覇道の流儀~没落確定の辺境伯令息は、血と謀略で冷酷なる公爵令嬢たちを支配(愛)する~

namisan

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第16話:『凍てつく野営の炎と、盤上を睨む二つの影』

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 車輪が泥濘を轢き潰す重苦しい音が止み、代わりに、乾燥した冬の薪が爆ぜる甲高い音が、夜の闇に響き渡り始めた。
 ローゼンベルク辺境伯領から王都へと続く、荒涼とした街道の半ば。
 灰色の雨雲は夕刻には途切れ、今や頭上には、凍りつくような冷たさを伴った無数の星々が瞬いている。肌を刺すような辺境の夜風が吹き荒れる中、街道沿いの開けた荒地に、一つの堅牢な野営陣地が構築されていた。
 陣地の中央に鎮座するのは、ギュンター男爵から徴発した豪奢な四輪馬車である。
 その周囲を、ガリウス率いる二十名の護衛兵たちが、隙のない円陣を組んで固めていた。彼らはすでに三つの焚き火を熾し、馬の世話と見張りの交代要員を、声高な命令を交わすこともなく阿吽の呼吸で手配している。
 数日前まで、彼らは飢えと寒さに震え、互いのパンの欠片を奪い合うような烏合の衆だった。しかし今、最新鋭の鋼の胸当てを身につけ、懐に莫大な黄金を忍ばせた彼らの動きには、かつての王都の正規騎士団すら凌駕するほどの、極めて高い士気と研ぎ澄まされた警戒心が満ちていた。
 彼らの主君であるアルベルトとヘルマンは、馬車の中という安全で温かい空間をあえて選びはしなかった。
 最も大きく燃え盛る焚き火の前。そこに急造で並べられた丸太の椅子に、十五歳の少年と、大柄な老将が腰を下ろしている。
 炎の赤い光が、二人の顔に深い陰影を落としていた。
 ヘルマンは無言のまま、膝の上に置いた一本の長剣を、油を染み込ませた布でゆっくりと、そして念入りに拭き上げている。
 それは、儀礼用の華美な装飾剣ではない。分厚い鋼で打たれ、幾度もの実戦で魔獣の骨や敵兵の鎧を断ち斬ってきた、実用性のみを極めた無骨な両手剣だ。刀身には無数の刃こぼれの跡が残っているが、ヘルマンの分厚い手が丁寧に磨き上げるたびに、炎の光を反射して、まるで今にも血を啜りたがっているかのような妖しい輝きを放ち始める。
 剣を手入れするヘルマンの横顔には、政治の泥沼で藻掻いていた数日前までの疲弊した老人の面影は欠片もない。ただ、目前に迫る巨大な敵陣を前に、己の筋肉と殺気を極限まで練り上げている、純粋な武将の静けさだけがあった。
 アルベルトは、その父の頼もしい姿を視界の端に捉えながら、手にした錫のカップから立ち昇る薄い麦茶の湯気を見つめていた。
 前世の記憶。企業再建のための敵対的買収や、巨大ファンドとの合併交渉。それらの修羅場に赴く前夜、彼はいつも高級ホテルの最上階から、眼下に広がる都市の光を見下ろしながら、相手の経営陣の弱点を冷酷に整理していたものだ。
 今は高級ホテルではなく、凍えるような辺境の野営地だ。しかし、アルベルトの脳内で回転している冷徹な演算の熱量は、当時と全く変わらない、いや、それ以上に研ぎ澄まされていた。
「……見事な剣ですね、父上」
 アルベルトが静かに口を開くと、薪の爆ぜる音に混じって、シュッ、シュッという布の摩擦音がピタリと止まった。
「長年、私と共に辺境の血を吸ってきた戦友だ。……だが、明後日の交渉の席に、こいつを抜身で持ち込むわけにはいかんだろう」
「ええ。相手は筆頭公爵家。丸腰で臨むのが貴族の礼儀というものです。しかし、父上がその巨大な肉体に纏う『殺気』までは、誰も取り上げることはできません。……あの公爵家の令嬢と側近たちが、その剣よりも恐ろしいあなたの覇気を前にして、どのような反応を見せるか。今から楽しみでなりません」
 アルベルトの漆黒の瞳が、炎越しに不気味な三日月の形に吊り上がった。
 ヘルマンは剣をゆっくりと鞘に納め、深い嘆息と共にアルベルトを見据えた。
「アルベルト。お前は公爵家の令嬢、エレオノーラ様について、どれほどの情報を得ている?」
 父の問いに、アルベルトはカップを口元から離し、よどみなく答え始めた。
「エレオノーラ・フォン・ヴァイセンブルク。齢十六にして、病床にある公爵当主に代わり、巨大な公爵派閥の事実上のトップとして君臨する天才肌の令嬢。圧倒的な美貌と、王族すら見下すほどの傲慢さ。そして何より、自分以外の人間をすべて『盤上の駒』としてしか見ていない、極めて冷酷な現実主義者……王都に潜ませていた間者からの報告は、概ねそのようなところです」
「その通りだ」
 ヘルマンの表情が、一段と険しくなる。
