覇道の流儀~没落確定の辺境伯令息は、血と謀略で冷酷なる公爵令嬢たちを支配(愛)する~

namisan

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第15話:『蘇りし辺境の獅子と、毒杯へ赴く黄金の轍』

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 ジョリ、ジョリ、と。
 薄暗かった執務室に、熱く湿ったタオルから立ち昇る湯気と、鋭く磨き上げられた剃刀が硬い無精髭を削り落とす、小気味良い音が響いていた。
 アルベルト・フォン・ローゼンベルクは、豪奢な革張りのソファに深く腰を沈め、静かに立ち昇る紅茶の香りを楽しみながら、その光景を冷徹な、しかし確かな満足感を帯びた瞳で見つめていた。
 数日前まで、この部屋は死の匂いと絶望の煙草の煙に満ちていた。しかし今、窓を覆っていた分厚いカーテンはすべて引き剥がされ、灰色の空とはいえ、冬の冷たく澄んだ外光が部屋の隅々にまで差し込んでいる。
 机をへし折らんばかりに積み上げられていた黄金は、すでにガリウスたちの手によって地下の強固な宝物庫へと移送され、一部は王都の商人たちへの膨大な軍需物資の発注資金として、すでに血流のように領地内を駆け巡り始めていた。
 そして何より、この部屋の空気を最も劇的に変えさせているのは、窓際で専属の従者に髭を剃らせている大柄な男の存在だった。
 現ローゼンベルク辺境伯、ヘルマン。
 数日前まで、借金と陰謀の重圧に押し潰され、死人のように目を濁らせていた男の姿は、そこにはもう微塵も残っていなかった。
 伸び放題だった髪は整えられ、頬を覆っていた陰鬱な髭が剃り落とされたことで、かつて大陸屈指の武将と謳われた、岩を削り出したかのような精悍な顎の輪郭が露わになっている。充血していた眼球からは疲労の色が完全に消え去り、代わりに、戦場を前にした猛禽類のような、鋭く、そして静かに燃え盛る覇気の炎が宿っていた。
 すべての重荷を、次期当主である十五歳の息子に譲り渡した。
 政治の暗闘、資金繰りの地獄、そして妻を殺された底知れぬ陰謀への防衛戦。自身には全く不釣り合いだったそれらの泥濘から解放された瞬間、ヘルマンという男の肉体は、本来の「純粋な武人」としての強烈な生命力を一気に爆発させて蘇生したのだ。
「……見違えましたよ、父上。それこそが、近隣諸国から『辺境の獅子』と恐れられた、我がローゼンベルク家当主の本来の姿ですね」
 アルベルトがティーカップを静かにソーサーに置き、抑揚のない声で事実のみを口にした。
 従者が恭しく一礼して部屋を下がるのと入れ替わりに、ヘルマンがゆっくりと振り返った。
 その巨躯が動くだけで、室内の空気が物理的に圧迫されるほどの圧倒的な威圧感。並の貴族であれば、その視線を向けられただけで膝の震えを止められないだろう。
 しかし、アルベルトはソファから身じろぎ一つせず、冷酷な経営者が自社の最高級の兵器を査定するような視線で、父の覇気を真っ向から受け止めていた。
「重圧から逃げ出した老いぼれの、ただの空威張りだ。……だが、不思議なものだな。お前にこの家の全権を委ねると決めたあの夜から、数年ぶりに、泥のように深く眠ることができた。今の私なら、素手で魔獣の首をねじ切れる気がする」
 ヘルマンは、己の分厚い両手を見つめながら、低い声で、しかし確かに力強く笑った。
 アルベルトは薄く口角を上げた。
 無能なトップを排除し、適材適所の人材配置を完了した。ヘルマンは政治家としては三流だったが、その圧倒的な武威と、長年戦場で培ってきたカリスマ性は、組織の『象徴(シンボル)』としては一級品どころか特級品の価値がある。
「その力、大いに振るっていただきます。2日後、いよいよ筆頭公爵家令嬢、エレオノーラ様との初顔合わせ。場所は我が領地と王都の境界に位置する、公爵家所有の迎賓館です。父上には当然、現当主として私の隣に座っていただきます」
「ああ、分かっている。……だが、本当に良いのか、アルベルト。お前はすでに実権を握っている。公爵家のあの冷酷な小娘を相手に、私が同席すれば、かえってお前の知略の邪魔になるのではないか?」
 ヘルマンの問いに、アルベルトはゆっくりと首を横に振った。
「逆です、父上。あなたが同席しなければ、私の知略は機能しません」
 アルベルトは立ち上がり、窓の外、氷雨が降り続く灰色の空を見上げた。
「公爵家は、我が家を宰相派の攻撃をすべて受け止めるための『肉の盾』としてしか見ていない。彼らの目から見れば、当主であるあなたは『無能で与しやすい武だるま』であり、私に至っては『借金の担保として差し出された哀れな子供』に過ぎない。……その極度の『侮り』こそが、我々の最大の武器になるのです」
 アルベルトは振り返り、父の目を真っ直ぐに射抜いた。
