論争ではない。あなたが三年かけて盗み出した金貨一万枚以上の現物と、宰相派と交わした内通の書簡。その二つが収められている『金庫』の鍵だ」
「なっ……!?」
内通の書簡。
その単語が出た瞬間、ギュンターの目が見開かれ、眼球が今にも零れ落ちそうに痙攣した。
横領だけであれば、最悪の事態でも貴族としての身分剥奪と財産没収で済むかもしれない。しかし、母イザベラの暗殺に関与した宰相派との繋がりを示す書簡が本家の手に渡れば、それは完全なる国家反逆罪の決定的な証拠となる。絞首台どころか、一族郎党すべてが拷問の末に処刑される大罪だ。
「ど、どこまで……」
ギュンターの唇が、紫色に変色して震える。
「貴様は、どこまで知っている……! ただの子供の分際で、なぜそこまで……!!」
「どこまで知っているか、などと愚かな質問をしている暇があったら、自分の首の皮が何ミリ繋がっているかを計算することですね」
アルベルトは冷たく言い放ち、右手をゆっくりと持ち上げた。
その細く、血の気のない蒼白な指先が、ギュンターの胸元、深紅のベルベットの生地を乱暴に掴み上げる。
十五歳の少年の腕力など、本来であれば大人の男を揺さぶることなどできない。しかし、アルベルトの指先に込められた絶対的な殺気と、背後で剣を構える十人の猟犬たちの重圧が、ギュンターの巨体をいとも容易く大理石の床へと引きずり下ろした。
どすん、という鈍い音を立てて、男爵は泥に塗れたペルシャ絨毯の上に無様に膝をついた。
「ひぃっ……!」
「よく聞け、叔父上」
アルベルトは、膝をついた叔父の耳元へ顔を寄せ、悪魔のように低い声で囁いた。
その声は、暖炉の火よりも熱く、氷雨よりも冷たく、ギュンターの脳髄を直接焼き焦がすような響きを持っていた。
「私の忍耐は、この絨毯の泥よりも浅い。三秒以内に金庫の隠し場所と鍵の在処を吐かなければ、背後にいる飢えた犬どもに命じて、あなたのその見事な脂身を一枚ずつ削ぎ落とし、黄金の在処を肉体に直接問いかけさせる。……一」
アルベルトの宣言と同時に、ガリウスが喉の奥でゴロリと獣の音を鳴らし、錆びた長剣の刃先を絨毯に擦り付けながら一歩前へ出た。
「二」
十人の傭兵たちが、獲物を囲むようにじりじりと包囲の輪を狭める。泥と血の匂いが、ギュンターの鼻腔を容赦なく犯していく。
「ま、待て! 待ってくれアルベルト!!」
ギュンターは悲鳴を上げ、両手で顔を覆いながら床に這いつくばった。
肥満体が震え、深紅のベルベットが泥と己の脂汗で無残に汚れ果てていく。本家を裏切り、私腹を肥やし続けた愚かな分家当主の矜持は、たった数分間の言葉による暴行によって、文字通りチリ一つ残さず完全に粉砕された。
「言え」
アルベルトは冷酷に見下ろしながら、最後の命令を下した。
「すべてを吐き出せ。そして、私が宰相の首を刎ねるための、従順な駒になれ」
白亜の館の玄関ホールを支配したのは、もはや絶対的な恐怖と、数字という名の冷徹な処刑台の重圧だけであった。
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