「彼女は、ただの飾りの令嬢ではない。王家の血を色濃く引いており、次期王妃の座に最も近いと言われながらも、それに満足せず、自らが女王として君臨することすら視野に入れているという噂まである。……そのような恐ろしい女が、なぜ、没落寸前の我がローゼンベルク家などに、自らの婚約という最強のカードを切ってきたのか。防波堤にするというだけでは、あまりにも釣り合わん」
 ヘルマンの疑問は、極めて真っ当だった。
 防波堤(捨て駒)が欲しいのであれば、近隣の伯爵家や侯爵家の次男三男を金で買えばいい。なぜ、派閥のトップである彼女自身が、汚れきった辺境伯家の令息と直接婚約を結ぶ必要があるのか。
 アルベルトは、錫のカップの縁を細い指でゆっくりとなぞりながら、氷のように冷たい声で答えた。
「理由は二つあります。一つは、我が家が持つ『辺境伯』という軍事的な大義名分です。宰相派が推し進める関税特区の法案を物理的に防ぐには、国境の軍事権を握る辺境伯の権限が法的にどうしても必要になる。……しかし、より重要なのは、もう一つの理由です」
「もう一つ?」
「エレオノーラ様は、我がローゼンベルク家が『絶対に自分を裏切らない、最も都合の良い死体』になることを確信しているからです」
 アルベルトの言葉に、ヘルマンの太い眉がピクリと動いた。
「どういうことだ」
「考えてもみてください、父上。あの公爵令嬢は、我が家が莫大な借金を抱え、宰相派の工作によって内部から崩壊寸前であることを完全に把握しています。彼女から見れば、私は『公爵家からの資金援助がなければ、明日にも首をくくるしかない哀れな少年』に他ならない」
 アルベルトの口元に、自嘲ではない、他者を完全に突き放したような冷酷な笑みが浮かぶ。
「公爵家は、我々に甘い言葉を囁き、わずかな資金を融資して、宰相派の猛攻の矢面に立たせるでしょう。そして、我々が血反吐を吐いて宰相派と相打ちになり、見事に全滅したその瞬間に……エレオノーラ様は悲劇の婚約者を演じながら、大義名分を得て宰相を糾弾し、我が家の領地と辺境伯の権限を合法的に吸収する。……それが、彼女の描いた完璧な買収(M&A)のシナリオです」
 焚き火の炎が、アルベルトの漆黒の瞳の中でどす黒く揺らめいた。
 ヘルマンは息を呑んだ。十五歳の息子が、王国の頂点に立つ天才令嬢の脳内を、まるで自らが書いた台本のように正確に、そして冷酷に読み解いている。
「つまり、公爵令嬢は我々を助ける気など最初からない。我々が美しく死ぬことだけを前提に、この婚約を突きつけてきたというのか」
「ええ。彼女は自分の知略を絶対だと信じている。自分が敷いたレールの上で、我々が無力な駒として踊り狂い、そして死んでいく様を、特等席で優雅に楽しむつもりでしょう」
 アルベルトは、残っていた冷めた麦茶を、まるで極上のワインのように一息に飲み干した。
「ですが、父上。経営においても政治においても、自らの圧倒的優位を信じて疑わない傲慢な捕食者ほど、実は最も足をすくわれやすいのです」
「……どうするつもりだ、アルベルト」
「簡単です。彼女の思い描く『無力で哀れな少年』と『無能な老将』の役を、明後日の交渉の席で、完璧に演じ切ってやるのですよ」
 アルベルトは立ち上がり、黒い合羽についた灰を軽く払い落とした。
 その細い肉体からは、十五歳の子供とは到底思えない、底知れぬ悪意と、知略という名の猛毒の気配が立ち昇っていた。
「彼女に、優越感という最高の美酒を好きなだけ飲ませてやる。我々が首輪に繋がれた哀れな犬だと信じ込ませ、完全に油断し、その白く細い喉元を我々の目の前に無防備に晒す、その瞬間まで。……公爵家からの融資条件、派閥への加入条件。彼女が提示するすべての不利な契約を、涙を流して感謝しながら受け入れましょう」
「不利な契約を結んで、どうやって勝つというのだ」
「契約書など、相手の命根源(弱み)さえ握ってしまえば、ただの紙屑です。……父上はただ、公爵令嬢の隣に控える側近たちの侮蔑の視線を、その巨体と覇気で一身に引き受けてください。私が盤面をひっくり返すための、すべての布石を打ち終わるまで」
 ヘルマンは、夜空を見上げる息子の背中を見つめ、静かに、しかし地鳴りのような低い笑い声を漏らした。
 この息子は、公爵令嬢という猛毒を恐れるどころか、自らその毒杯を飲み干し、相手の体内に潜り込んで内臓から喰い破るつもりなのだ。
「……恐ろしい男になったな、アルベルト。イザベラが今のこの場に生きていれば、腹を抱えて笑っただろうよ」
「最高の褒め言葉として受け取っておきます」
 辺境の吹きすさぶ夜風が、二人の間を通り抜けていく。
 遠くで、見張りに立つガリウスが、暗闇に向かって油断なく剣の柄を叩く音が聞こえた。
 王都まで、あと一日の道程。
 冷酷なる筆頭公爵家令嬢エレオノーラとの、互いの血と肉を賭けた狂気の交渉の席が、もう目と鼻の先にまで迫っていた。
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