「父上は今日、交渉の席において一切の政治的発言をする必要はありません。ただ、辺境の獅子としてのその圧倒的な覇気を全身から放ち、無言で、堂々と上座に座っていてください。公爵家の令嬢やその側近たちが放つ、見下すような視線と毒のある言葉を、すべてその巨体で受け止める『最強の盾』となっていただく」
「私が盾となり、相手の注意をすべて引きつける……。その間に、お前が」
「ええ」
 アルベルトの漆黒の瞳に、身の毛のよだつような冷徹な光が閃いた。
「公爵令嬢が、己の優位を信じて誇らしげに毒を吐き、あなたに視線を集中させている間。私はただの怯えた子供を演じながら、彼女の呼吸、視線の動き、指先の震え、そして言葉の裏に隠された公爵家内部の『真の弱点』を、特等席から完全に丸裸にさせていただきます。……相手の喉元に、致命的な短剣を突き立てるための、最初の布石です」
 ヘルマンは、息子のその悪魔的なまでに冷酷な戦略を聞き、一瞬だけ背筋に冷たいものを感じた。
 十五歳の子供が、王家すら凌ぐ権力を持つ公爵家を相手に、一歩も引く気がないどころか、最初から相手の首の血管を噛み千切る算段を立てている。
 しかし、次の瞬間、ヘルマンの顔に浮かんだのは恐怖ではなく、獰猛な肉食獣の笑みだった。
「承知した。政治の泥濘はすべてお前に任せると誓ったのだ。私はお前の指示通り、公爵の小娘どもの視線をすべてこの身に引き受ける、ただの傲慢な飾り物となってやろう」
 ヘルマンは、傍らに置かれていた漆黒の外套を力強く羽織った。希少な魔獣の毛皮で作られたその外套が、彼の覇気と見事に融合し、近隣諸国を震え上がらせた武将の完全な復活を宣言していた。
 アルベルトは深く頷き、部屋の扉へと向かった。
 完璧な陣形だ。前世での企業交渉においても、威圧感のある役員を矢面に立たせ、自分は末席から相手の法的な綻びを探り出し、一撃で交渉をひっくり返すという手口は何度も使ってきた。
 城の中庭に出ると、冷たい雨はすでに上がり、灰色の雲の隙間から薄明るい冬の陽光が差し込み始めていた。
 そこに待機していたのは、数日前に叔父の領地から奪い取った、あの豪奢な四輪馬車だった。
 泥まみれだった車体は、使用人たちの手によって鏡のように磨き上げられ、分家の紋章は削り取られて、代わりにローゼンベルク本家の『剣と茨』の紋章が誇らしげに刻み込まれている。
 そして、その馬車の周囲を固める二十名の護衛兵たち。
 彼らもまた、劇的な変貌を遂げていた。数日前まで飢えと寒さに震え、錆びた剣を握っていた浮浪者崩れの傭兵たちは、叔父の金庫から奪った黄金によって王都から最優先で取り寄せられた、最新鋭の鋼の胸当てと、冷たく光る真新しい長剣を装備している。
 十分な食事を与えられ、三年分の給金を懐に収めた彼らの瞳には、かつての卑屈さは欠片もない。ただ、アルベルトという絶対的な勝者に対する狂信的な忠誠心と、いかなる敵であれ主君のために容赦なくその肉を切り刻むという、血に飢えた猟犬の覇気だけが満ち溢れていた。
「若様。いえ、次期当主殿。護衛の準備は完全に整っております」
 部隊の先頭に立つ巨漢のガリウスが、磨き上げられた銀の兜の奥から獰猛な笑みを覗かせ、アルベルトとヘルマンに対して完璧な騎士の敬礼を行った。
 彼の装備は一際上等であり、その威容は公爵家の近衛騎士団にも決して引けを取らないものだった。
「ご苦労、ガリウス。行くぞ」
 アルベルトの短く、冷徹な命令と共に、ヘルマンが先に馬車へと乗り込み、アルベルトがそれに続く。
 バタン、と分厚い扉が閉められ、御者が鞭を鳴らす。
 ヒヒィィン! という逞しい軍馬の嘶きと共に、鋼の板バネが重厚な音を立てて軋み、豪奢な馬車が泥濘の残る城の石畳を力強く蹴り出した。
 ギジリ、ギジリ、と。
 車輪が辺境の泥を轢き潰していく音が、馬車の中に響く。
 対面に座る父ヘルマンは、腕を組み、目を閉じて無言のまま精神を研ぎ澄ませていた。その巨体から放たれる気迫は、もはや敗軍の将のそれではない。これから赴くのが華やかな交渉の席であろうと、彼にとっては命のやり取りをする血生臭い戦場に他ならなかった。
 アルベルトは、揺れる馬車の窓から、ゆっくりと遠ざかっていく辺境の荒野を静かに見つめていた。
 軍備は整えた。内部の毒は完全に排除し、手駒に変えた。
 あとは、迎賓館で待ち構える美しき毒薬、エレオノーラ・フォン・ヴァイセンブルクを、いかにしてこの手の中で飼い慣らし、国家を裏から支配するための『完璧な共犯者』へと仕立て上げるか。
 十五歳の少年の漆黒の瞳の奥で、無数の冷酷な演算と、泥に塗れた覇道へのシナリオが、冷たい冬の陽光を反射して不気味なほどの輝きを放ち始めていた。
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